鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<SG用再録2> 洗礼は不完全信仰での決断による

2009年01月20日 | スモールグループが世界を救う
ISさんより第2回のSG用の吟味テーマをいただきました。
以下に掲載いたします。

++++++++++++++++++++++



<今週の賛美歌>  
            

 今週の賛美歌は「ああ めぐみ!」(聖歌、593番)です。
ああ めぐみ! (クリックすると賛美歌が流れます)


                    

<今週の説教>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(聖句)

 「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 教会に通ったり、バイブルスタディに出席したりして、聖書を学んでいる人がいます。
こういう人が学んでいく間に「バプテスマ(洗礼)はいつ受けたらいいか」
という疑問を持つことはよくあるようです。

 具体的には、聖書をよく知り、これを十分信じられるようにならないとだめなのか、
そこまで行く前にしてもいいのか、というような疑問です。


                    

 しかし、それに答えるには、水のバプテスマというもののもつ、意味や力を考える必要があります。

 上記に掲げた聖句は、イエスの言葉です。これは
「信じる」
「バプテスマを受ける」
「救われる」

 ~~~の三つの部分からなっています。



                    

1.まず、「救われる」です。

 これは聖書特有の用語で、「将来、最後の審判のとき、当人の霊が火の湖に送られるのはでなく、
創主の王国(天国)に入ることを許可される」という意味です。

 聖書では、この宇宙は、将来火で焼かれて消滅するという思想です。
そして、創主の王国である天国と、火の湖とが残ることになります
(「KINGDOM原理」のカテゴリーに示した「聖書の空間理念」の図を参照して下さい。)

 そして、ミケランジェロの絵で有名な「最後の審判」が始まります。
そのとき、「信じる」者は、当人の霊にある罪が、覆われて「罪なき者」とみなされます。
そうして、創主の王国に入ることを許可される、ということになっています。

 後は、創主の身元で永遠に存続することになります。火の湖も永遠です。
そして、そういう約束をイエスは与えたという思想です。
これを「救い(salvation)」という語で表現して、救いの約束といっているわけです。

                    


2.次に「信じる」です。

 何を信じるか、信じる対象は何か。これは一つには上記の約束です。
そして、もう一つ重要なものがある。それは、イエスがそういう約束をすることが出来た根拠です。
こちらは、罪なき創主の子イエス、死ぬ必要のないイエス、の身体が殺されることによって、
人間の罪の代償を造った、という思想です。

 代償を受けられるというのは、人間のために準備された資格、という論理です。
聖書に記された福音(よき知らせ)とは「そういう資格が準備されたよ」というメッセージ、知らせです。
資格は本当だと信じて受諾しないと実現しません。

 たとえば、読者がある日突然、外務大臣に指名されたという知らせを受けたとします。
ところが、そんなバカなことがあろうか、といって、本国の誰にも制約されない自由な旅をと、
あらかじめ予定していた外国無銭旅行にぶらりと出かけてしまった。
そうして、音信を絶ったらどうでしょうか。

 大臣の認証式はすぐに始まります。
総理の小泉さんは帰国して受諾してくれるのを長く待つことは出来ません。
それで、他の人を任命しますと、彼の資格は消滅します。
資格は、そのメッセージを受諾しないと、実現しないのですね。

 ところが読者がそれを信じて受諾したらどうでしょうか。
「田中真紀子だってしばらくつとめられた外務大臣だ。自分に出来ないはずがない」
こう信じ、楽観して受け入れたらどうか。彼には外務大臣の資格が実現します。


                    


<「信じる」意識は「確からしさ」の確率意識>

 「なら、信じた方が得だ」
 そう思うでしょうが、こういうメッセージを100%信じることは出来るでしょうか。
それは無理な話でしょうね。

 「救い」の約束は、死後のことに関する約束です。
だけど、将来実際にそうなるかどうかなど、自分が死んでもいない今の時点で、
明らかになるはずがないではないですか。

 先を見通す千里眼があるなら別ですよ。
だけど我々は、生まれてこの方、五つの感覚(五感)でしか、ものを認知できない状態で暮らしてきています。
その結果、どうしても「見えるもの」を基盤にして物事を考えるようになってきています。
そこに死後の約束を持ってきて、これを100%信じろと言うのは、言う方が無理というものです。

 当人が、「自分の意識は自分でわかる。私は100%信じている。バカにするな、勝手に決めつけるな」
といったとしてもですよ。人間には、自分で自覚できない潜在意識というものもあります。


                    


 でも、全く信じられないわけではない。
聖書のメッセージを学ぶ人は、一定の確からしさも感じてはいるわけです。
そのように、救いの約束を「信じる」というのは、一定のパーセントの
「確からしさ」を感じる、「らしさ」の意識、確率の感覚です。

 「本当らしさの感覚」を確率で言うならば、聖書の言葉を学び始めた出発点では10%かも知れません。
あるいは、あるとき、理性的・論理思考が働いて、「見えないものが存在するかどうかの確率は、
本来五分五分とみるべき」とかいって、50%になるかもしれません。
論理的にはこれが出発点であるはずです。後にそれが60%に上がるかも知れません。

 しかし、それらは、どのみち、本当「らしさ」であることには変わりありません。
それでいいのか、それでバプテスマを受けていいのか。
これが冒頭に示した「聖書を学ぶ人が抱いていく疑問」だったわけです。


                    


 こうなると、やはり聖書と照らし合わせねばなりません。
すると、その結論は、「それでいい、100%でなくてもいい」となりそうです。

新約聖書の「使徒行伝」には、初めて福音を聞いて、
「これを信じた人」に、イエスの使徒たちは、即座にバプテスマをしています。
信じたと言っても、その信仰は、そんなに成熟したものではないでしょう。

 同じ「使徒行伝」の8章26~39節にはこういう話も記されています。
エチオピアの高官が、エルサレムに礼拝をしにきて、馬車で帰路をたどりつつ聖書を読んでいます。
今や有名になっている

