今回も「最後の晩餐」でのイエスの遺言です。
BGMはmariさんのこれです。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
聖句はこれです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私は諸君を愛します、父が私を愛したように。
私の愛の中にとどまっていなさい。
もし諸君が私の命令に従うならば、私の愛の中にとどまることになる。
それは私が父の命令を守って父の愛の中にとどまっているのと同じだよ」
(9~10節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここでは、イエスの愛の中にとどまっているという考えが出てきます。
「愛の中にとどまる」というのは、イエスに愛され続けるということでしょう。
だが、そのためには条件がある。「命令に従う」というのがそれだよ、といっています。
どうしてそれが決め手になるのでしょうか。
そもそも誰かの言葉の通りに動くには、二つのケースがあります。
一つは、その言葉を理解して動く場合、もう一つは理解できなくても言われたとおりに動く、というケースです。
民主教育では通常、第一のパターンが理想的だと教えられています。
命令に従うなんて主体的でない。封建的、専制君主的だ、こんなこと求めるのは暴君だと。
だけど、よく考えてみますと、第1のパターンは言葉を与える方と、
与えられる方との知識レベルが同等な状況にはいい方法です。
けれども、与える方の知識が圧倒的に勝っている場合は別です。
そこでは教えを受ける側が「理解できない」ことがどうしても含まれてきます。
これをどうするか。もう決め手は信頼です。言葉を与えてくれる存在を「信頼」すれば、
わからなくても従います。
そしてその場合は、言葉を命令として受けています。
この「最後の晩餐」におけるイエスと弟子たちの関係がそうなのですね。
死を前にしたイエスは、今まで述べなかった奥義を次々に弟子たちに言い遺しています。
弟子たちは、その段階ではほとんどが理解困難です。
やってみて初めてわかることもあるし、後になってわかることもあります。
「今は命令として受けんだよ・・・」
イエスは弟子たちにそれを求めています。
緊張に充ちた凄い場面です。
命令に従うのがどうして「愛の中に留まる」ことになるのでしょうか。
これにはまず「師匠は弟子が可愛いものだ」という心理を知ることが必要です。
昔、鹿嶋にはジョアン・ロビンソン(ロビンソン夫人)という経済学者に感銘を受けること多く、
短期間直接師事したいと思った時期がありました。
有名な経済学者ケインズのケンブリッジにおけるインナーサークルの一人で、
彼女も又経済屋にはよく知られる人になっていました。
で、当時日本のこれもすぐれた経済学者に相談しました。
「日本から来た無名の若輩など相手にしてくれるでしょうか?」
その先生の答え。
「大丈夫だよっ。歓迎するに決まってる。教祖は信者が好きなんだよっ!」
イエスもそれを言っているようです。
「師匠は弟子が可愛いもんだよ」
「その愛の中の留まっているのが、弟子なんだよ」と。
だけどそれには私の言葉を命令として受けて、従うんだよ。
そうしたら私は諸君を本当に愛することが出来るんだ、よ。
またそれは私が父なる創主に対してしていることなんだよ。
それによって、私は父の愛の中にとどまっているんだよ、と。
意味深いですね。
BGMはmariさんのこれです。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
聖句はこれです。
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「私は諸君を愛します、父が私を愛したように。
私の愛の中にとどまっていなさい。
もし諸君が私の命令に従うならば、私の愛の中にとどまることになる。
それは私が父の命令を守って父の愛の中にとどまっているのと同じだよ」
(9~10節)
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ここでは、イエスの愛の中にとどまっているという考えが出てきます。
「愛の中にとどまる」というのは、イエスに愛され続けるということでしょう。
だが、そのためには条件がある。「命令に従う」というのがそれだよ、といっています。
どうしてそれが決め手になるのでしょうか。
そもそも誰かの言葉の通りに動くには、二つのケースがあります。
一つは、その言葉を理解して動く場合、もう一つは理解できなくても言われたとおりに動く、というケースです。
民主教育では通常、第一のパターンが理想的だと教えられています。
命令に従うなんて主体的でない。封建的、専制君主的だ、こんなこと求めるのは暴君だと。
だけど、よく考えてみますと、第1のパターンは言葉を与える方と、
与えられる方との知識レベルが同等な状況にはいい方法です。
けれども、与える方の知識が圧倒的に勝っている場合は別です。
そこでは教えを受ける側が「理解できない」ことがどうしても含まれてきます。
これをどうするか。もう決め手は信頼です。言葉を与えてくれる存在を「信頼」すれば、
わからなくても従います。
そしてその場合は、言葉を命令として受けています。
この「最後の晩餐」におけるイエスと弟子たちの関係がそうなのですね。
死を前にしたイエスは、今まで述べなかった奥義を次々に弟子たちに言い遺しています。
弟子たちは、その段階ではほとんどが理解困難です。
やってみて初めてわかることもあるし、後になってわかることもあります。
「今は命令として受けんだよ・・・」
イエスは弟子たちにそれを求めています。
緊張に充ちた凄い場面です。
命令に従うのがどうして「愛の中に留まる」ことになるのでしょうか。
これにはまず「師匠は弟子が可愛いものだ」という心理を知ることが必要です。
昔、鹿嶋にはジョアン・ロビンソン(ロビンソン夫人)という経済学者に感銘を受けること多く、
短期間直接師事したいと思った時期がありました。
有名な経済学者ケインズのケンブリッジにおけるインナーサークルの一人で、
彼女も又経済屋にはよく知られる人になっていました。
で、当時日本のこれもすぐれた経済学者に相談しました。
「日本から来た無名の若輩など相手にしてくれるでしょうか?」
その先生の答え。
「大丈夫だよっ。歓迎するに決まってる。教祖は信者が好きなんだよっ!」
イエスもそれを言っているようです。
「師匠は弟子が可愛いもんだよ」
「その愛の中の留まっているのが、弟子なんだよ」と。
だけどそれには私の言葉を命令として受けて、従うんだよ。
そうしたら私は諸君を本当に愛することが出来るんだ、よ。
またそれは私が父なる創主に対してしていることなんだよ。
それによって、私は父の愛の中にとどまっているんだよ、と。
意味深いですね。