鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.194『トラウマを受けないように』(13章)

2007年03月28日 | ヨハネ伝解読
 本日の聖句はこれです。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私がこれを、前もっていうのは、諸君らが私(の言葉)を信じるようになるためです」(13章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 この言葉の持つ、現実的な意味を考えます。


                    

前回~~
「しかし、諸君の全員について、仕合わせになるといっているのではない・・・」というイエスの言葉を示しました(18節)。これは具体的には、ユダはイエスの言葉に従わないから、幸せになれない、ということでした。

  ユダは言葉に従わないだけでなく、裏切ってイエスを殺そうとする集団を先導することになります。だがイエスは、それはあらかじめ決まっていることだ、と言いました。
 
「『わたしのパンを食べている者が、私に向かってそのかかとをあげた』という(旧約)聖書の預言がある(詩編、41章9節)。預言は成就することになっているからね(もう、昔からこうなることは決まっているんだからね)」(18節)。

 ~~といったのですよね。


                    

 さてここで一寸考えましょう。ユダが裏切ることは、旧約の聖書預言でもってもう決まっているのならば、イエスはなんでわざわざそれを口に出して言う必要があるのでしょうか。決まっているのなら、わざわざ言うこともないではないか。言わない方が、奥ゆかしいではないか。

  ~~本日の聖句は、そうした疑問が出たらイエスはこう答える、ということを示す言葉です。つまり、決まっていることをあらかじめいうのは、弟子たちが自分の言葉を信頼するためだ、とイエスは言っています。


                    

<言葉がそのまま内に留まることが鍵>

 イエスは間もなく、弟子に伝道をまかせて、父なる創主の元に返ろうとしています。そうしたイエスにとって、弟子たちのイエスへの信頼度を深いものにすることは、実際上とても重要なことでした。

 弟子たちはイエスのような創主の子ではありません。生身の人間です。そう簡単に、いなくなってしまった師匠を深く信頼することは出来そうにないのです。

 では信頼度が浅いとどうなるか。弟子たちはイエスの言葉そのものではなく、"自分の”信念を交えて人々に伝道するようになるでしょう。現実の話、そうなっていくのです。

 それではまずい。“イエスの”言葉が“そのまま”弟子たちの信念になってくれなければ困ります。これは容易なことではありませんが、イエスの口から出た言葉に、弟子たちが深い信頼を抱くようになった時にはそれが可能になるのです。


                    


 イエスは次の20節で、

「私がつかわす者を受け入れる者は、私を受け入れる者です。」(13章20節)

~~と言っています。ここは注意が必要です。この聖句で「つかわす者」とは“イエスの言葉がそのまま自分の信念になった”弟子たちのことです。そうなっていないのは、「つかわす者」にはならないのです。

 で、次の「受け入れる者」は、“イエスの言葉がそのまま自分の信念になった、そういう”弟子たちが伝道する言葉を受け入れる者です。

こうなったときにだけ、弟子たちは、創造主の言葉、「天の論理」の言葉を人々に伝道したことになります。どうしてか?


                    

 イエスは、自分が弟子たちに語る教えは「父なる創主の教えである」と言っています(7章16節)。

後の14章になると、イエスはこれを更に具体的に~~

 「わたしが諸君に話している言葉は、自分から話しているのではない。父が私のうちにおられて、みわざをなさっているのである」(14章10節)

 ~~と言っています。
  ですから~~

 「父なる創主の語る言葉」=「イエスの語る言葉」

 ~~という等式は成り立っています。そこで後は、

「イエスの語る言葉」= 「弟子が 宣べ伝える言葉」

 ~~となれば、

「父なる創主の語る言葉」=「イエスの語る言葉」= 「弟子が 宣べ伝える言葉」

~~という等式が成り立ちます。それすなわち、弟子たちが「父なる創造主の教え(言葉)」「天の論理」そのものを伝道することになるのです。


                    

 伝えられた多くの者の中には、また、それを「そのまま受け入れて 宣べ伝える者」が出るでしょう。かくして純正なキリスト教、天の論理、創造主の言葉が普及するラインがこの地上に出現するのです。

 ところが、最初の伝道者である、弟子たちが「自分の人間的な信念」を交えて伝えたらどうなるか。もうキリスト教は、通俗的な世的な教えの宗教となっていくしかなくなります。


                    


 そこでイエスはこれから起きることを前もって語ります。そしてその通りのことが現実に起きます。すると弟子たちは「ああ、あの方の口から出た言葉の通りに現実はなるんだ。あの方の言葉は真理なんだ・・」と確信を深めます。

逆に、前もって言っておかなかったらどうなるでしょうか。説教からしるし(奇跡)、さらには生活費(献金収入)まで、あらかたイエスに依存して旅暮らしをしてきた弟子たちです。

 あるとき急転直下、イエスが殺されたら仰天するでしょう。「こんなに簡単に殺されてしまわれるとは・・」「これから俺たちどうしたらいいんだ・・・」と、動転しイエスの力と約束(言葉)に幾分なりとも不信を抱くでしょう。

 そういうトラウマ(傷跡)が心に残りますと、後に命令通り伝道するにしても「私がその分(一時的な不信が作る心のトラウマの分)がんばります・・・」と、小林幸子が唄う歌謡曲「雪椿」の歌詞みたいな気持になるでしょう。そうやって自分の頭を働かせて自分の信念を交えて語ることになるでしょう。

 それでは困るのです。キリスト教は通俗的で世的な宗教になってしまうのです。

 だからイエスは、「前もって言っておくよ。こうなるのだよ。だから動転したらダメだよ。私への信頼を(たとえ一時的にでも)失ったらいかんよ・・・」と言っておくのです。

 すごいなぁ、すごいなぁ・・・。間もなくすさまじい苦痛を肉体に受けるのがわかっている状態でここまで弟子たちのケアをする。これだけでもとても人間わざには思えません。


                    