 「ほふり場にひかれていく子羊のように、毛を刈るものの前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。・・・」
(イザヤ書53章)

 ~~という旧約聖書の中の聖書です。
高官は、この「彼」が誰のことを言っているかわからず思案していました。

 他方、12使徒のなかにピリポと言う人がいます。
このピリポに聖霊(創主の霊)が語りかけます。「高官に近づくように進みなさい」と。
ピリポは高官に近づき、その「彼」がイエスであることを説きます。

 高官は、その解説を正しい信じます。そして道の途中でバプテスマを受けることを望みます。
ピリポはそれに応じ、水のあるところが見つかった時点で洗礼を授けています。

 この時点で、高官には福音の論理構造が広く深くわかっているということはありえません。
信仰も内容的には、そんなに成熟したものではないでしょう。信仰は未熟なままでいいのです。

                    


<バプテスマの力>

3.さて最後は3の「バプテスマを受ける」です。

イエスが、「信ずるものは救われる」でなく、「信じてバプテスマを受ける」ものは救われるといっている以上、
バプテスマには独自の役割があることに論理上なるでしょう。それが筋です。

 具体的には、「本当らしさ」の信頼感覚に、何かを与えるのが、バプテスマではないか。
そういう推察が出来ます。その上で、次の聖句を読んでみましょう。


 「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、
聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)

 これはイエスはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川でバプテスマを受けられる場面です。              

 マルコ伝の著者マルコは、続いて、
 
 「すると天から『あなたは私の愛する子、私の心にかなう者である。』という声が聞こえてきた」
(マルコ伝、1章11節)

 と、書いています。マタイ伝の著者、マタイも、この状況を同じように記録しています。


                    



 我々は当初これを読むと「へぇ~、不思議なことが起きるもんだなあ、やはり、イエスは違うなあ」
と感じるくらいだと思われます。

 だが、次のような解読も可能です。
聖書では、この世に現れたイエスは、「創主の子(Son of God)」という面と、
「人の子(Son of Man)」という面との二面を持った存在です。
この二つの面の相対的な関係が、水のバプテスマを境に、はっきりと変わっているのです。

 バプテスマ以前のイエスには、ダビデの子孫であり、大工の長男である、
という「人の子」の面が前面に出ていました。
創主の子という面は、いわばその影にありました。

 しかし、バプテスマを受け、水から上がられたイエスには、創主の子という面が前面に出ていたと見ることも出来ます。
もうダビデの子孫という面は、遙か後方に退いたのだ、と。

 イエスが水から上がったその瞬間に、天から「これは私の心にかなう者」という声が下ったのは、
それが「前面に出たこと」と関係していると解することが可能なように思います。

 この時だけではありません。これを境に、イエスは別人のようになります。
自らを「創主の子」と公衆に宣言し、「天の父」から受けたという「天の言葉」を権威を持って教え、
つぎつぎにしるしと不思議を現していきます。
以後、それは、受難、十字架死、復活、昇天と、最後まで続きます。

 それ以前のイエスには、そうしたところは表に現れませんでした。
こういう転換点に、水のバプテスマが位置しているのです。


                    


 これが「水のバプテスマのもつ効果」だと、春平太は解します。
そして、これはイエスに関するものだけではなく、
人間にも有効な一般的なもの、とみるべきではないか、と解読します。

 聖書の論理では、生まれたままの人間には、創主の子としての面はありません。
世的な意識で満ちた、世的な面が100%の人間です。
そのまま、自然に成長していっても、状況は同じです。

 しかし、聖書の言葉は、創主の意識を込めた、創主の王国から来る言葉です。
聖書の言葉を学ぶ人間の意識には、創主の意識・思いが吸収されていきます。
すると、ささやかであっても、創主の王国の意識が一面に出来ていきます。

 もう一方の面は、世的な意識の面です。
人が聖書の言葉を吸収しても、当初それが形成する意識は背後に存在するのみです。
前面にはこの世的な意識が出ています。
聖書的にはそれが、聖書を学びつつある人間の状況と見ることが出来ます。



                    


 けれども、水のバプテスマには、この二つの面の、比重を(最低限)変化させる力がある。
聖書の言葉が形作る意識の面が、前面に出て、その分、世的な意識が後方に退く、ということです。

 使徒パウロの次の聖句は、こうした推論を支持しているようにも見えます。

 「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、
彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼とともに葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、
わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」
(ローマ人への手紙、6章3~4節)

 ここでパウロが引き合いに出しているバプテスマは、水のバプテスマ(浸礼)です。
そして受洗の際、受洗者が水に沈むのは、この聖句での「彼(キリスト)とともに葬られた」
というのを象徴しているように見えます。
そして、水から上がるのは「キリストが・・・死人の中からよみがえらされたように、
私たちもまた、新しいいのちに生きる・・・」を象徴しているように見えます。

 また、水のバプテスマを受けた人の体験にも、それを支持するところがあります。
「とにかく洗礼を受けようとして受けたのだが、受けた後、自分が変わったことを感じる」
という体験談を聞いたことが春平太は少なくありません。


                    


 さらに、もしそうだとしたら、どうしてそうなるかの論理も、知りたいところですね。
次の聖句を読んでみましょう。

 「水と聖霊から生まれなければ創主の王国に入ることは出来ません」(ヨハネ伝、3章5節)

   ~~~これもイエスの言葉です。これと、先に挙げた今週の聖句とを並べてみましょう。

