鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

 21.<合衆国憲法を成立させる>

2013年11月27日 | 聖書と政治経済学



まとまった話は一本の樹木のようである。
そこには根幹があり、枝葉がある。

鹿嶋がここで『聖書と政治経済学』のタイトルでもってしている話はたいしたものではないが、
ここにも一応そういうものがありそうだと好意的に考えて欲しい。

「根幹」は、話そうとする事柄の本質を突いた言葉として表される。
それは常に言葉としては短く単純に表される。格言はそれを示唆する一例である。




<根幹は「政治的13才」と「聖句吟味活動による打開」>

ここでのそれは具体的には「日本人は政治的に13才であり、それを脱するには聖句吟味活動が必要」ということである。
鹿嶋が「日本人の政治見識は13才」を踏まえてない日本政治論はみな妄想だ、というのもそういう樹木観から出ている。

ものごとを解き明かすような話を解説とか解読とかいう。
解説には量的に枝葉の話が多くなるが、それらは幹とのつながりが見えるようにしてなされるのが望ましい。
そうでないと、多量な枝葉の茂りによって根幹が見にくくなりやすい。
だから実際には、話は幹とのつながりを折あるごとに自覚できるようにするのが望ましいだろう。




<幹との繋がりがわかるように>

現在進行中の話は、民主制という社会運営制度を創設するために行ってきた聖句主義者の活躍についてである。
だがこれは聖句主義活動史の知識を提供するためのものではない。
それは「日本人は政治的に13才であり、それを脱するには聖句吟味活動が必要」という話の根幹に継ぎ足して、知識を豊富化するための枝葉である。

我々日本人が戦後享受してきている民主制度が、いかなる人々によって、
いかなる熱情と叡智と努力によって形作られてきているかを、鹿嶋は具体的に示そうとしている。
この事態に対比させると、今の我々日本人は文字通り「政治的に13才」であることが浮き彫りになってくる。
そういう風に現在進行中の話は、幹に繋がった枝葉になっているのである。

では、本論に入る。




<大枠手順を主導>

バージニア州で信教自由がなった1785年の二年後(1787年)に、全州が参加する連合会議が成立し、
そこに憲法草制定会議(憲法制定全体委員会)が立ち上げられている。
新独立国家は憲法制定の作業に入った。

バプテスト聖句主義者の全国ネットワークは会議の実現に向けて主導的に働いた。
彼らはまた会議の運行手順も主導した。

憲法成立に至るまでには大きなステップが二つあった。
第一に憲法草案を作成すること、と、第二に法案が大半の州で批准(同意、承認)されることがそれだった。

第一の憲法草案には三つの骨子課題があった。

①中央政府をどのような構造にするか。
②中央政府と各州との権限配分をどうするか。
③国家の宗教(教会)活動をどうするか

~である。

バージニアの聖句主義者は③「宗教のありかた」については激しい議論紛糾が起きることを体験上知っていた。
そこで憲法案でまず合意をえてそれを批准に持ち込み、
憲法が成立したらその後に憲法修正会議を開いて宗教政策は吟味しようという手順に会議を誘導した。

②の「中央政府と各州との権限配分」の問題も大紛糾が予想されが、これを取り決めないでは憲法案にはならない。
そこで詳細な点は後にして、まず基本骨子部分の案をつくり、出来た案の批准を問おうという手順を会議は採用した。




<バージニア、草案作成を先導>

憲法案会議の議長はバージニアのジョージ・ワシントンだった。
新国家で憲法案を作るというのは、白紙のキャンパスに絵を描いていくような作業であって、数多くの難問があった。

ところがバージニア州代表団は決議案(バージニア決議案)を準備して来ていた。
彼らがこれを初日から提示した。委員会はこれを討議する形で進めることができた。

中央政府と各州との権限配分についてもバージニアは統一国家政府案(バージニア決議案報告)を速やかに提出した。

バージニアが決議案を出した二日後に、ニュージャージー州がニュージャージ決議案を出した。
会議は激論の末、7州対3州でニュージャージー案を否決、バージニアの統一国家案をベースにして草案を作成することになった。

かくのごとく憲法草案会議はおおむねバージニア主導で進められた。
いうまでもなくバージニア代表団の実体は、聖句主義者主導の議員団である。

外国との条約締結の法案や、憲法草案の批准ルールも造られた。
十三州のうち九つの州が批准したら憲法成立と決められた。
かくして憲法法案は、各州議会にもちかえっての批准にゆだねられることになった。




