前回のようなこと(輪廻:生まれ変わりの可能性)を鹿嶋がこう言うと、それをとがめてくださる教職者がこれまでのところ多いです。
とんでもなぁ~い、~~と。
「だったら、福音を聞いて信頼して救われた人の霊が、誰かの胎児に入って生まれ変わって、そこで福音が聞かれなかったらどうなるか。聞いても信じなかったらどうなるか。彼は再び救われない霊になってしまうではないか」~~と。
「輪廻があるとすると、そんな理不尽が生じることになる。
聖書は、一度福音を信頼したらその人(の霊)は救われる、としている。
それに反するから、輪廻があるという解釈は、聖書に反するのだ。
とんでもなぁ~い!」 ~~と。
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で、鹿嶋は要注意人物の目で見られたりするんですが、その都度、世の中どうしてこうも早まってものを判断する人が多いのか、と痛感しています。
心霊科学に『ブルーアイランド』ハート出版、という研究成果の本があります。
そこでは、死んだ人の霊とこの世で生きているその娘との交信記録が書かれています。彼は確か新聞記者だったと思いますが、タイタニック号に乗っていた。そして、映画にもなった例の沈没事件で死にました。
そのお父さんは、福音を信頼しない、いわゆる「救われてない人」でした。
彼がいうには、「自分は(霊として)肉体を抜け出し上方に向かった。地球を離れて、上昇していったら、美しいブルーの層があった。いまその世界にいる」、と。そして、「自分のいる層の、さらに上にもっと輝いている層があるようだ」ともいっています。自分はそこには行かれていないけれど・・・と。
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鹿嶋は、その輝く層が聖書の「パラダイス」であるとすると、筋が通るかなあ、と思っています。どういうことかといいますと、パラダイスはイエスを信頼した人が行くところですよね。つまり、救われた人の霊が死後に行くところ。
そして、そこに行った人はもう、地上に生まれ変わってくることはない、ということでしたらどうでしょう。牧師さんが心配するような事態は起きないことになるんですね。イエスの言葉を信頼した人(の霊)は、もう、地上にきて人生を送ることはないわけですから。
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生まれ変わる霊は、生前、福音を聞くチャンスがなかったり、聞いても信頼しなかった霊たちのみ、という状況ですね。彼らはブルーアイランド(他にもあるかもしれないが、パラダイス以外ならどこでもいい)にきて、そして、また地上に生まれ変わる。
そして、救われないで死んだら、また、ブルーアイランドに来て、しばらくしたら生まれ変わる。そして地上に住んで救われたら、死後その上のパラダイスにいって、それっきり生まれ変わらなくなる・・・。
こういうことなら、一旦救われた霊が、再び救われない霊になってしまう、~~といったことは起きないわけです。
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以上の状況でも、すべての霊に福音を聞くチャンスが与えられるようになります。心霊科学での輪廻を推測させるデータは万を超える数あるようです。現時点では鹿嶋は、上記のようになっているんではないかなぁ~と漠然と思っています。
以上がLazy-catさんの疑問に関して、鹿嶋が考えていることです。
かいつまんでいいましたので説明不足あると思います。
あるいは、もっと他のアイデアもあるかもしれません。
ご意見、質問あれば、ご自由にどうぞ。
>心霊科学に『ブルーアイランド』ハート出版、という研究成果の本があります。
そこでは、死んだ人の霊とこの世で生きているその娘との交信記録が書かれています。
お聞きしたいのですが、こういう心霊現象は「悪霊の惑わし」である可能性もあると思いますが、それについては、いかがでしょうか?(つまり、「死んだ人の霊」だと思ってていたのは、実は、悪霊がなりすましているものだった、という考え方です)
疑問がわきましたので、大胆にも質問させていただくことをおゆるしください。
鹿嶋先生の述べられてる輪廻とは、イエスキリストを信じることにより輪廻から脱却でき救われるという考え方と認識しました。しかしながら聖書を読んでいますとヘブル人への手紙9章27節では、一度だけ死ぬこととが、人間には定っていると書いてありますし、またペテロ第1の手紙3章19節では、輪廻せず獄にとらわれた霊の存在とその存在に対して福音が述べ伝えられたと書いてあります。またイエス様が盲目の人について弟子たちから盲目に生まれついた原因をたずねられたとき、この人の罪ではなく神のみわざが現れるためであるとおっしゃってます。以上3箇所は先生の輪廻説と矛盾するのではないでしょうか?
お教え願います。
spockさん
そうですねぇ。聖書ってホントに多様ですねぇ。
こういう風に聖句を小グループを組んであれこれ探求できたら、どんなにいいかと思います。日本でもそういう風景があちこちに見られたら素晴らしいんですが・・・。
鹿嶋の意見を輪廻説と言ってしまうと、少しニュアンスが違ってきます。あくまでも「・・・でないかなあ」と漠然として思う程度の仮説ですから。
そして、こういう風に、難しいところは断定しないでおいておくことがとても大切に思います。そうすると時間がたつとあるときまた新しい解読が出てくるんですね、不思議なことに・・・。断定するとそれがなくなります。
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ヘブル9章27節には、たしかにそう書いてありますねぇ。でも、この聖句自体に対してもまた、色んな解釈が可能になるかも知れません。鹿嶋はサザンバプティストの教会で、夢にも思わなかった「あっと驚く解釈」に時々出会いました。
ペテロの手紙3章19節は、全員が必ず規則的に生まれ変わるというのではないかも知れない、とか、ノアの箱船が造られる時代に死んだ不従順の霊については、そういうプログラムがあったのでは?、とか色々考えられましょう。
弟子たちがイエスにその原因を尋ねた時の、盲目に生まれついた人については、このときに生まれ変わって何度目かの人生だった、としても話は通るのではないかなぁ、とか。
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さらに、さらに・・・、死んで霊になってからでも福音を受け入れて救いにあずかるチャンスがある、となると、平安時代の日本人は福音など聞けなくて、それで救われないとなったら不公平じゃないか~~といった不満もそもそもなくなりますね。生まれ変わらなくても福音に触れられたらみんな平等になります。
このチャーチの「ヨハネ伝解読」ヨハネによる福音書11章25節の解読では、死後にもチャンスありという解読が成り立つということになりましたよね。だったら生まれ変わりなどなくても、「救い」のチャンスは平等となる可能性が出ますよね。
いやぁ~聖書ってホ~ントに面白いですね。
追記です。
聖書でわかりにくいところ、矛盾が消え去らないところは、一応の仮説を出しながらも、根底的にはそのままにしてやっていく~~という呼吸は、聖句探求主義のエッセンスだと思います。
他方、その仮説を断定的なものにしないとやって行かれない、という気質の人は教理主義者になりやすい方だと思われます。
もうひとつ~~輪廻というのは仏教用語ではないかな。そしてそこでは生まれ変わりは動物になる場合も考えられているのではないかと思います。
鹿嶋の「生まれ変わり」仮説にはそういうイメージはありません。もちろんその意味で輪廻という言葉を使うこともよくありますが。
新約聖書をまだ全部を通読したことのないものですが(旧約聖書はもっと読んでいません。これからこのサイトのおかげで読んでいこうと思う気になったところです。ありがとございます。)いろいろ質問させていただきます。汗;
聖書の中に鹿嶋先生のおっしゃるような「輪廻または生まれ変わり」を肯定的に示唆する箇所は、あるのでしょうか?
無ければそのことについては(つまり一度だけの人生か、あるいは輪廻生まれ変わりがあるかという点については)聖書にはわかりにくいところ、あるいは矛盾は無いと思うのです。つまり生まれ変わりは無いと断言されているように現時点では感じます。感じますっていうのは変な表現ですが、それはヘブル人への手紙9章27節の解釈が変わるかもしれないからってことにしておきます。
またそのような考えを抱くようになったときの根拠として死者との通信(霊媒?)のようなものを取り上げておられますが、その行為は神様の忌み嫌うものであると記憶しております。その死者の話を使用して、聖書の解釈の一助にしようとするのに抵抗感を覚えますが 、そのあたり先生はどう思われてるのでしょうか?ご意見お聞かせください。
Spockさん
なにやら鹿嶋を教育してくださる気配・・・。
聖書もかなり読んでおられるようですね。
有り難いですが、ここでまずご身分を明かしてください。実は鹿嶋が知ってる方かな?
また、ご自分のHPかブログをお持ちならば、お知らせ下さい。訪問します。
ここではまずい場合は、下記にメールしてください。他の方も込み入った話に入りそうなときにはそうして下さっています。
(shunpeita@nifty.com)
教会は約3年前まで通っておりましたが、今は通っておりません。ただの信徒であります。鹿嶋先生のサイトをみて、教会に再び行きたくなり感謝している次第です。聖書もあんまり読んでませんし祈りもほとんどしてませんでした。鹿嶋先生のサイトを拝見しだしてから、読んで祈るようになってます。ありがとうございます。 夢中になってむさぼるように本サイトを読ませていただいてました。鹿嶋先生にはキリスト教の師匠という感じで手引きをしていただきました。 ところが生まれ変わりのところを読み出して疑問が生じたわけで率直にお尋ねさせてもらったわけです。 他意はありません。メールには私の身分といいますか、顔見知りでもなく、ただの民間人であるところを書きました。
実を申しますと、私も以前に生まれ変わりがあり、イエスキリストを信じたら解脱できる(生まれ変わりの繰り返しから解放される)と考えていた時期があったのです。 この世の生まれた環境の不公平とか個人の生まれつきの能力差とか、神は偏り見る方ではないなら、なぜこれほどまで違うのかって思い、また福音の機会に恵まれない人はそのまま滅びるのかとか、いろいろこのちっぽけな頭脳で思い巡らしていました。けれでも次第に生まれ変わりはないという考えになって、すっきりしていたところなので、思わず投稿してしまいました。
Spockさん
自己情報有り難うございました。
背景、よ~くわかりました。
このような確認をせざるを得ない状況に、今の日本の福音界は残念ながらあります。鹿嶋を異端とか、異端の教職者と交流があるとか触れ回す人がいるんですね。わざわざ福音関係の新聞社にご注進してくれた教職者もいます。そういうのをキリスト教の看板かけてやるんですね。鹿嶋の印象では日本ではむしろ、教職者に困った人が多いです。
そういう人に微妙な件での意見を言うと、それを根拠にしてまた煩わしいことをする可能性がありますので、やはり相手の確認は必要なのです。ご理解下さい。
メールでの情報もありがとうございました。安心しましたので、このあと何回かにわけて、乏しい知識の中から応対させていただきたく思います。少しお待ち下さい、中村さん。
Spockさん
~~まずはこれから。
>聖書の中に鹿嶋先生のおっしゃるような「輪廻または生まれ変わ>り」を肯定的に示唆する箇所は、あるのでしょうか?
~~鹿嶋が気になるのはこんな聖句(マタイ:17:10~13)です。
「弟子たちはイエスに尋ねていった。『いったい律法学者たちはなぜ、エリヤが先に来るはずだといっているのですか』
イエスは応えて言われた『たしかにエリヤが来て、万事を元どおりに改めるであろう。しかしあなた方に言っておく。エリヤはすでに来たのだ。しかし人々は彼を認めず、自分勝手に彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう』
その時弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。」