「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ伝、16章16節)

 ここで、「創主の王国に入る」と「救われます」は内容では同じことを言っていますよね。
すると、「水と聖霊から生まれる」と「信じてバプテスマを受ける」も実質的には同じはず、となります。

 故に、「水のバプテスマ」とは「水と聖霊から生まれる」ことだと解せます。
つまりこれによって聖書では、水のバプテスマには、聖霊の介入がある、
という論理に明確になっていることがわかってきます。

 さらに、もうひとつ、イエスがバプテスマを受ける場面の聖句(前述)を、
今一度ここに並べてみましょう。

「イエスが水の中から上がられるとすぐに、天が開けて、
聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった」(マルコ伝、1章10節)

 イエスが水のバプテスマを受けると、聖霊が下っています。
そして、このイエスの時ほどに強烈ではないのですが、
この聖句から「聖霊はバプテスマを受けたときその人に影響を与える」
という解読を引き出すことも出来ます。

 そして、これをバプテスマに内在する効果だと理解しますと、
バプテスマ前後の人の変化は、説明がつくことになるわけです。

 では、聖霊はどうしてそのとき下るのか? 
これについては、春平太は説明できません。

 論理的説明が不可であること、これすなわち、神秘です。
そこは、神秘として、少なくとも当面、そのまま信頼して受け入れておこうと、
春平太は思っています。

 まあ、神秘があるから宗教でして、なかったら実証科学です。
科学でしたら、信頼とか信仰といった意識は不要です。
聖書を解読していった後に残る神秘は、春平太は信頼して受け入れることにしています。


