鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「救い」のチャンスは平等か?(3:最終)

2005年10月17日 | 「考える宗教」へ
                    



 前回のようなこと(輪廻:生まれ変わりの可能性)を鹿嶋がこう言うと、それをとがめてくださる教職者がこれまでのところ多いです。
とんでもなぁ~い、~~と。

 「だったら、福音を聞いて信頼して救われた人の霊が、誰かの胎児に入って生まれ変わって、そこで福音が聞かれなかったらどうなるか。聞いても信じなかったらどうなるか。彼は再び救われない霊になってしまうではないか」~~と。

 「輪廻があるとすると、そんな理不尽が生じることになる。
 聖書は、一度福音を信頼したらその人(の霊)は救われる、としている。
それに反するから、輪廻があるという解釈は、聖書に反するのだ。
 とんでもなぁ~い!」 ~~と。

+++

 で、鹿嶋は要注意人物の目で見られたりするんですが、その都度、世の中どうしてこうも早まってものを判断する人が多いのか、と痛感しています。

 心霊科学に『ブルーアイランド』ハート出版、という研究成果の本があります。
そこでは、死んだ人の霊とこの世で生きているその娘との交信記録が書かれています。彼は確か新聞記者だったと思いますが、タイタニック号に乗っていた。そして、映画にもなった例の沈没事件で死にました。

 そのお父さんは、福音を信頼しない、いわゆる「救われてない人」でした。
 彼がいうには、「自分は(霊として)肉体を抜け出し上方に向かった。地球を離れて、上昇していったら、美しいブルーの層があった。いまその世界にいる」、と。そして、「自分のいる層の、さらに上にもっと輝いている層があるようだ」ともいっています。自分はそこには行かれていないけれど・・・と。

+++

 鹿嶋は、その輝く層が聖書の「パラダイス」であるとすると、筋が通るかなあ、と思っています。どういうことかといいますと、パラダイスはイエスを信頼した人が行くところですよね。つまり、救われた人の霊が死後に行くところ。

 そして、そこに行った人はもう、地上に生まれ変わってくることはない、ということでしたらどうでしょう。牧師さんが心配するような事態は起きないことになるんですね。イエスの言葉を信頼した人(の霊)は、もう、地上にきて人生を送ることはないわけですから。

+++

 生まれ変わる霊は、生前、福音を聞くチャンスがなかったり、聞いても信頼しなかった霊たちのみ、という状況ですね。彼らはブルーアイランド(他にもあるかもしれないが、パラダイス以外ならどこでもいい)にきて、そして、また地上に生まれ変わる。

 そして、救われないで死んだら、また、ブルーアイランドに来て、しばらくしたら生まれ変わる。そして地上に住んで救われたら、死後その上のパラダイスにいって、それっきり生まれ変わらなくなる・・・。

 こういうことなら、一旦救われた霊が、再び救われない霊になってしまう、~~といったことは起きないわけです。

+++

以上の状況でも、すべての霊に福音を聞くチャンスが与えられるようになります。心霊科学での輪廻を推測させるデータは万を超える数あるようです。現時点では鹿嶋は、上記のようになっているんではないかなぁ~と漠然と思っています。

 以上がLazy-catさんの疑問に関して、鹿嶋が考えていることです。

 かいつまんでいいましたので説明不足あると思います。
 あるいは、もっと他のアイデアもあるかもしれません。
ご意見、質問あれば、ご自由にどうぞ。

コメント (14)
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「救い」のチャンスは平等か?(2)

2005年10月16日 | 「考える宗教」へ

                  




 全ての人間に福音に触れるチャンスが与えられる、というもう一つの状況は、輪廻(生まれ変わり)がある、というものでしたね。

 輪廻に関して、聖書はどういっているでしょうか?
 鹿嶋の読んだ限りでは、聖書では「生まれ変わりはない」ともまた、「生まれ変わりがある」とも明言していないですね。

 また、それについて確信もっての推察をさせてくれる聖句もみつかっておりません。

+++

 そこで、鹿嶋はそういうことに関する科学的な研究の成果で、聖書のはっきり言っていないところを、埋めてみようとしてみました。研究とは、心霊科学(スピリチュアリズム)です。

 この学問分野に関する基礎的な情報は、『キリスト教のことが面白いほどわかる本』中経出版、に書きましたのでご参照ください。それは19世紀の半ばに始まっています。その分野の文献で、信頼できそうなものを踏まえて鹿嶋が推測しているのは、次のようなことです。

 ~~~どうも、輪廻はありそうだ。つまり、一旦肉体を抜け出た霊が、あるときまた、別の人間(胎児)の肉体に入ることはありそうだ・・・です。

 そうであれば、ザビエルが来日する以前の(日本に福音などない時代の)日本人も、また日本に福音の情報がある時代に生まれ変わって、福音に触れるあり得るわけですね。あるいは、福音先進国、アメリカに生まれたっていいでしょう。

 そのときもまた福音を聞けなかったらどうか。また、次の生まれ変わりがあります。もしも人間がそういう風に創られているのなら、全員にチャンスは与えられていることになりますね。

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「救い」のチャンスは平等か?(1)

2005年10月16日 | 「考える宗教」へ

                  


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
こんにちは。いつも読ませていただいています。
今日のところに関して質問なのですが、救われるチャンスはどの人間にもあるんですよね?でも、例えばザビエルが来る前の日本人はキリスト教を知りませんよね?彼らにもチャンスはあるんでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Lazy-catさんのこの疑問について考えてみますね。

 「結果的に全員が救われることはなくても、イエスとしては全員に対して救われるチャンスは創った」、というけれど、ホントにそうか? 福音がまだ入ってきていなかったザビエル来日以前の日本人には、チャンスも与えられてなかったのではないか?

