鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.259『割れたらアカン!これは命令だよ』(15章17節)

2009年06月27日 | ヨハネ伝解読

イエスのインストラクションは続きます。
本日の聖句はこれです。
BGMは今回もmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「私が命ずるのはこのことだ。互いに愛し合いなさい」(15章17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


あれ?
「互いに愛し合え」という命令は、イエスはいましがた12節で発していましたね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「さてこれは私の命令だよ。私が諸君を愛してきたと全く同じように、諸君は互いに愛し合いなさい」(15章12節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうしてまた同じ命令を繰り返すのでしょうか?
どうも、このふたつが含む意味は違うようです。

「愛し合え」という言葉は同じです。
だがが、それが語られる文脈が異なっています。
言葉の意味は、それに繋がる文脈でもって決まりますから、
「愛し合え」という弟子たちへの命令も、前と後とでは意味が異なってきておかしくありません。

                    

<天の愛で愛し合うんだよ>


前の12節の命令から考えましょう。
ここでは弟子たちの「愛し合い方」愛し合う方法に重点を置いて語られています。
イエスは「私が諸君を愛した愛し方でもって」愛し合え、といっています。

イエスが弟子たちを愛した愛は、天の愛です。
天の父なる創主がイエスを愛した愛で、アガペの愛、グレースの愛です。
「世の愛で」ではなく、「天の愛でもって」愛し合うという、
方法に重点を置いてイエスはここで「愛し合え」と命じています。



                    

<父なる創主が諸君を通して働かれるんだよ>

後の17章では文脈が異なっています。
イエスはその前の16節でこういっています。

「(私がいなくなる)これからは諸君自身が宣教をする。それは実を結んで新たな弟子を産む。
一時的に熱狂して醒めたら去っていく弟子でなく、働き続け殉教もする弟子だ。
そういう成果を産むのは、宣教する時に諸君がイエスの名で父に求めるとみな実現するからだ。
そういう奇蹟の連発が教えの正しさを証拠づけて弟子が次々と産まれる。
だから成功するのは決まっているのだが、ここで忘れてはならないことがあるよ。

 そういう成功が実現すると諸君の心には「よ~し、もっとがんばるぞ!」とのさらなるファイトが湧き上がる。
するとさらに張り切って自力でことをなそうとしがちになる。
こうなって肩に力を入れたらアカンんのだよ。

その後のことも、諸君が克己勉励して成し遂げるべきことではないんだ。
相変わらず父が働いてそのようになされ続けることなんだ。
だから父にゆだねていなさい。その姿勢を保っていなさい。

考えてごらん、そもそも諸君がこういう立場に立ってしまったのも、諸君の個人的な決意でなったのではないだろ? 
私が一方的に選んでしたことじゃないの。
そこのところの感覚をよ~く心に留めているんだよ」



                    

<割れたら働けなくなるよ>

~イエスはこういった後に続いて、
 「・・で、私が命ずるのはこれだ。互いに愛し合うんだよ」といっています。
それが今回の聖句です。

この繋がりを鹿嶋はこう意味理解します。
 
「だから、君たちに命ずるのは、互いに愛し合うことだ。この命令を守って、一体になっていることだ。
割れたらアカン。肩に力が入ると、人間どうしても細部での違いが気になって、大きなものに見えてくる。
すると互いに自説を主張しあって分裂する。
分裂抗争したら諸君の霊に平安が無くなる。
そうなったら、父なる創主も私も諸君を通して働くことが出来なくなるんだよ。

この事態だけはどうあっても避けるんだ。避ければ諸君の宣教は実を結ぶ。
だから、どんなになってもこれは守れ。
愛し合え。分裂するな。割れたらアカン。これは命令だよ!」

~本日、17節の命令「愛し合え」の意味を鹿嶋は現時点ではこう解読しています。
これが妥当だとしましたら、何という配慮、なんと行き届いたインストラクションでしょうか。
激しい拷問と死を直前にして・・・。
春平太は、またもや感動で喉が苦しくなります。


                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.258『肩の力を抜くんだよ』(15章16節)

2009年06月17日 | ヨハネ伝解読
自分がいなくなった後で弟子たちがなすべきことに関する、イエスのインストラクションは続きます。

本日の聖句はこれです。
BGMは今回もmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)