<薩長二大雄藩のように>

13州の内、マサチューセッツ州とバージニア州の見解への信頼は高く、
他州にはこの二州の動向に準拠しようという姿勢を持つところが多かった。
当時この二州にニューヨーク州を加えた人口の合計は、その合計が大陸全体の人口の半数を超えていた。規模の上でも代表的な州だったのである。

同時にこの二州は明治維新時の日本で言えば、維新革命を牽引した薩長二大雄藩のような存在だった。
マサチューセッツはボストン虐殺事件や茶会事件など独立戦争の契機をしかけた主要舞台であって、
実践現場で活躍する革命家をこの州は多数輩出していた。
バージニア州は統治と文書の知性が豊かな独立革命の貢献者であって、
総司令官ワシントンや独立宣言を起草したジェファーソンはここから出ている。
他州の両州への尊敬と信頼は厚かった。

ところがこの二大雄州は都会化された先進州でもあって、指導者には知識人が多く、彼らには草案の批准に慎重なものが多かった。
憲法は法律文書であり「法文は規則となって人を縛る」面を持つ。
こういう包括的な規制法文を頭上に持つのは全員初体験だ。こういう状況では、先進的な知識人ほど警戒心を抱きやすい。
彼らの大半はこの新しい法律制定に抵抗した。

こうした心理は、ロードアイランド州にもっと顕著に表れている。
前述のように、この州はすでに信教自由の憲法を100年以上にわたって享受していた超先進州である。
知識人も愛国者も、また政治的に最優秀と見られていた州民も多くいた。
そうした彼らが中央政府からの統制を極度に警戒し、ロードアイランドは批准州から離脱し続けていた。




<マサチューセッツでの批准のために>

雄州マサチューセッツでは、憲法草案への支持・不支持はほぼ半々にわかれていた。
そして、その帰趨は重要だった。その結果を参考に態度を決めようとする他州がいくつかあったからである。

そこでは、バプテスト聖句主義者議員の姿勢が決定を左右する状況にあった。
この情報を草の根ネットワークで速やかにキャッチした聖句主義者から、バプテスト教会連合の二人のオピニオンリーダーが動いた。

彼らは「憲法が成らねば新国家は無政府状態に陥る」と、慎重派の聖句主義議員を二週間にわたって説得し続けた。
そしてついに、賛成187票・対・反対168票という19票の僅差でマサチューセッツ州の批准を実現した。




<バージニア批准会議でのウルトラC>

バージニアでの反対者は主に非聖句主義者であって、その中の一人に超有能弁護士で、
比類無き雄弁家でもあったパトリック・ヘンリーがいた。
彼は「新憲法には君主主義的傾向がある」 と主張し、自由を熱烈に愛する人々の心を揺さぶった。
「この罪深き憲法案を神は許し給わず・・・」と叫ぶ彼の演説は雷鳴がとどろくごとくであったと伝えられている。

これに対して、聖句主義者は「連邦主義者(ザ・フェデラリスト)」という連載論稿の著者として有名な、
ジェームズ・マディソン(後の第四代大統領)を州議会に送り出した。
彼が「黄金の声」と呼ばれた発声でもって諄々と説く演説もまた大きな説得力を持っていた。

彼自身は聖句主義教会員ではなかったが、聖句主義者たちは彼を代議員選挙に勝たせ、議会に送り込んだのである。
マディソンは、パトリック・ヘンリーに応戦してくれた。連邦国家と憲法の必要を黄金の声で諄々と説いた。
その結果、87票・対・77票という10票の僅差で批准がなった。

マサチューセッツとバージニアでの僅差の批准がなって、結果的に13州の内12州で批准がなった。
これをみて、憲法会議に代表を送ることすら拒否し、批准会議の開催自体を否認していた
ロードアイランド州も、最後に僅差の批准をするに至った。

結果だけを見ると楽勝だったかに見えるが、実体はそうではない。
もし二大雄州での批准がならなかったら、憲法は成立しなかっただろう。

のみならず、バージニアだけが否認となっても、残りの三州はそれに合わせて批准しなかっただろうといわれている。
するとニューハンプシャー州はすでに否決していたので、5州の否認となり、総計9州の批准はならなくなる。
バージニアの投票総数は164票。その賛否差の10票の内、わずか6票が否定に回っていたならば憲法案は否決廃案となっていた。

実質は首の皮一枚を残しての憲法成立だった。聖句主義者の奮闘によるかろうじての成立だったのだ。







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20.<憲法制定会議の前にバージニアで起きてたこと>

2013年11月15日 | 聖書と政治経済学





<新国家の骨組み>

独立戦争での勝利が確定したのが1783年だ。
信教自由国家創設の、第一ステップがなった。

第二ステップは、国家憲法を成立させて立憲国家にすること。
第三ステップは、その憲法の中に信教自由の項目を修正条項としていれること。

バプテスト聖句主義者の夢は、以上が完遂して実現するので、
独立革命の成功は、まだ、目標の3分の1がなったに過ぎない。
彼らは、舞台裏で憲法創設の産婆役に奔走した。

+++

表舞台では政治活動家たちが新政府創立のために働いていた。

政治活動は連続性の中で展開される。

戦に勝利すると、従来、植民地全体を総括統治していた英本国の王権は自動的に排除された。
すると王権の下にあった個々の植民地は地方統治体として残る。
そこではすでに王様や領主から権限を委譲されたガバナーが地方政治を行ってきていた。
これはそのまま、州として続行する。

そして、これらを統括する全国政府を造る。
その前身もすでにあった。独立戦争を遂行した大陸会議がそれである。
政治活動家たちは、これを連邦政府に発展させるという方針で一致していた。

+++

新国家は王制ではなく、人民による民主制で運営することも、すでに当然の前提となっていた。

大問題の一つは、連邦政府に州がどれだけの権限を委譲するかであった。
各々の州には独自の事情と主義があった。これをめぐっての大論争が予想された。

+++

会議では、連邦政府の構造も決めなければならない。
大枠は以下のようになるだろう。

連邦政府にも旧植民地政府のガバナーのような政治執行者は必要だった。
この役職を大統領としよう。
そして、これは全国選挙で国民が選ぶようにしよう。

だが、選出後に執行が独裁的になっては困る。
人民の決定する法律に従って動いてもらわねばならない。
その法律は人民が代表を出して造る議会で決定する。
これは執行部門と独立分離させる。

その議会が衆愚政治に陥るのを抑制するために、二院制を取ろう。
下院の上に上院を造ろう。

+++

だが、大統領が議会の決定にそのまま従うようでは、ロボットのようになってしまう。
彼には独自の行動哲学も発揮させるべきだ。
そこで議会の決定に対して拒否する権限を与えよう。

+++

執行者である大統領府と、立法機関である議会が法に則してやっているかを
チェックする司法機関も必要だ。

これは二つの機関とは独立させねばならない。
こうして三権分立の政治構造案を形成する。




<憲法への定着>

それらのグランドデザインは法律文すなわち憲法にして定着させ、継続させる必要があった。
故にこれらの本格的議論は憲法案の作成活動の中で行われることになる。
草案を成立さすにはまず、憲法制定会議を開催せねばならない。

聖句主義者はその実現に裏舞台で奔走した。




<バージニア、第二の信教自由州に>

実はその前に、バプテスト聖句主義者はバージニアを第二の信教自由州にするに成功していた。

新独立国家が憲法制定の作業に入ったのは、1787年である。
この年、全州が参加する連合会議が成立し、そこに憲法草制定会議(憲法制定全体委員会)が立ち上げられた。
だが、その二年前の1785年に、バージニア州では信教自由がなっていたのである。
それはほとんどもっぱら、バプテスト聖句主義者の孤軍奮闘の果実であった。

+++

独立戦争の火ぶたが切られた1775年、この時すでに聖句主義者は
バージニア州議会で大規模会派を形成していた。
植民地が独立宣言したのは翌1776年。この年の最初の共和制議会で、聖句主義者たちは
「偶像礼拝を犯罪とする」と定めた法令を廃止させた。

偶像礼拝を反聖書的な行動であるとは彼らも考えていたが、
これを「権力でもって強制的に禁止すること」を止めさせたのである。
独立戦争のさなかでの改革であった。他にも、同様な強制制度の廃止努力を、彼らは続けていった。




<聖公会への教会税を廃止させる>

彼らはまた十分の一教会税(所得の10分の一を納税する)も難航の末1779年に廃止にもちこんでいる。
バージニア州は王領植民地だったので、法定教会は英国教会(聖公会)だった。
教会税はみなその教会に回っていた。聖句主義者はそれを廃止させたのである。




<指定宗教税案が浮上する>

すると「宗教税制で州内の教会を財政的に維持するのは必要」という意見が州議会で大勢となり、
指定宗教税(Assessment)案が提案された。

この税制案は~

全州民に十分の一宗教税の納付義務を課し、その税の使途を、自分が評価する教職者のために用るよう指定できることにする、

~というものだった。
自分の納税金で支えられる人を自由に選択できるというのは、宗教活動の自由を連想させたし、
タレントの人気投票みたいで結構楽しめそうな面もあったのでほとんどのグループは賛同した。

だが聖句主義者は反対した。
宗教活動の資金収集が国家権力に依存すれば政教癒着になるというのがその趣旨であった。
こうして彼らが長年抱いてきた、政府と宗教の完全分離思想が表に出た。




< 政教分離、信教自由、言論自由の関係>

ここで政教分離、信教自由そして思想言論自由という三つの概念の関係をみておくのがいい。

人は誰でも統治担当者になると、社会秩序の安定に突然敏感になる。
「社会」という人間の組織集団は、そもそもが成員の生活保全、自己保全を基本動機として
出来上がっていくものである。
この動機は成立後の社会でも基本本能となり、統治担当者は人民のこの本能を請け負うことになる。
だから秩序の安定に過敏になるのだ。

他方、宗教は人心をダイナミックに躍動させたり、社会を宗教心で穏やかにしたりする効果を発揮する。
だから為政者は宗教を統治要素として取り込んでコントロールしたくなる。
人は誰でも、統治者になればその衝動を抱き続けるのである。


ところが政教分離が法制化されると、その衝動はブロックされる。
政治権力は、物的暴力手段(警察、軍隊)を合法的に動かせる唯一の権勢だ。
これが宗教者の思想を制御することが不可能になる。

ところが、宗教面での「思い」と他の活動面での「思い」を区分することは実際には出来ない。
そこで思想一般の取り締まりも自然に出来なくなっていく。
こうして思想活動全般も自然に自由になっていく。

それはその表現についても同じだから、これまたなし崩しに自由になる。

このように政教分離がなれば、信教自由と思想言論自由はドミノ倒しのように実現していく。
自由献金制はその政教分離の本丸だ。
だから聖句主義者は宗教税制への反対と同時に政教分離の実現の必要性を主張していった。




<第二の信教自由州、奇跡的に出現>

他の教会からの州議会代表者はみな指定宗教税制案を支持した。
彼らの集合体は多数派勢力を形成していた。
後の州最高裁長官ジョン・マーシャルもこの支持者だったし、
かのジョージ・ワシントンもこの時点ではこちらに賛成の姿勢だったという。

単独では最大会派になりつつあった聖句主義者も劣勢に立たされていた。
だが、ジェームズ・マディソン(後の第四代大統領)とトマス・ジェファーソン(後の第三代大統領)が
聖句主義者の弁護に回るという奇跡が起きた。
教会と距離を置いた位置から説く彼らの政教分離必要論の説得力が効を奏して、
自由献金制、政教分離原則は実現した。

憲法制定会議に先立ってバージニアに政教分離が確立していたのである。
ロードアイランド州に次いで、その約120年後に成立した政教分離原則をとる二番目の州となった。

政教分離原則が成立したのに続き、言論を罰する法律はすべてバージニア議会で廃棄された。
州民は「思い」とその表現が自由にできる快適さを、体験を通して事後的に知った。
州民の聖句主義者への信頼は急上昇した。
以後、聖句主義者はバージニア州議会を常時リードできるようになった。

これは聖句主義者の政治活動を容易にした、
以後彼らは対外的に、バージニア州議会として、つまり、バージニア代表の衣装を着て活躍できていった。

バージニアはロードアイランドを遙かに凌駕する強大州だった。
聖句主義者はここを新たな活動本部として、国家憲法制定会議開催の根回しに奔走し、
かつそこで提出する憲法草案の作成にとりかかった。
会議は二年後の1787年に開催の運びとなった。





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19.<聖句主義者、植民地を独立に導く>

2013年11月10日 | 聖書と政治経済学



歴史というものは、統治権力者の動向を巡って書かれるものだ。権力者の行動は、国民の生活に日々大きな影響を与えるので、全人民の最大関心事になるからだ。
それは権力者の有能無能を問わない。無能であってもそれはまた悲劇の源として、そして時には滑稽の素材として政権者は歴史記述の素材になる。

他方、聖句主義者は聖句吟味の自由を求め、政治権力からひたすら「遠ざかろう」としてきた。
権力の方は彼らに「接近」したが、それはただ捕らえ処刑するためであった。
聖句主義者は一貫して「忌み嫌うべき無政府主義者」とみなされてきた。
忌み嫌うべきものは「不快な存在」であり、こういうものが公式歴史に書かれることはない。
だから彼らは膨大な数になっても、公式の歴史記述のなかにいっせつ編み込まれないできた。

だが実のところ、アメリカはバイブリシスト主導で造られていく。
鹿嶋の論考はそれを明かすものだが、なにぶん、聖句主義者のことは歴史教科書から(専門書からも!)
情報が全く与えられていないので、読者は言ってることがわかりづらい。これはもう自然なことだ。
けれども、まずは既成の歴史知識からの先入観を脱ぎ捨てて素直に読み進んでみよう。
さすれば、徐々にイメージは描けていくと思う。





<三種類の植民地>

アメリカ社会は出発点からヨーロッパと同質の社会だった。植民地は欧州の支配者が経営し、その社会は欧州の本国と同じ思想、同じシステムで運営された。

植民地はまず大西洋岸の地域につくられた。今のアメリカ合衆国の東海岸地域とその周辺である。
そこでは当初スペイン、フランス、オランダ、英国の植民地が混在していた。この時代には王権神授思想が優勢で、植民地の究極の所有者もまた本国と同様に各国の国王とされていた。
統治責任も権限も本国政府にあった。だがしばらくするとこれらの土地のほとんどは、植民地での戦争に勝った英国の国王のものとなった。

植民地には~

領主植民地(植民地運営を志す英国貴族が英国王から勅許状をいただいて経営する植民地)、
王領植民地(国王の直轄領地であって、国王が直接に総督と参議会議員を任命する植民地)、
自治植民地(植民地住民が総督と議会議員の選出に参加できる植民地)

~の3種類があった。

それらはみな総督(ガバナー)と議会を持つ統治体である。そこでは法定教会が設立され、移民たちはみないずれかの教会に登録されて所属せねばならず、聖句主義者が勝手に教会を造ることは許されなかった。
だが、彼らはそういう地に、最初の大量移民として移り住んだ。




<最初の大量移住者は聖句主義者>

植民地では農地を耕す農民や日常品を生産する手工業者が必要だった。これが本国で募集された。応募して認められ当該領有地に運ばれるというのが、一般人の主要な移住方法だった。
この最初の大量移住者が聖句主義者だった。彼らは母国よりも規制のはるかに緩いはずの新大陸に積極的に移住した。17世紀のことである。



<英国近代バプテストは南部に>

早期に移住した聖句主義者集団の一つは、英国近代バプテストだった。
彼らは南の領地を選び移民していった。その子孫たちは今もサザンバプテストと呼ばれている。
一般に南寄りの地域は冬が過ごしやすいのだが、彼らがこの地に集中したにはもう一つ理由があった。
この地域にはニューイングランドが含まれていて、この大西洋沿岸地域は、初期の政治活動の中心地だった。
アメリカ植民地に信仰自由の社会を造る夢を抱いていた英国近代バプテストは、この地を選んでいった。

信教自由社会が成るには、大枠として三つのステップが必要だった。
第一に、アメリカ植民地を独立国家にすること。
第二に、その国に憲法を制定して法治国家にすること。
そして第三に、憲法の中に信教自由の条項を確定すること
~この三つだった。

各々がみな夢のような話だ。だが彼らは深い理念の人だった。理念の人が心から欲すると、遠い先の夢でも詳細で具体的になるのである。
彼らの子孫が独立のために本格的に働き始めるのは百年以上も先になるのだが、その夢がなければ彼らは早期に移住することはなかった。

彼らはバプテストと気づかれないようにして渡航したという。数が多いと気付かれやすいので、少数に別れて移民登録し、他の渡航者に紛れ込んで乗船した。
聖句主義者は相変わらず危険な無政府主義者とみられていたのであった。



<メノナイトは米加国境地帯に>

もう一つの聖句主義者集団、メノナイトは今の合衆国北部のカナダとの国境あたりに多数住みついた。
それも西寄りの、現在のアメリカとカナダの国境の両側あたりに集中的に移住した。
今ではアメリカ側に住む人の数が多く、ノースダコタ州、アイダホ州、ワシントン州、オレゴン州などにメノナイトの教会がたくさんある。
こういう辺地では移住者はほとんど自由に住み着き開拓することが出来ただろう。

メノナイト派の人々は北欧地域にたくさんいた。
彼らはデンマークからノルウェー、スウェーデン、フィンランドへと東回りに居住地を移していた。ロシアに移るものも少なくなかった。
彼らは北の凍てついた土地を掘り起こしてジャガイモを栽培する技術にも長けていた。現在も上記諸州は合衆国のジャガイモをほとんど一手に生産している。

彼らは「汝殺す無かれ」という聖句を大切にして、戦争にかり出されないことを重視した。
「汚物処理など人のしたがらない仕事をすることを条件に徴兵しない」という約束を国王からとりつけながら生活を続けた。

ノンポリ聖句主義者の彼らには国家社会変革への情熱は少なく、為政者の手が及びにくいのが貴重だった。
彼らは同じ北部でも、政治中心地の東海岸からより遠く離れた太平洋側の地域に重点的に移住した。
新大陸での自由国家作りの主導者は、ほとんどもっぱらバプテスト聖句主義者であった。




<植民地での聖句吟味活動>

 バプテスト聖句主義者は法定教会の礼拝に出席する一方で、ひそかに聖句吟味のスモールグループ活動を行った。
植民地の領地は広大で、教会側も詳細な監視と規制ができず、少なくとも当初彼らは比較的自由に集会をもっていた。
だが時がたつと発見される集会も出て、居住地を追放された者も出た。横になって眠れないほど全身を鞭で打たれるというケースもあった。
欧州で数限りなく行われた、広場での公開火刑は新大陸ではみられなかったが、新大陸に信教自由の国を建設するという夢は遠い先の幻だった。



<月光仮面現れ、ロードアイランドに信教自由社会>

ところがそこに月光仮面が現れた。イギリス国教会のロジャー・ウィリアムズ(1603~1683)というスーパーマン聖職者が、この地にきて一気に事態を進展させた。

彼は英国ケンブリッジ大学にて神学を修め、抜群の成績で卒業した。弁舌力にも優れ卒業前から就任依頼を出していた複数のハイクラスな英国教会の教区教会の一つに卒業と同時に就職した。

だが、思想的には分離派ピューリタンであって、説教で強烈に国教会批判をした。
そのため、英国におられなくなって米大陸植民地に向かい、1631年2月にボストンに上陸した。
ピルグリム・ファーザーズが郊外のプリモスに上陸した11年後のことである。

+++

植民地でも彼の才能は知れ渡っていて、ボストンの英国教会は大歓迎で聖職に迎え入れた。ところがここでも説教で国教会の腐敗を糾弾し、追放される。
すると今度は辺地セイラムの教会の司祭を引き受け仕事をしている間に、その地のインディアン酋長と仲良くなった。
そしていまのロードアイランド州の一部に当たる細長い森林地を売ってもらい、そこにプロビデンス(神意という意味)という名をつけて理想の町を建設し始めた。

街の建設目的を彼はこううたっている。「この町が(信仰的)良心の故に苦しめられている人々の避難所になることを私は望んだ。
水面下で苦しむ同胞をみて、私は愛する友たちにこの町を贈ったのである・・・」と。プロビデンスは信教自由主義者の「駆け込み寺」となった。

ボストンを始めとするマサチューセッツ植民地の都市では清教徒(ピューリタン)が圧倒的多数派だった。
これらの町々から迫害された人々、反逆者、不平分子として追放された人たちが多数逃げ込んできた。
彼はそこに人民の権利と意志のみをベースにして運営される自由政府を創設した。政府と教会を完全に分離させ、政治的自由、宗教的自由の諸理念を実施に移した。



<植民地勅許状を手に入れる>

ロジャー・ウィリアムズはさらに、その地を含む一帯を、誰にも踏み込まれない植民地とすべく、勅許状を本国から得ようとする。
プロビデンスに逃れてきた一人に、ジョン・クラークという医師がいた。プロビデンス政府は彼を英国に派遣した。
任務はこのロードアイランドという地に対する植民地設立認可状を、国王から得てくることだった。1651年のことである。

クラークは実に12年間奮闘し続け、ついに1663年勅許状を取得するに至った。
許可を出した新国王、チャールズ2世は気がいい人で、勅許状には~、
この地では「当人が市民社会の平安を乱さない限りにおいて、如何なる方法をもってしても、人を宗教上の見解の相違によって苦しめたり、
罰を与えたり、脅して心の平安を乱したり、喚問したりしてはならない」と記した宣言も付せられていたという。

この理念は実質的に聖句主義原理と重なるものである。こうして現在ロードアイランド州となっている地に、初の聖句主義共和国ができた。
この人類史上、画期的なことが、アメリカ植民地が独立する100年以上も前の1663年に実現していたのである。



<人類初の「信教自由」植民地憲法>

彼と仲間たちはこのロードアイランドの地に、信仰自由をうたった憲法を造った。
この憲法は聖句主義活動以外を認めないのではなく、いかなる宗教活動も制限しないというものだった。
英国教会と、カトリック、長老派、組合派、メソディスト派その他いかなる教派活動も禁じなかった。
これは聖句主義の神髄である。真の信教自由とはそういうものである。

後に信教自由の原則をうたうことになるアメリカ合衆国憲法修正条項(権利章典)の内容は、ほぼこれに重なっている。
合衆国の国家憲法の一世紀半も前に、それと同質の憲法がアメリカ植民地の一つに作られていたのである。








<マサチューセッツ植民地に突入>

紀元後426年以降1200年間、文字通りの「三界に家なし」で迫害され続けた聖句主義者はついに安住の地を得た。
だが彼らはそこを安住地とすることなく、言論自由国家の建設に向けて突き進んだ。

まず、この安全地帯を拠点にして他の植民地域に聖句主義教会を造り始めた。
隣接するマサチューセッツ植民地の中心都市ボストン、さらにニューヨーク、ペンシルバニア、フィラデルフィアなどの諸都市に聖句主義教会を造っていった。
そして彼らは政治の先進地バージニア植民地に大挙して突入していった。




<バージニア、聖句主義者容認へ>

バージニアは王領植民地として始まった地であって、聖公会(英国国教会: のちに日本では立教大学を創設している)の教会員が大勢を占めていた。
国教会は体制派である。マサチューセッツの分離派ピューリタンのような反体制的なかたくなさは概してなく、気質的におおらかなところがあった。

だがその聖公会の教会員も、聖句主義者の集いを襲撃した。司法当局も動いた。
バイブリシストを逮捕し、投獄し、広場でむち打ちの刑に処した。
多数のバプテスト聖句主義者が法廷に引き出された。
けれども聖句主義者の不屈な精神と一貫した行動は、バージニア植民地の人々の姿勢を軟化させていった。
聖句主義者への同情と容認の空気が醸し出されてバージニアでも彼らは容認されていった。




<独立革命の種を仕込む>


ボストンやバージニア植民地でなされたような聖句主義阻止運動は、他の植民地でも起きた。
だが、いずれの地でも聖句主義者は迫害に耐え続け、教会を増やしていった。
こうしてバプテスト聖句主義教会は全植民地的にも無視できない勢力になった。

事態は植民当初からしたら様変わりとなり、時は満ちた。彼らは次の大目標、植民地の本国からの独立革命(American Revolution)に向けて足を踏み出した。
本国が素直に植民地の独立を認めるなど夢にもおきないから、戦によって勝ち取るほか無い。彼らは独立戦争(Wae of Independence)の種を仕込んでいった。

独立運動では、まず人民に独立の思想を普及させねばならない。それには本国の監視をくぐっての思想宣伝が必要だ。
機運が熟せば全植民地の連合政府を結成させ、武器を集めて軍隊を結成し、戦をするのである。
「アメリカ革命」の語には、こうした諸活動を総合的に見る視野がある。



<植民地も王家劇場国家の一部>

まず植民地の人民に独立の理念を普及させる・・・これは並大抵の仕事ではなかった。
英国の王室はエリザベス女王からビクトリア女王の治世を通じて、卓越した国家アイデンティティ(イメージ)政策身につけるに至っていた。

国全体を王家をスターヒーローとする劇場のようにしたてあげ、人民に王家情報を散布してテレビドラマを見るかのように一喜一憂させていた。
アングロサクソン民族の人心は王権への信頼と讃美の一色になっていた。

アメリカ大陸植民地も同様な劇場化がなされていた。
各地の広場や公共施設の前には、国王の銅像が建てられ、教会におかれた祈祷書には、「国王にゴッド(創造神)の祝福がありますように」とのフレーズが組み込んであった。
人民は日曜礼拝ごとにそれをとなえるという仕掛けなのだ。
植民地人民もまた王家イメージを好感し、王家の人々の恩恵で自分たちは生活が出来ているとの気分で暮らしていた。

植民地でのこうした心理の浸透ぶりは、後の独立戦争における英国軍兵士数にも現れている。
英本国から来た兵士数が12,000名だったのに、植民地住民でありながら英国側に属して戦った兵士は50,000名もいた。
彼らはトーリーとかロイヤリスト(王党派)という名で呼ばれた。



<劇場国家の中で独立思想を注入>

こうした劇場国家のなかに入れられながら、本国からの独立意識を強く持てる植民地人民は王家ドラマ以上に深い世界観・人間観を詳細に抱く人々しかいない。そしてそれは聖句主義者をおいてほかになかった。