~~~こういう疑問でしたね。

+++

 全くそうですよね。

 人間が福音を信頼して救われる資格を得られる期間が、生まれてこの世に肉体を着て生きている100年くらいの間だけだとしたら。そのチャンスに恵まれない人はたくさん出ますよね。

福音に触れる機会がない社会はたくさんありましたから。いまでもあるでしょう。世界にたくさんあるし、日本にだってあります。

 聞いて → 信頼して → その結果救いを受ける ~~というのならその知らせ(福音)を耳にする機会がなかった人は、救いのチャンスもないことになります。

 にもかかわらずすべての人間にチャンスがあたえられている、というのなら、上記のような制限がなくならないと無理でしょうね。具体的には、霊が肉体を抜け出た後にでも、福音に触れて信頼して救われることができる~~というようなことでなければなりませんよね。

+++

   肉体を抜けたあと、については、二つの状況が考えられそうです。一つは、霊となった状態です。もう一つは、霊がまた新たに肉体を着た状態です。これは輪廻(生まれ変わり)があれば、という状態ですね。

 どちらでもよさそうに一見みえますが、こういう見解もあります。すなわち~~福音を聞いてそれに信頼しようと決断するには、意志の力が必要である。それには脳神経系という肉体が必要なのだ~~と。こういう方には、生まれ変わりが必要になるわけです。


 前者の、肉体が死んだ後の霊、肉体を抜けた霊にも、福音が伝えられうるし、そこで信頼したらその霊は救われる、というような見解はあります。

 記憶は正確ではないかもしれませんが、久保有政さんですか、この方がそういう風に聖書を解読できる、といっておられたような気がします。レムナントという福音雑誌を出版しておられる牧師さんですよね、確か。

 それで、福音を信頼しないで死んだ人についても、その霊が福音を聞いて信じるようにしてください、と創り主に祈るのは有効なんだ、というようなことだったのではなかったかな。

+++

 そうすると、愛する肉親も救われないで死んだらもうおしまい、ということにはならなくてすみます。先に死んだ祖父母や、両親や兄、姉などについても、福音に触れて信頼して救われるように、と祈る道が出てくるわけですね。

この方の聖書解読は、とても詳細で、正確だという印象を鹿嶋は受けています。
 久保さんの書かれたものをお読みになったら、鹿嶋の理解以上の解読に出会えるかもしれませんよ。

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粗雑な肉体を着せたのも・・・

2005年10月14日 | 「考える宗教」へ
                        



イエスは、人間社会を悪魔のわざを滅ぼす舞台装置として創った~~その論理は、人間の肉体ついても、あたらしい理解を与えてくれます。

 人間の肉体って、霊に比べたら粗雑なものです。
 百年もたったら、衰えていって、循環運動を止めて死んでしまいます。
 そして、自己分解してしまう。

 百年たたないうちにでも、物理的な力を加えたら壊れて、やはり循環運動を止めてしまいます。
 細菌がちょっと働いたら、異常が起きます。

 温度も、36.5度あたりに保たないと、やはり循環運動が止まってしまいます。
 2.5度高くなったら、もうあえぎ出す。
 2.5度低くなったら、循環運動はとまります。

 鹿嶋は飛行機に乗っているとき、考えることがあります。
 この飛行機が空中分解したら、自分は海に落ちるまでの間、何を考えどういう気持ちでいるだろうか、と。結構長い時間ですからね、海面に落ちるまでは。鳥のように、楽しんでやろうかな・・・。

+++

 でも、すぐにそういう疑問は無意味だと気づきます。
 だって、外の空気で体温はすぐに34度に下がってしまいますから。
そうしたら、もう、肉体は死んでますから。

 そうしたら聖書の思想では、霊が抜け出すことになっています。
だったら、それを肉体の中に入れるなんてこと、創り主はしなかったらよかったのに・・。天使のように、霊だけにしておいてくれたら、飛行機に乗っていても心配することなくなるのに・・・。

+++

 ・・・そんなことまで考えられます。
しかし、イエスが悪魔の本性の証拠を挙げるには、そういう肉体を人間の霊に着せることが必要だった、ということになるんですね。

 イエスは、そういう人間の身体をきて、自らも地上に現れるわけです。
 すると、その身体は、やはり、十字架上で物理的な力を加えられたら、循環運動が停止してしまうんですね。

 そういう肉体を着た人間の姿をとってきたからこそ、悪魔は、これを壊そうと思えるわけですね。壊して殺そうと考える道が開けるわけです。

+++

 そのために、イエスは、霊としての自分と同じ形にまず人間の身体を創った。
そして、その身体の中に、創り主と交信できる霊を入れた。

 その身体は、粗雑につくった。
 そうしたらちょっとしたことで病にもなります。
目も見えなくなるし、痛風にもライ病にもなります。
それで人間は苦しみます。

 イエスはそれをあわれんで、癒しまくります。
 自分がそういう風に、創ったんですから。

 (必要上、そういう風にするしかなかったんだったら、がんばってもらわなきゃ・・・)

 触れうる限りに、哀れみ癒してあげます。
 そこまでしか、出来なかった・・・。
 病にならない、壊れないという、霊のように緻密に出来た身体を創ってあげることは出来なかった。・・・そういう理解が出てきてしまいます。