                            
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「諸君が私を選んだのではなくて、私が諸君を選び任命したんだよ。
それは諸君が出て行って果実を産み、諸君のその果実が残るためだし、
また諸君が私の名で父(創主)に求めるものをなんでも父が諸君にお与えになるためだよ」
(15章16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    



一見、わかりづらいですね。
この聖句は、表現方法が日本人には馴染みの薄いものなのです。
先に意味するところの結論を示してしまいましょう。


                    

イエスは自分ががいなくなった後のことに関して、様々なインストラクションを与えてきましたよね。
だが弟子たちにはそれらはほとんど未経験なことです。
これから起きるとイエスが言うところの事態は明確にイメージ出来ません。
だからなすべきことも漠然としか想像できません。

そういうとき、人は「とにかくがんばらねば・・・」と、
とにもかくにも決意は固めておこうとするものです。


                    

だが、イエスにはそれはお見通しなのですね。
そこで語った言葉が今回の聖句です。

「いろいろ指示したけれども、ここで肩に力を入れたらイカンよ。
これからの諸君の行動は、実は、すべて父(創造主)と私(イエス)がさせていくことだから・・」
~こうイエスは言っているのです。

諸君がたちがこれから新たな弟子を確保する(果実を産む)のも、父がなさしめられることことだよ。
その弟子が、一時的でなく、弟子であり続け、働き続けるのも父がそうなさることだよ。
そしてその過程で、父は、諸君がイエスの名において求めるものは、何でもお与えになるよ。
(そうやって宣教に確かな証拠をともなわせられるから、成果もよく上がるんだよ)

みんな父が主導権を取ってなして行かれることだ。
だから、自分たちであれこれしようと意気込む必要は全くないんだ。
考えてごらん。
そもそも、諸君がこういう立場になってきたのも、諸君の方で選んでそうなったのではないんだよ。
私が(勝手に)選んだのだよ。
だから基本的には任せておけばいいんだ。
それがポイントだ。
肩の力を抜きなさい。
その姿勢で、今からの話も聞くんだよ・・・。

~これがイエスの今回の聖句の意味です。
それが「・・・諸君が・・・するためだよ」という言い方で表現されているから、
真意がつかみがたくなっているんですね。
それにしても、何と行き届いた配慮でしょうか。



                    






コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.257『 全体観を与えたから諸君は友だよ』(15章15節)

2009年06月06日 | ヨハネ伝解読
イエスの遺言は続きます。

BGMは今回もmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)

本日の聖句はこれです。

                                          
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「私はもはや諸君をしもべと呼ばないよ。しもべは主人がしようとしていることを知らない存在だ。
私は諸君を友と呼んだだろ? 私が父から聞いたこと全てを諸君に知らせたからだよ」(15章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


この聖句は、「しもべ」という言葉と「友」という言葉との関係の把握が鍵になります。

しもべとは英語ではslaveともservantともなっています。
この両者は同じ意味内容をもっています。

日本ではslaveは「奴隷」、servantは「従者」と分けて訳されることが多いです。
ふたつは別の意味を持っていると考えるのです。

奴隷というのは映画でエジプトのピラミッドを造る場面などに出てくる
「むち打たれながら過酷な労働をさせられる存在」と主に理解する。
従者は「主人に付き従って身の回りの世話をしたり使い走りしたりする存在」と主に理解します。

ところが、聖書ではどちらもおなじ「しもべ」です。
聖書の考え方がベースになっている西欧社会でも大体そうなっています。

                   

<聖書世界の家族制度>

その理由を解するには、聖書に出てくるような多民族社会の家族構造を知らねばなりません。
社会の基本単位集団は家族ですから、それによって社会構造もわかってきます。

多民族が陸続きで接しているような世界では、個々の民族は、
互いに他民族がある日国境を乗り越えて攻め込んでくる可能性のある中で生活しています。
どの時点で見ても、どこかの民族が他の民族を征服して奴隷として使っている状況にあります。
その奴隷を、征服した側の民族の家族は、買ってきて使用人として使うのです。
ですから家族は通常多くの使用人も同居させている大家族です。
使用人には、同じ民族で経済的に貧しくてそうなった人もいます。

とにかくそういう大家族では、統率が大変です。
そこでは通常、家父長は家族員や使用人に対して生殺与奪の権をもっています。
実際にそれを行使する場面は少なくても、とにかくそういう権限をもっている。
それくらいの強権をトップがもたないと、こういう大家族は統率しきれないのです。

