鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

天国は創造神から出発して理解可能に

2017年12月30日 | 政治見識のための政治学





前回までに見てきたように、「天国」は福音の中核であり、また、「主の祈り」のキーコンセプトでもあります。

にもかかわらず、この理念はきわめて漠然としてしか把握されていない。

その一例を「バラダイスとの混同」にあることを、前回示しました。

だが、とにかく聖書で言う天国は、何とか明確に認識せねばならない課題でもあります。

ですけど、これは難問です。

わかっているようでわかっていない。

そういう性格の難問でもあるのです。





<創造神との関係での理解が必要>

理由の一つは、天国は、創造神との関係で認識しないと理解できないことです。

聖書の世界イメージは、創造神から始まります。

天国はその中で説明されないと、全体観がえられないのです。

ところがその創造神の理解にも難しいところが多いのです。

神といっても、創造神は他の神々と異質な、別格な存在なのですから。




<その創造神の理念からしてわかりにくい>


たとえば日本の一般人は万物の創造神と聞くと、神という語だけを引っかけて~

 「ああ。宗教だな。例の神様の話だな」と思うでしょう。

こういうアバウトな思考を打破することからして難題です。

どうしましょうか。


+++

話は、無限大の時空を含めた壮大な世界に及んでいます。

これらの話を長々と話されても、フォローが苦しくなるでしょう。

そこで鹿嶋はまず私的解読を一気に語ることにしました。

創造神の話から入って、天国を一気に説明しようと思います。

個々の解読をいちいち照応聖句を持ち出して示すこともしない。

それは後で別述することにします。


+++

話はまた、SF小説的な空想的なものにもなります。

これまで鹿嶋を「異端!」と告げ口してこられた方々、その他、異端呼ばわりの好きな多くの方々に申し上げておきます。

ご自由にうわさし合ってくだっていいのですが、これは知って置いてください。

異端とは正統な教理があってこそ、それとの比較で言えることです。

批判される際には、「あなたが正統とする教理、解釈を明示して」やってください。

では始めます。




<在物神の神々>

まず、創造神以外の他の神々のことから。

これらの神々のイメージは、よくみると、みな、物質の中に染み込んでいる霊的存在です。

鹿嶋はそれを、在物神と名付けてきました。

人は生まれて自然なままでは、物質しか認識できません。
だがそのとき同時に、その中に自分に影響を与える「見えない」存在をイメージします。

神とは定義すればこの「見えない影響者」です。

人は空、海、山、川、岩、樹木、彫像、お札(ふだ)などの中に、そういう影響者をイメージするのです。
これは人間の自然の情です。





<万物の創造神>

さて在物神では共通して、イメージをする際、人間の意識には、物質が先に認知されています。

物質ファースト。

それに次いで、(その中に)神がイメージされるのです。

+++

万物の創造神のイメージは、真逆です。
神が物質に「先行して」意識に生じます。

だって、先に創造神がいて、物質が創られて出現するというのですからね。
創造神が先というのが道理です。

神ファーストですね。

+++

その創造神が、創造の技をするまえには、まず、無限の過去から存在しています。

その懐に、御子と聖霊がいます。

これらがいわゆる「三位一体」となっている創造神だけが、無限の過去から存在している期間が続いています。





<天国は最初の被造物>

そしてあるとき、被造物を作り始めます。

その第一が天国なのです。
正確には「天の創造神王国(Kingdom of Heaven)です。

それは、地上(後に創造される)で訓練を終えた御子が、天に昇って王として統治すべき超広大な被造空間です。

だが超広大といっても、被造物ですので、その広がりは有限です。
我々はそれを球体としてイメージしたらいいでしょう。

このへんで、いつもの「聖書の空間理念の図」を掲示しておきますね。










<創造神の名と王座>

さて創造神は、その天国の一角に、王座をおきます。
それが将来御子が天国を統治する際に、そこに座してなすべき王座です。

また、王座の上方には「父なる創造神の名」をも置きます。
それは将来天に昇って御子が相続すべき名です。




<天使(御使い)>

次に進みます。
SF小説的になっていきますよ。

創造神は天国に、創造神に仕えるべき天の民を無数に創ります。
この民は、自由意志を持つように創られています。
これが天使(エンジェル:御使い)です。

天は霊界です。
天使は霊だけで構成された霊的存在です。
そして火にも風にも変容しうる「力ある霊」です。(ヘブル書1章)

+++

天使は、後に創られる人間のように、肉体を持つことがないので、自己増殖しません。
だから、創造神は天使を最初から無数に創ります。

天使は創造神に仕える天の民です。
天国が機能するように様々な役職に身を置いて仕えるように創られます。

また天使は軍隊状に組織されていて、各々に位階があります。
上位の天使は、天使長として一定の軍団の天使を従えます。





<最高位の天使が使う「神の名」>

そのなかで最高位の天使がいます。
彼は、創造神の全権を委任された代理者です。

創造神として振る舞う権威を与えられ、行動します。
そして、御子が天国に来るまで、王座を守るという役目を与えられています。

+++

さてその際、創造神は、暫定的な「神の名」を創ります。
それは「自分も自分の代理天使も」使うことが出来る神の名で、これがエホバです。

(さ~あ大変。エホバはイエスの父なる神の名だと思ってきた読者は大変でしょうね。
賛同や異論は自由です。遠慮なくコメント欄に書いて下さいね)

鹿嶋私論を続けますよ。

代理天使は、御子が王座に就き、創造神の名を相続するまでの期間に、
エホバの名をもって暫定的に神として行動します。

~まずはこれまでとしておきましょう。

一気に進める話は、次回にも続きます。









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御国(天国)とパラダイスは同じか?

2017年12月27日 | 政治見識のための政治学





クリスマスシーズンも終わり、日本では、紅白歌合戦とか正月が続きますね。

でも、このチャーチではイエスの話が続きます。

+++


前回、いわゆる「主の祈り」における御国(天国)の理解について述べました。

「御国を来たらせたまえ」の後に続く聖句は、一見、個々独立の願いを示しているようにみえるが、
そうではないのではないか。

それらは天国の持つ属性であって、御国が来れば、そのパワーで実現するものだとも解せられる。

そして鹿嶋は、後者の解釈の方が正しそうに思う、といいました。





<パラダイスって天国じゃないの?>

だが、鹿嶋の話は何か漠然としていて、ピンと来ないという人が多いのではないかと思います。

直接的な理由は、天国の属性をそのまま羅列して明治したりするような聖句がないところにあるでしょうが、

その前に天国自体の全体像が読者の意識の中で漠然としていることがあります。

たとえば、ほとんどの聖書読者は、天国はパラダイスと同じだと思っている。

だが、聖句をよく見ると、そうではないことがわかってきます。






<「パラダイス」は解読がいる>

まず、パラダイスという言葉は、一度だけしか出ていません。

イエスが十字架にかけられたとき、その左右に各々一人の罪人が十字架にかけられています。

そのうちイエスを受容した一人が「この人には罪がない」という。
イエスはそれを聞いて、「今日、あなたは、私と共にパラダイスにいるでしょう」といいます。
             (ルカ伝16:23)