聖書は 創世記冒頭の数章の聖句に関するだけで、このようにいろんな解釈が出来ます。

 面白い本ですね。

 ~~~人間道具説から考える。
     これくらいにしておきましょうか。
    
 

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これほど人間を愛するのも・・・

2005年10月13日 | 「考える宗教」へ
                  


 悪魔のしわざを滅ぼすという仕事のために、人間をつみびとになって苦しむように創るしかなかった~~~この論理は、イエスの人間に対する、異例な愛情をも説明します。それがあると、イエスが人間に深い「あわれみ」を何度も抱いていることの筋が通ってくるのです。

+++

 新約聖書では、イエスが人間に哀れみを抱いたという記述が何度も出てきます。病にあって苦しんでいるのを哀れむ、娘が死んで嘆く母親をみて哀れむ。そうして、癒したり生き返らせたりしていますが、とにかくよく哀れんでいるのです。

 だけど、もしも理由もなく、人間をつみびととなるように創ったのなら、そうして、肉体が病にもなり、死ぬようにも創ったのなら、哀れむのはおかしいんじゃないでしょうか。

自分で(理由もなく)そうしておいて、なんで哀れんでいるの?
哀れむんなら、人間をそんな風に創るな、ってんだ!

 自分のプレジャー(楽しみ)のために人間を創ったなんていうのは、そんなのは理由になりませんよ。
 前回の、幼い女の子のように「カミサマずるーい。遊んでる・・・」ということにしかなりませんよ。

 +++

ところが、もしも、悪魔のしわざを滅ぼすという仕事のために人間をそういう風に創るしかなかった、というならば、話は違ってくるんですね。人間が苦しむ姿を見て、イエスが深くあわれむのが、筋の通る話になるのです。

 そういう風にしか創れなかった。その結果、苦しむ姿を実際に目の前にする。そうしたら、あわれに思い、いとおしく思うでしょう。

 人間の世界にも、複数の子どもが生まれ、その内の一人が病弱に生まれつくケースがあります。親は、その子が痛み苦しむ姿を常時見ることになります。そうしたら、とりわけその子がいとおしくならないでしょうか。

 その子を他の健康な子よりも多く愛するようになるでしょう。差別といわれようが何であろうが、その子をより深く愛するでしょう。

 自分がそういう風に産んだのですから。
 そういうリスクがありながら、子どもが欲しいと思って産んだのは自分なんですから。

+++

 聖書では、イエスは異例に人間を愛しています。
 動物は愛していない。
イエスが、犬や猫をいやしたなんて、聖書で読んだことない。
 天使も人間と比べたら、愛されていないと言っていいくらいです。

 どうしてそんなに人間だけを愛するのか。
あわれみ、いとおしむのか。

 その理由が、イエスがどうしてもしなければならなかった仕事にあるのなら、ある程度の納得が可能になるのではないでしょうか。そのために人間を苦しむ存在に創らざるを得なかったというのなら・・・。

 それを、for His pleasure (自分の楽しみのために)とだけしか説明できないのでしたら、聖書のストーリーが基本的に軽くおかしいものになってしまうのではないでしょうか。

いやぁ~、聖書ってホ~ントに面白いですね・・・。

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自然な疑問に思います

2005年10月12日 | 「考える宗教」へ

質問です☆ (Lazy-cat)

2005-10-12 13:55:11

こんにちは。いつも読ませていただいています。
今日のところに関して質問なのですが、救われるチャンスはどの人間にもあるんですよね?でも、例えばザビエルが来る前の日本人はキリスト教を知りませんよね?彼らにもチャンスはあるんでしょうか?
すごく屁理屈みたいで変な質問でごめんなさい。


            




Lazy-catさんへ

 ちっとも屁理屈でないと思います。
ごく素直で、自然な疑問で、鹿嶋もこれを考えてきました。
「考える宗教へ」の代表的なテーマではないでしょうか。


 今の鹿嶋は、輪廻(生まれ変わり)を考えていく、というところにたどり着きつつあります。いわゆる「救われないで」死んだ人に、輪廻があれば、チャンスは与えられる可能性が出るわけですよね。

 この問題、今のテーマが終わったら、考えましょう。
楽しみにしてくださいね。

   鹿嶋 春平太


コメント (4)
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イエスにだって限界が

2005年10月12日 | 「考える宗教」へ
                  



 前々回、人間が悪魔にだまされて「知識の木の実」を食べるのは織り込み済みであったと解読しました。そうならないと、イエスが悪魔のわざを滅ぼす舞台ができあがらないからだ、と言いました。

 そして前回、創り主(霊としてのイエス)は、そうなるのを織り込み済みで人間を創ったという解読をしました。イエスは、人間社会を舞台にして悪魔のわざを滅ぼすことになるからだ、といいました。

 すると、「これは人間道具論だ!」という批判が出るだろう、とも。

+++

 けれども、なんの理由もなく人間を創ったというのは、もっと理不尽ではないでしょうか。人間が罪を犯すように創られていたのなら。罪を犯して不幸な人生を送るようにあらかじめ創られていたのなら・・・。

 もちろん、聖書では、その一部が最終的には救われて天国で永遠の幸福をうる、という論理が展開しています。だけど、救われない人も出るのです。永遠の不幸の中で暮らす人も出るのです。

 まえに、あるビジネスマンの見解をお知らせしましたね。
教会で、説教中に爆睡するおとうさん・・・。

 「救われる人と救われない人がいるのなら、自分だけ救われたいとは思わない・・」
その見解の故に、教会で説教される教えを受け入れられないのでしたね。

 その背景には、やはりこの不条理感があるのではないでしょうか。つまり、救われない者も出るような存在なら出現させない方がよかったのではないか、そういう存在を「必要もないのに」創ったというのなら、それは理不尽ではないか、という気持ちが。

 20年余も前の話ですが、鹿嶋にはこんな経験があります。
 小学校に入ったばかりの頃の幼い女の子に、一般的な聖書の物語を話したことがありました。それを聞いた彼女が反射的にいった言葉が忘れられません。
 
 「カミサマずるーい。遊んでる・・・」

 幼い子どもの心からでた、素直な感想です。
 これは自然ではないでしょうか。

+++

