鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.256『 天の愛でも最大のものをこれから示すんだけどね・・』(15章13~14節)

2009年05月31日 | ヨハネ伝解読
イエスの遺言は続きます。

BGMは今回もmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)


本日の聖句はこれです。


                     

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「友のためにいのちを投げ出す以上に偉大な愛はないんだよ。
諸君が私が命じたことをするならば、私の友だよ」(15章13~14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


まず「友のためにいのちを投げ出す以上に偉大な愛はないんだよ」から。


 前回の聖句(15章12節)でイエスは「私が諸君を愛した愛でもって愛し合いなさい」と命令しました。

その愛は、天の愛(グレース)であって、報酬を考えることなく一方的に与えるものでした。

次いでイエスはここで、その愛の中でも、最大のものは、
「自らのいのちを友に与える」ものだよ、と言っています。


                    

このいのちは、肉体のいのちですね。
この世では、人は肉体をもって生きています。イエスもそうです。
そしてこの世では、人が一番大切にするのは、生命でしょう。

「命あってのもの種」といいます。
肉体の生命があってこそ、「この世では」何かがなせる。
生命がなかったら、したいことも出来ないのです。

 その一番大切なものを犠牲に捧げるというのですから、
それは最大の愛となる道理なのでしょう。
(前回述べた三島事件は、このフォルムを日本人の心に
刷り込もうとして三島由紀夫が実施したコンテンツでした)

        
                    

なぜ突然こんなことをイエスは言うのでしょうか。
理由は次の14節の聖句に暗示されています。

 「諸君が私が命じたことをするならば、私の友だよ」(14節)

「命じたことをするならば」とイエスは言っていますが、
弟子たちは、間違いなくするようになります。
創主の子であるイエスの言葉には、創主の言葉に対してそうであるように、
被造物は結局は従うのです。

だから、弟子たちはイエスの命令どおりに行動します。そしてイエスの友になります。

 その友のためにイエスはこれから肉体のいのちを犠牲に捧げるのです。
そして、最も偉大な愛を示すのです。

でも、この時点での弟子たちには、それはほとんど想像できません。
まもなくイエスは、凄いことをします。
だがそんなこと具体的に予想するなど、弟子たちには到底できないのです。

だからイエスは、そのことを
「友のためにいのちを投げ出す以上に偉大な愛はない」
という言葉でもって暗示するにとどめていると思われます。

+++

蛇足ですが、だけどヨハネはこの事態を記録しているんですよね。
彼にはイエスの言葉が意味するおおむねはわかっていたんではないかなぁ。
具体的な方法はイメージ出来ないにせよ・・・。


                    



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Vol.255『天の愛で愛し合うんだよ』(15章12節)

2009年05月24日 | ヨハネ伝解読
イエスの遺言は続きます。

BGMは今回もmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「さてこれは私の命令だよ。私が諸君を愛してきたと全く同じように、
諸君は互いに愛し合いなさい」(15章12節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    



 これまでにイエスは弟子たちに
「諸君がわたしの命令を守れば、私の愛の中に(しっかり)とどまることができる」(15章10節)といい、
「そうすればイエスの喜びが弟子たちの内にも(しっかり)と宿る」(15章11節)といいました。

それを踏まえて、イエスは具体的な命令を与える、それが今回の聖句です。
イエスは「自分がこれまで愛してきたのと、全く同じように諸君も互いに愛し合いなさい」と言っています。

「イエスが愛してきたと同じように」とはどういうことでしょうか?


                    


そこには愛にも「天の愛、と、世の愛」とがあるという思想が背景になっています。
そして、イエスがそれまで弟子たちに注いできた愛は「天の愛」だということを意味しています。
イエスの愛は、天の愛、創造主の愛なのです。

イエスは父なる創主の命令を守ることによって、創主の愛を自らにも持つようになっているのです。
その愛は、この世の人間が産まれながらに持つ愛とは違います。
人間生来の愛は「世の愛」であって、
それは例えば相手が愛でもって応えてくれることを期待するものです。
その愛は、応えてくれないとわかり、もう応えられる期待はできないとなると、出てこなくなります。
それ故、世の人間は敵を愛することは出来ません。
敵は愛しても愛でもって応えてはくれませんから、世の愛の感情は流出してこないのです。

ところが、天の愛、創主の愛は、一方的に与えるだけの愛です。
これをアガペの愛ということもあります。英語ではグレース(grace)といっています。

その愛は、敵に対してさえも流出してくる愛です。
それがイエスの内から流出してきたので、
彼は自分を十字架にかけて、侮蔑の言葉を投げかけている人間に対しても
「父よ彼らを許してください。彼らは自分が何をしているかわからないでしているのです」
と祈ることが出来たわけです。

イエスが「私が諸君を愛してきたように愛し合いなさい」という時の愛は、そういう愛であります。
そういう「天の愛」で弟子たちが互いに愛し合うことを求めています。
そんなこと弟子たちに可能でしょうか?
そんな愛が、弟子たちの心の内に生じるでしょうか?


