鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.253『弟子は可愛いものだが』(15章9~10節)

2009年04月26日 | ヨハネ伝解読
今回も「最後の晩餐」でのイエスの遺言です。

BGMはmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)


 聖句はこれです。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「私は諸君を愛します、父が私を愛したように。
私の愛の中にとどまっていなさい。
もし諸君が私の命令に従うならば、私の愛の中にとどまることになる。
それは私が父の命令を守って父の愛の中にとどまっているのと同じだよ」
(9~10節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    
        

 ここでは、イエスの愛の中にとどまっているという考えが出てきます。
「愛の中にとどまる」というのは、イエスに愛され続けるということでしょう。
だが、そのためには条件がある。「命令に従う」というのがそれだよ、といっています。

どうしてそれが決め手になるのでしょうか。

そもそも誰かの言葉の通りに動くには、二つのケースがあります。
一つは、その言葉を理解して動く場合、もう一つは理解できなくても言われたとおりに動く、というケースです。

民主教育では通常、第一のパターンが理想的だと教えられています。
命令に従うなんて主体的でない。封建的、専制君主的だ、こんなこと求めるのは暴君だと。


                    

 だけど、よく考えてみますと、第1のパターンは言葉を与える方と、
与えられる方との知識レベルが同等な状況にはいい方法です。
けれども、与える方の知識が圧倒的に勝っている場合は別です。
そこでは教えを受ける側が「理解できない」ことがどうしても含まれてきます。
これをどうするか。もう決め手は信頼です。言葉を与えてくれる存在を「信頼」すれば、
わからなくても従います。
そしてその場合は、言葉を命令として受けています。


                    

この「最後の晩餐」におけるイエスと弟子たちの関係がそうなのですね。
死を前にしたイエスは、今まで述べなかった奥義を次々に弟子たちに言い遺しています。
弟子たちは、その段階ではほとんどが理解困難です。
やってみて初めてわかることもあるし、後になってわかることもあります。

「今は命令として受けんだよ・・・」
イエスは弟子たちにそれを求めています。
緊張に充ちた凄い場面です。
        

                          


命令に従うのがどうして「愛の中に留まる」ことになるのでしょうか。
これにはまず「師匠は弟子が可愛いものだ」という心理を知ることが必要です。

昔、鹿嶋にはジョアン・ロビンソン(ロビンソン夫人)という経済学者に感銘を受けること多く、
短期間直接師事したいと思った時期がありました。
有名な経済学者ケインズのケンブリッジにおけるインナーサークルの一人で、
彼女も又経済屋にはよく知られる人になっていました。
で、当時日本のこれもすぐれた経済学者に相談しました。
「日本から来た無名の若輩など相手にしてくれるでしょうか?」

その先生の答え。
「大丈夫だよっ。歓迎するに決まってる。教祖は信者が好きなんだよっ!」


                    

イエスもそれを言っているようです。

「師匠は弟子が可愛いもんだよ」
「その愛の中の留まっているのが、弟子なんだよ」と。

だけどそれには私の言葉を命令として受けて、従うんだよ。
そうしたら私は諸君を本当に愛することが出来るんだ、よ。
またそれは私が父なる創主に対してしていることなんだよ。
それによって、私は父の愛の中にとどまっているんだよ、と。

意味深いですね。

                    


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Vol252『諸君が私の弟子となることは、父の栄誉になるんだよ』(15章8節)

2009年04月19日 | ヨハネ伝解読


 
最後の晩餐でのイエスの遺言を追いましょう。
今回はこれです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「諸君が多くの実を結び、私の弟子であることを証するならば、
それによって父は栄誉を受けられることになるよ」(15章8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


<「実を結ぶ」とは>

 ここで「実を結ぶ」というのは、どういうことでしょうか。
これはブドウの木のたとえの中で解するところだと考えられます。
この晩餐でイエスは自分をブドウの幹にたとえ、弟子たちをその枝に喩えてきました。
そして「枝のように私(イエス)に繋がっていなさいよ」と繰り返し述べました。
そのイメージの中で解読すべきでしょう。

ブドウの枝は幹に繋がっていることによって実を結びます。
では弟子はイエスに繋がっていることによって、どういう実を結ぶか。
それは「弟子になること」だとここではいっています。