 それに比べれば、人間が創主の何かの必要のために創られたというのは、理不尽の度合いが小さいように思えないでしょうか。悪魔のしわざを滅ぼすための舞台装置として必要だったから創られたというのは、理由なく創られたというよりも・・。

 とにかく、人間が創られた理由、存在の理由が出るのです。

 そして、この解読は、「救われる者と救われない者とが出る」ということにも、一つの理解を提供してくれます。

+++

悪魔は、人間のすべてを一旦自分の支配下に入れていますよね。その状態でそのうちの誰かが、(イエスの言葉を受け入れて)天国と同質の空間に移っていく。これが惜しくてならなくなるのですね。

 一度手に入れたらみんな独り占めにしたい。これが「どん欲」で、英語ではグリード(greed)といいます。どん欲は悪魔から出る意識なのです。

 そこで、悪魔はイエスへの殺意を行動に移していくわけですね。本性上そうせずにいられなくなる。

 なのにもしイエスが、簡単に全員を救ってしまったらどうなるでしょうか。もう、悪魔には支配下に置く人間がいなくなります。そうしたら悪魔のどん欲も出場所がない。イエスの働きに妨害を入れる意欲が出なくなってしまう。やはり、少しずつ救われていく状況があることが舞台装置として必要なわけです。

+++

 もちろん、イエスが十字架で殺されるという事件は、二面の効果を持つことになっています。悪魔の本性の証拠があがることでもあると同時に、人間に、救いを受ける「道」も開きます。だが、実際に人間が救いを受けるのは、この事件に関わるイエスの言葉を受け入れたら、という条件付きです。

 そうすれば実際の話、受け入れない人はでるでしょう。
残るでしょう。

 でも、救われる「チャンスは人間全員に対して創った」のです。悪魔のわざを滅ぼさねばならない立場にあるイエスが出来るのは、そこまでです。それ以上は出来ない。出来ないのは仕方ないのでは・・。

+++

 これで、「救われる者と救われない者が出る」ということに、ある程度納得できるようにならないでしょうか。そういう風にしか作れなかった、と。それで理不尽感は解消しないでしょうか。

 鹿嶋は、こういう解読にたどり着いて、少し解消しました。
 そういうことなら、仕方ないかなあ・・・、と。

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理不尽じゃないの!

2005年10月11日 | 「考える宗教」へ
                  



 前回の続きです。
 アダムがつみびととなることが、イエスが悪魔のしわざを打ち壊すために必要だった。そして、悪魔の仕業を打ち壊すのが、イエスがこの世に出現する4000年も前に決まっていたのなら、アダムがつみびととなることも決まっていたはずだ。
          ~~前回、そう考えてきましたね。

+++

 そうすると、さらにこう考えることが出来てしまいます。
 人類がつみびとになるのは、そもそも、人間がこの世に存在して初めて可能になることだ、と。

 すると、さらに考えは進みます。だったら、創造主が人間(アダム系統の)を造った(存在するようにした)のは、悪魔のしわざを打ち壊すためではないのか? と。

 こう推論していくと、われわれは衝撃を受けます。

 われわれは、生まれてこの方、人間中心の人本主義の観点から世界をみています。聖書もそう読んできています。それをあまりにも当然と思っている。だからそれ自体を問題に感じたことはなかった。

 聖書は人間を幸せにすることを中心目的にして、創り主が一生懸命働く物語だと。そういうことを人間に与えたメッセージだと・・・。

 なのに、これでは人間を道具として造ったことになってしまう。
 これは人間道具論だ!と。
 衝撃ですよね。

+++

だけどその角度からみると、いろんなことが新しい側面を現してくるから不思議です。

 イエスは人間を自分の形に作りましたね。イエスや天使がすでに我々と同じ形で、先に存在していた。その形に人間を作った、と解読することも出来る、といいましたね。

 これをどこにおいたか。悪魔の支配する世界の中に、こともあろうに天の王国と同じ性質の楽園を造って、そこに置いたんですよね。

 そして、アダム(とイブ)の身体には、創り主と交信できる霊を入れた。そして彼らだけは、悪魔と違って創り主と意識が協和しているようにした。その結果、彼らは法則通り、あふれる幸福を受けることになります。

 これをみたら、悪魔が嫉妬しないわけがないでしょう。
 だまして、二人を不幸にしてやろう、と思わないわけないでしょう。

 そして、二人に「知識の木の実」を食べさせるのは、容易なことです。
 悪を知らないイブなのですから。

 そして、二人とその子孫である人類は、基本的に不幸の人生を歩むことになります。

+++

 だけどそんなことは、全知の創り主(霊イエス)にわからないわけがありません。
 わかってやっているはずです。
       なのに、どうしてそんな存在(人間)を創るのよ! 

 もしそれを、なんの理由もなく創主がしたという論理でしたら、どうでしょうか。
 この話は理不尽とならないでしょうか。

 理由はある、それは人間を道具として必要だったからだ~~~これも、理不尽な感じを全く与えない、ということはありません。

 だけど、なんの理由もなく不幸で、苦しむ存在を「出現させた」としたら、それはもっと理不尽ではないでしょうか。
 次回以降でそのあたりを含めて考えていきましょう。

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知識の実を食べるのも計画の内?

2005年10月10日 | 「考える宗教」へ
                  




 前回、悪魔関連のことは、アダムの時代、イエスがこの世に生誕する4000年前に、
決まっていた、と解読してみました。
ところが、この悪魔関連の事件に、人間が絡んでいます。
そうするとなんと、人間のことも、すでに決まっていたことがありそう、となってしまいます。

 だから、聖書は面白い。
が、とにかくこれについて、さらに考えてみましょう。


                    

 悪魔がイエスを十字架刑で殺さざるを得なくなるようになっていくのが、
4000年前に決まっていたと言うことは、これに関わることもそれ以前に決まっていたことになっていきます。
そして、人間はこの事件に不可欠なかかわり、役割をはたしているんですね。

 悪魔は、なぜ、イエスを亡き者にせざるを得なかったでしょうか。
それは、イエスが人の子としてこの世にきて、人間に天国の言葉を伝え、天国と同じ空間を作っていったからでしょう。
それまで、この世は全面的に悪魔の支配下にありました。

 悪魔はこの世(宇宙)の支配者でした。