                    


<バプテスマには意志による選択と決断が必要>

 以上で、バプテスマを受けることに関する、知識は概略得られたと思います。
最後に、春平太は、もう一つ確認しておくべきことを記して終わろうと思います。

 前述のように、バプテスマは知識も信仰も不完全な状況で、受けるものです。
そういう状況を本人が自覚していて受けるわけです。

 そしてこれは実際には、当人の「意志」がないと出来ないものです。
平たく言うと、「洗礼を受けたい」という欲求(wants)と、それに基づいた決断が必須になります。

  前述した、このエチオピアの高官は、ピリポからバプテスマを受けました。
彼は、ピリポの解説を信じたばかりでしたが、すぐ洗礼を受けました。
もちろん彼にはこの時点で「この書物を探究すれば真理に到達するのではないか」という直感、霊感があったでしょう。

 だが、「到達するのではないか」という予感だけではバプテスマを受けようという気持ちにはつながりません。
やはり、探求したいという欲求と、「今後、探求するぞ」いう決断が加わらねば不可能です。

 知識の量や「ここに真理があるのではないか」という確からしさの感覚
(これが人間の、信仰という心理の中身です)だけでは、
いくらあってもだめだということです。

 人間には、完全を望む動機が埋め込まれています。
やはり受けるには、「もう少し完全に近づかないと、いけないのではないか」
というような反省というか、罪悪感のようなものは、他方から常に与えられます。

ところが、人間の聖書知識や信仰が100%の完全なものになることはありえません。
だから、完全志向の心理に影響されますと、「もうこれで完全だ」と思えないが故に、
バプテスマを受けないで生涯を送ることになります。

 信仰も、知識もカラシ種ほどに小さくていいのです。
その状態で、その神秘的な力、「バプテスマの神秘」を信頼し、
自らにすばらしい変化が生じることを期待して、
水のバプテスマは「意志して」受けるべきものであります。


                    


 「私が変わって、バプテスマを受ける」のではありません。
 「バプテスマを受けて、私が変わる」のです。

 天の創主の王国の豊かさは、「先を争って奪い取るもの」というのが、イエスの教えです。


                    




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<臨時版>10 「SGメソッドにおける“真理”」

2009年01月18日 | スモールグループが世界を救う
http://promises.cool.ne.jp/Amazing_Grace_2007.html

<SG用再録1>Vol.15 『身体は言葉が変化したものだった(1章14節)』
での議論は、SGが互いの知を効率よく高めあう実例を示してくれたと思います。
鹿嶋も、知が躍動しました。
「マトリックス」の話、面白かった。
よかった・・・。

議論の終わりの方で、ISさんから次のような発言がありました。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖書だけだと起動しない? (IS)」
2009-01-16 11:44:32

鹿嶋先生、質問ありがとうございます。
何か余計な事を書いたかとドキッとしてしまいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


これについて、少し書いてみようと思います。
ドキッとされたのは、SGメソッドの背景にある真理観が明確でないから、と推察しました。
そして、これは大きなテーマですから、ここに別の記事をたてることにしました。

真理って何でしょうか?
認識対象(実在)に対して、人間が抱く理屈・理論・観念(聖書の解釈もその理屈の一つです)
が一致していたらその観念(アイデア)が真理になりますよね。
一致していなかったら偽になります。

SG方式、聖句主義方式では、これが最終的に正しいという聖句解釈は存在しません。
誰かが、究極に正しい解釈を握っていることもありません。
それがあるかもしれない、鹿嶋が持っているかもしれない、という意識があると、
無意識のうちにドキッとします。
そんなものはない、ということを認識論的にしっかり把握していたら、
ドキッとなどしなくなります。

聖句主義では正しい解釈、真理である解釈は、敢えて言えば、個々人がその時点時点で、
「そうだ!」と思ったものとなります。
各々それをグループでの吟味を通して、豊かにしていけばいい。
他者の見解の助けで豊かになったら、それがその人のまた新しい真理になります。
SG方式では、「真理は成長していくもの」なのです。

この一見、いい加減で、無政府主義的に見える認識論を以下に述べてみようと思います。
もちろん、これに関するgroupの皆様の吟味は自由です。

++++

SG(スモールグループ)方式は、聖句主義と表裏をなしています。
聖句を自由に吟味する方式を採ると、SG方式が自然に浮かび上がってくるのです。
その最も効率的な吟味方式だからです。
ですから両者は実際上、同じものだとみていいでしょう。


                    

<盲人が象を撫でる喩え>

聖句主義方式は、独特の真理観を持っています。
聖書のメッセージは膨大な内容を持っています。
この中にある筋道を人間が探求する姿はどう見えるでしょうか。

盲目の人が三人、象を撫でてその姿を推察する話がありますよね。
一人は鼻を撫でて、「ああ、象はホースのようなもんだなあ」と思う。
二人目はしっぽに触って、「紐のようなものだ」と、三人目は脚を撫でて
「太い木のようなものだ」と言ったという話です。


                    

これを用いて聖句から聖書に込められている世界の、
全体の筋道を知ろう状況をイメージすると、こんな風になるかと思います。
一人が鼻だけでなく、尾っぽと脚にも触れてみる状況です。
彼はそれらを手がかりに、象というものの全体の姿を推察します。

これが聖書の言葉を手がかりに、そこに込められている世界の
全体的筋道をつかもうとする人間の姿です。
三カ所に触れたにしても、認識がそれからする推察であることには変わりありません。
これがせいぜい100年しか生きられない人間が、聖書の世界に関してする認識の姿です。
世界の全部に直接接触するのはどだい無理な話です。
われわれは聖書を、そういう状態で解読しているわけです。


                    


<聖書メッセージは無尽蔵>

聖書の描く世界を象に喩えました。
だがこれには、たとえとして少し不十分なところがあります。
盲目の人にとって、象はとてつもなく巨大な認識対象ですが、それでもその大きさは有限です。
この有限なところが、喩えの対象として不完全なのです。

聖書のメッセージ内容はより正確には、「無尽蔵」といった方がいいと思います。
そこでの「世界の物語」は、無限の空間と無限の時間を舞台にしています。
目に見える物質界だけでなく、見えない霊界も舞台です。
存在するものだけでなく、それを一から創造した創造主も登場します。
もちろん、そのひとり子もまた、聖霊も登場します。

こうして織りなされる世界の物語の内容は、文字通りの無尽蔵と言うべきでしょう。

                    

もちろん、そうした世界にも、それを創った創造主には設計図があるでしょう。
それが聖書の正しい解釈に当たるでしょう。
それは存在すると「信じて」いい。

けれども、その言葉(聖句)を解釈するのが人間となると、注意が必要です。
そういう世界に対して、有限な人間が推察するパースペクティブ(全体透視図)の正しさ、
妥当性には限度があります。
つまり、人間の行う解釈には、これが究極というものはありそうにないのです。
これが基本です。

実際、春平太の「ヨハネ伝解読」もそうです。
解読した時点では「これだ、これが正解だ」と思います。
そして、ここに連載します。
ところが時間がたって眺めてみると、別の解読も浮上してくるのです。
聖書はホントに無尽蔵な内容を秘めていると実感します。


                    

<各時点での確信が各々真理>

では、人間はどうしたらいいのか?
「究極的に確かな解読は人間にはない」などと悟っていたら、信仰(信頼)はどうなるのか?
信頼などできないではないか。
われわれは即座にはそう思うでしょう。

でも、こういう方法は出てきます。
個々人、ひとりひとりが、その時点で「これはまこと(真理)だ」と思った解釈でもって、
それを信頼して進むという方法です。
そんなことできるか?
できるのです。

実際、われわれ人間はそうやって生きているのです。
人間は、「生きて行動して人生を進みつつある」存在です。
英語ではこれをゴーイングコンサーン(going concern:活動態)といいます。
活動態は生きて進むその時点ごとで「まことだ」と思ったことを真理として生きているのです。

有限な人間にとってこれ以上の真理が、実際上あるでしょうか?
真理というのは、生きるわれわれにとって、動態的なものです。
真理に向かって進む、そのプロセスの各段階の知識が各々真理です。

                      

<絶対的真理>

もちろんそうでない真理観もあります。
なにか認識対象があって、それに絶対的に当てはまると認識できる理論(解釈)があって、
それを絶対的な真理だとするものです。
そういう絶対的真理は永遠不変で動きません。
静態的です。

