鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.121『「輪廻」と "generational curse"』(9章)

2006年02月28日 | ヨハネ伝解読

 
「ヨハネ伝解読」第9章に入ります。
 ヨハネはまず、イエスが盲人を癒す場面を記録しています。


                 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「この人が生まれつき盲人なのは、罪を本人が犯したからですか、それとも両親ですか?」(9章2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                


 一人の盲人が道ばたにいた。立っていたか、座っていたかわかりませんが、とにかくいました。イエスは哀れみを感じて、立ち止まったのでしょう。

 そこで弟子が、冒頭の聖句として示したような質問をしています。

  この質問は多くのことを含意していますね。まず「目が見えない等々の病は、罪を犯したから来る」という思想を弟子たちが持っていることを示しています。

 イエスは、そのことについては、否定をしていません。ということは「病は罪を犯すことによって、そこにすべり込むように入ってくるものだ」という考えを、イエスは間違いとはしていない、と解していいのではないかと思います。


                 


 しかしこのケースでは考えさせられる点があります。「病は罪から来る」というのはいいのですが、このケースでは盲人は「生まれつきの」盲人なのですね。そしてヨハネの文章では弟子たちも「生まれつきだと判断して」います。

 するとですね。この人が盲人になった原因である罪は、彼が「生まれる以前」のものということになりますよね。

 彼が生まれる前に犯した罪って何でしょうか? 神学でいう、いわゆる原罪が考えられそうですが、そうではなさそうです。原罪とは、アダムから継承されて人類が生まれながらにもつ罪、という意味の神学用語ですが、そういう罪の観念は、この段階では弟子になかったでしょう。

 もちろん、イエスは「人は生まれながらにして罪人」という教えはのこしていきます。しかし、ユダヤ教に育った人々の頭にある罪の概念は「行いの罪」だけです。弟子たちもこの時点ではそうだったと思われます。


                  



 すると、この盲人が生まれる前に犯した行為の罪が想定されて、この質問はなされていることになります。ええっ? 彼が生まれる前に行為の罪を犯すって?

 そういう可能性があるのは、彼に前世がある場合のみです。その時にのみ、彼が次の世で盲人として生まれつくに価するような罪を犯した、という理屈が成り立つのです。

 そして、そういう前提に立った質問に対して、イエスは「何を馬鹿な・・・」と言ってはいません。これは「人間には生まれ変わりがあるということを否定していない」と解せるではないでしょうか。

 日本の信仰者の多くのかたは「まさか!」とお思いになるでしょう。だが、それはみなさんが「生まれ変わりなんてない」という解釈だけを繰り返し牧師さんから聞いてこられたからにすぎません。

 もちろん聖書には、人間に生まれ変わりはある、といっている聖句はありません。しかし「生まれ変わりはない」という聖句もないのですね。論理上は、ある、という可能性が残っているのです。

 そして、イエスの時代人々は「生まれ変わりはある」という思想をむしろ持っていたのではないでしょうか。そしてイエスもそれが間違いだとはしていないのではないでしょうか。それが本日の聖句に現れているのではないでしょうか。


                 


<聖書の鉄則は崩れるか?>

 「生まれ変わりなんてとんでもない!」とするう人々の内にある根拠は、「生まれ変わりがある」とすると聖書の鉄則が壊れてしまう~~というものです。

 「イエスを信じたものは、それで救われる資格を得た」というのは聖書の鉄則だ。にもかかわらず、彼がまた生まれ変わって出てきたら、それは罪人として出てくることになる。だったら、今度は彼がその生涯でイエスを信じないこともありうるだろう。

 そうしたらどうなるか。今度は彼は救われないことになってしまう。それなら、前世で得た救われる資格はどうなるのか。このように、鉄則が崩れるんだ~~と。

<全員が生まれ変わるのでなかったら?>

 けれども「生まれ変わるのは、生きている間にイエスを信じなかった霊だけ」ということだったらどうでしょうか。それなら、その霊は信じて救われるチャンスをもう一度与えられたことになります。

 他方「イエスを信じた霊は、もうこの世に生まれ変わってこなくなる」などという論理は成り立つのか。ありえます。信じた霊は「パラダイス」という、別の空間に行き、そこからはもう生まれ変わりはない、ということであれば、成立し得ます。


                 



 19世紀にスタートした心霊科学(スピリッチュアリズム)は、霊界のことを経験科学的に追求しようという学問です。この領域の成果に『ブルーアイランド』(エステル・ステッド著、近藤千雄訳、ハート出版)という本があります。この本に記述されていることは、その可能性のあることを示唆しています。

 あくまでも可能性ですけどね。科学の理屈というのは、最後の最後まで「・・・ではなかろうか」というニュアンスを含めた「仮説」(仮に設定した説)です。春平太は、断定してはいません。こういう解釈の余地が、論理的に生じる、ということであります。


                 