そこは自らが閉じこめられた牢屋でもありましたが、悪魔はその牢屋の牢名主のような存在でした。
世の支配者でした。

 そこに、イエスが福音を伝え、それを受け入れる人の群れができた。
するとそこは、天国と同じ性質の空間となります。
こんな空間を自分の世界に作られていくことは、悪魔はその本性からいって、放置できないんですね。
だから殺さざるを得なくなっていきます。


                    

 ここを、よく考えてみましょう。もうここに人間が絡んでいます。

 そういう状況ができあがるには、
人間が、悪魔の支配下に組み込まれている、という状況がなければなりませんよね。
では、どうして組み込まれたかというと、アダムとイブがだまされて知識の木の実を食べたからでしたよね。
そういう風に創主の命令に沿わなかったから、すなわち、罪を犯したからでした。
こうして悪魔と同じ、罪ある者となったからですよね。

 それがなかったら、イエスが「天国と同質の空間を広げていく」ということは起きえないわけです。

 すると、さらにこういうことは考えられませんか?
 アダムとイブが、知識の木の実を食べるのも、すでに計画されていた、決まっていたのではないか、と。

 まさか! と思います。
 けれども、まあ聖書のこのあたりを読み返してみましょう。



                    

 この観点から、二人が木の実を食べる前後の状況を、聖書ではどう書いているか、注意深く読み直してみる。
すると、こういう聖句が気になってきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「こうして、創り主は人(アダムとイブ)を追放して、いのちの木への道を守るために、
エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた」(創世記、3章24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 ここで「いのちの木」というのは、
これを食べたら霊のいのちエネルギーが補充される、というようなものではないでしょう。
それだったら、不完全充電になった人の霊は、これで、完全充電化されることになります。
ということは、罪ある者から、罪ななき存在にまたもどることになりますが、
それだったら、人間は食べたほうがいいですよね。

 だがそうではない。聖書の筋から言って、これは~
「食べると、霊が不完全充電になっても肉体は死なないようになってしまう木」
と解すべきだと鹿嶋は考えます。

 これは人間にいいことか? 逆でしょうね。 
霊が不完全充電になった人間の肉体は、悪魔におそわれうる、弱い存在です。
おそわれたら病になったりして苦しみます。
それでも肉体は死なない、となれば、もう人間は永遠に拷問を受けて苦しめられる存在になってしまいます。

 人間にとっては、霊が不完全充電になったら、
肉体はあるとき循環運動を停止する(つまり死ぬ)ようになった方がいいのです。
そうしたら、霊はそれから抜け出て、拷問を受け続けなくてもよくなるのですから。

 だから、これを食べさせないように創主はした、とみるべきでしょう。
 
 創主は「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置いた」と聖書は記しています。
ケルビムとは、天使の一種とみていいでしょう。天使は力ある霊的存在です。
それに炎の剣が置かれていたら、いのちの木に至る道はふさがれてしまう。
こうして、アダムとイブは食べたくても食べられなくなったわけです。


                    

 この聖句を、われわれは、ああそうか、と読み流しがちです。
 だけど、ちょっと考えましょう。

 「創り主は、そういうことが出来るんだ・・・」と。

 だったら、だったらですよ、
「知恵の木の実」の前にも、それらをおいたら二人は食べなくてすんだはずですよね。
そうすることが出来るにもかかわらず、創主は「知恵の木の実」については、それをしなかった。
全然ブロックしなかった。

 しなかったらですよ。二人が食べるのは当たり前じゃないですか。
イブは悪を知らないんですよ。悪魔に誘導されるのは当然でしょう。
アダムはイブを深く、深く愛しているのですよ。
イブが食べてしまったら、自分だけ食べないでいることは出来ないでしょう・・・。


                          

 そんなことが、創り主にわからないはずはありません。
 なのに、なのに、創り主は、その前にはケルビムと火の剣を置かなかった。
これは、食べるようにしておいた、と考えるほかないのではないでしょうか。

 食べて、つみびととなって、人間が悪魔の支配下に置かれてしまう。
そういう舞台が、そこにイエスが天国の空間を「作っていく」のに必要だったのではないでしょうか?

 つまり、これも、「決まっていた」
 そういうことにならないでしょうか?


                    





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悪魔関連のことはアダムの時代に決まっていた

2005年10月09日 | 「考える宗教」へ

                  




 前回、聖書という書物の、他に類例のない点を示しました。可能性としてですけれど。

 若干繰り返しも含みますが、これをもう少し詳しくみてみましょう。

+++

 この書物は冒頭で、アダムが創り主に従順でない行為をして(罪を犯した)、楽園から追い出されることを記しています。だが、同時にその時点で4000年後に起きる事件をすでに預言していることになります。

 聖書では、創り主から出た預言は、必ず実現するという鉄則があります。必ず実現するということは、もう、そうなるように決まった、と言うことですね。つまり、イエスが「女の子孫」としてこの地上に現れて、十字架にかけられ殺されるということも、4000年前のこの時点で、もう決まっていたことになります。

 計画されていた、と言ってもいいかもしれませんね。創り主の計画は、人間の計画と違って、必ず成就します。だから、創り主が計画していた、というのは、必ずそうなるように決まっていた、というのと同じです。

+++

 そういう解読が可能な本だったら、すごい。だから鹿嶋は、すごい本だ、すごい、スゴ~イ、といいました。

 だけど、これで感嘆して終わったんでは、「考える宗教」は中途半端です。
 もう少し考えを進めましょう。

+++

 イエスが出現する4000年前に、すでに、「女の子孫(イエス)がおまえ(悪魔)の頭を踏み砕く」ことが、決まっていたとはどういうことか。この「踏み砕く」というのは、悪魔の本性がイエスを殺すという「行動に現れる」、それによって本性が証拠として出る、ということでしたね。