そしてこの使用人が奴隷と言われたり、従者と言われたりするのですが、どちらもひっくるめて「しもべ」です。
彼らの中には主人の家庭の財布を預かって財務を管理する知的な奴隷もいます。
ユダヤ人は頭がいいですから、彼らがそういう知的奴隷になっていたことが
ローマ人の家父長家族では多かったようです。
これなど日本人の感覚では奴隷、従者以上の存在ですね。


                    

<全体観が統治者の必須条件>

だが聖書に出てくるような多民族社会の家庭では、彼らはひっくるめて「しもべ」として認識されていた。
なぜかといますと、こういう家族では、人間が「全体観を与えられている」かどうかが
決定的に重要となるからです。
それでもってみると、同一民族の従者だろうが被征服民族の奴隷だろうが、
みな「全体観を与えられていない」存在という面では同じになるのです。

そんなことがどうして重要な基準になるかと言いますと、
全体観を与えられている人間は、家族内でなされる個々の仕事の意味、それがなされる理由がわかります。
全体観とはパースペクティブともいいますが、換言すると鳥瞰図です。
個々の事態というのは、それが全体のパースペクティブの然るべき部分に位置づけられて
はじめてその意味がわかります。

全体感を与えられていない人間は、そういう位置づけが出来ませんので自分の仕事の意味がわかりません。
それが何のためのことかを知らないままで、主人の命令に従ってことをなすだけとなるのです。

                     

<統治権を維持するには>

大家族の中で全体観を持っているのは、通常、家父長とその子供など一部の親族に限られていました。
彼らは買い取られて働いているしもべには全体観は知らせませんでした。
命令だけ与えて、その理由は知らせませんでした。
財務を一手に任されている知的奴隷にも、そうです。
頭のいい彼らも、主人の命令に従って事務執行をするだけの存在でした。

すると頭のいい知的奴隷であっても、家族全体を運営する可能性はもてなくなります。
集団全体をリードするリーダーには絶対になれない。
全体に関する情報が与えられていなかったら、全体をリードすることは出来ないですから。

                    

どうしてそんなことをするのか。
人間は統治されるより、統治する側の生活をした方が快適だからです。
だから一旦統治する立場に立った人間、つまり支配者は、それを維持しようとします。

支配民族は統治権を維持することが最大関心事です。
それには、全体観をもてる人間を自分たちに限定することが有効な方法でした。
他者、他民族の能力を取り込みながらも、全体の統治権は自分たちだけが持ち続ける、
というのが聖書に出てくる多民族社会の運営方式だったのです。


                    

<統治者の見方が言葉の意味を形成>

この観点からしますと、全体観を与えられていない人間はもう一纏めにして認識するのが実用的となります。
それ以上、この概念を細分化する必要はないのです。
近代人が、雪という言葉を、エスキモーのように細分化した多数の言葉にする必要がないように。

そしてそういうもののとらえ方は、時の流れの中で慣習化します。
支配者の言語の使い方は、一般人民にも波及します。
人民は統治者と同じような用法で言葉を使うようになります。

ですからスレーブ(slave)もサーバント(servant)も基本的に主人(Lord)以外の人間として一括して認識され、
そういう意味を持つようになるわけです。


                    

<「友」は主人の側>

イエスが「私はもはや諸君をしもべと呼ばないよ」というときのしもべは、
そういう全体観を与えられていない人間、という意味を持っています。

またイエスがここで「友」という場合には、その反対の「全体感を与えられている人間」という意味です。
主人である父と自分の側の人間という意味ですね。

「友」なる語のこのニュアンスは、日本人においても同様ではないでしょうか。
日本でも「友」には、心を許し「全てを話し」ますから。

イエスが「父なる創主から聞いたこと」とは、この地上と天を含めた世界の全体観です。

それを知ると、イエスがこれから拷問を受け十字架につるされて死ぬ理由もわかってきます。
イエスは弟子たちに、「それを伏せておいて部分的な命令だけを発すること」はしません。
もうこれが最後となる晩餐、弟子たちと共に再び食することのない晩餐の今
「父から聞いた全体観をそのまま伝えて」います。
そこで「諸君はいまやしもべではなく私の友なんだよ」と不安がる弟子たちに優しく説いている。
鹿嶋はこの場面がイメージに浮かぶとき、感動で胸が苦しくなります。


                    






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする