鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

量子力学と「二重スリット実験」

2022年06月30日 | 永続確信のための聖書解読

 

 

 さて部屋の扉か壁かをすり抜けて、部屋に現れたイエスの復活の身体をどう物理的にイメージするか。 

 

 投影して理解できそうな物理学知識は量子力学のそれだ。  

 

+++ 

 

 量子力学(量子論)は、物質の根源に関する画期的な発見をしている。 

 

 従来の物理学では、究極の物質は「素粒子」だった。 

 原子を構成する、陽子、中性子、電子などの「つぶつぶ」の物質だと考えられてきた。 

 

  ところが、量子論は、根源は「振動(波動)」であると明かしたのだ。  

 今回は、その画期的な発見を証拠づけた、実験を紹介する。 

 

<二重スリット実験> 

 

  それは「二重スリット実験」と呼ばれている。 

  実験は次のように行われた。 

 

 まず、下図のように、電球の光を、縦の二本のスリット(隙間、切れ目)のある板に当てて、光がその奥に立てかけてある壁に映し出される姿を見た。 

  

 

  

   電球の光は、物理学的には光子(こうし)という素粒子だ。 

 ちなみに光子は、我々の目に外部の物質の姿を認知させてくれる素粒子でもある。これが物質に当たって反射し、我々の眼球を通って網膜に影響を与える。我々はそれを受信し、脳の中で映像に変換して姿を認識している。 

 

<粒子なら二本の縦線が壁に出来るはず> 

  

 さて、もしも光子が粒子(つぶつぶのもの)ならば、その奥に立てかけてある壁には、二本の縦線ができるはずだった。下の図のように。

 

 

<だが、縞模様(干渉縞)になった> 

   ところが実際にはなんと、縦線は下の図のようにタテの縞模様(しまもよう:干渉縞という)になった。 

 

 

 これは光子と呼ばれていた物質が、実は、つぶつぶの粒子だけではなかったことを示唆している。 

 

+++ 

 

 縞模様になるのは、光子が波動をも含んでいるからだ。 

 波は左右各々のスリットから出るとき、下の図のように、扇状に広がって出ていく。 

  

 すると左右の波の高い(濃い)ところが重なり合う。そこは、波は互いに増幅し合ってより高くなり、明るさが濃くなる。 

 逆に、高いところと低いところとが重なる部分は、波は打ち消しあって弱くなり、明るさは薄く(暗く)なる。 

 そこで、下の図のように、濃い部分が明るい縦の筋(縦線)となっていくのだ。 

 

 

 

  

 この実験で、従来素粒子と認識されていた光子は、実はつぶつぶの粒子と波動から成っている二重存在だったことがわかった。 

  

<物質一般の根源も> 

  

 光子のこの性格は、電子など他の素粒子についても確かめられた。

 さらにその性格が分子についての実験でもみとめられ、物質の根源が粒子と波動という二重存在であることは確定的になった。 

 

 研究者はその「振動(波動)でも粒子でもありそうな」不思議な存在に、量子(クオンタム:quantum)との名を与えた。 

  この思想の上で作り上げられてきている物理学知識が量子物理学だ。それは通常量子力学と呼ばれる。 

 

<より根源的な方は波動> 

 

 その後、波動と粒子の内で、波動の方が根源的であると理解されるようになった。 

従来素粒子だとみられてきたものは、実は波動の一部が凝集した部分だと考えられたのだ。 

 

 その凝集した波動を学者たち「波束(はそく:波動の束)」と呼んでいる。 

 

+++ 

 

 いまや量子力学の存在論は、従来の(粒子ベースの)物理理論の存在論よりも妥当性が高い。 

そういう認識は日を追うにつれて増大してきている。 

 

 実際に超高速の量子コンピューターが造られるという事実もまた、量子理論の正しさを証拠づけている。 

  そうしたこともあって、今やそれ以前の物理学(ニュートンやアインシュタインの)は古典物理学と呼ばれるに至っている。 

 

+++ 

   

 この量子力学の思想は、復活のイエスの身体を物理学的に理解するに助けになりそうだ。 

 

 次回はそれを試みよう。 

 

(続きます) 

 

 

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比喩用語「いのちエネルギー」の効果事例

2022年06月29日 | 永続確信のための聖書解読

 

まだ前回の続きである。 

 

復活のイエスは、閉じられた扉か、あるいは壁を通り抜けて部屋に入ってきた。 

これを物理(学)的事象に投影させて、比喩理解したい。 

 

だが、その前に、比喩理解というものの事例をみておこう。 

筆者自身がやってみた体験事例である。 

  

<「いのち」というキーワード> 

   

 聖書には「いのち」という語が頻繁に登場する。これは聖書論理の中心概念だ。 

  にもかかわらず、この語は明確に定義(別の言葉で言い換えること)されることはなく、今日まで来ている。 

 

 霊感の卓越した人はそのままでわかるかもしれない。 

 だが、われわれ一般の人間にはその意味はわからない。 

 

 それ故に、その語を用いた聖書の論理も、漠然としてわからない。 

  筆者もそれに悩まされ続けてきた。 

 

 <エネルギーのような概念だなぁ> 

 

 長年悩まされてきたなかで、あるとき一つの雰囲気が浮かんだ。 

 「いのちって、エネルギーのような感じの概念だなぁ」というオーラだ。 

 

 そこで、思い切って、「いのち」を「いのちエネルギー」と言い換えてみた。 

 

 <霊は充電式乾電池> 

 

  それは、電気エネルギーをイメージすると、特にわかりやすくなるのだが、「いのちエネルギー」の名のままで思考を進めた。 

 

 まず「いのちエネルギー」は創造主より被造界にあまねく放射されている、とする。 

  そして、人の霊を充電式乾電池のようにイメージしたら、次のような理屈が浮上した。 

 

+++

 人の霊は意識体でもある。

 そこで、その意識の波動が創造主の言葉のそれと共振・共鳴するほどに、充電は効率よくなされる、と考えた。 

  共鳴しなければ、「いのちエネルギー」は、その人の霊を素通りしてしまって、その霊は充電不全になる、とイメージした。 

 

 <言葉を受け入れれば意識波動は共和的に> 

 

 そのように考えると、「イエスの言葉を心に受容すると、霊がいのちを得る(得て活性化する)」という聖書の論理が、わかりやすくなった。 

 

 イエスは「自分の言葉は父なる創造主の言葉でもある」という。 

 

 言葉は意識波動をもっている。創造主の言葉は、創造主の意識波動を持っている。 

 それを心に受け入れれば、その人の意識波動と創造主の意識波動との共鳴度は上昇する。 

 

 そうなれば充電式乾電池(霊)はよりよく充電され、活性化するだろう。 

  こう理解できたのだった。 

  

<著書で使ってみたら> 

  

 筆者はその解読を用いて、『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書、鹿島春平太)を作成した。 

  この本は、聖書本としては異例によく売れた。 

  

 そして発売後二年ほどたった頃から「この本の比喩説明を用いたら説教が楽になった」との牧師さんの声を一人ならず、間接的に聞くようになった。 

 比喩的理解の効力を体験した事件であった。 

 

 (続きます) 

 

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見えない事柄は物理事象への投影を試みる

2022年06月27日 | 永続確信のための聖書解読

 

 前回の続きである。 

  イエスは扉が閉じられら部屋の中に入ってきて「平安あれ・・・」といった。 

 

 通常の常識では理解が難しい事態だ。 

 

+++ 

 

  話は、認識論的になる。 

  そういう事態を認識する方法は、基本的に二つある。 

 

 一つは「イエスは神の子だからそういう不思議な出来事として受け取っておきましょう」とする方法だ。 

 

<神秘は宗教の必須要素だが> 

 

 それもいい。

 不思議すなわち「神秘」である。 

 宗教においては神秘要素はあっていいし、必要でもある。 

 

 もし、神秘を全て否定してしまったら、そのイメージ世界は科学のそれになってしまう。 

  

<神秘主義では「知」が欠ける> 

 

 だが、かといって、闇雲に神秘にしてしまえばいいというものではない。 

 そうすると、認識は凡庸な「神秘主義」というか、単なる「神秘好き」に流れてしまう。 

 

 宗教は結局みな「鰯の頭も信心」の精神世界の活動で、「知的に劣った人のすること」となってしまう。 

  日本の神(在物神)概念は概してそうなのだが、それでは認識に「知」の要素が欠けていく。 

 