<ジェネレーショナル・カース> 

日本のクリスチャンの方からしたら「ええっ?」という点が、本日の聖句にはもう一つあります。それは~~

 「この人が盲人として生まれついたのは、両親の罪によるのか?」という弟子の質問にイエスが「なんて馬鹿なことを言うのか」~~と叱っていないことです。

 これは、世代間に渡る「呪い」はあるものと当時考えられていたことを示唆しています。と同時に、イエスもそれを否定していないことを示しています。

 日本クリスチャンのほとんどは「まさか!」でしょうが、それも通念によるところが大きいでしょう。旧訳聖書には、世代間にまたがって呪いが降りかかる思想が記されています。

 米国では、これをgenerational curseとし、それでもって不幸に苦しむ人を説明し、また、そこから解放する成果を上げている牧師さんがいます。ラリー・ハッチ牧師とかマリリン・ヒッキーという女性牧師はその例です。


                 

~~聖書の言葉そのものにあたると、このように通念的な解釈をこえた境地に至ることも出来ます。従来の教理に縛られず、自由且つ率直に聖句を考えていくのは貴重なことです。



               


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Vol.120『人は肉体と霊から成るという鉄則』(8章)

2006年02月25日 | ヨハネ伝解読
 
 
 こんにちわ。
 鹿嶋春平太です。
 このところまた、海外に出ておりまして、
しばらくお休みいたしました。


                


 ではまた「ヨハネ伝解読」いたしましょう。

 「ヨハネ伝」は聖書の中の聖書です。
 それだけに、記述していることがとても深淵で且つ広大な世界にわたっています。
 とくに、この8章では深いです。

 ヨハネは、どうしてこんなことを七面倒くさく書きつづるのでしょうね。
そもそも、何のために。
 それは「これを読む人が仕合わせになるため」です。もっと端的に言えば、「人間が仕合わせになるため」です。

 ヨハネは手紙も書いてます。
 一番長い手紙は、最初のもの「ヨハネの第一の手紙」です。

 ここでヨハネは信徒に向けて「戒め」をたくさん書いています。
「あれをしてはいけない」「これに気をつけろ」等々と、厳しいです。
 これを読んでいくと、我々はついつい、キリスト教は人を縛る宗教ではないか、と思いがちになります。

 だが、それを懸念してでしょう、ヨハネは先にわざわざこう述べています。

 「わたしたちは、私たちの喜び(歓喜)が完全化するためにこれを書いています」(ヨハネの第一の手紙、1章4節)

 ジョイは仕合わせの中身でしたね。仕合わせとは詰まるところ、心がジョイ(喜び・歓喜)で満たされていることです。それが「完全化」するためにこれを書いているというのです。


                


 これがヨハネが生命の危険を顧みることなく、執筆している根底的理由です。
 この「ヨハネ伝」8章もそうです。
とても深く、理屈っぽいことを言っています。
 もっと簡単にいったらいいのに。
 「創り主が人間を作ったのは人間が陽気暮らしをするためだから、みんな心を陽気に暮らしなさい」といってたらいいのに・・。

 だが、ヨハネはその陽気をもっと「完全化」したいのです。
陽気暮らしを完全化するには、イエスがどんな方かをよく知るのが鍵だと確信して動じなかったからです。

 そのために、この七面倒くさい論理を書き残していったのですね。
 聖書は、人間に完全化された仕合わせを与えようとして書かれているものです。
この目標をいつも彼方に定めて、今日もヨハネ伝を解読しましょう。


                



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「アブラハムの生まれる前から私(イエス)は存在しているんだよ」(8章58節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 前回、イエスがユダヤ教の僧侶たちに「諸君は悪魔から出た者、すなわち悪魔の子孫」と言った状況を示しましたね。で、この論理が理解できなかったら、言われた人はどうなるでしょうか。頭に来ますよね。

 だから彼らは
イエスにはこう言っています
 
 「あんた、悪霊にとりつかれているんじゃないの?」(48節)。

  ~~当然でしょうね。

 しかし、イエスはこれを軽いタッチでいなすということはいたしません。創主は偽ることが出来ないのです。あくまでもストレートに投げ返すしことしかできません。

 「私は父なる創主に栄誉を捧げているよ。もし、創主の名誉を汚しているんならば悪霊がついていることになるだろうけど」(49節)。

 「もちろん、自分の名誉を求めてやっているのでもない。栄誉を求めるに価する方は、父なる創造主だけなんだ。そして、その方は自らの思いのままに裁きをもなされる。無視したらいかんよ」(50節)

 「そして(私はその父の語られるままを語っているのだから)私の言葉に従うものは、死ぬことがないんだよ」(51節)と。

 ~~もちろん、イエスのいっているのは、その霊が死ぬことがない、という意味です。

ところが、ユダヤ人たちは肉体の生死しか意識にない。だから、またいいます。

 「ほ~ら、そういうことを言うのが悪霊につかれている証拠なんだ」(52節)。
      ・・・もうすれ違いばっかり。


                



 さらに彼らは言います。

 「あの偉大なアブラハムだって死んだんだよ。君は一体、自分を何様だと思っているんだ!」(53節)。

  ~~するとイエスは言います。

 「ああ、アブラハムね。彼は私がこの世に到来する日をありありと見たんだ。そして喜んだんだよ」(56節)。

 ~~これはどういう意味なんでしょうね。アブラハムは「信仰(信頼)の父」と呼ばれています。イエスは、その信頼の本質をあっさりと示しているのです。それは後に、使徒パウロの口から具体的な言葉となって出ます。

 「信仰とは、望んでいることを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙、11章1節)。

 ~~望んでいること、とか、まだ見ていない事実とかは、要するにまだ実現していない。現実となっていないものです。それを「確信し、確認する」というのは、どういうことか。

 まるで現実化しているもののように、その状態をありありとイメージする、と言うことです。よく「幻を見る」といいますね。信仰(信頼)の場合はそれが核心なのです。
 
 でもそんなことが出来るんでしょうかね? 

 これが出来る。そういうことが、哲学や心理学で確認されてきています。
 現実にはないけれども、現実と変わらずありありと見る力、そういうイメージ力を人間は持っていると。

 哲学者ポパーはそのイメージされた世界を心理学的根拠でもって「第三世界」と言っております。イエスはそれを、こんな古い時代に、ズバリ結論だけでいったわけです。


                


 すれ違いはまだ続きますよ。

 ユダヤ人たちは、肉体しか意識にないもんですから、こう言います。

 「アブラハムがあなたの出現を見て喜んだって? よく言うよ全く。君はまだ50にもなっていないじゃないか。なのに、アブラハムを見たんだって? アッハハハ・・・」(57節)。

 ところがイエスは、それにも真っ正面から論じるしかできないんですね。

 「アブラハムの生まれる前から、私は(霊として)存在してきているんだよ」(58節)。

 ~~もう限度だ。ユダヤ人たちは、こういう男は律法どおり石打の刑にして殺すべきだ、と考える。で、石を投げつけようとします。しかし、イエスはそれを逃れ、神殿から出て行った、とヨハネは記しています(59節)。



                


 以上に解説した聖書箇所は、人間は肉体と霊との二つからなっているという、イエスの思想を知っていたら、かなりな程度解読されていくところです。ヨハネはこれについてもまた、結構なスペースを割いています。やはり、人々が見逃しやすい鉄則だと洞察してたからでしょう。

 またここは、そういう二元論的人間構造観を踏まえていないと、みんな誤解に流れていってしまうところでもあります。

 

                



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Vol.120『諸君は悪魔から出た者』(8章)

2006年02月17日 | ヨハネ伝解読


こんにちわ。
今日も「ヨハネ伝」です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君は、諸君らの父である悪魔から出た者だ。だから、父の欲望通りに行動するのだ」(44節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イエスの教えでは、この世は悪魔の側に属しています。だからこの世に生まれ生きている我々は、自然なままだったらその意識の根底は悪魔から出る状態になっている。前回、こう解読しました。本日はその次です。


                


 そういうわけですからイエスは、ユダヤ人たちが自分の話を受け入れる可能性はない、と見透かしているのですね。でもね、こう思いませんか。もしそうだとしても、そんかこと言葉に出して言わなくったって・・・と。

 だが、それは人間の常識なんですね。創り主は、真理をそのまま率直に言うしか出来ない。創り主は万能といっても、実は出来ないこともあるんですね。「偽りをいうこと」がそれです。創り主の常識ではそうなんですね。

 そこでイエスは、どうしても率直に言うことになってしまう。「いや、あなたがたにも希望はあるよ」などというお上手は言えない。そういって摩擦を少なくすることは出来ない。イエスは偽ることが出来ない存在なんですね。

 だから、こんな言葉がボンボン飛び出します。

 「諸君らは自分の父である、悪魔から出た者だ」(44節)。
 「だから、父の欲望通りに行動するのだ」(44節)
 「諸君らの父である悪魔は、はじめから人殺しなのだ」(44節)
 「悪魔は真理の側に立っていない者だ」(44節)。
 「悪魔は偽りの父なのだ」(44節)。

 真理(天)の側に立つ者、と、偽り(世)の側に立つ者とは、絶対に相容れない。だから、自分が真理を言っても、諸君は絶対に受け入れないことになっているんだ。受け入れる者は、創主から来た者だけなのだ

  ~~これらのことを、イエスは一気に言い放っています(45~47節)。


                


 「このように、世は悪魔の側のものなのだ」ーーーこの認識は、この世で生きている我々人間にとっては、受け入れるのに抵抗感がありますね。だって、自分が今その中で生きているのですからね。

 愛する子孫もそこで生きていきます。その場所を、「根本的に悪魔の側のものだ」と考えたら、あまりに寂しいではありませんか。


                