このパラダイスについて、聖書では何も説明がありません。
そこで我々は~イエスを受容した人がイエスと共に行くのだから、きっといいところだろう、これは天国のことだろう~と漠然と思ってしまいます。





<イエスは「まだ父の元に昇っていない」>


だが、イエスは三日目に復活して、まずマグダラのマリアの前に現れています。

そして、マリアが狂喜して「先生!」とすがりつこうとするとイエスは言います。

「私にすがりついてはいけない、私はまだ父のもとに登っていないのだから」
                   (ヨハネ伝20:17)

父の元、とは天の御国です。
この時点でイエスは、天国に昇って地上に帰ってきてはいないのです。

となれば、イエスが、かの罪人を連れて行ったパラダイスは、天国ではない道理になります。

でも、十字架死の当日に「今日あなたは私と共にパラダイスにいるでしょう」
といった。
        (ルカ伝16:23)

だったら、イエスはすでにその罪人の霊を連れて、そこには行ってきていることになる。

そして三日目に復活して、こんどはマリアの前にいる。

繰り返しますが、パラダイスは天国ではないのです。






<宇宙の中のどこかには違いない>


では御国でなければ、どこか。
もう一度、聖書の空間理念を見ましょう。





この図で考えたら、それは、天国の下方の宇宙の中のどこかでしかありえないでしょう。

パラダイスは天国ではなく、宇宙の中のどこかにあるはずなのです。

もちろん、それは「いいところ」ではあるでしょう。

鹿嶋が推察するところ、それは「イエスを受け入れた人の霊が、最後の審判までの間に安息するところ」
ではないかな。




<宇宙には他の安息空間も?>

宇宙の中には、他にも推察される空間があります。

ルカ伝に記されている「アブラハムの懐」もそうでしょう。
貧乏人ラザロが死後いったと思われるところです。

これもなにか、「安息の空間」という感じがしますね。

ハデス(火のあるところ)もそうでしょう。

生前ラザロに哀れみを書けなかった金持ちの霊が、死後行ったと思われるところです。
これもルカ伝の同じ聖句箇所に記されています。
         (以上、「ルカ伝」16:19-31)

だが、このパラダイスと区別して天国の理念を、クリスチャンでさえ多くは抱いていない。

事程左様に、「天国」のイメージは人々の中では漠然としたままです。

(「極楽」のことだと思っている人もニッポンには沢山いるよ)


一つには、それ故に、「御国を来たらせたまえ」に続く聖句を、御国の属性だとイメージすることが難しいのです。

御国のイメージについては、もう少し考えてみましょう。








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「主の祈り」の再吟味

2017年12月23日 | 政治見識のための政治学




クリスマスですね。

霊感について考えているのですが、またまた、脇道にそれます。

いわゆる「主の祈り」についてです。



最近、カトリックからこれについて異論が出た、という情報を耳にしました。
中身はわからないのですが、これを「主の祈り」と呼んでいるのは間違いだ、ということかもしれません。

確かにそれはその通りです。

これは聖書ではイエスが「祈り方」として人々に教えたものです。
なのに「主の祈り」というと、それは「イエスが祈った祈り」という印象を大いに与えるのです。

これはまずい、ということなら、そのとおりなのです。




<別の吟味も必要>

だが、鹿嶋はこれについて、別の意味で吟味も必要だと思ってきました。

まずは、日本で邦訳されている、イエスの教えた祈り方を転記しましょう。



・・・・・・・・・・・・・・・
「天にまします我らの父よ。
 御名があがめられますように。
御国が来ますように。

御心が天で行われますように、地でもなしてください。
われらの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

我らに罪をなす人を我らが許すように、我らの罪をもお許しください。

我らを試み(悪への誘惑)に合わせず、悪より救い出してください。

(天の王国と力と栄光は、とこしえにあなた様のものだからです。アーメン)
(マタイ伝 6:9-13)
・・・・・・・・・・・・・・・・・







<祈りの項目は独立箇条か>

ここで祈っている項目は、各々独立した願いとして祈られているように受け取っている人が大多数だと思います。

どうしてこういう風に並ぶのかわからないけれど、とにかく主イエスの教えた祈りだからそう祈る、とうけとっている。

教会の礼拝でみんなでこの「主の祈り」を唱和する場合には、まさに、そういう風景です。

















<天国がすべての属性を含んでいる?>

だが、この「祈りの聖句」にはもう一つの解釈も可能です。

それは「天の創造神王国が来たら」それに続く項目はオートマチックに実現される、~とする解読です。

そうすると、これらの項目はすべて、天国という空間の持つ属性という理解になります。

このことを明確に示すには、祈りは次のように書き換えた方がいいように思います。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天にまします我らの父よ、天の御国(天国)に置かれた御名を天使があがめますように。

(ここまでは従来の邦訳文と同じです。次からが違います)

御国が来たらせられたら~
我らに日々の糧は与えられます。
我らぬ罪を犯す者を我らが許すように、我らの罪も許されます。
我らは試みに会うことがなく、この世の悪より救い出されもします。

なぜなら、御国と力と栄光は
 とこしえにあなた様のものだから、それは実現するのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・




こちらでは、天国という空間は上記の各項目を属性として含んでいる、という天国認識があります。

すなわち、天の創造神王国では、食べ物は豊富で乏しいことは全くなく、人間に他者の罪を許す意識力が与えられ、かつ自らの罪は許される。

また、そこでは悪魔に試みにあわせられることもなく、すでに、悪魔の企みにはまっているならば、救い出される。

そういう属性を持った天国という空間の所有者は、父なる創造神よあなた様だから、これらはすべて実現する。

~そういう天国認識があります。





<「すべてを満たすパワー空間」を示唆する聖句>

はたして、どちらが妥当な解読か。

後者であると示唆する聖句は、たくさんあります。

+++

そもそも、イエスの宣教の第一声も「天の御国が近づいた」です。
彼は「だから、悔い改めなさい」と宣言しています。
(マタイ伝 4:17)

+++

また、イエスが福音(良き知らせ)として伝えている具体的な中身は、天の御国のことらしい、と解される聖句もあります。

マタイによる福音書(マタイ伝)では、著者マタイはこう記述しています。



・・・・・・・・・・・・
「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを治された」
   (マタイ伝、9:35)
・・・・・・・・・・・・