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Vol.193『天の論理、世の論理』(13章)

2007年03月24日 | ヨハネ伝解読



 次に進みます。
 本日の聖句はこれです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「諸君の全員にそう(幸せになれる)と言っているのではありません。私は、自分が選んだ人間を知っているのです。だが『私のパンを食べている者が、私に向かってそのかかとを上げた』という聖句(旧訳聖書の)は実現しなければならないのです」(13章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 「しかし、諸君の全員について、仕合わせになるといっているのではない・・・」とイエスは続いていいます(18節)。

  何のことでしょうか? イエスのいう、この幸福、究極の幸福に無関係な人間が一人いるということです。

 それはイスカリオテのユダでした。どうしてわかるか? 透視か? そんなもの必要ありません。ユダはすでに、イエスの教えについて行かれなくなっているのです。「こんなんじゃぁ、とてもやっとられない・・・」そういう心理状態になっています。


 それでもって、依然として、イエスの集団に加わっているのです。(こういう状況って我々の社会にもありますよ)

  ユダはイエスに最も近接した12弟子の一人でした。なのに師匠の考えの外に出てしまっている。その状況はいくつか散見されます。


                    


 たとえば前の12章で、ラザロの姉妹、マリアが高価な香油をイエスの足に塗りましたね(12章3節)。

 それについて、ユダはクレームをつけています。「売れば貧しい人に施し出来るのに・・・」と苦情を言う。イエスがそうさせているにもかかわらず、非難する。

  ~~これはユダの意識がイエスの世界、イエスワールドの中に、もはや留まっていないということを明らかに示しているのです。その類のことは、ヨハネが福音書に直接そうだと明記していない場面においても、散見されます。


                    

  余談ですけれど、こういうことは、イエスでなくとも親分というのはわかるものであります。「この男は、もう、私の理念の外に出てしまっているなあ」ということが。雰囲気で簡単にわかる。

  春平太にも経験があるんですよ。若いころ、血気盛んで、若手学者の一群を率いていたことがあります。学問上の軍団です。集団の力で研究成果を上げ、売り出していました。その過程でチームから裏切るものが出た。

  面白いことに、一度そういう経験をすると、今度は裏切られる前にわかるようになるのですね。

 「ああ、この人はいずれ裏切るなあ・・・」と。仲間に入ってきたときからわかる。でも排除しない。そして、懐に抱いている。と、やっぱり裏切っていきます。

  ましてや、イエスです。この程度のことは、もうず~と前からお見通しです。しかし、そこからが春平太のような凡人とは違います。それを、この男は「自分を殺そうとしている集団を、自分の所に案内してくるところまでやる」というところまで見通す~~これがイエスです。


                    


   どうしてそこまで? ここでは聖書の鉄則が想起されねばなりません。イエスの教えは「天の側の論理」なのです。対して、ユダが抱くようになっている思想は「世の論理」です。そして、天と世とは絶対的に敵対関係にあることと、「世の君主」は悪魔である、というのは聖書の鉄則です。

(これを知らない信仰者が日本には多いんですけどね)

   世の君主は、天の論理を広める者については、殺意を持つところまでいくのです。イエスはその法則を知っています。(ヨハネも、少なくともこの福音書を書く時点では、それを悟っています)だから、ユダの行為は、自分に対する「たんなる反抗では終わらない」ことを知っているのです。

   だから、続いてこういいます。「『わたしのパンを食べている者が、私に向かってそのかかとをあげた』という(旧約)聖書の預言がある(詩編、41章9節)。預言は成就することになっているからね(もう、昔からこうなることは決まっているんだからね)」と(18節)。

 すごい話ですね。


                    

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Vol.192『自己神欲の苦しみから逃れる唯一の方法』(13章)

2007年03月20日 | ヨハネ伝解読

「ヨハネ伝解読」次に進みましょう。
 本日の聖句はこれです。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「しもべは主人にまさるものでなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではありません。
それらのことがわかっていて、(なおかつ)それ(下位の者の足を洗うこと)を行うなら、
諸君はいかに幸福になることか!」(13章16~7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 ヨハネは、イエスが弟子の足を洗う場面の次に、ユダが裏切ることを前もって告げる場面を記しています。

  だがその場面に入る前に、イエスが述べた一言もヨハネは記録してくれています。
「私が(諸君の足を洗ったのについて)説明したことを理解して、
諸君がそれを行うのならば、諸君は何と幸福になることか!」がそれです(17節)。

  この一言は、結構意味深いように思われます。
「なんと幸せになることか!」とイエスが言っているんですから。
ここには、人間が幸福になる秘訣があるのではないか。そういう期待を抱かせてくれます。


                    


<自己神欲>

 どういうことでしょうね? 難しいですが、鹿嶋はこう解読しています。すなわち~

  ---教団が成長し、弟子たちがその指導者となり、集団内で自分の地位が上にあるということになると、
新たに苦しみがやってくる。
まず、自分の権威を犯すものに対して怒りがこみ上げてきます。
権威を犯す者は新参者に限りません。同じ12弟子の間でも、権威・権限の犯し合いは起きうるのです。

 人間には、自分を神様のような地位に置きたいという本能が、深く深く埋め込まれるようになっている
というのが聖書に込められた人間洞察です。

                    

  それは、エデンの園で「この知恵の実を食べればあなたは創主のように賢くなれる」という蛇の言葉を、
イブが受け入れたときから始まっています。

 アダムも、愛するイブと行動を共にしました。
それ以来、人間の意識の根底には、自分を神様のようにしたいという本能が埋め込まれた---

 これが聖書の示唆する心理学だと春平太は理解しています。
ついでにそれに名前も付けました。「自己神欲」というのがそれです。

 自分を神様のような位置に置きたいという欲望です。通常、自尊心と言われているものに近いです。
よく「自尊心は人間の最も深いところにある心理」といわれます。ま
た、「人間、歳取って、最後に残るのは名誉欲」ともいわれます。
これらは、自己神欲から派生するものではないかと思います。