そういうものが見つかれば結構なことでしょう。
だが、認識対象が無尽蔵な存在であって、認識者が有限な人間となれば、
そういう認識が可能というのは矛盾になるのです。

                    

<独断度を低めるには>

個々人がその時点時点で真理だとする真理は独断ではないか?
その通りに思います。
そういう真理は、独断を含んでいるのです。
独断の要素は完全にはなくなりません。

無くなりはしませんが、その独断の度合いを少なくしていく方法はあります。
その最も効率的な技術がスモールグループメソッドです。

「使徒行伝」時代の、初代教会から今日の聖句主義者につらなる人々が
それを身を以て示してくれました。
イエスの弟子である使徒たちに驚くべき「しるし」が現れました。
それをみた人々は、「この教えには真理がある」と参集しました。
エルサレムだけで、一日に3000人が加わった日もあるといいます。
エルサレム教会の人数は、5万人くらいにはなったと推定されます。

これを指導する人の数は少なかった。
長老と呼ばれた使徒たちが12人、執事がまた12人くらいだったのでしょうか。
その他、イエスと使徒を取り巻いた人たちが70人くらいいたと思われますが、
5万人に比べたら少いものです。

彼らは、新たに参集する信徒たちを、小グループに分け各家庭にて勉強、礼拝をさせたと考えていい。
各々のグループにリーダーをたてた。
そのリーダーたちがまた自主的に連携して全体の連絡網を形成したでしょう。

素材は第一には旧約聖書、そして伝えられる使徒や執事たちの話のメモだったのではないでしょうか。
それらの言葉がどういう意味を持っているか、どう解釈したらいいか、吟味した。
吟味の過程で、一つ一つ「そうだ!」と合意できることがSGに出来ていった。

SGでの合意によって、個々人の独断の度合いは低くなっていったでしょう。

                    

<書物への「深い信頼」はある>

絶対的な解釈がないと「これこそ信頼できる」という心理になれないのではないか?
という疑問もわれわれの内に生じます。
それに対する聖句主義の答えは、「信頼は解釈にではなく、聖書(聖句)に対してある」
ではないかと思われます。

SG方式では「聖書という書物のなかに真理がある」という深い確信があるのです。
もちろん、人間には絶対の解釈には至れませんから、探求はするならば無限に続くものになります。

そうであるにも拘わらず、SGでの吟味を続けられるという心理はどうなっているか。
「真理はこの書物の中にある」という信頼があるのです。
それがなかったら、あるいは希薄だったら、吟味活動は実際のところ続かないのです。

だって、やってもやっても究極の解釈はでないのですよ。
探求する素材に対する信頼・確信がなかったら途中でばかばかしくなること必定です。

                    

<教理主義との対比>

聖句主義は教理主義と対比させると、さらにその性格がはっきりしてきます。
教理主義では、教団のエリートが出した結論としての解釈を、究極のもの、正統なものとします。
信徒は、ここに信頼を置きます。

聖句主義者は、そういうものを持たないでやります。
それでもって教会活動してる。
外部からはそれは、一見いい加減で信仰がないように見えます。
だが、SG方式は別のところに、深い信頼を置くものをもっています。
聖書(聖句)それ自体がそれです。
教理主義と究極の信頼を置く焦点が違うだけです。


                    





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<臨時版>9 「SG方式における恐怖感」

2009年01月12日 | スモールグループが世界を救う
http://promises.cool.ne.jp/being_with_Christ.html

聖書解釈自由を原則とするSG(スモールグループ)方式を始めるに際して、
留意しておくのがいいと思えることを記させていただきます。
もう少し進行してからの方がいいかもしれませんが、いずれ問題になることですから。




SGメソッドを始めると、参加者の心にある種の「引っかかり」のようなものが出てくるはずです。
解釈自由への恐怖感がそれです。
日本では特にそれが強いはずです。

なぜなら、日本のクリスチャンの大半は、教理主義
(一つの解釈を正統として、他を異端と考える行き方)しか体験していないからです。
日本の教会がほとんどそればかりできているのです。
そういう教会に入って、信仰(信頼)生活を続けてきているから、必然的にそうなるのです。


                    


<スモールグループは迫害の歴史>

聖書解釈自由の原則で行うSG方式の集いは、歴史的に迫害され続けてきました。
アメリカ大陸でもそうでした。
どうしてそうなるか?