ここでは「御国の福音」(天国についてのよきしらせ)とずばりいっています。

+++

天の御国の属性としての「力」を示唆する聖句もあります。



・・・・・・・・・・
「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊ども追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところにきています」
 (マタイ伝 12:28)
・・・・・・・・・・・




創造神の御国では、悪霊は留まることが出来ず、追い出されるというのです。

+++

この他、イエスが「天の御国」について説いた、というくだりは、繰り返し繰り返し語られます。
「天国、神の国、天の御国」という言葉はマタイ伝だけでも、2~30回出てくるのではないでしょうか。ルカ伝でも多いです。

+++

他方、旧約聖書には天国という言葉は一度も出てきません。

新約聖書でイエスが出現してはじめて、天国、神の国という言葉を述べるのです。
それを「良き知らせ」として伝えているのです。





これらのことから、天国は、食べ物は豊富で、人間の罪は許され、悪魔が試みにあわせて罪を犯させることもない~そういう属性を持った空間であると推定されます。

食べ物については、イエスが、わずかのパンと魚によって、5千人を食べさせたという記録もあります。

のみならず天国は良きものすべてを持った、素晴らしい空間なのです。

「御国を来たらせたまえ」はそういう素晴らしい属性をもった天の創造神王国の空間を、私達の周囲に来させてください、という祈りである可能性が大きいのです。










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霊感と聖句

2017年12月22日 | 政治見識のための政治学





前回、霊感を認識対象別に考えました。

物質、被造霊、創造霊、と大きな枠組みで考えました。

今回は対象を「聖句」に絞ってみます。





<聖句は霊的知識の文章>

聖句とは聖書の中の文章です。

そして聖書は他の書物にない特徴を持っています。
それは「みえない意識体の世界」である霊界のことをすぐれて重点的に述べています。

+++

ちょっと関連する日常感覚を引き合いに出してみましょう。

教会、寺、神社などは宗教の建物です。

そこは程度の差こそあれ、みな、外部の空間よりも、霊的です。

だが、各々の建物の中で感じられる雰囲気は、教会が最も霊的です。

賛美歌も読経や祝詞よりも、霊的な雰囲気が強いです。

+++

神社は基本的に葬式は請け負いませんので、仏式とキリスト教式の葬式を比べてみます。

すると、仏式は形式的なものが表立っている印象を受けます。

お坊さんの唱えるお経は、言葉の意味がよくわからないので、よけいにそうなります。

他方、キリスト教式の葬式での牧師の説教は、言ってる言葉はわかります。
そしてそれが霊的なことがらであることも感じられます。

歌われる賛美歌も、霊的な歌であることがよくわかります。

♫ 主よみもとに、近づかん・・・♫ 

            ~ですからね。


+++


それらは聖書のもつ知識が優れて霊的であることを反映しています。

聖書の独自な存在意義は、霊的な知識にあるのです。

もちろん、見える世界の事柄の知恵らしきものも述べていますよ。

だが、それも霊界のことを比喩で示しているとも解せることが非常に多い。

聖書は本質的には霊界のことを示す本なのです。

そして聖句はその中の文章ですから、聖句の認識には、霊感が不可欠な鍵になります。

(聖書を読む場合には、前もってこのことをしっかりと自覚して読むと効率的です)