 証拠があがってしまったら、創り主は裁きを下すことが出来ます。だから、ユダヤ教の僧侶たちがイエスを十字架にかけて殺すためにとらえに向かう時点で、イエスは「今、この世の君主(悪魔)が裁かれる」という主旨のことをいうという筋にもなっています。

 創り主は、正義の存在ですから、自分で定めたルールに沿ってしかことをなしません。裁きには、裁きのルールがあるのでしょうね。それは、それはこの地上で行われる裁判と同じく、証拠主義なんでしょう。証拠があがらないことには、裁けないわけです。

+++

 ということは、こういう形で、証拠が現れて、悪魔に裁きが下る、ということも、すでにアダムが創り主の命令に沿わなかったこの時点で「決まっていた」ということになりますね。それが聖書の論理になりますね。

 すると、こういう疑問がわきませんか?
このストーリーは、悪魔が中心対象になっている。聖書の論理はそういう風でいいのか?・・・と。


+++

 だが、これで良さそうに思わせる聖句が、新約聖書にあります。

 「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。
     悪魔は、初めから罪を犯しているからです。
       創り主の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」
            (ヨハネの第一の手紙、3章8節)

 これも、悪魔に焦点を当てていますね。

 ここで、「創り主の子が現れたのは」の「現れた」は、「この地上に人の姿をとって現れた」ということでしょうね。つまり、イエスが人としてこの世にきた、ということ。そしてその目的は、「悪魔のしわざを打ち壊すため」といっています。この聖句は、少なくともアダムが初めて罪を犯した時点では、もう、それが決まっていたという解読をある程度支持するようにもみえます。

+++

 ここで知っておくことがあります。
 「悪魔のしわざ」にはいろいろあるでしょうけれど、詰まるところの本質は、「あらゆる点で創主と反対のことをする」ということです。

 これは、人間を幸せにしたり、いわゆる「救う」ことにもつながっています。創主は人間を幸福にしよう、しようとする。悪魔は、不幸にして苦しめよう、苦しめようとする。

 創主は人間を「救おう」「救おう」とする。悪魔は、救われないように、救われないようにと活動する。

 そういうことも広い意味では悪魔のしわざに含まれてきますから、悪魔のしわざを打ち壊すというのは、人間を幸せにしよう、救われるようにしよう、とすることを含んでいるわけですね。

 だから、悪魔のしわざをうちこわすことは、結果的には間接的には人間と関係しているんですね。
+++

 けれども、創主の目の「焦点」は、ヨハネのこの聖句では、そういう人間関連のところではなく、悪魔関連のところにしぼられています。イエスは悪魔のしわざを打ち壊してしまうためにこの世にきたというのですから。

 それを、「女の子孫がおまえの頭を踏み砕く」に対応させますと、その内容は、十字架刑で殺されて、悪魔の本性の証拠を挙げて、有罪宣告を完成させてしまうということになります。あとは、刑の執行を残すのみ、という状態を完成することに。

 すくなくとも、悪魔関連では、イエスがこの世に現れる4000年前の、アダムの時代にことは決まっていた。大枠は決まっていた。そういう筋書きに読むことは出来そうですね。


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考えてきた解読が妥当ならば・・・

2005年10月08日 | 「考える宗教」へ
                 



 これまで進めてきた解読は、絶対的なものではありません。それは鹿嶋の解読であって、一つの仮説です。正しくない可能性もあるし、正しい可能性もある。いま、正しい可能性ありの方に立って、少し推論を進めてみましょう。

 +++

 この創世記は、預言者モーセに霊感が与えられて、モーセが記録したものとされています。モーセはイエスがこの世に現れる約1500年前の人です。そして記されているこの事件は、モーセよりさらに2500年前の話。イエスが現れる4000年前の話です。

 モーセが生きた時点では、将来イエスという青年がイスラエルに現れて、十字架にかけられて殺されるということなど、モーセも含めて誰にも予測できませんでした。

 ですから、「おまえの子孫」「女の子孫」「おまえの頭を踏み砕く」「女の子孫のかかとに噛みつく」などは、何を言っているか、解釈するすべがありませんでした。モーセもいってることの内容がわからない状態で書いているわけです。

 でも、その書物が、ユダヤ民族の間で延々と保存されてきた。後にユダヤ教の教典となって、大切に保存されてきたわけです。それが現在の旧訳聖書の中に収録されている。我々はそれを読んで考えている、と言うわけですね。

+++

 モーセがこれを記した時より1500年後、記されている事件から計算すると4000年後、イエスという青年がイスラエルに現れます。そして多くのことを教え、自ら十字架にかけられ殺されます。

 イエスは、旧約聖書に記されていることは、すべて自分を預言したことだ、と教えます。そしてこの教えやイエスを巡って起きたことを、「おまえの子孫」「女の子孫」などに当てはめてみたら、上記旧約聖書「創世記」の記述に、一つの意味の通る解読が成立してしまいました。

+++

 もしも、この解読が正しいのならばどういうことになるでしょうか。旧約聖書では、創世記の冒頭の記述から4000年後に起きることを、預言していることになるのですね。

 書いた本人、モーセは霊感で受けた言葉をそのまま記しました。ところが、後に、その通りのことが起きた、となります。

 イエスの時代の一人の作家が、イエスの事件をみて、それから創世記冒頭の物語を創作したのなら、そう驚くことではありません。事件のドラマ性を高めるために、それに符合する不思議な昔話を、振り返って物語として書いたのでしたらね。

 ところが、これはそうではないんですね。創造主からのメッセージをモーセが霊感で受けて書いた。それが先です。書いた本人も、それが何のことだか具体的にはわかりませんでした。それが実は、その時より1500年も先に起きることの預言になっていた、ということなんですね。

 実は聖書では、創り主からでた預言は、そのまま被造界に実現する、という鉄則をもっています。そしてこの件に関しても、そうなっていた、ということになります。

+++

 へ~え、聖書というのは、そういうすごい本なのか、ということになりますね。