個々人が解釈自由の原則でやるような集団は、無政府主義(アナーキズム)的に
なるに違いないという印象を、強く与えるのです。
そんな奴らを許しておいたら、教会も国家も無政府主義的になって崩れてしまう、
と人はイメージするのです。

これはもう、外部の誰にでも起きそうなことで、
事実、鹿嶋自身も聖句主義を外から見ていた間は、そう心配していました。
だから、聖句主義者はみんなに迫害され続けてきたのです。


                    

<新大陸でも迫害>

アメリカ大陸においてさえそうでした。
新大陸でも、ほとんどの教会は教理主義教会でした。

一般の人々は、宗教改革運動は聖書解釈自由を求めた運動だという印象を持っています。
カトリックの支配から逃れて自由に信仰生活をしようという運動だという印象を受けています。
だが、それは誤解なのです。

                    

改革の立役者だったルターのルター派教会も、カルヴァンの改革派教会も教理主義教会だったのです。
ルターもカルヴァンも、素人である個々人が解釈自由でもって聖書に対していくなどと言うことは、
とんでもないこと、危険なことだとしか考えられませんでした。

解釈自由の聖句主義の実像は、それほどに妥当な認識がされがたいものでした。
だから、北アメリカ大陸でもそうだったのです。


                    

そうした中で、独立戦争が起き、アメリカは独立しました。
そして、憲法を作る時に、聖句主義者は信仰を自由とすべきと主張しました。
他の教会は、こぞって反対しました。
そこで、色々なことがありましたが、それはまた機会を得て書きます。

がともかく、結局聖句主義者のいうようにやってみよう、ということになりました。
アメリカの国家指導者たちは、おっかなびっくりで信仰自由を憲法に盛り込み国家運営を始めました。


                    


ところが、国家はバラバラにはならなかったのです。
こういう歴史的体験があって、始めて人間は信仰自由の原則をたてておこなうSG方式の実像を知りました。
聖句主義は危険ではない、ということを知りました。

これは貴重な人類の知恵となりました。
で、今それが、欧州諸国、日本、台湾、韓国などにも普及しています。


                    

<歴史的体験がない>

でも、日本人には聖句主義の体験がほとんどありません。
アメリカで教会に行く人もいますが、その教会のほとんどが依然として教理主義教会です。
だから、聖書解釈自由でやってもいい、という確信が少ないです。

そこで、解釈自由の原則で始めると「恐れ」が心に生じるのです。
それだけ、教理主義方式の経験が心に残存しているのです。

この春平太チャーチを見てくださっている人々も、そういう人がほとんどでしょう。
議論に参加してみても、心に恐怖感の引っかかりが残っているはずです。
「こんなことしていて、大丈夫だろうか・・・」という恐れの思いです。

この実情を先に理解し、覚悟しておくのは役立ちます。
途中で恐れや躊躇が心に生じたら、「ああ、あれだな・・」と理解し
心理的に対処できますからね。



                    


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<SG用再録1>Vol.15 『身体は言葉が変化したものだった(1章14節)』

2009年01月10日 | ヨハネ伝解読
http://promises.cool.ne.jp/I_have_a_Saviour_who_lightens_my_way.html

遠くハワイのISさんからアドバイスをいただき、ネットSG(スモールグループ)を
やってみようとなりました。
最初の試みとして、過去の[ヨハネ伝解読」の下記の記事に対し、ISさんがコメントをくださいました。

これから、自由参加者が増えて、グループが出来、みんなが横に繋がることが出来たら
本当に幸せに思います。

他の記事についても、思うところのある方からコメントいただけましたら
、<SG用再録2>として、新しく掲示していこうと思っています。
こうやって、グループが出来ていくのは夢ですね。
夢にどこまで近づけるか・・・。
やってみましょう!

(以下が再録部分です)

+++++++++++++++

 ヨハネの頭はグルグルと回ります。
そうだ、あの方の教えのエッセンスは、理屈としては簡単だったのだ。

 「わたしの言葉が諸君の内に留まるようにしなさい」

 これだった。
イエスの言葉が、自分の意識の内に、霊の内に留まっていること、それがゴールだったのだ!