 でもこの命題を、抵抗少なく受け入れる方法もあります。それは「この世ではなく、天国に真の希望を抱くという心境になる」ということですね。そうでなかったら、心が暗くなってやりきれません。

 この点は、一つのポイントですね。言い方を変えますと「この世ではなく、天国に真の希望をおいている人だけが、この命題を真理だと受け入れる」ということになります。

 そうなってない人にはどんな人がいるでしょうね。まず、「聖書に触れたことがない人」でしょう。知らなかったら、受け入れるも入れないも何もありませんからね。これは当然だ。

 もう一つのグループがあります。
 「聖書に触れたり学んだことがあったり、その教えを受け入れてクリスチャンとなった、洗礼を受けた」という人にも、そういう人が多いのです。

 理由は色々ありますね。第一は「聖書のこの箇所(天と世の絶対的対立という鉄則がかいてあるところ)には意識が及ばなかった」というもの。そういうクリスチャンも、結構いますよ。

 理由の第二は「ここは読んだことはある、けれども、天国に対する確信が強く持てなくて、結局、この世への希望が捨てきれない。そこで、「世は悪魔のもの」という命題は、意識から消してしまう」というものです。

 キリスト教的な思想を信じているようでいて、この世に理想郷をつくろうとして身もだえている人がいます。また、そういう、変種のキリスト教に心酔している人もいます。そういう人は、みなこの類です。これがいつの時代でも多いのです。



                


 「世は悪魔のもの」というイエスの教えの鉄則を踏まえないと、聖書の理解は基本的なところで外れていきます。他をいくら読んでも、的外れな理解しかできなくなるのです。

 これはそれほど重要な鉄則です。ヨハネは、これに対して8章の中で、多くのスペースを当てています。そのことがヨハネ伝の価値をいっそう不動のものにしています。


                


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Vol.119『天と世は絶対的対立関係にある』(8章)

2006年02月15日 | ヨハネ伝解読

 


 しばらくぶりで、聖書の言葉に当たってみましょう。「ヨハネ伝解読」にもどります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私はわたしの父のもとで見たことを語っているが、諸君は自分の父が諸君に語ったことを行う」(38節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 8章には、聖書の大前提がもう一つ出てきます。それは「天のもの」と「世のもの」とは絶対的な対立関係にあるというものです。

 だから「意識が天に属している存在」と、「この世に属している者」とは、心から出てくる考えが絶対に相容れることはないのだ、ということになります。

 「意識が天に属する者」の代表はイエスです。彼は自らを「創造主から出たもの」といいます。

 「意識が世に属している者」の代表はイエスの話が理解できないユダヤ人たちです。彼らは、世に属するが故に、イエスの話がてんで理解できない。そればかりでない。将来はイエスへの殺意を抱くようになる。そういう殺意が根っこにあるからだ~~とイエスは考えます。

 それをイエスは「あなた方の父があなたがたに語ることを行おうとする」と表現しています(38節)。この父とは「世」の意識であり、世の意識の源は悪魔です。「世は悪魔のもの」であり、悪魔の意識につながっているという思想が背景にあります。これは聖書の鉄則です。


                


すごい論理ですね。どうしてそういう論理になるかを、再び「聖書の空間理念図」でもって理解しましょう。この図は、鹿嶋春平太「聖書の論理が世界を動かす」「誰もが聖書を読むために」(共に新潮選書)や「聖書のことがよくわかる本」(中経出版)に描かれています。ここでは言葉だけで説明します。


                


 万物の創造主であるゴッドは、無限の過去から存在しています。自分以外のすべてを創ったというのですから、まず、自分だけが存在していた時期があるわけです。

 創り主はまた、空間的に無限大の大きさを持った存在です。この方は、自らの無限大の空間の中に、まず天の創主王国(天国)を創ります。天国というのは被造空間なのですね。そしてその大きさは有限です。球体の空間とイメージしていいでしょう。

 創り主はそこに、自らの名を置きます。次いで自分と同質の霊である聖霊でもってそこを充たします。

 次に創り主は、そこに多数の天使(み使い)を創ります。天使は被造霊です。創り主は王としてその国を統治します。天国は民主国でなく、創主が嘔吐してと打ちする王国なのです。

 天使は、王なる創り主の御名を誉めたたえています。天使は、軍隊のように階層組織化されています。各組織には長(天使長)がいます。


                


 ところがある時、天使長の一人が、自分も王になって創り主のように賛美される存在になりたいと欲っするようになります。配下の天使に命じて、天国の一角で自分を賛美させ始めます。天の一角に自分の王国をつくろうとするのですね。

 これは創り主の王国内に起きた一種の反乱ですね。そこで創主の懐から、御子イエスが出現します。彼は、父の王国である天国に入り、反乱していない天使に命じて、反乱軍を追いつめます。そして、天の一角に暗闇の空間を創り、彼らをそこに追い落とし、閉じこめます。

 この暗闇が我々の住む宇宙に相当します。宇宙はそもそもが反乱天使の一味を閉じこめる牢屋だ、というのが聖書の空間理念なのです。


                