一般に弟子とは、師匠のワールドに入って浸り、師匠の知識、ワザを吸収する人を指します。
そして一定の知識、技を身につけて示すと、人々は「ああ彼はあの人の弟子だなぁ」と認識することになります。
これが弟子であることを「証すること」、世に示すことであります。

イエスの弟子であること、も同じです。
イエスの教えを吸収していて、自分の中で一定の実りを得るということです。
そしてそれが外部にも示されますと「弟子であることを証する」となるわけです。

<究極は「父の栄誉」>

そしてイエスはこう付け足しています。
「そしてそれは父なる創主の栄誉なのだよ」と。

もちろん、弟子たちが直接的受けるのはイエスの力、イエスの影響です。
だが、そのイエスの力、言葉は「父からきている」ことをイエス確認させようとしているわけです。
「諸君が私に似るのは私の栄誉だけれど、その栄誉は究極には父が受けられるべきものなんだよ」と。
ネックレスの真珠のように、創主、イエス、弟子は一本の糸で繋がっていると、イエスは明言しています。

<「言葉が留まる」との関係は?>

ところで、この「弟子であること」は、前回述べた「私(イエス)の言葉が弟子たちのうちに留まる」(15章7節)というのと
どういう関係にあるのでしょうか。
結論から先に言いますと、「言葉が留まる」は、さらに進んだ、究極の状況です。
「弟子になる」はその前段階の状況です。

弟子であるのは、イエスワールドに浸って学んでいたらいいのです。
でも言葉を学んで吸収している段階は、まだ、「自分があって吸収している」という段階です。
(イスカリオテのユダもこの段階までには行っていました)

それでも「イエスに似ます」が、その似方はまだ部分的で、自分が中核になっています。
「イエスの言葉がうちに留まる」のは、そうではありません。
もうイエスの言葉が、その人の意識の中核として活きて動く状態です。
そしてイエスは「そうなったら望むことはかなうんだよ」と言っているのですね。

前回の7節の聖句は、イエスが弟子が目指すべき究極の状態をポーンと投げかけたところです。
今回は、そこに行く前段階に戻って、そのことについて述べているところだと解せます。


弟子の英語はdisciple です。discipleshipという言葉もあります。
「弟子たるの精神」あるいは「弟子道」と言ったらいいでしょうかね。

ところが英語にはもう一つapostleという言葉もあります。
これは日本では「使徒」と訳しています。

使徒は弟子のワンランク上の存在、と通常言語的には解されています。
この中身に、「言葉が留まっていること」と「イエスワールドに浸って学ぶこと」
とが対応しているのかもしれませんね。

<栄光、栄誉、力>

 また繰り返し述べることですが、栄光、栄誉、力なる語で表現されるものの実体は同じです。
創主から放射されている「いのちエネルギー」です。それは力の究極の源、であり、
そのエネルギーは栄光という光を発しています。
その光を感じると被造物はひれ伏し礼拝します。それが創主の栄誉となるので、
栄光は栄誉でもあるわけです。

創主は他の全ての存在に拝され、栄誉を受けるべき存在なのですね。


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Vol.251『こうすれば望みはかなうよ』(15章7節)

2009年04月11日 | ヨハネ伝解読
 「最後の晩餐」でのイエスの遺言は続きます。

本日もBGMはmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「諸君が私につながっており、私の言葉が諸君の内に留まっているならば、
望むものを何でも求めなさい。それはかなえられます。」(15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

ジャ~ン。これはすごい約束ですよ。
こうすれば「望むものを何でもかなえる」というんですからね!
この言葉は、抱くべきですね。

その「こうすれば」が「イエスの言葉を、自分の心の内に留めれば」です。
ここは是が非でもその意味を探求したいところです。

                    

<イエスに繋がるとは>


 まず「諸君が私に繋がっており」からいきましょう。
ここで「イエスにつながっている」というのはどういうことでしょうか。
それはひとつには15章の18節以降で語られることです。

そこでは「天と世との絶対的敵対関係」が明言されています。
 イエスは天の側の存在です。だから世とは絶対的に相容れないのです。
「世」は「天」に属するものを必ず迫害します。
これは理屈抜きに、本能的に攻撃します。