 (これには更に根底的な意識が考えられるのですが、ここでは述べません)


                    


 それを推定させる出来事はよくあります。

 たとえば、どんなに人格的に尊敬できる人でも、あなたを愛してくれている人でも、
自尊心に触れるようなことをいうと、その人は激しく怒ります。
まるで人格者であったことがウソであったように。あなたを可愛がってくれていたのがウソであったかのように。

  人柄が一変して時として野獣のようにもなります。そういう例を春平太は観察してきました。
自己神欲は、人がどんなに経済的に豊かになっても、世的に上位な地位についても、
その人の心の平安を脅かし続けているのです。

だが、もし「自分の教え子たちの足を洗え」というイエスの「命令を」守るならばどうでしょうか。
人はその針の筵の上にいるような状況から逃れることが出来るのではないか。

 「人の上位に立ちたい、尊敬されて支配したい、命令に従わせたい・・・」という本能が、
その時には、無くなるのですから。究極的な平安を手にしたことになる。

 イエスが「いかに幸いなことか! もしそれができれば・・・」といったのは、
そういうことを踏まえてではないかと鹿嶋は解しています。
平安こそが、人の幸福の究極の内容というのがイエスの教えの核心なのですから。


                    


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Vol.191『カトリック教団と対照させてみると』(13章)

2007年03月17日 | ヨハネ伝解読







 イエスが弟子の足を洗うことでもって示した組織編成方式の特徴は、後にローマの唯一国教となったカトリック教団と比較するとよくわかってきます。

~~聖句は前回と同じです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「互いに愛し合いなさい。私が諸君を愛したように、諸君も互いに愛し合いなさい」(13章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    

この教団では最終権限を持ったトップがいます。それが教皇。彼はイエスの代理人ということになっていますから絶対的権威者です。そして、その権威を司教、司祭などに委譲しているう。そうして教団を運営してきました。この組織編成方式は、国家や企業のような世的組織のそれと同じものであります。


                    


 カトリック教団というのは、もともとは、キリスト教運動をする人々の中で、教団全体の運営に心を配る傾向の強い人々を中心にして出来ていった教団でした。こういう人々は、はじめはボランティア的に教団全体のために働きます。(それが後に、司教とか大司教とかいう立場を得ていったのです。)


 人間の集団には、そういう世話好きタイプの人はいるようです。東京にある有名私立大学では、母校を愛しその運営が心配でならない人々が任意で自然に集まっています。彼らは、次の大学長を誰にすべきか、なども熱心に話し合い、結論が出ると手弁当で運動し始めます。

 選挙権のある人々に根気よく働きかけていくのです。


 そして、大体、もくろみは実現されてきています。無報酬でやっていますから、説得力もその分あるのでしょうか。ともあれ、そうした彼らは、大学の名前を**と頭に置いた「**マフィア」などと言った名で呼ばれています。そう深刻でもない、半分ユーモアを込めた呼称です。


                    


  初期のキリスト教団にも、そういう人はいたんでしょう。イエスの直接の弟子(使徒)がいなくなった後の人々のなかにもいた。そうした人々が、教団全体を心配して、ボランティアー代表者としてローマ帝国との交渉にもあたります。


  そうしているうちに彼らは教団を階層的に組織化することを望むようになります。ローマ帝国当局との取り決めを守るためにも、そうい統率が取りやすい方式が欲しくなるのです。

 
 しかしそれを嫌う人々もたくさんいます。本来、キリスト教運動とはそういう方式でなかったのですから。

 
 すると世話志向の人々は独自に教会を造って運営するようになります。そうなれば彼らの導く教団は分離していくことになる。これが後にカトリック教団になります。

                    


 キリスト教運動は紀元後313年には公認宗教となります。だがこの時ローマ帝国が対象としていたキリスト教団とは、統率のよくとれたカトリック教団でした。紀元後392年に帝国の唯一国教となったのもカトリック教団そのものなのです。


  唯一国教となったときカトリック教団は、ローマ帝国という、世的な統治体の一部を構成して宗教省のような役割を果たすことになりました。するとますます、世的な組織編成原理をとって行かざるを得なくなるんですね。

 
 この教団が、教皇という独特の最高権威者(オウナー社長のよう、といったらいいかな)を持つようになっていくのも、そうした背景の中での出来事でした。


                    

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Vol.190『イエス独特の組織編成原理』(13章)

2007年03月15日 | ヨハネ伝解読




~~前2回での予備知識をもとに、本日は核心に入ります。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「互いに愛し合いなさい。私が諸君を愛したように、諸君も互いに愛し合いなさい」
(13章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


弟子の足を洗って「諸君の主である私が諸君の足を洗った。これからは諸君も互いに足を洗い合いなさい」というイエスは、こういうことを考えていたと思われます。

 ---私の教団は国家や会社のような「世」の集団とは、全く別の組織形態をとらなければならない。それは教団の誰もが超越的な権威を持たない組織形態だ。だから、その権限を委譲することもないし、階層的命令系統を備えた管理組織もない~~と。

 しかしそんなことで、組織としての一体性が保てるのでしょうかね? メンバーが相互に連携して組織として動けるのでしょうか。


 イエスは保てる、動けると考えていたのです。集団の成員が相互に愛し合い、奉仕し合うということによってそれは可能になる~~と。


                    


 弟子たちはこれから、イエスから教わったことを新会員に教えていく教師的立場に立っていきます。しかしだからといって、組織上で命令者の立場に立つのではない~~とイエスは考えていたのではないか。