                    


それはイエスの命令を守れば生じることになります。
イエスは「諸君がわたしの命令を守れば・・・・・私の喜びが弟子たちの内にも(しっかりと)宿る」
(15章10~11節)といっていましたよね。

同じように、命令を守れば、イエスに同化した弟子たちの内には、イエスの愛も流れ込んでくるはずです。
イエスが父なる創主の命令を守ることによって、
創主の内の「天の愛」がイエスの内にも存在するようになっていると同じように、
弟子たちにも存在するようになる道理です。

そうなれば弟子たちは、もうイエスが彼らに注いだ天の愛で、
互いに愛することが出来るようになります。
今回の聖句は、イエスの命令を守って、そういう能力が
弟子たちの心の内に形成されることを踏まえてのものです。
それを踏まえて、
イエスは彼らに「自分が諸君を愛してきたように(天の愛で)愛し合え」といっている。
そして、命令を守れば、弟子たちはこういう愛で愛し合うことが出来るのだから、
「これは命令だよ」と言うことになるのですね。



                    


これは一つの奥義だと思われます。
ヨハネは、信徒に対する手紙でもその奥義を伝えています。

 「・・・創主の命令とは、御子イエスの名を信じることと、
我々が互いに愛し合うことです」(ヨハネの第一の手紙、3章23節)

~がそれです。
いうまでもありませんが、彼はここで「自分たちが(天の愛で)互いに愛し合う」のは、
奨励ではなく「創主の命令」だと伝えています。


                    





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<臨時版>『三島事件を知っていますか?』

2009年05月17日 | ヨハネ伝解読
                    

先回、イエス信仰者がローマの競技場でライオンに食い殺される時、顔に悦びが溢れていた、
それは恐怖を「創造主の完全な悦び」が優越したからだ、と申しました。

同種の状況を描いた聖画に、「聖セバスチァンの殉教」(ソードマ作)があります(写真参照)。
三世紀末のローマ帝国で、時のローマ皇帝ディオクレティアヌスの若き親衛隊長だった
セバスティアンがイエス信仰者として殉教する様を描いた絵です。

密かにクリスチャンを助けていた親衛隊長を皇帝は激怒しました。
帝は、親衛隊長を取り囲んで矢で射殺すように命じます。
聖画は裸の身体に矢を打ち込まれたセバスティアンに、
恐怖を凌駕した喜びの表情が現れているのを描いています。


                    


さて戦前の日本に、この絵に異例な衝撃を受けた感受性豊かな少年がいました。
平岡公威少年、後の作家・三島由紀夫です。

彼はその絵から「崇高な価値を感じられる存在」をもつ国家社会を西欧に感知しました。
そして国民がこういう精神的存在を持たないと、
社会・国家は軸のない状態になって崩壊すると考えました。
戦後日本の進路に、それによる崩壊の危険を強く予感しました。


                    


彼は日本を深く愛していて、その将来を憂えました。
そこで人気作家としての知名度と、得意の文章力を総動員して、
この「崇高な価値を感じられる存在」を日本民族に創ってあげようとしました。
彼の情熱はエスカレートしました。
革命を起こして憲法を改正し、こういう存在を国家に置くことを合法的にしようとしました。

西欧の「崇高な価値を感じられる存在」はイエスでした。
聖セバスティアンの聖画は、それが「自らの肉体的生命以上に価値ある存在」
になっていることを示していました。

三島はそれを一つのフォルム(型)として認識しました。
フォルムなら、他国にも移植することが出来ます。
日本のイエスを造ればいいことになる。
彼はこのフォルムの日本での内容は天皇以外にないと断じました。


                    


このフォルムを日本に実現するために、彼は日本を天皇親政の国家にしようとしました。
そこではみな天皇を「自己の肉体的生命以上の存在」と意識して生きるのです。

そのための革命に展開することを念じてとった彼の行動と、それによる一連の事態がいわゆる三島事件です。
1970年(昭和45年)11月25日のことでした。

彼は私財を投じて創設した小軍隊「盾の会」のリーダーを率いて、
市ヶ谷にあった陸上自衛隊駐屯地の総監室に突入しました。
総監に陸軍決起の命令を発するよう説得したがなりませんでした。
そこで総監室のバルコニーの下に集まった自衛隊員たちに革命の必要を演説し、
割腹自殺して果てました。

(2階のバルコニーから自衛隊員に演説する最後の三島由紀夫。
クリックすると写真が見られます)

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/38/2fc27f6095da57d123acfed366f68598.jpg


総監室の床には、彼及び彼と死を共にした若き隊員の頭が胴体と離れた位置に転がっていました。
彼らは武士道の作法に則った割腹をしていたのです。
腹を切ると同時に、介添人が首をはねるというのがその作法でした。


                    


有名作家の割腹自殺は、日本中に衝撃を与えました。
だが、この画期的事件は死後時がたつにつれて忘れ去られてきています。
もう若い人は、知らないんではないかなぁ・・・。


                    


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Vol.254『命令として受ければ私の完全な喜びが宿るよ』(15章11節)

2009年05月03日 | ヨハネ伝解読

十字架死を直前にした、イエスはこれまで述べなかった奥義を次々に遺言いたします。

今回は15章11節です。

BGMはmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)


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=聖句=
  「私がこれらのことを話したのは、私の喜びが諸君のうちにも宿り、
こうして諸君の喜びが完全なものになるためだよ。」
(ヨハネによる福音書、15章11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


これは、人間の心の内にある悦びに関して述べた奥義です。
イエスはここで、完全な喜びはどうしたら得られるかを説き明かしています。

聖句の言葉を追いましょう。

 まず、「私(イエス)が話したこれらのこと」とは前回話したことです。
それは「イエスの言葉を命令として受けて従いなさい」でした。
今回のポイントは、「そうするとイエスの喜びが諸君のうちにも宿るよ。それは完全な喜びだよ」です。

これには二つの理解が要ります。まず、イエスの喜びが完全な喜びであることの理解です。
ここには父なる創造主の内にある喜びが、完全な喜びであるという思想が背景にあります。
創造主は意識のベースが喜びそのものな幸福な方である。
またその完全な喜び、幸福を被造物たる人間に与えよう、与えようともしておられる方でもある。
~これは聖書の根底にある思想です。
これがなかったら、聖書の論理構造は成り立ちません。

もう一つは、創主のその喜びそれがイエスの内にも宿るようになっていることの理解です。
なぜか?
それはイエスが創主の命令に従っているから、となります。
一般に命令として言葉を受けて、それに従えば、思いも行動も命令者と同質・同じになります。
すると両者の間に同一化、同化が起こります。
行動のみならず精神的・霊的にも同一化が起きます。


                    


イエスが命令に従っているのは父なる創造主に対してです。
こうして精神的に創造主と同一化すれば、その方のうちにある完全なる喜び、幸福にも同一化できます。
「乗り移る」という言葉がありますが、その言い方を使うと、創造主の完全な喜びも乗り移ってくるのです。
かくして、イエスのうちには創主の完全な喜びが存在している、という道理になります。

弟子の内に完全な喜びが宿る論理も、これと同じようにして理解できます。
弟子たちがイエスの言葉を命令として受けて、すべてに従います。
そうすれが彼らはイエスと同一化して、そのイエスの内にある喜びにも同一化できます。
でそのイエスの喜びは、創主からイエスのうちに移入してきている完全なよろこびです。
だから弟子たちのうちに「完全な喜び」が宿るよという道理になる。
今回の聖句は、それを述べたイエスの教えです。


                    


イエスの言葉を、お話として理解しているだけではそれは起きません。
人は命令として受けないと、理解できないところには従うことができないのです。
ということは、同一化していないことですから、イエスが創主から得ている
「創主の完全な喜び」も弟子の内に宿ることは生じない道理になる。


                    


なんと論理的な教えでしょうか。春平太は驚嘆します。

そして、その法則は現実に実現しました。
イエス信仰者への迫害が激化したとき、彼らの多くは拷問を受け殺されれました。
競技場で観衆の見ている前で、ライオンに生きたまま食い殺された者もいました。
ところがその状況でも、彼らの顔には悦びが溢れていました。
肉体が食い割かれる恐怖を、「完全な悦び」が優越したのでした。


                    





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