 さて、被造霊は創り主から放射される「いのち」というエネルギーをその例に充電することでもって「活きて」存続することが出来ます。そしてエネルギーが霊に浸透して行くには、被造霊は創主に素直に意識を向けていなければなりません。

 ところが反乱した天使は、創主に素直に心を開いていませんから、その霊にいのちエネルギーを吸収することが出来なくなっています。それだけではない。素直でないのみならず、創造主に対抗する意識を持つのですから、その霊には「いのち」と反対のエネルギーが形成されることになります。

 「いのち」と反対のエネルギーとは、「いのち」のマイナスのエネルギーと言っていいでしょう。「いのち」のマイナスのエネルギーとは「死」のエネルギーです。反乱天使は「死のエネルギー」を持つ存在なのです。

 「死」のエネルギーを持つと天使も変質します。その変質した姿が「悪魔」「サタン」です。これに従った天使は「悪霊」となります。聖書にはこれは「天の諸々の悪霊」と記されています。


                


 宇宙はこうした悪魔と悪霊を閉じこめた牢屋です。そこで悪魔は一時いてきながらも王ですから、宇宙という牢屋の牢名主といっていいでしょう。悪魔は宇宙に君臨しているわけです。

 そういう牢屋の中に創り主は地球を創り、人間を創り、アダムとイブを造ります。純朴な二人は、はじめは創り主に意識を向けています。だが、まもなく悪魔に苦もなく騙されて、創り主に意識を向けなくなります。こうして二人は、悪魔の側に属しその支配下に置かれてしまう。二人の子孫である人類も、この意識を受け継いでいるということになる。これがわれわれの住む「この世」の状態です。


                
                


 そんなわけで悪魔は、この地球が出来る前からもう全身、創主への対抗意識で充ちています。その側に属してしまった人間も根底で悪魔の影響を受けています。人は自然なままでは、世(悪魔)の意識を根底で持ちます。

だから、「天(創主の世界)に属す存在」と「世(地上の世界)に属す存在」とは絶対的対立関係にあることになります。これは聖書物語の基底にある鉄則です。そしてそれは、ここでのイエスの話の背景にあるイメージ世界でもあります。

その意味を込めて、イエスは「私はわたしの父のもとで見たことを語っているが、諸君は自分の父が諸君に語ったことを行う」(38節)といっているのです。両者の語ること、行うことは絶対的に相容れない関係にある、というわけです。

スケールの広大な話ですね。


                


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Vol.14 永遠を体感する

2006年02月12日 | 永続確信のための聖書解読




こんにちわ、鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本です。

仕合わせの聖書論理、第13回です。
今日は少し理屈っぽいです。


                


先回、理性が眼ざめた状態で完全化された「仕合わせ感」を得るには、永続確信が必要である、といいました。
永続確信というものを、もうすこしきちんと考えましょう。
それには実は前提があります。
「永遠」(eternity)という理念が良く理解されることです。

理解というのは、頭のてっぺんで言葉を引っかけている状態では出来ていないんですね。
端的に言えば、「体感」されていなければなりません。

永遠を体感するって?
そんなことできるのか?

できます。

体感の「体」というのは、自分の身体です。
一般的な人々ではなく、理解しようとしているその人の自分の身体ですね。

身体は、いま現世で自分の身にまとっている身体です。
でも、この場合は、霊とは別の肉体という意味ではない。

聖書で永続するとしているのは、意識体としての霊です。
この意識体がこの現世では肉体の中に入っている。
その「時点」での意識体(霊)ということです。

つまり、この現世でのいまの自分の意識だ。
その意識が体感しなければ、真の理解になりません。


                


意識が体験する対象は、「永遠」という理念でしたね。
どうやって?
自分の意識(霊)が永続すれば、意識活動も永遠に続けるはずでしょうね。
そういう無限に活動する意識活動をいま体感するわけです。
21世紀の終わりまでなんてものではない。
40世紀、80世紀、一億世紀時点でもズーと活動し続けているいる状態です。


                



そんなことが体験出来るか?
それに関しては、ベルグソンという哲学者がためになる知識を残してくれています。
よく、過去、現在、未来といいますよね。
その「現在」とは何か、という問題を彼は提起しています。

我々の頭に通常あるのは、過去と未来の間にある一点ですよね。
それより少しでも前の時点は過去だ。
それより少しでも後の時点は未来だ、というようにして。

ところがベルグソンはそれは幻想だと言います。
そういう「現在」は、我々が数学の幾何学(平面幾何学)の線(直線)と点を現実(実在)に当てはめて考えた結果である。
しかし、現実はそういう風にはなっていない。
だって、平面幾何学の「点」は「位置だけあって面積がないもの」という定義だ。
もし「現在」がそうならば、時間の広がりをなにも持っていないことになる。