<物理事象に投影する> 

 

 もう一つ方法がある。 

  神秘要素を、できる限り五感認識可能な物理的事象に投影(たとえること、比喩)することだ。 

  それによって、イメージ理解を試みるのだ。 

 

 いけるところまでやってみる。

 どうにもならないところは、やむなく神秘とするのだ。

 

+++ 

 

 イエスも自分の教えを伝えるときに「たとえ」を多用している。 

 自分の死を前にした「最後の晩餐」においてさえ、弟子にこんな比喩表現をしている。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・

 「わたしはぶどうの木で、諸君は枝です  

人がわたしにとどまり、わたしもその人の中に留まっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」 

               (ヨハネの福音書、15章5節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・

  

~「弟子たちがイエスに留まり、イエスもまた弟子たちに留まる」という言葉は、そのままでは何を言ってるかわからない。 

  見えない世界の事柄をそのままいわれても、弟子たちでもよくわからないのだ。 

  それを「ぶどうの木と枝」に投影すると、とにかく、そのイメージは弟子の心に浮上する。 

 

 イエスが壁を抜けて部屋に入ってきたことに対しても、それを投影・比喩する物理的事象はないか。 

  そう考えるのがオーソドックスな思考と思われる。 

 

(続きます) 

 

 

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復活の身体は生前の肉体とは異なっていた

2022年06月25日 | 永続確信のための聖書解読

 

 本筋に戻ろう。 

 

 弟子たちは、復活のイエスを「目で見ても」、それがイエスだと受け入れられなかった。 

  理由の一つは、生前と身体が変わっていたことにあるだろう。 

 

+++ 

 

 イエスの復活の身体が異なっていただろうことは、次のことからも推定できる。 

 

 イエスの処刑後、弟子たちは、ユダヤ人たちが自分らを襲うことを心配して、一つの部屋の入り口に鍵をかけて潜んでいた。 

そこにイエスが、扉も開けないで入ってきている。 

 

その状況を、ヨハネは次のように記している~。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・

「その日、すなわち週の初めの日(日曜日)の夕方のことであった。

 弟子たちがいた所では、ユダヤ人(の襲撃)を恐れて戸が閉めてあった。 

 

イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。 

『平安があなたがたにあるように』  

            (ヨハネの福音書、20章19節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・

 

 ~この「扉をすり抜けて入ってきた」ことも、大きな意味を秘めているが、そのことは次回に吟味する。 

 

 とにかく、目の前に現れたイエスを、弟子たちは、霊を見ていると思った。 

 様態が異なっていたからだろう。 

  

<霊だと恐れた> 

 

 ルカはつぎのように記している~。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼ら(使徒たち)の真ん中にたたれた。 

 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。 

 

するとイエスは言われた。 

『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手や足を見なさい。 

        ・・・・(中略)・・・・・ 

 霊ならこんな肉や骨はありません。』 

            (ルカの福音書、24章36-40節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・

  

 ~聖書には明言されていないのだが、このイエスは、生前の肉体を持っていたときのイエスの、そっくりそのままの再現ではないはずだ。 

  その姿形(スガタカタチ)は生前のイエスのままであったかもしれないが、身体の素材は異なっていたはずだ。 

 

  生前の肉体のように、肌も見た目ではすべすべしてはいなかったかもしれない。

 目尻にもしわはなかったかもしれない。

 

  とにかく、生前とは異なっていた。 

  だから、弟子たちは「霊を見ている」と思ったのだ。 

 

+++ 

 

  扉を閉めていたのに、入ってきた。 

 この事件にも深い意味が含まれているが、次回に吟味しよう。 

  

    (続きます) 

 

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パラダイスは宇宙空間のどこかにある

2022年06月24日 | 永続確信のための聖書解読

 脇道に入るのはできるだけ避けたいが、前回の話に、「パラダイス」がでてきた。 

  この用語は、説教にもよく使われるので、ここで吟味していこう。 

 

パラダイスは天国だと思っているクリスチャンが多い。 

 牧師さんなど教職者にも多い。 

  

<天国でないことは確か> 

  

 どこにあるかを特定することは難しいが、天国でないことは解読できる。 

  ヨハネは福音書で、マグダラのマリアが復活のイエスに会う場面を記している~ 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

   彼女(マグダラのマリア)は(墓場で天使に)いった。 

『だれかが私の主をとっていきました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。』 

 

 彼女はこう言ってから、後ろを振り向いた。 

すると、イエスが立っておられるのを見た。 

しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。 

 

 イエスは彼女に言われた。 

『なぜ泣いているのですか。誰を探しているのですか』 

 彼女はそれを、墓の管理人だと思っていった。 

 

・・・・(中略)・・・・ 

 

イエスは彼女に言われた。 

『マリヤ・・・』

 彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(先生)!」といった。 

 

「イエスはマリアに言われた。 

『わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ、父のところに上っていないからです』 

               (ヨハネの福音書、20章14-17節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 

 ~ここで「父のもと」とは天国である。 

 まだそこにのぼっていないから「すがりついてはいけない」理由はこの聖句からはわからない。 

 

 だが、このとき(復活の姿を見せた日曜日)に、イエスがまだ天国に上っていないことはこの聖句からわかる。 

 

 そしてイエスは金曜日に、イエスに「天国で私のことを思い起こしてください」といった(悔い改めの)犯罪人と共に、パラダイスに上っている。 

  ということは、パラダイスは天国ではない、ということだ。 

 

 天国でないなら、それは「宇宙の中のどこか」である。 

  

<イエスの空中再臨で復活> 

  

 その後、イエスが天国からこの宇宙の中の空中に来て現れる(いわゆる再臨)ことは決まっている。 

  イエスに頼った者は、このとき新しい身体に復活してイエスに会う。 

 

 それまでの間、(悔い改めた)犯罪人はパラダイスにいるはずだ。 

  そのことから、パラダイスとはこう推察される。 

 

 イエスを信頼した人間が、「死んでのぼって、イエス再臨までの間、安息する場所(空間)」だと。 

 

 <「天国に凱旋」は間違>> 

 

 数日前にもFacebookで、牧師さんからのこんな告知を見た。 

 「***牧師先生は、(なくなられて)天国に凱旋されました」 

 

 「天国に凱旋」のフレーズは日本では定番になっている。 

 

+++ 

 

 だけど、「クリスチャンは死んだら天国に超特急、不信者は地獄に超特急」なんて、聖書に書いてないよ。 

  こういう台詞がプロの教職者によって繰り返されることは、彼らが聖書をいい加減にしか読んでいないことをあらわしている。 

 

 このままでは彼らの叫ぶ「日本のリバイバル!」はほど遠いだろう。 

 

(続きます) 

 

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イエスの復活は処刑日の夕方 かも?

2022年06月23日 | 永続確信のための聖書解読

 

 弟子たちが「よみがえり」のイエスを、その目で見ても、受け入れがたかった理由は他にもある。 

   イエスは、生前と同じ身体では、現れなかったのだ。 

 

+++ 

 

 これまでそのあたりは、留意されてこなかった。 

 考えてみればおかしいくらいだ。 

 

 後に天国に昇るためにも、生前と同じ肉体をもっていたのでは、イエスは重くて昇天して行かれないのだ。 

  

<復活の日時はいつか> 

 

 それに関連して、そもそもその「よみがえり」はいつ起きたかを、改めて吟味しよう。 

 一つの解読は、彼が墓に葬られて、入り口の石が転がされて、入り口が閉じられてすぐだった~である。

 理由は次のごとくだ~。 

 

<きょう私と共にパラダイスに> 

 

  イエスは隣の十字架につるされていた犯罪人に約束をしている。 

 「ルカの福音書」23章で、ルカはこう記録している~ 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

  「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスと共に死刑にされるために引かれていった。 

  ”どくろ”と呼ばれているところに来ると、そこで彼らはイエスと犯罪人とを十字架につけた。 

 一人はイエスの右に、一人は左に。 

 

・・・・・(中略)・・・・ 

 

 犯罪人の一人はイエスに悪口をいった。 

『あなたはキリストではないか。自分と私達を救え』 

 

ところが、もうひとりのほうが彼をたしなめていった。 

 『おまえは神(創造主)をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 

われわれは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。 

だが、この方は、悪いことは何もしなかったのだ。』 

 

 そしていった。 

『イエス様、あなたが御国の位にお就きになるときには、わたしを思い出してください』 

 