もちろん、鹿嶋の仮説的な解読は、仮説ですから、そういう可能性がある、ということしか言えないでしょう。

 だけど、この種の可能性を秘めた本はそうざらにあるものではありませんよ。鹿嶋個人は、他に知りませんから、鹿嶋にとっては当面、聖書はこういう可能性を秘めたこの地上の唯一の本、ということになります。

鹿嶋が世界を考え、人生を考える際に、聖書という本に期待と信頼を置く一つのゆえんがここにあります。

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「かかとに噛みつく」は?

2005年10月07日 | 「考える宗教」へ

                  



 では、残る「(悪魔はイエスの)かかとに噛みつく」は、どうでしょうか?

 蛇にかかとに噛みつかれたらどうでしょう。
 鋭い痛み、針で刺し通されたような耐え難い痛みが走るでしょう。
頭に電気が走るかも・・・。

 これも比喩でしょうが、前の流れからして、言ってることは自ずと明らかそうですね。
悪魔が人間を誘導して、イエスを拷問させることでしょう。

+++

 イエスは、十字架にかかる前に、すさまじい拷問を受けているのですね。
今までのイエス映画は、そのあたりの描写が甘かった。

 それを、史実に忠実たることを旨として描いたのが、メルギブソンが制作した「パッション」ですね。ここでは、当時拷問に使ったムチがそのまま描かれています。ムチの革ひもの先には貝殻や、鉄の刃物の先のようなものがついています。これでイエスの背中や胸にひとムチくれると、イエスの皮はさけ、肉の中に食い込みます。そのむちを引っ張ると、中に白い骨が見えます。

 そのほか、顔は殴られて、片一方のまぶたが腫れ上がって目が見えなくなっている、とか。とにかく、ありとあらゆる拷問をイエスにしています。
 
 これが「かかとに噛みつく」と考えると、この聖句も筋が通っていきます。



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おまえの頭を踏み砕く?

2005年10月06日 | 「考える宗教」へ

                  


 創世記の冒頭には、考える素材がいっぱい。
こんな短いページの中にまだまだあります。

 前回の「悪魔の子孫、女の子孫」の聖句に続いて、こんな聖句が続きます。

 「彼はおまえの頭を踏み砕き
      おまえは、彼のかかとにかみつく」
        (創世記、3章15節)

 「彼」がイエスで、「おまえ」が悪魔であることは、前回までの解読で明らかになりましたね。
 そうすると、あとは「頭を踏み砕く」と「かかとにかみつく」となりますね。

+++

 頭を踏み砕かれたら、蛇は死にますね。
 でも、悪魔は霊ですから、蛇の物的な身体のように、死んで消滅することはありません。すると、何か「致命的な」打撃を与えられる、ということを比喩的に表現しているととるほかありません。

そして、イエスが悪魔に致命的な打撃を与えるとなれば、それは彼の十字架死というのが聖書の論理でしょうね。

 悪魔の影響を霊的に受けた「おまえの子孫」、すなわち、悪魔の影響を受け、悪魔の側にたった働きをしてしまう人間たち~~その代表はイエスの時代のユダヤ教の僧侶たちです。彼らはイエスのなす事すべてを妨害しようとする。ついには「イエスを十字架刑にかけよ!」と、民衆が合唱するように扇動する。

 こうして、悪魔はイエスを十字架刑で殺してしまいます。
それで、悪魔は勝ったか?

+++

 そうはイカンザキ!

 悪魔はそれによって、自分が創り主の子に殺意を抱き、実際に殺す存在だということを証明してしまうんですね。創り主は天の王国の最高位の存在、究極の主人ですよ。

 それまでは、こういう言い逃れも可能でした。すなわち、「天の王国で、配下の天使たちに自分を讃美させたのは、まあ、ほんのお遊びでした」、と。天国の王である創り主に殺意を抱くなんて、とんでもない、と。

 「ちょっとだけよ~」「ちょっと遊んだだけよ~」と。

 だが、一旦天国の中に自分の王国を、たとえ小さなものでも造ろうとしたら、もう創主から放射されているいのちエネルギー吸収されません。それどころか、自分の王国を造ろうというのは、不従順を超えた意識です。アダムは単なる不従順でしたけれど、この天使の場合は創り主に対抗して自分の王国を作ろうという対抗意識です。これは意識の中にいのちと対極の「死のエネルギー」造り出してしまいます。

 こういう風に、この天使長の意識は結果的にエスカレートしてきてしまっているんですね。自然に意識も変質して殺意を抱くまでになっていく。でも、それは表に現れなかった。

 ところがイエスを殺すという行為にそれが現れた。証拠があがってしまったわけです。
 証拠があがれば、裁判で判決することが可能になってしまいます。
 悪魔に有罪宣告をすることが出来るようになりました。

 だから、十字架刑で殺されるのを前にして、イエスは言うんですね。
 この世の支配者(悪魔)がいま裁かれる、という主旨のことばを(ヨハネによる福音書)、16章11節)。

 あとは、刑の執行を待つのみです。
 だから、イエスを殺すというのは、これは悪魔にとって致命的なことなんですね。
 イエスは「悪魔の頭を踏み砕く」、というのはこれをたとえて言っていると考えることができる。まあ、これも一つの考え方ですけれど、この場合は、これ以外に筋の通った解読はしがたいのではないでしょうか。

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悪魔の子孫とは?

2005年10月05日 | 「考える宗教」へ

           



  (前回の続きです)
 「女の子孫」は、イエスを意味するということで、まあ解読できたとしましょう。

 では、「悪魔の子孫」はどうでしょうか?
 これは難しい・・・。
 もう一度、この部分の聖句を引用して考えましょう。

 「わたしはおまえ(悪魔)の子孫と女の子孫との間に敵意をおく」
(創世記、3章15節)

女の子孫(イエス)との「間に敵意を置く」というのが気になりますね。
 これが手がかりにならないでしょうか?

+++

 これと非常に関連が深そうな言葉が、新約聖書でイエスの口から弟子たちに向けて発せられています。

 「もし世があなた方を憎んだら、世はあなた方より先に、私(イエス)を憎んだことを知っておきなさい。・・・・・(中略)・・・・しかしいま、彼らはわたし(イエス)をも、私の父をもみて、その上で憎んだのです。これは『彼らは理由なしにわたし(イエス)を憎んだ』と、律法(旧約聖書)に書かれているとおりです(聖書の言葉が成就するためです)」