それだけでも独立革命の主導者が彼らであることは明らかだが、それに加えて聖句主義者は独立思想を広める能力ももっていた。
1200年の間、彼らが活用し続けてきていた草の根ネットワーク交信技術がそれである。

植民地で本国からの独立をもくろむ情報活動をするのは国家反逆罪である。本国政府は諜報員も常駐させている。
だが彼らの交信技術は、そのような統制下ででも全植民地空間に思想を普及さす力を持っていた。

配布する思想宣伝物を作成するための書技術もすぐれていた。
彼らはそのノウハウをアンダーグラウンドでの聖句吟味活動を通して培ってきていたのだ。
それらは、後の独立戦争において植民地軍兵士を25万名集めるに貢献している。

彼らはまた、1764年にロードアイランド植民地で植民地連絡委員会(Committee of Coresspondence)が開催にこぎ着けられるに際しても働いている。
ロードアイランドが聖句主義者の共和国であることは前述した。
委員会では「自由の精神を高めること」と、「その諸手段を統合し一体化すること」との目的が掲げられた。バイブリシストならではのものである。
 



<印紙条例廃止の実現を跳躍台に>

そして翌1765年に印紙条例問題が起きた。
英本国が北アメリカの13植民地に出した法令で、証書・新聞・暦からトランプにいたるまで,印刷物に印紙をはらせて税収を得ようというものである。

植民地側は「本国議会に代表を出してないのに課税はおかしい」と主張し、廃止に追い込んだ。
本国政府の権威は急低下し、革命運動家はこれを独立気風加速の好機とした。
以後独立戦争が勃発するまでの10年間に、独立思想を訴求するビラやパンフレットが爆発的に増えている。

それらの文書は政治論争も誘発した。論争は創造的で活気に充ち、代議制政治や植民地同盟を論じた新聞論説もや小冊子も出た。
独立政府創出案を論じた文書は何百と発行された。これらが一般人民の政治意識を急速に変化させていった。

アメリカの植民地独立革命は、公の書物には民衆の間に漠然と沸き上がったかのようにしか説明されてきていない。おかしなことだ。
近代の社会革命運動が人民全般から自然発生することなどありえない。革命は一定の人々がアンダーグラウンドで仕掛けてなるものなのだ。




<聖句主義者、大陸会議承認声明を即座に出す>

印紙条例事件9年後の1774年、植民地側はフィラデルフィアで初の(第一次)大陸会議(First Continental Congress)を開いた(9月5日)。

会議は一ヶ月半、10月26日まで延々と続いた。北米13植民地中の12議会から送られた56名の代表が議論を重ねた。
主要議題は、本国が課してきている「耐え難い法律(Intolerable Acts)」への対策だった。
代表者は英国製品ボイコットなどを決議し、第二次大陸会議を1775年5月10日から開くことを決めた。
これは後の連邦政府の前身となる。

バプテスト聖句主義者も動く。この会議開始の8日後、バプテスト教会ウォーレン連合会はこれを承認する声明を出した。
連合会はそこで、「大陸会議を植民地最高裁判所のようなものと理解する」との旨を宣言し、他のバプテスト連盟も速やかにこれに続いた。

米国では伝統的に教会連合会の声明は、少なくとも第二次世界大戦時までは強大な影響力を持ってきている。
大戦中にラジオを通してなされる連合会牧師の主張には、大統領演説に匹敵する指導力があったと生存者は述懐している。



<植民地政府、戦争を開始し独立を宣言する>

1775年4月19日、植民地民兵隊と英本国軍との戦いが勃発した。
「レキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)」といわれる。これらの地は、ボストンの北西方向にある。

公式の独立戦争開始はもう少し後で、6月14日に第二次大陸会議において正規軍(大陸軍)の設立が承認された時とされている。
だが実質上この戦でアメリカ独立戦争の火ぶたは切られていた。

第二次大陸会議は1775年5月10日に開始され、1781年3月1日までの期間中開催状態が維持された。
会議は、開戦の翌年の1776年7月4日に植民地の英本国からの独立を宣言した。
バージニア州のトーマス・ジェファソン(後の第三代大統領)が宣言書を起草した。

大陸軍の総司令官はジョージ・ワシントン(後の初代大統領)で、彼もまたバージニア州の人だった。
戦場はボストン、ニューヨーク、ニュージャージー、サラトガ、ヨークタウンへと展開し1783年まで続いた。
だが1781年10月17日、ヨークタウンの戦いで英国軍がアメリカ軍に降伏したとき勝敗は事実上決していたといわれる。

植民地軍は勝利したのだ。





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