<比喩表現が多い文章>


だが霊的存在そのものを言葉で述べても、話自体がチンプンカンプンで人間にはよくわかりません。

そこで、まずは人間の「目に見える」物質に投影させて述べることになる。

すると、話としてはまずはわかります。

そして次に、この話は何を示唆してるんだろう、と考えていかれるわけです。

聖句はそういう傾向の高い文章です。

+++

でも物質界に投影されたら、それはたとえ(比喩)となりますよね。

霊の事柄を、物質界のものにたとえて述べるわけです。

だが物質は多面体です。色んな面を持っています。

それらの面はすべてつなげられうる。
だから、多様な理解、解釈が可能になるんですね。

そこには霊的な繋がりを示す解釈も、「見える世界」の繋がりを明かす解釈もあるでしょう。

たともかく、聖句は基本的に多義的になる。

これは前々々回にも述べましたね。





<聖句解読>

その中で、最も妥当そうな解釈を探究していくのが聖句解読です。

聖句を理解した「わかった」という感覚が得られるときとは、その一つ選んだときですからね。

選んで、「これがこの聖句の意味だ」と確信したときだ。





<霊感は常時働く>

その際、解読者はどういう精神作業をするのでしょうか。

まず、あり得る複数の解釈をさぐりだしていきます。

そしてそれらを心に保留するでしょう。

そのうえで最も妥当な霊的な解釈、意味合いを感知しようとします。

その際、他の聖句との整合性を全ての解釈につき吟味します。

ここで論理という能力の助けを得ます。


+++

だが、これらすべての作業で、常時活躍するのが霊感です。

これは吟味の最中にも常時働きます。

かつ、最終的に妥当な解釈を感知もさせるのです。

これと同時に当該聖句が意識に留められます。
当然ですね。

全ての解釈は聖句と照応されるのですから。

そしてそこで霊感が協働し続けるわけです。




<聖句の瞑想時間>

また、こうした作業のあいだ、解読者はその聖句を心に抱き瞑想もします。

イエスが弟子たちに「私の言葉の中に住まうのなら諸君は私の弟子になる」と言った際の「言葉の中に住まう」というのもそれにあたります。

この黙想の間に霊感は動き出します。

この動きが出るまで聖句を瞑想します。

するとあるときいくつかの自分の解釈が霊感に感知されるのです。

感知されたら最も妥当なものを選び取ります。

ここで他の解釈を捨てます。

これが聖句解読の時間的過程です。

+++

この、結果的に選び取られた解釈、これを言葉で言えば教理です。

だがここで注意することがある。
この教理は、教理統一方式の教会での信徒たちのそれとは別物だということです。

教理統一方式では、その教理を絶対正統なものと与えられて「がぶ飲み」します。
だから聖句との照合のステップは一切入っていない。

そもそもこの方式を代表する教会は個人的に聖書を読むことを禁じています。





<盲信と自由吟味>


だから知力も霊感も働かせることがない。

この状態を別名「盲信」といいます。
英語ではカルトです。

+++

他方、自由吟味方式の教会では、この教理は教会員個々人が心に抱く“その時点での教理です。

この教理には、霊感が強く働いたときの感触が伴っています。

また、聖句の言葉それ自体も伴っています。

そして、生きていく中で、より妥当そうな解釈が浮上したら、謙虚に切り替える。

自由吟味者はそのために、常に聖句を心の中に住まわせ(abideさせ)て生きるのです。







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霊感と認識対象

2017年12月19日 | 政治見識のための政治学





前回、脇道に入って、富岡八幡宮事件の聖書視野からの理解など述べましたが、本筋に戻ります。

前々回に、「聖句は多義的、教理文は一義的」となるという、その構造のようなことを述べました。

そこにもどって今回は、「霊感」について考えてみたいと思います。




聖書という書物は、本質的に霊界の法則を述べた書物です。

その中の聖句も本質的に、霊的なことを示す文章となります。

ですから聖句吟味には霊感は不可欠となります。




<霊感とは>


霊界は五感認識を超えた世界です。

その世界を感知・認識する能力が霊感です。

日本では日常語ではこれを「第六感」とか言っていますね。

英語でもシックスス・センス(sixth sense)なんて言葉もあるようですね。

ただし、この英語は広く「直感(intuition)」をさすこともあるようなので、漠然とした言葉にも成っています。

日本でも、七感、八感などを加えて言う人もいます。
まあ、五感を超えた能力全般を漠然と言っているわけです。




=認識対象との対応で見ると=


そこでもう少し明確に、霊感をとらえられないかと考えました。

そしてそれは霊感という語を、認識される対象と対応させて考えるたらいいのでは、と思いました。

やってみますね。




<物質は素粒子>

まず、物質から。

量子物理学(量子力学)は、全ての存在(聖書では被造物)は、波動で出来ていることを明かしました。

これでいくと、いわゆる物質も波動が凝集してなる粒子(素粒子)で出来ていることになります。

だがこれは霊感による認識の対象ではありません。




<霊は超微粒子>

では、御使いや人間の霊などの、被造霊はどうか。

これも波動の凝集体である粒子でできていると考えられますが、その、粒子は素粒子より何億倍も小さい、超微粒子だとみるのがいい。

だから、この粒子で構成されている霊は、物質よりも遙か緻密に出来ているわけですね。

それ故、肉体のように、10年もすればまとまりを失って消滅する、ということはない。

いったん創られると、永続するわけです。


+++


この超微粒子のアイデアを鹿嶋は「サイ科学」という分野から得ています。

19世紀から西欧では心霊科学が盛んになってきました。

その流れで「サイ科学会」という学会も出来ています。

サイというのは、サイコロジー(心理学)のサイです。

この学会では、霊は「サイ粒子」という超微粒子で出来ていると考える。

それは素粒子の10億分の1というサイズだ、という仮説で、研究をしています。

ただし、サイ科学会では、鹿嶋の知る限りではまだ量子力学の知識は取りいれていません。

だから、凝集した超微粒子の周囲に、粒子に凝集しきらなかった波動が漂っている、というイメージはありません。

+++

鹿嶋は量子力学の存在論をベースに考えるようになってきています。

そこで、こうした超微粒子とその周りの波動とを認識する能力、これを霊感だとまず考えます。

そしてその認識は、自らの意識波動を霊の波動と共鳴させることで可能になると考えています。





<創造神(霊)は、波動の源>


さてこうなると、やはり、創造神(創造霊)も考えておかないといけませんよね。

聖書の世界観は、創造神をベースにして出来上がっていますので、不可欠な認識対象です。

そして聖書では、人間はそれを認知する可能性を持つことになっています。

+++

創造神は霊的存在です。

だが、被造物ではないのですから、被造霊ではなく、創造霊です。

創造神を、被造物のように、超微粒子で出来ているというように考えたらおかしいでしょうね。


ではどうイメージしたらいいか。

それは「波動の源」であり、自ら波動そのものである。

そして、被造界に波動を放射している存在と考えたらいいと鹿嶋は考えます。

+++

また、この波動の源を認識する能力も、また、霊感と呼んでいいと思います。

その認識方法も、被造霊のそれと同様だと考えるからです。

つまり、自らの波動を共鳴、共感させることによって、認識する。

被造霊である天使(御使い)や人間の霊と同様な方法と考えるので、これも霊感

としていいわけです。


+++

考察が深くなってきています。

こういう話は短く切らないとゴチャゴチャしてしまう。

今回はここまでにしましょう。








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富岡八幡宮事件を聖書の視野で見ると

2017年12月12日 | 政治見識のための政治学








富岡八幡神社で起きた肉親間の愛憎殺戮劇がテレビを賑わしていますね。

でも、何かわかりにくいところ、釈然としない点が心に残りませんか。

あれは、超安定的に得られる強大な利得権を肉親の間で奪い合う、骨肉の愛憎劇ですよね。

あの姉弟の間にも、幼少時までには人としての生来の肉親愛はあったでしょう。
だがその利得は宮司となった者が慣習上独占できるのですね。

またその支配権の継承は、血族の間だけに慣習的に承認されています。
世間の競争から守られています。

この利得はものすごく安定的でもあるのです。




<企業創業者の息子たちにも>


こういう関係は、企業創業者の息子たちに間にも見られるモノです。
だが企業はオープンな競争にさらされています。
神社の集金機構ははるかにもっと安定的です。

その安定的利権の巨大さが、肉親の情を圧倒するようになっていく。

成長するにつれて、利得権への欲望が、肉親の愛情を凌駕していく。

そういう人間関係の中で起きた事件なんですね。





<安定巨大利得の由来が説明できてない>

だけど、そういう利権が出来上がってきている構造を説明できるコメンテーターがテレビにはいないんだよね。

だから、何か漠然とした気持ちが、われわれ視聴者の間に残るんだ。


+++++++

この構造は、聖書の視野でみると、明瞭に浮上してきます。

鹿嶋は、これまでにも、神イメージの図をここにも掲載してきましたよね。

それをもう一度掲げましょう。







図の右側には在物神という神イメージが示されています。

人は自然なままで、神イメージを本能的に求めます。

神とは、「見えない影響者」です。

人間は自分の生活に、良き影響を与える「見えない存在」を期待し、また、「よからぬ影響を与える」かも知れない「見えない存在」をイメージして恐れるのですね。





<在物神>

創造神理念を知らない状態ですと、人はその影響者を「物質の中に内在する」とイメージします。

鹿嶋はそれらを一括して「在物神(ざいぶつしん)」と把握してきましたね。

物質とは、目に見える存在です。

これをみて人は、そこに内在する神をイメージ致します。

山道を歩いていて大木や巨岩出会うと、人はその中に「見えない影響者」をイメージします。

山にも、川にも、海にも、空にもその中に内在する見えない影響者をイメージする。

石や木を彫った像のなかにも神イメージを抱きます。

家の形に作った建物にも、人は内在する神イメージを抱きます。



    