そいうなかでイエスの側につくこと、これがイエスに繋がることの一つです。

                    

 <「天」の側に付く>

 実は聖書の理解は、「天と世とは絶対的に敵対関係にある」という基本図式が
意識にあるかないかで根本的に分かれていきます。
この図式をもたないままでクリスチャン(?)やってる人が、
日本では全信仰者の90%以上いるのではないかな。

 こういう人の信仰は、とても「世的」なものになります。
「聖書は人間がこの世で幸福に生きるための知恵を教えているんじゃないの?」
というクリスチャン(?)に鹿嶋はしばしば出会ってきました。
「天」と「世」の境界線が意識に無ければそうなっていくんですね。
そういう人には全世界が「世」ですから。

                    

<「弟子」とは>

「イエスに繋がっている」のもう一つの意味は、「意識がイエスワールドの中に住んでいる」ということです。
これは後に「弟子であること」の条件であることが明らかになります。
とにかくイエスの言動が形成するイエスワールドの中に住んで、
イエスの知恵を吸収して身につける」という状態にあることですね。

でも「望むものがかなえられる」にはそれだけでは実現しないといっているのが本日の聖句です。
さらに「イエスの言葉がうちに留まっている」という状態が必要だと言っています。

この意味を理解するには、いま述べた「弟子であること」が参考になります。
弟子の意識はイエスワールドに浸って住んでいますが、
それでも「イエスの言葉そのものが心のうちに留まる」というところまでは行っていないのです。
イエスの知恵を吸収して身につけますが、しかし、そうして自分の意識にその知恵を組み込んでいく状態です。
だから、いいところだけいただいてあとはいらない、という「いいとこ取り」もありです。

                    

<言葉がうちに「留まる」とは>


「イエスの言葉がうちに留まる」というのはそうではない。
もうイエスの言葉そのものが、人のうちに留まって活きて動いているのです。
必要な時に、その言葉そのものが動いて、当人の言動を動かしてしまうのです。

たとえば何かの時に「私に繋がっていなさい」というイエスの言葉が有り有りと浮かぶ、といった具合です。
「love one another: (信徒同士で)愛し合いなさい」
という言葉が心に浮かんでその人を動かしてしまう、といった状態です。
頭でそういう聖句を考えて、意志の力で動くというのではない。
イエスの言葉がその人を動かしてしまうのです。

ある初心者の聖書勉強会で、春平太がこういう解読をしたら
「なんですかそれは?まるでコピー人間じゃないですか。
分身ロボットになれというんですか、冗談じゃない・・・」
といった方がいました。
米国在住の日本人主婦の方でした。

これには少し誤解があるのでして、イエスは「みんなそうしなさい」と言っているのではありません。
「望むものを何でもかなえてほしいのなら」そうしなさい、といっているだけで、
その主婦の方にも「する、しない」の自由が与えられているのです。
それが福音なのですけれども、日本の方には概してこの理解が難しいようでした。

                    


鹿嶋はこれまで「しるしが現れる信仰者」を沢山見てきました。
そういう方には共通して、この「イエスの言葉によって内側から動かされている」言動が顕著でした。
そしてそういう人の信仰は、なんというか「身を投げかけるような」信頼心で満たされていました。
あるいは「赤子のような信頼心」といったらいいかな。
事情を知らない人は「大の大人がばっかじゃなかろか・・」と思うような状況ですね。

そうやってイエスの言葉を抱いていて、あるとき
「願いの祈りが聞き届けられる現象」が現れたのではないかと思います。
そのときは本人も驚いたのではないかと思います。

ともあれ、この15章7節の言葉はすごい聖句です。
ヨハネ伝が「聖書の中の聖書」といわれるのは、
こういう奥義をしっかり記録しているからだろうと考えられます。


                   


コメント (9)
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スモールグループ訪問

2009年04月02日 | スモールグループが世界を救う


DKさんのスモールグループを訪問しました。
まだ寒い今年の2月のある日でした。
場所は東京、渋谷駅すぐ前の喫茶店の奥にある貸し会議室。
この日の参加者は4人でした。

みなさん聖句を熱心に討議されていました。
この活動をすると、知力が目に見えて上昇します。
写真からも、みなさんの知的な雰囲気が漂ってきます。
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