鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<臨時版6>『パウロは「別枠」か』

2010年05月30日 | ヨハネ伝解読
 臨時版が続きますが、パウロという人につきもう少し吟味しておきましょう。
人間の健康と病の癒しに対する、創造主の基本スタンスをどう理解するかに関わる重要なテーマだからです。

(右上に、文字を大きくするクリックがあります)

                    

<パウロという器>

彼は聖書(旧約)に精通し論理マシンと言ってもいいほどの天才的知力に恵まれたユダヤ教徒でした。
僧侶ではなかったが、ユダヤ教のために現場の前線で働く軍曹のような人でした。


                    

 <パウロが受けた扱い>

その彼が、部下を幾人か連れてエルサレムで宣教するイエス信頼者たちのところにやってきます。
部下たちはステパノ執事を石で撃ち殺していく。その彼らが働くために脱いだガウンの番をパウロはしています。

ステパノを殺し、キリスト教会を荒らし、家々に踏み込んで信徒を捉えて牢にぶち込んだのち、
彼は北方のダマスコという町にまたイエス信仰者を捕らえに向かいます。
ところがその途上で天からすさまじい光を受け目が見えなくなってしまう。
そして上方からイエスの「パウロ、パウロ、私は君が迫害しているイエスだ」との声を聞きます。

彼は他の人々に手を引かれてダマスコに着き、盲目のまま三日間飲まず食わずで祈って暮らす。
他方、イエスはアナニヤという弟子に「パウロのところに行って彼に手を置きなさい。
手を置かれると目が見えるようになる、という幻を彼に与えてある」といいます。
で、アナニヤが行ってそうすると、「パウロの『目から鱗のようなものが落ちて』見えるようになる
(「使徒行伝」9章18節)。
そして彼はバプテスマを受けます。


                    

<天使が使われている>

クリスチャンにはよく知られた場面ですが、これは通り一遍に読み過ごすところではないと鹿嶋は思います。
なぜか? ここでは天使が働いているからです。
パウロに壮絶な光を食らわせたのは天使でしょう。天使は、火にも風にもなる力ある霊です。
イエスとして声を聞かせているのも、あるいはエホバ天使かも知れない。

 天使は、目的を与えられたら脅しでも何でもやるという戦場での軍人のような霊です。
この天使が、信徒が一般人に宣教する時働いてくれたら、伝道はどんなに楽になるでしょうか。
日本人などは特に、聞いていて「おまえ、頭がおかしいのではないか?」と嘲笑するでしょう。
そのときすかさず、天使が天国や地獄の様子を明確な幻でもって示したらどうなるか。
さすがの日本人も、イチコロ。仰天して悔い改め、残らず信じるでしょう。


                    

<福音伝道の基本ポリシー>

 ところが、イエスは人間への福音伝道を人間にさせて天使は用いないのです。
脅しや強制で回心して救われる人間を求めていないからでしょう。

福音を伝えられ、自ら自由意志でもって受け入れた人間だけを求め、
受け入れないものは悪魔と一緒に処分するというのが、イエスの基本ポリシーなのです。

なのに、パウロには天使を使っている。すさまじい強制力を用いています。
この伝道は、例外的なものです。

理由には~

「(パウロは)イエスの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ『選びの器』である」(9章15節)

~といった聖句あたりが相当するかも知れませんが、とにかくパウロへの伝道には「禁じ手」が使われている。
やはり一般人とは別枠の人間として扱われる人ではないか。

他にも、理由は浮かびます。ステパノは聖霊に満たされて働いていました。
それを撲殺するとは、ある意味では聖霊に逆らったことになるでしょう。
イエスは「聖霊に逆らったものには許しはない」と言っています(『マタイによる福音書』12章31~2節)。

にもかかわらずパウロは救いを受けている。やはり別枠の可能性大です。


                    

<「癒す」のが創主の御旨>

なぜこんなことをぐだぐだ吟味するか。
前回示した、病と癒しに関する創主のスタンスと密接に関連しているからです。
パウロが別枠であれば、「病を傲慢への防止手段として用いる」のも、
パウロという別枠存在に対する別枠的処置である可能性が出るからです。

創造主は万能です。御旨となればなんでもできる。
そして人間の健康と病に対する、創造主の基本スタンスは「全ての病を癒すこと」にあります。
人はそう確信して、癒しを得る道を探り続けたらいいのです。


                    



 


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<臨時版5>『ニッポンキリスト教と聖句主義の分岐点』

2010年05月23日 | ヨハネ伝解読

またまた臨時版!
「ヨハネ伝解読」なかなか進みませんねぇ。

また春平太はニッポンキリスト教会の聖日礼拝に行ってきたのです。
というと、いつも文句言ってるのになんで行くの?と疑問を発する読者もおられるでしょう。
 創造主を拝することは出来るからです。礼拝メニューには賛美の時間も祈りの時間もありますから。
鹿嶋の流儀に合わないのは、メッセージだけなんです。

で、そのメッセージ。今回はゲストメッセンジャーでした。
有名大病院の元診療科長で、元大学教授を歴任で、という老年の先生。

本日の聖句は使徒パウロのこの言葉でした。

(ページの右側上部の「大」をクリックすると、文字が大きくなります)


                    
・・・・・・・・・・・
=聖句=

「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。

そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのトゲを与えられました。
それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は『私の恵みはあなたに十分である。
というのは、私の力は弱さのうちに完全に現れるからである』といわれたのです。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」コリント人への第2の手紙、12章、7~10節
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


<主が与える病もある?>

で、お話は~

「病には謙虚にするために主が与えてくださるものもある。傲慢を自戒し、謙虚に生きましょう」でした。

これに行く過程で、小説家の書いた物語をとりあげたり、詳しいところは忘れましたけれど
「主よ、祈ってもどうにもならないものと、祈って解決されるものを見分ける力をお与えください。」
という主旨の外国の神学者の祈りの言葉を引用したり、知能障害の子供の「病があってよかった。

そのために、弱者への思いやりの心を持てたり、謙虚な心を持つことが出来た」という言葉を引用したりしました。



                    

いいじゃないの!
なんか問題?
という読者の声が聞こえてきそうですね。

結構な話ですけど、聖句主義の流儀からすると、この説教には問題が含まれているのです。

                    


<複数解釈を考えない>

まず、この説教は、始めから終わりまで聖句に複数の解釈を考えていない。
一つの(表面的な)解釈を当然の正解として進んでいます。

 正解だと思っているから、他の聖句との繋がりを吟味する必要はありません。
そこで他の聖句を探ることは全くしません。
だから小説家とか神学者の書いた本にすぐ入っていって話を続けることに必然的になります。

だけど、この聖句は他の意味にも解読できますよ。
例えば「これはパウロに対してのみの創主の宣言である」(これを解読②とします)がそれです。
パウロはこの12章の本日の聖句の前の部分(1~6節)で、
「自分は第3の天までいってきた」といっています。
今で言う、幽体離脱です。第3の天は、パラダイスだと推察されます。

最近では、臨死体験(幽体離脱)した人の経験記録を沢山読むことが出来ます。
それらを総合すると、どうもそれは多くの場合、聖書にあるパラダイスという世界だと想像されます。

だけど、パウロは臨死していませんよ。生きてるままで、それらしきところに行ってきている。
普通の人々には出来ない、特別なことです。
また彼は、旧約聖書の聖句に関して圧倒的な知識を持っています。
旧約を「イエスを証言するもの」との視野から次々に解読して「目から鱗」の説教し、
次々に回心者を出し各地に教会を造っていく。すごい癒しの力も現れます。

全く飛び抜けた特別な存在です。他者が及びつかない。
こういう人は、傲慢にもなりやすい。人々から嵐のような礼賛は受けるし、その危険の大きさもまた特別です。
彼の無類の頭の良さが、ついつい身勝手な聖句解読をさせるかも知れません。
だから、主は「彼には」肉体にトゲをのこし、弱さを造っておく必要があった、とも解釈できる。

創造主に「助けて!」と言いたくなる、頼る必要ある状況が常にあるようにしてあげるわけですね。

                    

~こういう解釈ですと、
「一般人に対しては、謙虚にしようという目的で主がわざわざ、悪魔が病を与えるままにしておかれることはない」
となります。

実際、そうでないと、イエスが教えた“主の祈り”のなかの
「我等を試みに会わせず、悪より救い出してください」の聖句と矛盾してしまいます。


                    

<どちらが福音の神髄に沿うか>

鹿嶋は、②が究極的には正しいなどと言っていませんよ。聖句は究極の正解に向けて、限りなく前進できる書物です。
だが、究極の正解はわからなくても、このように複数の解読をメッセンジャーみずからが自覚し、
信徒にも提示することが必要だと鹿嶋は切に思うのです。

なぜならそれによって、信徒の知は解放され、精神が解放される。
一つの解釈を当然とする説教者の姿勢からはそういう解放と自由が与えられず、代わりに束縛を与えるからです。

それだけではない。一つの解釈を当然の正解とすると、もう聖句を調べなくてよくなりますので、
説教者も信徒も聖書を離れることになります。

これは「人は御言葉を食べつづけていくべき」、という福音のの思想に反します。
最後の晩餐の時、イエス「は私の肉を食べ血を飲みなさい」とパンと葡萄酒による聖餐を命じていきました。

ここでは詳しい説明は出来ませんが、イエスの身体は言葉(創主の言葉)が肉体になったものですから、
イエスの肉を食べるというのは、その言葉を咀嚼し続けることです。
また、イエスの血は「いのち」ですが、ともあれ、聖句の言葉を咀嚼し続けるのが、福音活動の本質です。

そして、解読①の方法では、他の本の話しに行ってしまいますから聖句咀嚼・吟味は必然的にしなくなる。
つまりこれは福音の神髄から外れていく方法であり、神髄に沿うのは解読②の方法となる。


                    

<ほんの一寸のずれから>

この差は、巨大ですよ。だけど、その分岐点は、一寸したところにある。
聖句に一つだけの解釈を考えるか、複数の解釈を意識するかだけです。
だが、この一見小さな点で一旦分かれると、その差は根底的なものになっていくのですね。

このゲストメッセンジャー先生は、やはりニッポンキリスト教会育ちのニッポンキリスト者です。
そして、ニッポンキリスト者は教理主義者です。

けれども、彼らはそれを自覚していない。
教理主義だけの世界で育って、聖句主義教会など見たことも触れたこともない。
そういう場合、自分が教理主義だと言うことを自覚できませんので、
正確に言うと、無自覚教理主義者です。

ニッポンキリスト者はみんな無自覚教理主義者。鹿嶋は聖句主義者です。

本日は、その違いを手に取る如くに示せる例に出会いましたので、記しておきます。
ニッポンキリスト教も聖句主義も各々福音の流儀です。
そしてこの二つの流儀はほんの一寸した点でもって分かれるのです。


                    

<福音の宝庫を開くもの>

ところでこういう話、本日のこの聖句を取り上げて、このように解釈説教する話を、
前にも一度ならず聞いたことのある人はいるんじゃないでしょうかね。
なぜならこれは、ニッポンキリスト教のいわゆる「定番」メッセージでもあるからです。

でもニッポンキリスト教世界に生きる日本人は、みんないい人です。
この教会の牧師さんも、ゲストメッセンジャー先生も本当にいい人なのです。

だからこそ、春平太は叫びたい。
その流儀では福音の宝庫の扉は開かないよ! と。

福音の言葉の宝庫は、もっともっと驚くべきものです。
聖句主義に目を開けば、その扉は開くのですよ!と。



                    


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Vol.279『喩えで話すのは』(16章25節)

2010年05月14日 | ヨハネ伝解読
「ヨハネ伝解読」にもどりましょう。
ページの右側上部の「大」をクリックすると、文字が大きくなります。

本日の聖句はこれです。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「これらのことを私は諸君に喩えで話してきた。
だが、もはや喩えで話さないで、父について私がはっきり告げる時が来るよ」(16章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


ここで「これらのこと」とは~

「イエスが死んで弟子たちの前からいなくなる。弟子たちは驚き途方に暮れ、悲しむ。
だがその後、復活して再度弟子の眼前に現れる。すると弟子たちはの悲しみは一転歓びに変わる」

~ということでしょう。「そういうことを父(創造主)がなされるよ」というのを
付け加えて考えたい人はそうしてもいいでしょう。


                    

それを「喩えで話してきた」は、全ての言葉が喩えだという意味ではなく、
「喩えを交えて話してきた」ということだと思う。「そのものズバリではいわなかった」と理解してもいい。

例えばイエスはこういっていましたよね。。

「諸君はしばらくしたらわたしを見なくなり、またしばらくすると見る」(17節)
 漠然とした表現ですね。

また、弟子たちの気持ちについて、妊産婦の心理をもってきてこう述べてました。

 「おんなが子を産む時苦しむが、生んでしまうと歓びのために産みの苦しみを忘れてしまう。
諸君の気持ちはそれに似たことになるよ」(21節)

全部の言葉が喩えではありませんが、そういう風に喩えを交えて
弟子たちの意識にイメージを形成しようとしているわけです。


                    
 
 なぜか?
そんなこと、そのものズバリで言われても、とてもイメージを結べないからです。

 「目の前にいるイエス先生が、あの奇蹟を起こす力をもった先生が殺されるなんてあり得ない」
という気持ちが弟子たちには強くあります。
そのイエスが死ぬなどというイメージは意識に形成しがたいのです。

 さらに加えて、「殺された上に生き返ってでて来る、ジャーン」なんてもうダメ。
しっかりイメージ出来るわけがない。

 生活を共にしてきた弟子たちにも、事実をみる前にはそのものズバリで言っても、
そのとおりのイメージは出来ないのです。

そこでイエスはこういう。

「だけど、事実を見たらもうわかるよ。
そのときには、そのものズバリで話しても諸君はよくわかるから、私はそうするよ」と。

本日の聖句の後半がそれでした。


                    

するとこういう思いが湧きませんか。
「まもなく事実が現れてわかるんだったら、それでいいんじゃないの。
なんで喩えなど使ってたらたら言うのよ」と。鹿嶋などその口です。

理由はおそらくこの後にでて来る聖句が示していそうです。

「諸君が私の中で平安をもつため」(33節)がそれ。

平安というのは、うろたえたら無くなりますよね。
でも、起きたことについて前もって何のイメージももってなかったら、弟子たちはうろたえるしかないですよね。

ところが確固としたものでなくとも、切れ端のようなものだけでも
先行するイメージがあれば、弟子たちはそれと照らし合わせて「悟る」ことが出来ます。
そうすれば理解できて心に平安が来るでしょう。
(実際、ヨハネはこうして次々に起きる驚きの出来事を合点していきます)

だからイエスは、喩えを交えて出来るだけのイメージを
前もって弟子たちの心につくっておこうと苦労しているのでしょう。なんと行き届いた配慮なことか。


                    





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<臨時版4>『宗教活動の鳥瞰図』

2010年05月03日 | ヨハネ伝解読

このテーマについては
6月11日に「書き換え版」を掲載しました。

 

 



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