            (ヨハネによる福音書、15章18~25節)

 ここで「世」というのは、この宇宙の中の地上に住む人間たちです。それを「彼ら」と言い換えていますね。その彼らが「理由なしに」わたし(イエス)を憎むことになる、と旧訳聖書は預言している。これをイエスは弟子たちに言っているわけです。

 「理由なしに」というのは、もう意識の根底から、潜在意識の底から、理屈抜きに憎しみの念がわいてきている、ということです。この憎しみの念が、すなわち、両者の間に置かれた「敵意」に対応していそうです。

+++

 そうすると、さらに、ヨハネ伝に登場する地上の人々が、上記聖句の「悪魔の子孫」に対応していることになります。地上の人々、すなわち、人類すべてです。

 人類が悪魔の子孫だって?!
だったら俺も悪魔の子孫かよ?

 言われてびっくり・・・。

 しかし、驚くことないんですね。聖書の論理では、宇宙の内側にある「世」は悪魔のもの、というのが鉄則です。宇宙は悪魔を一時的に閉じこめた牢屋ですが、悪魔はそこの親分、牢名主ですからね。

 限られた時間とはいえ、その間、宇宙の中のこの「世」は、悪魔の法、悪魔の正義、悪魔の教育、悪魔の支配で動いているというわけです。アダムが創り主に不従順して以来、人間の心(霊)にはその悪魔の支配を受ける余地が出来てしまった。つまり、人間の支配者は、創り主にとって代わって、悪魔となったのですね。

+++

 そして、悪魔の霊はいのちと反対の「死のエネルギーで」完全充電です。もうその意識は、創造主のそれとすべてにおいて完全対極にあるわけです。


 そのなかでアダムの霊は、当初、聖なる状態でした。だけど、創り主の意向に背いて、知識の木の実を食べた。以来、彼の霊はいのちエネルギーが不完全充電になってしまった。

 その不完全部分には「いのち」と反対のエネルギーが入ってしまった。これすなわち、「死のエネルギー」です。

 すると、アダムの意識(霊)は、悪魔のエネルギーである「死」がベースになります。そして、その後の人間の内にある霊は、このアダムの霊から分離した「生き霊(いきりょう)」みたいなものですから、結果的に、この地上の人類の意識はみな悪魔ベースになっている~~これが聖書の論理になるんですね。

 だから、イエスは「世が理由なしに私を憎む」と語った、という道理になります。
 人類の意識(霊)は悪魔ベースになっているんですね。

+++

すると、イエスとの間にもう、敵意が「置かれてしまった」状態になっているわけですね。敵意を「置く」と創り主が言ったのはそういうことだと考えられます。
 これは、もう、個々人の意志の力、思い直し、考え方の反省、等々ではどうにもならない絶対的な状況、ということです。

 聖書では、霊を基準にものを考えます。聖書に書かれているのは、根本的に霊の理論です。それで、霊(意識)が悪魔ベースになっている人間は、悪魔の子ということになります。

 その人間が、肉体を持っていますから、次々に増殖してくる。
 だから、「子孫」になるわけです。

 以上によって、聖書では、この世の人類は「悪魔の子孫」だ、となります。
「考えていったら」そういうことになってしまいました。

(・・・だが、こうなっても失望しないでくださいね。
 これを創り主の子にもどす方法を持って、イエスが地上に「人の子」としてやってくる、という風に、聖書の論理は展開していくのですから)


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「悪魔の子孫」と「女の子孫」って?

2005年10月04日 | 「考える宗教」へ
                


 前回までで、こういう考えが出てきました。
 創世記で「われわれのかたちに人をつくろう」と言ったのは、どうもイエス(この世にくる前の、霊としての)らしい。
そして、その「我々」は霊イエスと彼に付き従う天使らしい、ということが。

+++

 さて「考える宗教」もう少し続けましょうか。
 
 エデンの園のところにもどって
 少し聖書の言葉(聖句)を読んでみましょう。
 創世記の第三章です。

 まず、やさしいところから。
イブに語りかけたのは悪魔だったと理解されています。
これは、万人が認める解釈です。
 けれども、聖書には「蛇が語りかけた」と書いてあります。

 これはどういうことか。
 悪魔が蛇に変身したという解読もできでしょう。
 だがそうすると、イブを誘惑するという役割を果たした後には、蛇は姿を消してしまうことになるでしょう。でも、後にも蛇は存在し続けます。

 ですからここは、悪魔が蛇を用いた、と考える方がいいでしょう。
悪魔は霊です。
霊は意識波動を発します。
 蛇に影響を与えて、そのように使った、と。

 がとにかく、誘惑を試みた本体が悪魔であると考えるのは正解でしょう。
聖書では一貫して、人間を苦しめるのは悪魔ということになっていますから。

+++

 難しいのは次の聖句です。
 イブとアダムに「知識の木の実」食べさせるのにまんまと成功した悪魔に対して、創造主はこういった、と聖書に書いてあります。

 「わたしはおまえの子孫と女の子孫との間に敵意をおく」
(創世記、3章15節)

 こういう言葉が突然出てきています。
 このままでは、何を意味しているのか、まずわからない言葉です。

+++

悪魔は霊です。
霊は子孫を産まない、というのが聖書の論理です。
 悪魔には人間のような、自分で生む子孫はありえません。

 だから「おまえの子孫」といわれると、困ってしまうんですよね。
 これはなにかを比喩(たとえ)的に言っているとしか考えようがありません。

+++

 もう一つは「女の子孫」。
これもこのままでは不可思議至極ですよね。
 男女の子孫とか、人間の子孫ならともかく、どうして女の子孫だ。

 こちらはもう、次のような解読しかないのではないでしょうか。
聖書では、霊の資質は男親を通して伝わるという思想ですから、人間についてあえて言うなら「男の子孫」でしょう。あるいは「アダムの子孫」とか。

 これをわざわざ「女の子孫」というのは、次のような根拠しかないんではないか、と。

 つまり、イエスは聖霊によって処女マリアがみごもって生まれた存在、ということに新約聖書ではなっています。だから、イエスだけはアダムという人間の男の子孫ではないことになるのです。これを踏まえて、ここはイエスのことを言っているのだろう、と。

 もちろん、このイエスは霊としてのイエスではなく、この世に「人の子」としてやってきて肉体をとって生誕するイエスです。

+++

これで「女の子孫」については筋が通りました。
 引き続き、「考える宗教」を進めていきましょう。

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