 イエスは彼に言われた。 

『まことに、あなたに告げます。きょうあなたは、わたしとともにパラダイスにいます』 

 

             (ルカの福音書、23章32-43節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 ~この「きょう、あなたは、私と共にパラダイスに・・・」の「きょう」は金曜日、イエス処刑の当日だ。 

 

 <処刑日の夕方までに復活せねば> 

 

 つまりイエスは、その日のうちに、この犯罪人をパラダイスに連れて行かねばならなかった。

 そして、そのためには復活せねばならなかった。 

 

 パラダイスがどこにあるか。 (すぐ後に吟味するが)少なくとも、地上でも地下でもなくて、上の方だろう。 

  そして上方に上るにはイエスは、新しい、軽い身体に、復活せねばならない。 

 

 その復活は、アリマタヤのヨセフが提供した墓が大きな石で閉じられた、そのすぐ直後、処刑の日の夕方になされねばならないだろう。

 ~こういう推論である。

 

<身体を出た霊によって罪人を連れて行った>

 

第二の解読は、次のごとくである。

 

 イエスの霊は、殺された金曜日に身体を離れている。

その霊によって、イエスは、彼を頼った罪人の霊をパラダイスに連れて行った。

だから、この日に復活する必要はない。

 

+++

 

また、父なる創造神は聖なる安息日(土曜日)を大切にされる。

だから、イエスの霊をそのままの状態にしておき、翌日(日曜日)の早朝に、その霊を身体に入れて復活させた。

このことは、イエスが前々から言っていた、「三日後に復活する」との言葉とも符合する。

 

+++

 

さあ、どちらの解読が確からしいか。

「三日後に復活する」の言葉も、「三日後に復活した姿を弟子たちの目の前に現す」という意味だと解することも不可能ではない。

けれどもどうも、後者の方が正解らしく思われる。

 

(続きます) 

 

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復活はワンランク上の奇跡だった

2022年06月22日 | 永続確信のための聖書解読

 

ここで、イエスの「よみがえり」に対する弟子たちの心情を想像してみよう。 

 

 現在の我々には福音書という書物がある。 

 多くの者は、それを読んだり、あるいは、読んだ者の要約話を聞いたりして、イエスの復活話を、知っている。 

 日本人ではそういう人も少ないかもしれないが、復活祭という言葉くらいは知らず知らずに耳にしているだろう。 

 

+++ 

 

 だが当たり前のことだがイエスと同時代の弟子たちには、福音書はなかった。 

 代わりに、生身のイエスが共にいた。 

 

 その状態で「あの死んだ師匠(イエス)が再び現れたらしい」という情報を得たのである。 

 さすがの弟子も最初は「まさか!」だった。 

 

+++ 

 

 たしかに、「最後の晩餐」でイエスは「自分は殺されて、復活して現れる」と明言している。

だがそれでも最初は「まさか!」であった。 

 

 福音書によれば、彼らはよみがえったイエスを見て、だんだんと「事実かも知れない」と思いはじめていっている。 

 目で見てもそれを現実のことと受け入れるのに、結構な時間を要している。 

  

<「新しさ」のランクが違う> 

 

 理由は一つには、この奇跡は従来イエスが見せた奇跡を、ワンランク超えたものを持っていたからだと思われる。 

  前の回で筆者は「奇跡とは既知の自然法則を超越した新現象五感に認識させるもの」と定義した。 

  その新現象の「新しさ」のレベルが、従来の奇跡をワンランク超えていたのだ。 

 

 <他者を生き返らせる奇跡なら> 

 

 人を生き返らす奇跡なら、旧約時代の預言者エリヤもやっている。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 彼は、一人息子が死んで悲嘆に暮れていたやもめの、その息子を生き返らせている。 

          (第一列王記、17章17-24節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

  イエスはそんなことは繰り返しやっている。 

  

・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 死んだ少女に「起きなさい」という言葉を発して生き返らせている。 

          (マルコの福音書、5章40節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

 死んで棺で運ばれるやもめの息子の青年を、「起きなさい」という言葉を発してよみがえらせている。 

          (ルカの福音書、7章12-15節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 イエスを慕ったマリア、とマルタ姉妹の弟、ラザロは、墓に葬られて、死後四日たっていた。 

 その墓にきてイエスは「ラザロよ、出てきなさい!」と声を発して生き返らせている。 

          (ヨハネの福音書、11章43節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

  これらの奇跡には共通した特徴がある。

 生き返らせた当人であるエリヤもイエスも、自らの身体は変化していない。 

 

 

<復活では自ら変身している> 

 

 ところが、今回の「よみがえり」では、イエスの身体状態が変化している。 

  死んで息をしなくなって、動かなくなって墓に葬られた。 

 それが生き返って動き出し語り出すという、大きな変化を見せているのだ。 

 

 これは過去の預言者も、イエス自身もしたことのない、ワンランク上の奇跡であった。 

  この大変化に、弟子たちの常識感覚がついて行けなかった。 

 

 だから、この「よみがえり」は五感認知できても(目でその姿を見ることができても)、

事実と受け入れるには時間がかかったのだ。 

  

(続きます) 

 

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五感認識したら確信できる

2022年06月21日 | 永続確信のための聖書解読

 

 イエスが「最後の晩餐」で予告したことは、まだまだある。 

 

だが、弟子たちはその予告に「そうかもしれないな」「そうなるといいな」と思うのがせいぜいで、確信は持てなかった。 

 

予告したことを五感で認識できなかったからだ。 

 

+++ 

 

  公衆に宣教する際、イエスはまず奇跡を見せた。 

  教えに耳を傾けさせるためだ。 

 

 その奇跡は、五感が認識する現象である。だから人々は驚愕した。驚いて教えに耳を傾けた。 

  だが、続いて語る教えを五感認識させることはなかった。 

  

「天国は近づいた」といっても、その天国を映像で目に見せつけることはなかった。 

 

「私の教えていることは父から与えられたもの」 

といっても、その状況を目に見せることもなかった。 

 

+++ 

 

 「最後の晩餐」での弟子への予告も同じであった。 

 「聖霊を送る」といっても、そう言っている時点では、聖霊を五感認知させることもしなかった。 

 

 だから、弟子たちも、イエスの予告に「そうなるかもしれないなぁ」という気持ち以上の、思いを抱くことなかった。 

 

<復活は五感認知させた> 

 

 だがそうしたなかで、イエスは一つだけ、例外を見せた。 

「わたしは(死んでも)また諸君の眼前に現れる」という予告(教え)についてである。 

 

 イエスは十字架刑死して墓に葬られた後、実際によみがえって弟子たちの前に。目に見える状態で現れたのだ。 

 いわゆる「復活」の予告については現実に見える状態で五感認識させたのである。 

 

 これがいかに画期的ですごいことであるか、現在クリスチャンと称される人々にも、ほとんど認識されていない。 

 

 この事件を次回からしばらく、吟味しよう。 

 

(続きます) 

 

 

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死と「よみがえり」も予告する

2022年06月20日 | 永続確信のための聖書解読

 

  聖霊降臨・バプテスマの予告に続いて、イエスはさらに重要な予告をする。 

  自らの死と「よみがえり」(復活)、さらに弟子たちの復活と永続の予告だ。  

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。 

 だが、諸君は私を見ます。 

  私が生きるので、諸君も生きるからです」 

          (ヨハネの福音書、14章19節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

   ~「いましばらくで世はもう私を見なくなる」は、 

 「死んで葬られていなくなる」ということだ。 

 

 「だが、諸君は私を見る」は、 

 「私はよみがえって諸君の前に現れる」であり、 

   すなわち、復活の予告だ。 

 

<諸君も私と共に永続する> 

 

 そして、その次の

  「私が生きるので諸君も生きるから」は、

  人間への予告だ。 

 

 これはイエス独特の表現(言い方)だが、要するに~ 

 「私が復活して生き続けるように、諸君も、死んで、復活して天国に受け入れられて永続する」

  ~という。 

 

  ここで「諸君も生きる」は、諸君も私(イエス)と同じように永続する、という意味なのだ。 

 

<死後まずパラダイスで安息する> 

 

 前記したドラマの全体像~ 

(十字架死 ⇒ 復活 ⇒ 追加の教え ⇒ 昇天 ⇒ 空中再臨 ⇒ 天国への受容) 

     ~のプロセスでの位置を言うと、 

 

