鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

知識の実を食べるのも計画の内?

2005年10月10日 | 「考える宗教」へ
                  




 前回、悪魔関連のことは、アダムの時代、イエスがこの世に生誕する4000年前に、
決まっていた、と解読してみました。
ところが、この悪魔関連の事件に、人間が絡んでいます。
そうするとなんと、人間のことも、すでに決まっていたことがありそう、となってしまいます。

 だから、聖書は面白い。
が、とにかくこれについて、さらに考えてみましょう。


                    

 悪魔がイエスを十字架刑で殺さざるを得なくなるようになっていくのが、
4000年前に決まっていたと言うことは、これに関わることもそれ以前に決まっていたことになっていきます。
そして、人間はこの事件に不可欠なかかわり、役割をはたしているんですね。

 悪魔は、なぜ、イエスを亡き者にせざるを得なかったでしょうか。
それは、イエスが人の子としてこの世にきて、人間に天国の言葉を伝え、天国と同じ空間を作っていったからでしょう。
それまで、この世は全面的に悪魔の支配下にありました。

 悪魔はこの世(宇宙)の支配者でした。
そこは自らが閉じこめられた牢屋でもありましたが、悪魔はその牢屋の牢名主のような存在でした。
世の支配者でした。

 そこに、イエスが福音を伝え、それを受け入れる人の群れができた。
するとそこは、天国と同じ性質の空間となります。
こんな空間を自分の世界に作られていくことは、悪魔はその本性からいって、放置できないんですね。
だから殺さざるを得なくなっていきます。


                    

 ここを、よく考えてみましょう。もうここに人間が絡んでいます。

 そういう状況ができあがるには、
人間が、悪魔の支配下に組み込まれている、という状況がなければなりませんよね。
では、どうして組み込まれたかというと、アダムとイブがだまされて知識の木の実を食べたからでしたよね。
そういう風に創主の命令に沿わなかったから、すなわち、罪を犯したからでした。
こうして悪魔と同じ、罪ある者となったからですよね。

 それがなかったら、イエスが「天国と同質の空間を広げていく」ということは起きえないわけです。

 すると、さらにこういうことは考えられませんか?
 アダムとイブが、知識の木の実を食べるのも、すでに計画されていた、決まっていたのではないか、と。

 まさか! と思います。
 けれども、まあ聖書のこのあたりを読み返してみましょう。



                    

 この観点から、二人が木の実を食べる前後の状況を、聖書ではどう書いているか、注意深く読み直してみる。
すると、こういう聖句が気になってきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「こうして、創り主は人(アダムとイブ)を追放して、いのちの木への道を守るために、
エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた」(創世記、3章24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 ここで「いのちの木」というのは、
これを食べたら霊のいのちエネルギーが補充される、というようなものではないでしょう。
それだったら、不完全充電になった人の霊は、これで、完全充電化されることになります。
ということは、罪ある者から、罪ななき存在にまたもどることになりますが、
それだったら、人間は食べたほうがいいですよね。

 だがそうではない。聖書の筋から言って、これは~
「食べると、霊が不完全充電になっても肉体は死なないようになってしまう木」
と解すべきだと鹿嶋は考えます。

 これは人間にいいことか? 逆でしょうね。 
霊が不完全充電になった人間の肉体は、悪魔におそわれうる、弱い存在です。
おそわれたら病になったりして苦しみます。
それでも肉体は死なない、となれば、もう人間は永遠に拷問を受けて苦しめられる存在になってしまいます。

 人間にとっては、霊が不完全充電になったら、
肉体はあるとき循環運動を停止する(つまり死ぬ)ようになった方がいいのです。
そうしたら、霊はそれから抜け出て、拷問を受け続けなくてもよくなるのですから。

 だから、これを食べさせないように創主はした、とみるべきでしょう。
 
 創主は「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置いた」と聖書は記しています。
ケルビムとは、天使の一種とみていいでしょう。天使は力ある霊的存在です。
それに炎の剣が置かれていたら、いのちの木に至る道はふさがれてしまう。
こうして、アダムとイブは食べたくても食べられなくなったわけです。


                    

 この聖句を、われわれは、ああそうか、と読み流しがちです。
 だけど、ちょっと考えましょう。

 「創り主は、そういうことが出来るんだ・・・」と。

 だったら、だったらですよ、
「知恵の木の実」の前にも、それらをおいたら二人は食べなくてすんだはずですよね。
そうすることが出来るにもかかわらず、創主は「知恵の木の実」については、それをしなかった。
全然ブロックしなかった。

 しなかったらですよ。二人が食べるのは当たり前じゃないですか。
イブは悪を知らないんですよ。悪魔に誘導されるのは当然でしょう。
アダムはイブを深く、深く愛しているのですよ。
イブが食べてしまったら、自分だけ食べないでいることは出来ないでしょう・・・。


                          

 そんなことが、創り主にわからないはずはありません。
 なのに、なのに、創り主は、その前にはケルビムと火の剣を置かなかった。
これは、食べるようにしておいた、と考えるほかないのではないでしょうか。

 食べて、つみびととなって、人間が悪魔の支配下に置かれてしまう。
そういう舞台が、そこにイエスが天国の空間を「作っていく」のに必要だったのではないでしょうか?

 つまり、これも、「決まっていた」
 そういうことにならないでしょうか?


                    





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