<建造物のイメージ形成力>

そうした物質の内で、存在感・リアリティをとても濃く感じさせてくれる一つが、家の形をとった建物です。

ある程度大きな建物は、その中に神イメージを、人を包み込むような大きさでイメージさせてくれます。
またこのイメージは、山や海ほどに膨大でない、ちょうど実在感が薄れない大きさです。

そうした建物に対面するとと、人はその中に「見えない影響者」の感慨を、優れて濃く感じることが出来るのです。


だからその建物は多くの人民に常時的に礼拝されるようになります。

これが神社・神殿となっていきます。





<仲介者が出現する>


それに併行して、その建物の内にいるとイメージされる在物神と、交信できているような人物が現れます。

彼は、その神と人民たちとの仲介者となっていきます。

人民はその仲介者に、頼るようになります。
この仲介者が複数となり、彼らが階層を形成することもありますが、ともあれその頂点に立つのが宮司(ぐうじ)です。

+++

人々は、この仲介者に仲介代金を支払うようになります。

それに神様への捧げ物というイメージを混ぜ合わせて捧げます。
すると、出金の抵抗感は軽減します。

こうして自発的な動機が混ぜ合わさった出金の「集金するシステム」が出来ていきます。

すると、仲介者は、自分が目の前にいなくても、人民が建物の中にイメージする在物神に捧げ物をする仕組みも考案します。

それは社殿の前に器物(賽銭箱)を置くことでもって実現します。

こうすると人民は、常時的にお金を捧げるようにも成ります。

正月や祭りの日などには、これが結構多額な賽銭をうる自動的集金システムとなります。





<恐れ混じりになるのは>

さて「イメージ」とは広い意味の用語です。
在物神イメージは「感慨」という純粋に感性的な心理実体になります。

感慨はフィーリングであり、フィーリングは理念にはなりません。
感慨のままです。
だから、在物神イメージは在物神感慨ということもできます。

そして「見えない影響者」の感慨には、「祝福」(幸せをもたらす力)への願い、期待と、「呪い」(不幸をもたらす力)への恐怖~この二つのフィーリングが同居しています。

つまり、在物神崇拝では、「恐れ」に縛られた心理状態が併存するのです。




<創造神理念が投入されると>

だがここに「万物の創造神」というイメージ投入されたらどうでしょうか。

これは在物神とは一線を画する別ものです。

創造神というのは、物質の認知に伴う「感慨に先導される」ことが全くない神イメージです。
それは理念として導入される、理性的なイメージ体です。

だから、創造神理念ともいえます。





<自然発生しない理念>


この神理念は人の心理に自然発生はしないものです。
それは外部から投入されてはじめて存在するようになるものだ。

そしてそれを投入するのは聖書という書物です。

+++

ともあれこれは理念(概念)ですから、そこから論理的な思考を展開させる余地を持っています。

そもそも、「自分以外の万物を創造した神だ」というのがすでに「創造者」という属性の概念(理屈)を含めています。

他にも属性は考えられますよ。

例えば、万物の創造神なら空間的に無限の広がりを持つでしょう。

もし有限ならば、その外側のものは「オレが創った」とは言いがたいからです。

このように「空間的無限者」という属性概念をも創造神理念はすでに携えているのです。

同様な理屈で、創造神は時間的にも無限者となります。





<被造物への文句なしの上位者>


他の属性もありますよ。

「創造した側」だから「被造物」には絶対的上位者だというのもそれだ。

この感覚は、我々人間が日常的に抱く心理にすでに存在しています。

たとえば、テレビ受像機は人間が創造したものです。
これを、人間は好きなように使用し、使えなくなったら廃棄するでしょう。
それを当然なことのようにして行っているでしょう。

この行動にすでに、「創ったものは無条件に上位」という感覚が表れています。

聖書では創造神理念は、被造物である人間への哀れみも抱く存在となっています。

この心理は創造神が人間を創るとき「自分たちに似た形に創造しよう」としたことからも来ているかも知れません。





<究極の「見えない影響者」>

さて、この創造神理念が心に入ると、人の神イメージ世界は変化します。
この神が「究極の影響者」であると思うようになる。


もし、在物神が霊として存在していたとしても、それは創造された被造霊だからね。
創造神の統治下にある霊的存在だ。
そう意識されると、在物神への崇拝心は薄らいでいきます。

すると在物神感慨に混じり込んでいた「恐れ」(呪うこともあるという)の感情が希薄化し消滅します。




<創造神認知は人を自由にする>


新約聖書でイエスはそのことを次のように弟子たちに言っています~



・・・・・・・・・・・・・・
「もし諸君が私(イエス)の言葉の中に留まるならば、諸君は真理を知り、そしてその真理が諸君を自由にするであろう」
(ヨハネによる福音書、8章32節)
・・・・・・・・・・・・・・・




ここで「真理(truth)」とは「変わらざるもの」という意味です。

そして、究極の「変わらざるもの」とは、時間的無限者であり、無限の時間の中でそのままで存在する永遠者、である創造神以外に、存在しない。

論理的にそうなります。

他の存在である被造物には、そもそも、創られた時点という存在の出発点があります。
そこから存在を始めた、ということからして「変わらざるもの」ではありません。

さらに被造物は時と共に変化します。
変化する存在は、無限の時に流れの中で、別物になってしまいます。

つまりこの聖句は~

「私の言葉の中に住み留まれば人は万物の創造神を知ることができるよ。そうすれば人間の心から在物神イメージは希薄化し恐れは消滅する。恐れは人の心を縛り続ける力を持つからね。それが消滅するので、やっと自由になれるのだ」

~といっているのです。





繰り返しになりますが、創造神理念を知っていたからこそ、在物神イメージの特質も、これと照らし合わせて浮上しました。

それによってそもそも、神社なるものが何故あんなに強大で安定的な集金機構になるのか、が構造的に認識できた。

すると、日本では神社の支配権を持つことがどんなに大きな世的利益を生むか、がわかってくるのですね。






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聖句は多義的、教理文は一義的

2017年12月09日 | 政治見識のための政治学




先回、聖句自由吟味主義の思想を、ヨハネ伝1章の聖句を例にとって説明しました。

この話は、今少し深掘りするともっと面白くなります。


もう一度、聖句を掲げましょう。





・・・・・・・・・・・・
ピリポはナサニエルを見つけて言った。
「われわれは、モーセが律法の中で書き、預言したたちも書いている方に出会ったよ。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」
ナサニエルは彼に言った。
「ナザレから良きものが出ようものか」
     (ヨハネによる福音書、1章45-6節)
・・・・・・・・・・・・・





このナサニエルの言葉には、少なくとも二つの思いが想像できましたね。


一つは、「ナザレのような遅れた貧しい田舎村から、そんな優れたモノが出るわけないじゃないか」という思いでしたね。

今ひとつは「救い主は、ダビデの町、ベツレヘムから出るとされている」との聖書預言を踏まえての、
「 ナザレからそういう存在が出るはずがない」という思いでした。

そのどちらも「解釈」です。「教理」や「教義」も解読も同じ意味を持った別名です。





<聖句は多義的>

このように複数の解釈が可能なことを、「多義的」と言います。この場合の「義」は「意味」と同じ内容の言葉です。
上記の聖句では、「ナザレの田舎者だから」という意味解釈と「聖書の預言にないから」という意味との二つの解釈が可能になっていますよね。

そしてこのような多義的な性格を「聖句の文章」は、基本的に、持っています。




<教理は一義的>

反対に、一つの解釈を持つことを「一義的」といいます。
これは「解釈(教理)文」の特徴です。

解釈するというのは、「理解をする」「わかるようにする」と言うことです。

「わかる」という感覚は、意味を一つに絞ることで得られますからね。

そのためには、各々の解釈を他の箇所の聖句と照らし合わせて、その整合性を吟味したりすると有効です。

上記聖句の例でやってみましょうか。

+++

上記聖句のすぐ後に、こんな話が続きます。

~しかしピリポは「とにかく来て見てごらんよ」という。
「まあ、そんなにいうなら」、とナサニエルは友達ピリポに付いてイエスの方に向かっていきます。
するとこのナサニエルをみて、イエスがこんなことをいっているのです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「これこそほんとうのイスラエル人だ。彼の内には偽りがない」
     (ヨハネによる福音書、1章47節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・



このイエスの言葉は、「ナザレのような遅れた貧しい田舎村から、そんな優れたモノが出るわけない」という思いと、あまり繋がりがないように見えませんか。

他方「救い主は、ダビデの町、ベツレヘムから出るとされている」との聖書預言を踏まえての思いはどうか。

正統なイスラエル人は、常に聖書預言を通して歴史を見ます。

イエスは上記のナサニエルの言動を透視していて、彼にそれを見たのではないでしょうか。

だから「これこそまことのイスラエル人といった」
~という解釈の方が整合性が高いのではないでしょうか。

そこでこの二つの内で一つに絞るとしたら、後者の解読の方が有力な候補となるでしょう。

こうして他の候補を捨て去って、一つを選択していく。
これが解読です。

かくのごとくに多義的だった上記聖句は、一義的な解釈になるのです。

ともあれこのように、解釈をするというのは、「多義的な文を」「一義的にする」ことということもできるのですね。

+++

今回の話の主眼は以上にあるのですが、ここで一つ追加しておきましょう。


では、聖句は何で多義的なんでしょうか?




<聖句文は比喩表現だらけ>

色んな理由が絡み合っているのですが、一つは「比喩」(たとえ)で述べられている話がとても多いことでしょう。




<「見えない世界」の事柄記述が多い>

そうなる理由の第一は、霊界という「見えない世界」の事柄を述べているところがとても多いことでしょう。

聖書は詰まるところは霊界の事柄を知らせる書物ですからね。






<新約聖書>

新約聖書では、イエスが霊界の真理を語った話が非常に多いですよ。

その際、イエスは比喩を多用しています。

聞く人々は霊界のことをそのままいっても理解できませんからね。
これを見える物質界の事柄に投影して語るわけです。

そして別の者に投影して語るとは、すなわち、たとえ、比喩で語ることですからね。




<「女心と秋の空」>

そして比喩は必ず複数の解釈を可能にしますよ。

たとえば「女心と秋の空」ということわざのような文がありますよね。
これを聞くと多くの人は「ああこれは女性の心は瞬時に変わりやすい、といっているんだ」と思うでしょう。

だがそれは、そういう解釈が普及していて、常識化しているからに過ぎません。

原理的には、解釈は複数成り立ちますよ。

まずこれは女性の心を秋の空に喩えた(投影した)文ですよね。
けれど、投影された「秋の空」には色んな面がありますよ。

晴れた日には澄み切ったブルーになる、面がある。

白い雲が加わったらさら美しい、という面もある。

速やかに曇ったり、雨になったりする、という面はその内の一つですよ。
ほかにもあるでしょう。

この全ての面に女性の心は結びつけることが可能です。
こじつけと言われようと、とにかく、結びつけることが出来る。

このように、比喩表現は必然的に多義的になるのです。

上記の常識的解釈は、その内の一つがより広く普及しての結果であるに過ぎません。

比喩の解釈は基本的にいろいろに、つまり、複数出来るのです。




<旧約聖書>

旧約聖書となると、もう全体が本質的に比喩表現となりますよ。
それを示したのが、イエスのこんな旨の言葉です。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖書(旧約聖書)はわたし(イエス)私のことを述べた本なのだよ」
   (ヨハネによる福音書、5章39節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




聖書に関するイエスの言葉は、キリスト教ではもう文句なく受容すべき言葉となります。

だからこれは受容すべきですが・・・、だけど、旧約聖書にイエスという言葉(名)は一度も出てきませんよ。

それがイエスのことを言っているとなれば、これはもう、間接的に別の表現で言っているとしかなりません。

+++

「別の表現で言う」とはすなわち「比喩(たとえ)」でいうことです。
そして、それが詰まるところイエスのことを言っているとなれば、そこに至るには必ず比喩の解釈が入ることになります。

この場合は、「秋の空」のように、「これが投影スクリーンだよ」と明示されていて、「その心を見だしてください」とはなっていない。

比喩表現されたスクリーン自体を見つけ出す、という仕事も含まれていますので、解読は大変です。

が、ともあれこのように旧約聖書はすべて解読の必要な比喩表現にみちている、ということになります。

+++

このように、聖書の中の聖句は、色んな解釈が成り立つ、すなわち、多義的なんですね。

この聖句文の持つ多義性には、もっと含蓄があります。

だが今回はこの「多義的という特性」の指摘でもって終えましょう。









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自由吟味思想を知ろう!