でも、自分たちが感じている「現在」はそうではない。
ある時間の広がりを持った現実・実在だ。

そして、この「時間の広がり」といっているものの実体は「持続の感覚」なのだ。
われわれが実在を現在として認識しているその内容は「持続感」なのだ、という。


                


これいただきましょう。
「いま」という持続感を体感しましょう。
これはできるでしょう。

次に、この「現在」という持続感をそのまま将来にずぅ~と広げていきましょう。
無限に広げていく・・・。

その時の感覚が、永遠という理念の体感です。
この経験を持つのが、永遠を「理解」したことになる条件です。


                


 これによって「永続確信」も実体を持ってきます。
それだけではない、聖書の真の理解もそこからスタートします。

聖書という書物は、人類が自分や社会を考える際に「永遠」という概念を本格的にもちこんでくれた書物なのです。
本格的、というのは、投げ下ろしの直球勝負で、ということです。
変化球でこそこそっと、というのではない。
最初から、が~んと永遠という理念を持ち込んでくるのです。

聖書は実は、我々が五感で経験認知するものを、永遠という視野の中で認識させてくれる書物なのです。
ですから、その永遠が体感理解されていないと、聖書の理解は基本的になっていないことになる。
読んだって基本的には理解していないことになるのですね。

 だから、聖書の与える「仕合わせ感」も同じことになるんですね。
永遠を体感することは、「仕合わせの聖書論理」の基礎になっているわけです。


                



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Vol.13 理性が目覚めた状態で「死」を粉砕するのが福音

2006年02月08日 | 永続確信のための聖書解読


こんにちわ、鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本です。

仕合わせの聖書論理、第13回です。


               


 これまでに述べたことを、もう少し詳しく考えてみます。
 以前に「どうせ死んでオシマイでしょ」という声を忘れる第三の方法は「感動!」だといいましたね。
無常ということだって、無常感にし、それを美感としてしまうという方法を日本人は確立しているのだ、といいました。

 しかし、美感という感情には、あまり精緻な論理的枠組みが伴っていないんですね。
よく、「何かを確実に行うためには理論武装せねばならない」、といいますね。
この理論の部分が単純です。
だからこれは気分によって、割合簡単に崩れるわけです。

「アリガト運動」はもっとそうですね。
あるのは実践技術的なことだけで、これといった基礎理論はほとんどない。
だから、しばらくすると意識が崩れます。

 そうしたら、また「ありがとう」「ついてる」を繰り返すしかない。
あるいは、テレビをつけてさらに「感動!」番組をさがしもとめるしかありません。


                  




~~こうした方法は、基本的に「知・理性」をねむらせ鈍感にする方法です。

人間には幸か不幸か「理性」が備えられていますよね。
これが常時「どうせ死んでオシマイでしょ」という論理を意識に持ち込んできます。

 これはしょうがないんだよね。
五感がキャッチする事実なんだから。
「理性」が事実判断をしてるだけだから・・・。

 アリガト運動は、この事実を理性がなるだけ意識しないようにしてくれます
この方法では、基本的に「理性」を眠らすことになるのです。


               



しかし「理性は」はしばらくすると目を覚まします。
だから、この方法で得る「仕合わせ感」は崩れやすいんですね。
そこでまたがんばって「ありがとう、ありがとう」と何万回も繰り返すわけです。

~~これはもうどうしょうもないことか。
仕方ないことだろうか。
人間にはこれしかないんだろうか・・・・。

 これに対して、そうじゃないよ、と教え始めた人がいたのですね。
これがイエスだった。
この教えが福音だったのです。

 イエスは、「死んでオシマイではないよ」と言い始めた。
「ええっ?!」
とんでもないことです。気は確かか、と尋ねたい状況です。

だが、イエスは、「人間は永続するという論理を」しっかりした体系を持って教え始めました。
なおかつ彼は、その教えを「しるし(奇跡)」でもって傍証しました。

これが福音(いい知らせ)です。だってそうでしょう。「いい知らせ」に決まってますから。
そしてそれが聖書に書いてあるわけです。


                





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Vol.12 「この先永遠・・・」と意識してみる

2006年02月04日 | 永続確信のための聖書解読



みなさんこんにちわ、鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本です。

仕合わせの聖書論理、第12回です。


               



 先回、日本は無情意識が美感にまでなって、人々の心に深く定着している国、といいました。
でもそういう中で、もしも聖書の教えの基盤にある「永続確信」を身につけられたら、どうなるか。
計り知れないジョイと仕合わせ感をその人にもたらすでしょう。

ではこれを持つことをどうやって「助け」たららいいでしょうか。


               



その方法を結論から言いますと、まずとにかく聖書を教える際には「永遠」ということを感じさせるステップをとる、ということでしょう。

牧師さんの場合は、教会に来た人に、「この先永遠・・・」と意識してみましょう、といいます。
おそらくある程度うまくいった人は「気が遠くなったような」感じになるでしょうね。
「ボーとする」といったらいいかな。
そういう感覚になる。