  むしろ教えてあげる新会員に対して奉仕する。足を洗ってあげる。もちろん、新会員も先輩、長老の足を洗います。しかし、長老も新参者の足を洗ってあげるのだ~~と。

  それは現実には小グループの連携体になるのですが、とにかくそのようにして愛を持って奉仕し合うというスタンスが全員にあれば、それで、集団は一体性を保っていく。イエスは、このような組織編成方式を弟子たちがとるように期待したと思われます。


                    

  その後ですぐに次のような命令を与えたことがそれを示唆しているようです~~

 「互いに愛し合いなさい。私が諸君を愛したように、諸君も互いに愛し合いなさい」(34節)

   ---これは推奨ではありません。命令であります。


                    

<ministerは仕える者>

 イエス(の言葉)を信じて集う者が互いに愛し合うのは、イエスの「命令」なのですね。弟子たちが新しい組織編成原理を「必ず」実行するように、それが出来るようにするための命令を念入りに発しているわけです。

これから弟子たちは、大教団の指導者であり大幹部になっていきます。そのとき君たちは、信徒たちに超越した権威を持って対面するようになってはいけないよ。幹部風を吹かせてはいけないよ。尊敬されてもひたすら奉仕者として尽くしなさいよ---イエスはこう教えたのでしょう。

 
                    

牧師や他の聖職者を英語でministerといいます。これはもともと「仕える、奉仕する者」というラテン語から来ている言葉なようです。

  相互奉仕の方式で、集団が一体性を持つ。一つになる。すると世の人々は、それをみて「これは、世の集団とは違う。イエスの集団だ」と識別するでしょう(35節)。イエスが命じた教団組織方式はこれでありました。


                    


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Vol.189『世の組織の編成原理』(13章)

2007年03月13日 | ヨハネ伝解読




 
~~最後の晩餐の時、イエスが弟子の足を洗った真意を考えるのに、もう一つの準備作業をします。この世における組織編成の原理を考察しておきます。真意を探るのに、その知識は必要なのです。

 聖句は前回と同じです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「主であり先生である私が諸君の足を洗いました。だからこれからは諸君も互いに足を洗い合わねばなりません」(13章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    



 弟子たちが大教団の大幹部になっても、「教えられるものの足を洗うようにして、奉仕しなさい」というのがイエスの手本の主旨です。イエスはこれを「目に見えるようにやってみて示し」さらにその理由説明を繰り返します。

 どうしてか? 
 人間たちにはそれを守るのはとてもむずかしいことだからでしょう。


                    


 それはこの世で運営される人間集団、組織集団について考えるとわかってきます。組織ですから、ある程度は一体性を持って動かなければなりません。

 相互に連携して動かなければならない。連携が崩れたら、みんな各々勝手に動くことになる。そうなったら、同じ人間集団でも、ただの群衆になります。

 東京渋谷駅前のハチ公の銅像のあるところには、たくさんの人がたむろしています。けれども、彼らの動きには何の連携もない。ただの群衆です。そういう風に、一体性がなければ群衆になってしまいます。


                    
                    

<権限を委譲する>

 人間は組織を作るに際して通常、集団が人の身体の各器官のようになることをめざして、編成します。そうして一体性を持って動けるようにするのです。国家機関も会社もそうですよね。

 会社などのこの世の組織では、誰か一人が頂点に立って最終的な運営の決定権を持っているようにしています。通常、その人は社長です。彼は人間の頭脳に相当します。

 社長はそのうえで、その権限の一部を他者に「委譲」していきます。

 一人の人間には統率できる範囲の限界があるのです。これを経営学ではスパン・オブ・コントロール(span of control:統率の限界)と言います。組織が大きくなるとトップは権限の委譲をして運営していかざるを得なくなるのは、それがあるからです。

 こうして、部長、課長、係長、職長といった管理職が出来ていきます。こうしたスパン・オブ・コントロールの産物は、人間の身体では神経系統に相当するとみていいでしょう。

 もちろん彼らも一定の決定権を委譲されています。けれども、それは委譲であって、委譲されたことがらの最終的な権限はやはり社長にある。彼らの本質的な役割は、やはり社長からの情報を部下に伝達し、彼らをコントロールするところにあります。


                    

<中間管理職排除の動向>

 ---余談の余談になります。中間管理職というのは本来ですから、会社や国家の組織で正しく速やかな意思伝達をするための装置である面が大きいです。

 ところが最近、コンピュータによる情報通信網が発展しました。社内電子メールやSNSによって、組織成員の間の相互意思伝達が飛躍的に上昇しました。これによって意思伝達上の障害が大きく取り除かれるようになりました。

 そうすると、従来の中間管理職の必要性が低下していきます。かくして部長、課長、係長と言った職位が排除され易くなっていく。

 これがいわゆる部課係長のリストラというやつです。技術革新というのは、こういう風に、経済、経営の様々な分野に変化をもたらすんですね。長いこと上司に仕えてきてやっと部長になれた、課長になれたと思ったら、リストラされたという例が今日本ではたくさんあります。

 悲劇で同情すべき点も多いですけれども、こういう動向は全く予測できないというものではないです。先を見越して、新しい身の振り方、新しい能力習得に動けば、それなりに新世界が開けます。技術情報、知識は、常に収集しているべきでしょう。そうすれば泣きを見る確率は低下いたします。


                    


<管理階層組織が一番容易>

 ---話を戻しましょう。とにかく、世の組織は、トップに最終的な権限があることにして、下部にその一部を委譲して、それでもって集団の一体性を保つようになっています。会社だけでなく、政府も地方自治体も学校も病院も同じであります。