2017年12月08日 | 政治見識のための政治学






創造神理念については、まだ追記することはありますが、同じテーマを続けると飽きます。
今回は話題を変えてみます。




<説教での解釈は間違いでは?・・・>

このところ、とある教会の礼拝に飛び飛びに出席しています。
最初は、一年程前か、次は数ヶ月まえ、そして1週間程まえ。
飛び飛びもいいところです。

そこの主管牧師さんは、鹿嶋のことを著書などでよく知っておられました。
鹿嶋が「深読み」した聖句解読などしていることも、知っておられた。

+++

説教が終わり、献金、祝祷などがなされると、礼拝行事は終わります。

牧師さんは、信徒教会員をはじめ出席者のところを回って、声をかけていきます。

教会を運営するというのもなかなか大変な仕事なんですね。

+++

鹿嶋の所に来られたとき、小さな声でボソッとつぶやいて離れて行かれました。

「・・・今日の説教は緊張しましたよ。先生がおられるんで・・・」

最初はお愛想かも知れないと思っていました。
たが、最近また同じようなことをささやいて行かれました。

「先生、緊張しますよ。“説教した解釈が間違っている”と思われているんじゃないかと・・・」





<自由吟味思想は日本に入っていない>

今回それを聞いて、鹿嶋は考えました。

「日本には、聖句自由吟味主義という思想は、今も全然入っていないんだなあ」と。

この思想を知っていれば、自分の解釈が究極「正しい」とか「間違っている」とかいう思いは生じないのに、と。 

+++

鹿嶋は、聖句自由吟味の思想と活動を初めて書物でもって日本に紹介しました。
ブログでは書いていましたが、紙の本で知らせたのは、初めてでした。

訳書『バプテスト自由吟味者』がそれでした。
その牧師さんも、最近入手しておられました。





だが、今回の「ささやき」で、確信しました。
もし読まれていたとしても、全然わかっておられないんだなぁ~と。

そしてあらためて悟りました。

聖句自由吟味主義というのは、具体的に「どんな風か」を示さないと、理解されないものらしいなあ~と

そこで今回は、例を一つ示してみようと思います。

「ヨハネによる福音書」第1章に記録されている話です。




<ナザレからいいものが出るはずないよ!>

イエスは宣教を始めるに当たって、12人の弟子を迎え入れていきます。

順番に選ばれていく弟子の内の、4番目はピリポです。

そのピリポが是非弟子に、と誘うのが友人のナサニエルです。

ナサニエルは結局は5番目の弟子になるのですが、当初、ピリポから話を聞いた時には次のように応じています。

聖句をみてみましょう~。



・・・・・・・・・・・・
ピリポはナサニエルを見つけて言った。
「われわれは、モーセが律法の中で書き、預言したたちも書いている方に出会ったよ。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」
ナサニエルは彼に言った。
「ナザレから良きものが出ようものか」
     (ヨハネによる福音書、1章45-7節)
・・・・・・・・・・・・・




このナサニエルの態度について、通常は、こんな解釈(説明)がなされています~。

「ナザレのような遅れた貧しい田舎村から、そんな優れたモノが出るわけないじゃないか」とナサニエルは思ったのだ~と。

韓国ソウルでかつて、人類史初の100万人教会を作ったと自認されていた超有名牧師さんも、そう説教をしておられました。




<旧約聖書の預言に照らしてみると>

ですけど、それが唯一の解釈ではありません。
次のような解読も出来そうですから。

つまり・・・ナサニエルは、聖書の預言を意識に於いてそういったのだ~と。

代表的預言の一つは「ミカ書」という旧約聖書のなかの書物の次の聖句ではないでしょうか。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだ。
だが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になるものがでる。
その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」(ミカ書、6章2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 ここで、ベツレヘム・エフラテは、聖都エルサレムの西南方向8キロほどの所にある地です。
地図では、エルサレムのすぐ左下に当たります。

 この当時、寒村でしたが、かつてダビデ王が生まれた町として知られ、別名「ダビデの町」とも呼ばれていました。

この『ミカ書』での「支配者」とは「救い主」を意味しています。
旧約時代、「救い主」とはダビデ王のような強い指導者だと、イスラエルの民は思っていました。

つまり、優れたリーダッシップをもって民を導き、良き支配をする支配者だと考えていた。

(この救い主は実は「人類の罪の代償を創る方」だと明かされるのは、新約聖書の時代です)

『エレミア書』の次の聖句も、これを支持しています。



・・・・・・・・・・・・・
 「その日わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす・・・」(エレミヤ書、23章5節)。
・・・・・・・・・・・・・




そのダビデの子孫から、救い主は出ると預言しているのですね。

+++

ナサニエルは、そうした預言書をよく知っていた。

それを踏まえて「聖書に預言された救い主は、ダビデの町、ベツレヘムから出るとされている」

   ~と確信していた。だから・・・

「ナザレの大工の子だって? ナザレからそういう存在が出るはずがないではないか・・・」

~といったのだ、・・・とこういう解読もできなくはないのですね。

(こちらの解読の、聖句文脈的整合性を吟味すると、自由吟味活動の有様はさらに具体的になるのですが、長くなるので別稿で示します)




<究極の正解は「人間には」わからない>

 解釈はまだあるかも知れません。
だが、ここではこの二つけだとしたら、どちらが正解でしょうか?

その答えは「人間にはつまるところはわからない」となるでしょう。

なぜなら、究極の正解かどうかは、聖書にある全ての聖句と整合しているかどうかをみなければ言えません。

ところが、聖書の論述範囲は膨大で、そこに含まれる聖句の示唆する範囲は膨大です。

これらすべてを論理的に整合させて、その全体系を把握することなど、人間の短い生涯ではとてもできないことです。

だから、ナサニエルのこの言動の解読も、究極的には、どちらが正解かは言えないのです。

+++

これはナサニエルの言動に限ったことではありません。
一般的に、どういう解釈も、それが究極的に正しい、とは人間には言えないのです。

裏を返せば、どの解釈も「それは間違いだとの断定」は人間には出来ないことにもなります。





<聖句解釈自由の原則>


米国南部のバイブルベルト地域では、それを体験的にも踏まえたうえで、独自な方法をとっています。

(実際にはそれはキリスト教発祥の初代教会の方式でもあり、彼らはそれを精神的祖先から2千年にわたって継承してきているのですが)

+++

どういう方法かというと、教会はまず、教会員個々人に聖句解釈の自由を与えます。

個々人はそれを受けて聖句を自由に解読します。様々な解釈が成り立ってきます。彼らはそれらを入念に聖句と照合し、吟味します。

次いでその見解を自分が属する小グループに持ち寄って、相互吟味し合います。
それを通して、他者の解読にも教えられます。

だが、つまるところは、その時点で最も正しそうに思う解釈を見出す。

そしてそれを、その時点での自分の聖句理解として生きていくのです。

これは、後にもっと妥当そうな解読が浮かんだら、それに修正するという前提を含んでいます。

(だから彼らはいつも聖句を吟味しています)