でも、この体験は貴重なのです。
それは「生きる感覚」を変えますよ。
生活感覚が、これによって大きく変わるのです。


               





唐突なようですが、パチンコの話をします。

もしこれを体験したら、「パチンコに行きたい」という切迫感は減少するでしょう。

パチンコというゲームは、「どうせ死んでおしまいではないか」という意識から逃れたいというのがその根底動機になっています。この意識をうまくやり過ごすすべの少ない庶民、ジョイをうまく得られない庶民が、パチンコに逃れようとするのです。

 パチンコ業界の年間売上高は、しばらく前までは17兆円、とかいっておりました。ところがその後24兆円になり、いま30兆円といっています。

 この額がいかに巨大かは、広告業界の年間売上総計が6兆円であることと比べたらわかります。

 テレビをはじめとして、毎日のように多くの広告が流れていますよね。テレビのゴールデンタイムに15秒ポットを東京・関東地区で放映される局から流すと、一回105万円ほどかかるそうです。これが一日に数え切れないほど流れていますよね。

 でも、そうした広告費を一年分総計しても6兆円です。これで広告業界・民放業界の人々は、高給で派手に暮らしています。これからして、30兆円という売上げがいかに巨大かがわかるでしょう。

 ということは、庶民はそれだけ、パチンコ業界にお金を注ぎ込んでいるということです。今のパチンコは、1万円くらいはあっという間になくなるシステムです。それほどギャンブル性が高くなっているのです。こんな風に変わってきているのに、その営業が規制されていない。

刺激が強いです。それで、家庭の経済的破綻に至る例は非常に多いです。奥さんが病みつきになって、サラ金にお金を借りて家計を破綻させる。これによる離婚や家庭破綻もとても多いのです。

でも「この先永遠・・・」と意識する体験を持てたら、たったそれだけのことで、
パチンコに魅了される意識が、急速に減退します。


               



 またこれは「アリガト運動」や「感動!運動」や「陽気暮らし運動」の何倍も深いジョイをもたらしてくれます。
どうしてか?

 第一に、「この先永遠・・・」と意識する体験は、アリガト運動になどよってジョイをうる方法を、「完全化した」技法だからです。それはジョイを得るに障害となっている根底の意識「死んでおしまい」の意識を組み替えてしまいます。

 アリガト運動は、そうした根底意識には手をつけないで、それはそのままにして行う、ジョイ獲得の代用運動なのです。


               


 第二に、この体験は人間の知性を活性化します。
代用運動というのは、根底的に知性を「眠らせる」ことによって、ジョイを得る手法です。だから、人の知性・理性はあまり育たないのです。

 対して、「この先永遠・・・」という体験には、後にそれを確実にする理論が準備されていますからね。人間は永続する、という理論がある。これが福音の強みです。理論武装できる。

 そうやって理論を深めていくのは知性の仕事ですからね。
「死んでおしまいでない」という理論を、知性が習得したら、もう知性を眠らせる必要がありません。
代用運動とは反対に、どんどん活動させることになります。
だから、ブレーキをかけられていた知性が、エンジン全開で走り出すようになるのです。


               


 この出発点が「この先永遠・・・」というという思いを持ってみるというステップです。
この体験がないと、「人間は永続する」、という理論への習得欲求がわきません。
欲求がわかない状態で、聖書講義されたって、空回りするだけなのです。

でも、日本人は、普通の状態ではこの意識を体験することがなかなか出来ないのです。

なぜなら、無常意識が生まれてこの方心の底にしみこんでしまっていますから。

日本ではほとんどの文化がこの意識をベースに作られています。
そのなかで幼いときより育っている我々は、なかなか、「永遠」の意識になってみることが難しいのです。

そこで、その体験をするのを「助け」ます。

          
               


さあ、聖書に信頼を置く方々、まず、あなた自身がこの思いを体験してみてください。
「この先永遠・・・」と意識してみてください。
まもなくあなた自身が変わったことを、体験されるでしょう。

そして体験されたら、あなたが宣教する際にも、そのステップをまず踏ませるのです。
それが日本人に、障害なしの仕合わせ感をプレゼントするでしょう。
これが人間の精神を爆発的に活性化していくのです。


               


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Vol.11 「無常」への対応策が豊かな国

2006年02月02日 | 永続確信のための聖書解読



こんにちわ、鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本ですから。

仕合わせの聖書論理、第11回です。

超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。

+++

「どうせ死んでオシマイ」という思いを忘れるための次の方策は~~


3.「感動!」の場面を求める。

           ~~です。


 感動すると、人間は「どうせ死んでオシマイ」という事実をしばらく忘れることが出来ますからね。で、懸命にこれを求めるわけです。
 
これはもう、スポーツとか、芸術とか、映画、ドラマなどという手段がありますね。

 日本は、伝統的に、この種の方策が豊かに存在する国なんですね。
 「死んでオシマイ」という意識を「無常観」という哲学的な理念に高めました。
そして、あらゆるものが無常の中で滅びていく様に「美」を見つけもしました。