 世では通常そういう風に組織が編成される。それが一番容易だからです。
 
  ~~それを確認して、イエスの教えに向かいましょう。
イエスはそういう組織編成を望まなかったのです。


                    


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Vol.188『ヨハネ神学での三位一体』(13章)

2007年03月10日 | ヨハネ伝解読






~~前回の続きです。

 イエスは何故、弟子の足を自らの手で洗って、そして「諸君もこうしろ」と繰り返したか? この問題を解くには、多くの面から寄せるようにして考えていかねばなりません。本日はその準備作業のひとつとして、福音書著者ヨハネの三位一体観を考えておきます。


聖句は前回と同じです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「主であり先生である私が諸君の足を洗いました。だからこれからは諸君も互いに足を洗い合わねばなりません」(13章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 イエスは、具体的にどういう状況を想定して、こういうことを言っているのでしょうか?
結論から言いますと、イエスなき後に教団が発展し、弟子たちが教える側に立ったときの状況だと思われます。

 どうしてか?
これには結構息の長い解読が必要です。
 本日はその為の準備作業をしておきます。

                    


 少し話を戻しましょう。
 3節でヨハネは~~

 「父なる創主が完全な力をイエスに与えられたとイエスは悟った」(13章3節)

  ~~と記しています。これを読むと「悟ったって? イエスは創主の子であって、創主と同じく全能者だったのではないか。なのに・・・」という疑問が、我々には湧いてきます。

                    


<イエスの洞察も創主から来る>

 しかし、ヨハネはそう見ていないのです。イエスの力も洞察も、父なる創主から「与えられて来る」ものなのだと彼は見ている。いつもそうだと観察しています。「人の子」イエスは洞察を、創主と意識を完全に同化させることによって、与えられているとみるのです。

 イエスは弟子の誰よりもよく祈っています。時には汗が血のようにしたたり落ちた。それほどに、全身全霊を尽くして祈っている。力も悟りもその結果だとヨハネは判断しているのです。

 それがヨハネ神学です。力の本源は、父なる創主のみにある。力とは「いのちエネルギー」の一側面ですから、いのちの本源は創主のみ、ということになります。ヨハネ神学では、イエスも聖霊も単独で生きる存在とはみていないのです。


                    

<ヨハネの三位一体観>

 創主のみが他者からいのちエネルギーを与えられることなく、独力で生きられる。イエスは、彼自身が言うように、創主の言われることをそのまま受けてこの世で語っている。聖霊もまた、イエスの語ることを受けてそのまま語り、証言し、行動する。

 これがヨハネの三位一体神学です。もっとも、三位一体という言葉は、彼よりずっと後で登場した神学用語ですけれども。これは聖書の中の用語ではありません。


                    

 ---ともあれ、そういうヨハネ神学から見ますと、イエスは祈りに祈って創主と意識波動が完全に同化できたときに、これから起きることもはっきり悟ったということになるでしょう。

 先ほどの3節でもって、ヨハネが短く記した聖句~~

「父なる創主が完全な力をイエスに与えられたとイエスは悟った」(3節)

     ~~はそういう意味だと思われます。

                       


<将来キリスト教団で起きること>

  イエスが悟ったことには、これから展開していくイエス(キリスト)教団の動向もあったのではないでしょうか。キリスト教団といっても人間が運営していく教団です。

 イエスは、これから十字架刑で殺されます。三日後に復活して、弟子たちに「地の果てまでこの教えを宣べ伝えよ」という宣教命令を与えます。そして教えを追加して、父なる創主の王国である、天国に帰っていきます。

 弟子たちは、自分たちだけで宣教をはじめます。にもかかわらず、教団は、一日に3000人が入会するというほどの大発展をする。直接の弟子たちは、瞬く間に大教団の大幹部になっていく---こういうことも祈りを通じて「悟る」わけでしょう。

 映像として見えたと解してもいいでしょう。そこでイエスは、この状況を想定して「下位者の足を洗う」という手本を示し、また語っているのでしょう。

 もちろん弟子たちには、そんなこと読めるはずもありません。彼らは、よくわからない漠然とした気持ちで聞いていたのでしょう。

 だが、そんなことはイエスにはお見通しです。だからペテロに~~

 「今は私のしていることが諸君にはわからないんだ。でも後でわかるよ」(7節)

      ~~といったのでしょう。


                    


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Vol.187『私は手本を示したんだよ』(13章)

2007年03月09日 | ヨハネ伝解読






 イエスが弟子の足を洗う場面が続きます。この後まもなくユダヤ教僧侶たちは、ローマ兵にイエスを捕らえさせます。イエスはそういう時が来たことがわかっていてこういうことをしているのです。

 本日の聖句は~


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「主であり先生である私が諸君の足を洗いました。だからこれからは諸君も互いに足を洗い合わねばなりません」(13章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~~です。

                    


 イエスはみんなの足を洗い終えて自分の席にもどりました。そして~~

 「私が君たちにしたことが君たちに理解できますか?」

    ~~とたずねました(12節)。更に弟子たちの答えを待つこともなく語り始めました。

 「諸君は私を先生と呼び、また主と呼んでいますね。諸君は正しい。私はその通りの存在だ」(13節)

 「その私が、諸君の足を洗ったんだ。これからは諸君らも、互いにそうし合いなさい」(14節)

 「私は手本を例示したんだよ。諸君らもこうするように。」(15節)

                    


 ---これで、主旨は語り尽くされています。けれどもイエスはこれについては、念を押すようにこう繰り返します。

 「僕(しもべ)は主人より下位な存在だ。メッセンジャーとして遣わされるものは、遣わす方より下位な存在だ。」(16節)

 「(それには間違いはない。だが)そのことがわかっていた上で、なおかつ下位のものの足を洗いなさい。それを実践したら諸君はどんなに幸福になれることか!」(17節)

 ---こういう風に、くどいように見える繰りを返しイエスはしています。それがよほど大切で、しかも守っていき難い、崩れ易いものだからだと思われます。

                    


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Vol.186『やめてください!もったいない・・』(13章)

2007年03月08日 | ヨハネ伝解読





~~有名な、弟子の足を洗う場面に入ります。
本日の聖句は、弟子ペテロのセリフです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「シモン・ペテロはイエスに言った『主よ、でしたら足だけでなく、どうぞ私の手も頭も洗ってください』」(9節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 いわゆる「最後の晩餐」のとき、イエスは弟子たち一人一人の足を洗い始めました。弟子たちは、従順になされるままにしています。ところが、ペテロの番になると彼は叫び出しました~~

 「先生。先生が私の足を洗うんですか!?」(6節)

 イエスは答えます~~

 「今わたしのしていることは、君にはわからないよ。だけど後でわかるからね」(7節)。

 ペテロは納得できません。先生が、この私めの足を洗うなんて・・・。他の連中は、なされるままにしている。一体何を考えているんだ!

 「いや、先生、私に関しては、やめてください」(8節)

                    


<可愛いキャラクター>

 それなら・・・とイエスは言います。

 「もし私が君の足を洗わなかったら、私と君とは何の関わりもなくなるんだよ」(8節)。

 ペテロは動転しました。理由はわからないけれど、とにかく、先生と関係が無くなるなんて、考えることも出来ない。ペテロはイエスを心底愛しているのです。とても人間的な愛ですが、愛している。

 イエスと離れたら、生きていかれない。ペテロは可愛い人なのです。

 そこで、こんなことを言い始めます~~

 「だったら、先生。私には、足だけでなく、手も頭も洗ってください!」(9節)。

 可愛いでしょう。こういう人物が可愛くないはずがありません。とても人間的・・・。人間的ということは、暖かい雰囲気に充ちている、ということでもあります。

                    

<ペテロとヨハネの人格タイプ>

 だがこれを書いているヨハネはそうではありません。彼はすでに、この世での人間的な思いを超えて、天の論理を理解しつつありました。そしてそれこそが、イエスが「従え」と教えた論理であることを悟りつつありました。

 イエスの両脇を固めた、助さんヨハネと、格さんペテロですが、二人はかくも対照的な人物だったのですね。

                    



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Vol.185『突然弟子の足を洗い始める』(13章)

2007年03月07日 | ヨハネ伝解読



~~最初の節でえらく手間取った13章でした。2節に進みます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「夕食のときに、悪魔はすでにイスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた」(13章2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    

 ここではヨハネは悪魔とユダの意識の関係に論究しています。その頃をふり返って、「ああ、あの時ユダはすでにそういう意志決定をしていたんだな」と、思って書いているのでしょうか。

                    


 しかし、次の節ではヨハネは一転してイエスに視点を合わせています。イエスは次の二つのことを悟っていた、と記すのです。

 その一つは~~

 「父なる創主が、完全な力をイエスの手に与えた」ということ。

 今ひとつは~~

 「自分が創主のもとから来ていて、今、そこに帰ろうとしている」ということです(3節)。

 「自分が父のもとから来ている」と言うことは、イエスはこれまでにも繰り返し述べていました。だから、ここでの重点は後半の「今、父のもとに返る」ということを悟ったというところにあるのでしょう。

  自分はこの地上からいなくなる、ということをイエスは確信した。この時まだ、何も起きておりません。弟子たちは、もうすぐそんなことが起きるとは思いもしておりません。

                    

 ところが、イエスは悟った。そして、驚くべきことをし始めます。ヨハネは次のように記しています~~。

 「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れた」と(4~5節)。

 そして何をするかというと、

 「弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいで拭き始められた」(5節)

 と、記している。一体、どうなっているのでしょうか?


                    


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Vol.184『死の権を打ち破った空間』(13章)

2007年03月05日 | ヨハネ伝解読







 再び前回の続きです。聖句も同じです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「過ぎ越の祭りの前だった。イエスはこの世を離れ父のみもとに行く時が来ていることを悟った。彼は自分のものとなった、この世の人々を常に愛された。彼らを最後まで愛し通された」(13章1節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    

 若干繰り返しも含まれますが、ここは聖書の論理構造の理解に大きく関わってくるところです。そして、それは聖書解読のあり方にも直接関わってきます。

                    

<聖書「解読」とは>

 解読というのは、聖句を見て直感的に思いつくままにべらべらしゃべることではないのです。吉田拓郎の唄(「この指とまれ」)に~~

  ♪出まかせ言うな、愛を語るな・・・♪

というフレーズがありますが、それはまさにその場その場の「出まかせ」以上のものではない。そういうのは聖書解釈自由の神髄をわかってない人のやることです。

 解読とは聖書の構造の全体を視野に入れて、それと該当聖句を照合して整合性ある解釈を見出していく作業です。その「聖書全体の構造」観を得るために、ここはとても重要なところなのです。

                    


<イエスが造ったのは救いの「チャンス」>

 イエスが(一部の人間にではなく)、全人類に与えたものは、いわゆる「救い」ではありません。それを受ける「可能性」です。可能性は全人類に対して開かれた。聖書ではそうなっている。

 これだって、大変なもんですよ。十字架にかけられ、苦しめられ、罵倒され、死を味わうということをして、与えたんですからね。

 「創主は愛なり」というのは、そのことについて言っているのですね。聖書を読む者は、そこを取り違えてはいけません。

                    

<デレデレに「愛している」のではない>

 人類はその可能性を利用して、結果的に救いの資格を得る。だが結果については、創主は全人類には手放しで与えてはいないのです。「その資格までをも無条件に与える」ほどには、まあ、言ってみればデレデレの「甘い形で愛してはいない」んですね。それが創主の人間に対する愛の中身です。

 「愛、愛」とだけ叫んで門前祭りをしているニッポンキリスト教の皆様は、これでショックを受けるのですね。それは愛、愛と行ってるうちに、全部丸抱えで面倒見てくれる気持ちになってしまうからでしょうね。

 けれども聖書の論理はそうなってはいないのです。ならば信仰者たるもの、その計画を受けて毅然と対応するのがベストではないでしょうか。「救い」とはそういう実体のものであるとイメージして対応する。それが大切です。

                    

<死の権が及ばない空間を作る>

 イエスが十字架でもって、救いの可能性を開いたというのは、次のような全体構造観のなかで理解することも可能です。つまり~~

 ---そもそも、この世はサタンの支配する空間です。これは聖書論理の大前提です。だからイエスは悪魔を「世の君」というわけですね。君というのは、君主と言うことです。

 この君主は、「死の権」を持っています。人間(罪ある)の霊を、最終的に死に追いやる権利を持っています。そういう権がこの世という空間にあまねく及んでいた、というのが聖書の想定する「この世」観なのです。

 サタンはイエスも、十字架で殺します。ユダヤ人の意識をそういう風に方向付けて殺します。イエスの身体も、一時的には死の権にやられるのです。

 ところが、父なる創造主はイエスを生かします。イエスは罪なき存在です。全宇宙の法則に沿う存在です。つまり正しい、義なる存在です。

 サタンの死の権の支配は、「罪あるもの」に対してだけくまなく及ぶものなのです。だから、法則上、「罪無き」イエスには及びません。それで、父なる創造主は法則通りに、イエスを生かします。復活させます。

                    

 それすなわち、イエスがサタンの死の権を打ち破ったことになる。こうして、死の権の支配するこの世の世界に、それに打ち勝った空間が出来た。そこにはイエスの名が冠せられている。

 このイエスの名の論理はここで詳述できませんが、結論的にはそういうことになっています。すると、イエスの名のあるポイントには、サタンの死の権が及ばない空間が出来ることになります。罪あるものも、そこに入ってしまえば霊の死から免れるということになるのです。
 
 ---これがイエスの十字架死がもたらす、救いの論理の一つのイメージです。これでいきますと、救われるにはイエスの名のある領域に信頼して入ることが必要ということになります。だけど、それを真理と思わない人は、そんなところはおかしくて入る気になれないわけです。

                    

 そうすると、その人は、悪魔の論理、死の権のなかで生き続けることになります。イエスの名の外側は、悪魔の支配権のもとにある空間、というのが聖書の論理ですから。

 その人は、自ら与えられた自由意志で、それを選んだわけです。イエスとしては、法則上そういう選択をした人はどうすることも出来ないのです。死の権の及ばない世界をつくったのだけれど、入ってこないんでは対処しようがないのです。

 そして、最後には、悪魔の支配する空間は、火で焼かれて消滅するということにい聖書の論理ではなっています(最後の審判)。悪魔の空間で生きてきた人は、悪魔と共に、まとめて火の池に投げ入れられる。それは、聖書では法則通りと言うことになります。

 イエスは、そのことを教え、弟子たちにそれを伝えさせました。その際どういうわけか、自分では伝道し続けなかったのですね。その状態で歴史が展開しますから、イエスの名のある空間に入ってこない人々もたくさん出るんですね。

 これに関しては、イエスも法則上どうすることも出来ないのです。だからもう・・・、「どうでもいい」ということにしかならないわけです。 

                    

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Vol.183『イエスが地上に踏みとどまってくれていたら』(13章)

2007年03月04日 | ヨハネ伝解読
 






 前回の続きです。聖句も同じです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「過ぎ越の祭りの前だった。イエスはこの世を離れ父のみもとに行く時が来ていることを悟った。彼は自分のものとなった、この世の人々を常に愛された。彼らを最後まで愛し通された」(13章1節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 イエスの仕事によって救われる人間は、人類の一部にすぎない。結果的にこれまでの歴史ではそうなっています。

 どうしてそうなってしまうのか? イエスはどうして、全員を「手放しで」救うようにしていかなかったのか。究極の答えは創主のみが知るところでしょう。

 だが、一部しか救われなくなっている理由は春平太にもわかります。それは人間に伝道させているからではないでしょうか。

 もしも・・・、もしも・・・、復活したイエスがこの地上にず~と踏みとどまってくれていたらどうでしょう。説教を続け奇跡を見せ続けていてくれたならばどうでしょうか。事態は大きく違うことになったはずです。

 もしそうなら、何世紀たっても死なないで、復活したイエスはこの地上で教え続けていることになります。そうしたら人間には「人の姿はとっているけれども、この方は人間ではない、創主の子だ」と信じるのが容易になります。だって死なないんだもん。

 ほとんど文句なく信じたでしょうね。そうすれば、今よりもっともっとたくさんの人が、教えを受け入れ、「救い」を受けたはずです。


                    


 でも、そういう風にはされませんでした。どうしてか? 聖書によればそうしないのが創主のやり方だ。そうとしかわかりません。

 人類の救いについては、創主の計画はその程度のものということになる。こう言うとびっくりする信仰者の方が、我が国には多いです。春平太の著書に手紙で抗議してきた方もおられます。

 「信仰が揺らいだ」という。「どうしてくれるんだ」と。怒ってこられました。このように「この程度のもの」といういい方は、ニッポンキリスト教の信仰者への衝撃が大きいのは承知しています。けれども論理としてそうなるから仕方ないですね。

                    

 ヨハネのこの13章の冒頭の聖句は、そういうことも示唆していると鹿嶋は見ます。イエスの教えを受け入れて、イエスのものになった人、これは愛した。「最後の最後まで愛し通した」とヨハネは言う。