そして、またそれを踏まえて生きていく。

有限な人間はそうやって生きていくしかない、~と彼らは確信しているのです。





<個人の自由吟味を認めるところでは “異端”という思想は出ない>



ここで知るべきは、「この方式では“異端”という言葉は出ない」ということです。

なぜなら、異端とは「正統(究極に正しい)」という考えがあって初めて出る思想です。

だが人間の解釈に絶対正統というのがあるとは彼らは認めない。

だから「異端」という思想は出てこないのです。


この思想、この活動方式がキリスト教の源流で、それは今も巨大な流れとなっている。

これを知ったら、前記の主管牧師さんも解放されるでしょう。

「これが今この時点での俺の解読だ。この解釈が絶対に間違いなどと言える人間は、この世にいないのだ」と確信してのびのびと説教されていかれるでしょう。

余計な懸念に知的エネルギーを使うのは、もったいないことなのです。





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創造神理念は意識を活性化する

2017年12月04日 | 政治見識のための政治学





今回は、創造神という理念を心に受容すると、人の意識は突然活性化を始める、ということを示します。





<自分はなぜ存在するか?>


人間は自分がどうして存在しているか、の答えを渇望して生きています。

難しくいうと自分のアイデンティティを知りたい、となりますがまあ、そんなことは今はどうでもいい。
その答えを得るには、自分を存在せしめた方、のイメージが必要です。

人が生まれて成長した自然な状態では、その答えは自分の先祖です。
ご先祖様が私を産んでくれたので、いま私は存在する~というわけです。

+++

NHKTVに「ファミリーヒストリー」でしたか、そういう題名の番組があります。
有名人の先祖をテレビ局の調査力を駆使して調べ、その物語を示してあげるというのがその内容です。

それまで知らなかった先祖のことを示されると、有名人は涙を流します。

自分の出自(しゅつじ)情報が「以前よりも」増大し、その分、明確化したからです。
出自とは「出どころ」をいいます。


+++

でも、先祖というのは究極の出自イメージにはなりません。

その先祖が「どうして生じたか」の疑問が残っていくからです。
これはやってもやっても残っていく。

先祖を無限にたどることはできないからです。
先祖という存在自体が、有限なものだからです。





<被造物には「初め」がある>

では、そうした疑問を残さない究極の出自イメージはあるのか?

聖書の持つ「万物の創造神」という理念がそれです。


聖書での創造神は、「父なる創造神と御子と聖霊」を言っています。
そういう三者が一体となった神でして、聖書神学ではこれを三位一体といっています。

わかりにくいところはありますが、とにかくこの創造神が「万物を」創造したと聖書は示しています。

創造されたものは被造物です。
そして被造物にはすべて存在の初めがあります。

創造されたその時点が「初め」です。




<創造神に「初め」はない>


他方、創造神には存在の「初め」はありません。

もし存在に初めがあるならば、それ以前のものは「オレが創った」といえないはずだ。
だったら、「万物の」創造神とはなりません。

(未来についても、同様なことがいえます。ある時点で存在が終わったら、創造神はその先に現れうるものは「オレが創った」といえないはずだからです。つまり創造神は「時間的無限者」なんですね)





<創造神だけが存在した期間がある>


さて、初めがないならば、その方は、「永遠の過去」無限の過去から存在していたはずとなります。

すると、万物が創造される前には、創造神だけがいたはずだ~となります。

つまり、創造神だけがいて、他の何者も存在しない時代が、まず、無限の過去から続いていたことになる。

この「創造神」には、「その前は?」という疑問は生じません。
だって、無限の過去から存在し続けてきているのですからね。
この方については「その前」というのはなくても筋が通るんですね。

+++

そしてあるとき被造物が創造された。

そしてこの被造物の中にわれわれ人間もいる、ということになります。




<話を戻すと>
 

話を戻しますと、その人間は、生まれて成長した自然なままでは、自らが究極にはどこから出たのかわからないでいます。

何かわからないけれど「まあとにかく存在している」と漠然と感じるなかで暮らしています。

つまり、出自イメージがはっきりしないなかで生きている。

そうしたなかで人の心は、上記したように自分の出自イメージの明確化を渇望しているわけです。




<創造神理念の導入>

そこに万物の創造神という理念が入るとどうなるか。

今述べたように、この神理念は、もうそれ以前のものはないという、存在者の理念です。

さらに、「創造」神ですから「人間も創造した」神となります。

けれどもこの「創造した」というのが、従来具体的、物理的にイメージできなかった。

「先祖が私を産んだ」というように具体的な概念にはならなかった。





<量子物理学の恩恵>

けれども、量子力学の出現で物理的なイメージが可能になりました。

量子物理学は、存在の根源が波動であることを明かしています。

そのことが、創造神がバイブレーション(波動)の発生源らしい、という聖句解読を可能にしてくれます。

創造神から放射される波動は、凝集するとその部分は粒子になるでしょう。
(その粒子は、凝集しなかった部分の波動を、引き連れています。土星の環のようにイメージしていいでしょう)

その粒子が、従来物理学でいわれてきた物質の構成要素になっている。

こうなると、人間の霊もその超微小な粒子でできているとイメージすることができてきます。

もちろん、肉体も微粒子でできています。

+++

すると、人間も創造神の放射する波動によって「創り出されている」「産み出されている」とイメージできる。

短くいえば、創造神が親や先祖が人間を産むのと同じように、人間を生んでいることになるんですね。





<究極の「出自イメージ」>



こうなると、創造神はわれわれの存在の源となります。

この源は、先祖と違って、究極にして不動です。

そしてそれを我々の出自イメージの親(源)と認識すると、人の意識は安定し、はっきりしてきます。

それはこのイメージを100%事実だと信じない状態でも、有効に働きます。
イメージとしてもっているだけで、一定の働きをしてくれるのです。

出自意識に究極にして不動な根拠を与えてくれるからでしょう。




<堀越師による教会成長の構造>


前回に述べた、堀越牧師の教会成長の鍵もここにあったと思われます。

堀越師は、量子物理学の知識ではなく、人間の身体を素材にされました。

普段当たり前に思っている身体の仕組みが驚異的な知恵で造られていることを入念に示しました。
それを通して創造主のイメージを、詳細、明確に示された。

幼稚園児のお母さんたちに丁寧に説明された。

そうしたら、お母さん方の意識は突然ハッキリした、シャンとしたのです。

「統一感、一体感、まとまり感」が突然増した。

心身ともにわたっての「まとまり感覚」です。

この自己統一感を持つことは、爽快で気持ちいいものです。

+++

堀越師は、その上に、バイブルの存在観知識を積み重ねるのを助けていかれました。

一つ一つ、丁寧に積み重ねていった。

するとお母さんたちの人生が「何故か楽しくなった・・・」。

~それを見て、また噂を聞いて、ほかの人々もやってきた。

これが堀越師による二つの教会(四日市長老派教会と創愛キリスト教会)成長の鍵だったのですね。






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