 「わび、さび、あわれ」の美感がそれです。

「わび」は、滅びていくものを見て感じるわびしい気持ちです。
その気持ちも、じっと見つめていると人は「美」を感じる、というのです。

「さび」は、「寂しい」気持ちの凝縮したものです。
「あわれ」は、「あわれだ」と感じる気持です。
これらが美感にまで高められているんですね。
こうして、無常を「覚悟」してしまいます。

 このような「死んでオシマイ」にも精神的に対処する方策が、日本では豊かに実っておりました。

+++

 日本は、そういう伝統が確立した国です。
だから、永遠、などということには、なかなか意識が向かいません。
「そんなこと考えるなんて、ばかげている」と考えやすい精神状態が確立しているんですね。

+++

ところが、聖書の教えは、この「永遠」への対策が中核になっているのです。

そのことに、無常観が定着した精神構造では、正面から対座すること自体が難しいのです。
ここに「すれちがい」の条件が出来ています。

無常への悟りは韓国や中国よりも、日本でははるかにしっかりと定着しているようです。
海に囲まれた立地によるところ大きいでしょう。
異民族に政権を奪われるという体験がない。
その意味で、平和でした。

庶民には貧しさはありましたけれども、異民族に皆殺しにあったり、蹂躙されたりする恐怖が少なかった。
だから比較的じっくりと、無常観を哲学的に悟ったりすることが出来たのでしょう。

+++

 しかし、もう一つ大きな要因があります。
それは、「永遠」の問題に対して信頼できる見解を提供してくれる書物がなかったことでしょう。

 この世の人間には誰も死んだという経験を持っているものはおりません。
だから、死後のことなどは経験的手がかりをもって考えることが出来ません。
自分で考えられることは、知れているのです。

 なのに、問題がさらに「永遠」ということになったら、もう手の出しようがない。

 自分の経験的思考を超えたもので、内容のしっかりした信頼に足る書物がほしい。
これがないことには、この問題については実のある思考が出来ないのですね。 
 
 福音伝道がなされる以前のローマ帝国もそうでした。聖書の教えが入ってくるまでは、どうしょうもなかった。ローマ人たちは、人生のむなしさを、快楽を追求することで紛らわしていました。

 そこに福音の教えが入った。
そうしたら、永遠のことに対して確信をもって、仕合わせ感をふかめる人がたくさん出たのでした。

日本でも、聖書がもっと早く入っていたら、状況は変わっていたでしょう。
実情は、まだ入ったばかりですからね。
いまのところ、仕方ないのでしょうね。
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Vol.10 「なんでも肯定」意識を作る

2006年02月01日 | 永続確信のための聖書解読


こんにちわ、鹿嶋春平太です。
今日もいいことありますよ。

聖書は永遠の世界においても、この世においても、人間をしあわせにしようとする本です。

仕合わせの聖書論理、第10回です。

超自然的な力によるものは、当面のぞいて考えます。
心理学的なものなど、経験科学的に認知できる領域で話を進めます。


               



 前回「どうせ死んでオシマイでしょ」という意識を忘れさせてくれる手法を考え始めました。

まずは、第一の「この世に理想郷を求める」でした。
今回は第二の方法です。それは~~

               


2.「なんでも肯定」の意識を心の中に作ってしまう。
    
   ~~という手法です。


               


  アリガト運動、ついてる運動、ええじゃないか運動、もこの手法です。

  アリガト運動、づいてる運動、は前にお話ししましたね。



               


  「ええじゃないか運動」というのは、幕末から明治維新の日本に全国的に流行した運動です。

たとえば「お前の女房とおれが親しくしたってええじゃないか。ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか」というような言葉を繰り返し唱えながら、みんなで踊りまくる、という運動です。

 こういう風に、なかなか肯定しづらいことを提示して、それを「ええじゃなか、ええじゃないか、ええじゃないか」と肯定する。繰り返しそれを唱える。

 すると人は物事を以前より素直に、ありのままに見るようになります。こうして人の眼にくっついているレンズのしわ、ゆがみが伸ばされていきます。それで、ものが比較的ありのままに見えるようになるわけです。


               


 ものがありのままにみえると、人間は存在を深く感性認知できるようになります。
するとまた認知の感動が伴うようになる。
気持ちよくなります。
で、まずます物事を肯定的に受容するようになる。

               


 明治維新の革命家たちは、すごい洞察力を持っていました。
彼らは、人間のこの心理を知っていた。
それで、各地に配下の者を派遣して、この運動を誘発したのでしょう。

 こうすると、維新政府の行う革新的政策への不満は和らぐわけです。
こうして、反政府運動の発生を減少させ、とにかく維新を成功させようとしたのでしょう。

アリガト運動、ついてる運動は、政治的意図の元に仕掛けられた運動ではありません。
だけど、人々の心にもたらす効果は、同じものなわけです。



               





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