 では、イエスのものにならなかった人間は? イエスにとって? 創主にとって?・・・答えは・・・「どうでもいい」でした。

 「えぇ~っ?」「本屋さんで買った聖書の解説書には、”神は愛なり”と聖書に書いてあると言ってるのに・・・」「ヨハネも同じこの福音書で、”一人も滅びないで・・・”と書いているのに」

 「まさか!」ですよね。気分としては。
 このあたり、詳しくはどうなっているのでしょうか。 

                    




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Vol.182『イエスが愛するのは「自分のものになった人」』(13章)

2007年03月01日 | ヨハネ伝解読




 この世の福音現象を批評しますと、議論が軽薄に流れる傾向が生じますので、「ヨハネ伝解読」にもどりましょう。著書の売れ行きなどについては、また、流れの中で書きますからね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「過ぎ越の祭りの前だった。イエスはこの世を離れ父のみもとに行く時が来ていることを悟った。彼は自分のものとなった、この世の人々を常に愛された。彼らを最後まで愛し通された」(13章1節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    

 13章に入りました。ヨハネはここで、有名な出来事について記しています。イエスが弟子の足を洗う、という場面がそれであります。

 だが、その前に、「イエスは、自分のものとなった、この世にいる人々を、最後まで愛し通された」とヨハネは記しています(1節)。13章は、まずはこれから・・・。

                                        

<イエス第一の使命は、悪魔の本性の証拠を挙げること>

 ここでヨハネは、イエスが最後まで愛し通されたのは、「イエスのものとなった人々」といっています。「世の人々全部」とはいっていない。もしそうなら、他の人に対して、少し冷たいではないでしょうか。どうしてそんなことを書くのでしょうか。

 むずかしいところですが、こういうことではないでしょうか。そもそも聖書で記されているイエスにとって、根本的なことは、父なる創主より与えられた自らの使命を全うすることであります。それは第一には、十字架で殺されることによって、悪魔の本性を表に出すことです。こうして、証拠を明らかにし、裁きを可能にする---これです。

 それによって、同時に、天国に入る資格を失ってしまっている人類に、それが可能になる道が創られます。だから、これは、第一のことと表裏の位置にある。ですけれども、聖書の論理構造からみるとこれha
第二の使命、というべきものであります。

 人間中心主義で聖書を読む人は、こういうと目をむくでしょうけどね。なかには「異端!」と言いふらす教職者も出ている。まあこれもしょうがないでしょうね。

                    

 
<救いの道は条件付きの道>

 イエスが開いた救いの道は、可能性の道であります。救いを現実化するには、「この道を真理だと受け入れて天国行きの資格を得る(これを「救い」と言います)」ことが必要だ。そういう条件付きの道です。


                    

<自由意志が働く状態で、弟子に任せてバイバイ>

 そして、この「救い」を現実化するというのは、100%イエスの仕事というわけではないのですね、聖書の論理構造では。なぜなら、これを認めて資格をうる際には、人間の自由意志が働く余地があるようにつくられていますから。

 だから、認めない人も出うる。そういう状態にしておいてイエスは天国に帰っていってしまうのです。「救い」をうることの半分は人間個々人の問題でもあることにしてバイバイしていった。これが福音の構図です。

                    

 もちろんイエスは、真理として受け入れて「救われる」資格を得る方法を説いたメッセージをも発しています。そして、弟子が出来ます。でもこの弟子たちは、自由意志を認められた状態で、認知し、考え、決断して教えを受け入れてきている人々なのですね。

 で、イエスは、自分は復活して父なる創主の王国である天国に帰っていってしまう。その後の、人間の救いに関することは、弟子の伝道に任せていってしまったことになります。

 イエスは天国でもって、「自分のものとなった」人間の祈りを見て、それを全能の創造主に「とりなし」します。祈りが聞き届けられ、創主から応えられるように、です。

 また、助け主、証し主としての聖霊を送ってきます(その話は後の章に出てきます)。だが、それだって、「宣べ伝えるものを」助けるだけの助け主です。聖霊が自ら人間の姿をとって、教えてしまうわけではないのです。


                    

 もう伝道の働きをするのは弟子たちだけとなるのです。彼らの伝道を受け入れて、また、新しい伝道者が出来ていきます。その輪が世界にまで広がります。それが現代の状態です。教えは最大の世界宗教になるほどまでに、展開してきています。

 けれども、人間のやる伝道です。「救いを受けいれない人」もたくさん生まれ、死んできました。これまでのところでは、そういう人の数は、いわゆる「救いを受けた」人の何十倍でしょう。

 イエスの第二の使命「人類の救い」というのは、結果的にそういう部分的なものになる。これを私たちはよく知らねばなりません。冷たいようですけどね。イエス様をもっと暖か~いイメージにしておきたい気持はわかりますけどね。

                    


<受け入れたものだけが「イエスのもの」>

 この、イエスの「教えを受け入れた者」を、ヨハネは「自分(イエス)のものとなった、この世の人々」といっています。そして、そういう人々(だけ)を「イエスは最後まで愛し通された」とヨハネはいうのです。

では、他の人は? イエスはまあ「哀れみ」は持たれたでしょう。だから福音を説いたのでしょうからね。だけど、それでも自分の者と成らなかったらどうか。もうこれはイエスもどうすることも出来ないのです。

 では憎んだか? 憎むこともなかったでしょう。彼らにそうなるように影響を与える悪魔は憎みますけどね。では、愛したか? この人たちは「最後まで愛し通された」枠の外にいますから、愛することもない。 

 では、憎みも愛もしないというのはどういうこと? つまりそれは「どうでもいい」ということなんですね。どうでもいい存在なんだ、イエスにとって。冷たいかなあ~。だって論理的にそうしかならないんだからね・・・。
 
                    
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