 それをあの方は、

 「わたしの肉を食べ、血を飲まねば・・・」

 と言われたのだ。
これは喩えではない。喩えならこんな表現になるはずがない。
事実そのものを言っているのだ。

あの方の肉、血の実体は、言葉だったのだ!



 これが、ヨハネの内で最後まで残った疑問への解えでした。
そして、この解答が、ヨハネ神学の門を開きました。

ヨハネは大胆に書き始めました。
ペンを持つ指に不思議な力が加わりました。
その一文は1章14節の聖句だったと鹿嶋は確信しています。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「言葉(ロゴス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」
            (1章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


  ヨハネによる福音書は、ここを起点にしています。
 ヨハネ神学の大半は、ヨハネ伝の第1章に凝縮しています。


                    



コメント (26)
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<臨時版>8  大人の精神性低下が引きこもりを生む

2009年01月02日 | スモールグループが世界を救う
http://www.h4.dion.ne.jp/~teruko15/

日本人inUSAさんからの、
ネットでのスモールグループ討議はできないか、という
ご提案を受けて、話題をひとつ提示します。

皆様の議論がコメント欄でなされることを期待します。




子供の「引きこもり」が相変わらず多発しています。
鹿嶋の身近なところでも、「うちの子供が登校拒否になった」という
声をよく聞きます。

全国で、百万人になったとも言われています。
日本に特有な現象なようです。

どうしてそんなことがおきるのか?
直接の原因は、子供の神経が疲れているということです。

一人で神経を休めたいので、引きこもるのです。




神経を疲れさすのは、親とか大人の精神性が低くなっていることです。
大人が、人生や世界や生死のことを深く考える精神をなくしているのです。

大人が精神的に深いと、子供の神経は安らぎます。
大人が、この世のこと、職業のこと、お金のこと、将来の経済的なこと
ばかり考えていると、その雰囲気、意識波動が子供の神経を
痛めつけるのです。

人間の神経は、目に見える現世のことから離れたときに
安らぐことができるのです。




人間の精神性が深まる大きな契機は、人生で動転するようなことがおきるときです。

このとき、人は、「活を入れられた状態」になります。
そして、人生そのものの考え方をリセットせざるを得なくなります。

この意識が精神性を深めていきます。




戦中派の人々は、生死をいつも意識せざるを得ず、
、かつ非常に貧しい青春を送りました。

この人たちはが親になると、あの貧しさだけは子供に味わわせたくないと
経済、お金にまい進しました。

子供は、その中で、動転しない人生を遅らせてもらいました。
だけど、その親たちには精神性がありました。
戦時中、生死の境に置かれて、動転の連続の中で青春を送りましたから。

精神性のある大人の状態で、子供のために金を追い求めました。
だから、その子供たちは、神経が痛まなくてすんだのです。




だが、その子供たちが、親になると、事態は一変します。
その親は、動転のない人生を送らせてもらってますから、
精神性が浅薄なのです。

そして、彼らは子供を生み、育て始めます。
ところが彼らの子供は、そういう大人を環境として
暮らし始めます。

親だけではありません。
学校の先生がまた、精神性が浅いのです。

これがきつい。
神経が疲れてしまうのです。
引きこもりが始まったのは、この世代の子供からなのです。




鹿嶋は、子供が引きこもりになったという親と話すことがあります。
話題が現世的オンリーで浅薄です。
精神性が極めて薄い。

これでは、感受性の鋭い子供は参ってしまうだろう
と実感します。




精神性を高めるのに、動転以外の方法があります。
それが聖書をスモールグループで吟味する方法です。

そもそも動転は、人生に関する考えをリセットさせてくれる
から精神性を高めるのです。

ならば、人生観をリセットさせてくれるほかのものはないか。
それが聖書吟味です。


聖書は、動転なしで、それをさせてくれる内容をもっているのです。
いまさら大人をして動転の人生に直面させるのは無理でしょう。
だが、聖書の中身はそれを吟味するたびに、人生観、世界観をリセット
させてくれるのです。

これだけが、引きこもりを減少さす唯一の方法です。
これをスモールグループで行うと、吟味が深くなります。

まさに、聖書のスモールグループが日本を救うのです。




コメント (16)
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