 まず、イエスが復活して⇒ 追加の教えをして ⇒ 弟子たちはその昇天を見送る。 

 ~という事件の後のことだ。 

 

 上記ドラマのプロセスには記入しなかったが、 

イエスの昇天を見送った後、弟子たちはイエスの教えを伝導して生涯を終える。 

 

 すると、その霊を天使がパラダイスに導いて、そこで安息を続ける。 

 

 そして、あるときイエスが天国から宇宙に下って空中に現れる。 

 

 すると、弟子たちの霊は新しい身体に復活する。 

そして、天国に迎え入れられて永続する。 

 

 ~そういう人間向けの予告(約束)までもが、ここで一気になされている。 

 

  +++ 

 

 もちろん、弟子たちはこの時も、言われてることの具体的中身は、ほとんどイメージできない。 

  当然だがイエスはかまわず語る、という場面である。 

 

      (続きます) 

 

 

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弟子に「聖霊が入る」と予告

2022年06月19日 | 永続確信のための聖書解読

 

  死を前にした「最後の晩餐」でイエスはこれから展開するドラマの全体像を述べた後に、従来語らなかった新しい事柄を述べていく。 

 

 その一つが、「諸君の霊のうちに聖霊が入るようにする」だ。 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 「わたしは父にお願いします。そうすれば父はもう一人の助け主を、諸君にお与えになります。 

 ・・・(中略)・・・ 

  その方は、諸君と共に住み、諸君の(霊の)内に入ります (will be in you)。 

 ・・・(中略)・・・ 

  しかし、助け主、すなわち父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、諸君に、全てのことを教え、また、わたしが諸君に話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」 

            (ヨハネの福音書、14章16-26節) 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・

 

 この事件は前記した~ 

 (十字架死 ⇒ 復活 ⇒ 追加の教え ⇒ 昇天 ⇒ 空中再臨 ⇒ 天国への受容) 

      ~のプロセスの内の、「(イエスの)昇天」の後に起きることだ。 

 

+++ 

 

  弟子たちの霊の内に聖霊が入り、口から当人も理解できない言葉が吹き出す、という奇異な事件だ。 

  事態は四福音書に続く書物『使徒行伝』2章に詳しく記録されている。 

 

 この書物は「ルカの福音書」の著者、ルカがその福音書の後編として記述していたものだ。 

  後年、聖書全体が編集される際に、編集者が独立の書物として収録して現代に至っている。 

 

+++ 

 

 もちろん、これもこの時点では弟子たちは、チンプンカンプン何言っているかさっぱりわからない。 

 

 だが、イエスは言葉を覚えておくだけでもいいというがごとくに、堰を切ったように語り続けている。 

 

(続きます) 

 

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「平安」を常時心の基盤に

2022年06月18日 | 永続確信のための聖書解読

 

  

 エルサレム広場での宣教は、参拝者観衆の心には留まらなかった。 

 だが、イエスはそのエルサレムで最後の宣教を弟子たちに焦点を定めて語った。 

 

 

<最後の晩餐での教え> 

 

 それがなされるのが、いまやその名が知られている「最後の晩餐」においてである。 

  最後というのは、イエスがこの世で執り行う「過越祭り」での夕食としては「最後」ということだ。 

 

 イエスは翌日、十字架刑で殺されるのだ。 

 

+++ 

 

 そこで弟子たちに生前最後の教えをする。 

 

 特に、「ヨハネの福音書」の14章、15、16章にわたる三つの章では、イエスはほとんど一人でしゃべりまくっている。 

 これは鞄持ちとしてぴったりイエスに付き添い続けた、弟子ヨハネだけが記録できた圧巻の章だ。 

 

<まず全体像を> 

 

 冒頭は、こう始まっている~ 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

「諸君は心を騒がせてはなりません。 

創造主を信じ私を信じなさい。 

 

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。 

もしなかったら、諸君に言っておいたでしょう。 

 

諸君のために、私は場所を備えにいくのです。 

 

私が行って、諸君に場所を備えたら、また来て、 

諸君を私のもとに迎えます。 

 

わたしのいるところに、諸君をもおらせるためです。」 

 

 (ヨハネの福音書、14章1-4節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 

 これは、これから弟子たちの身におきる事柄の全体像(十字架死 ⇒ 復活 ⇒ 追加の教え ⇒ 昇天 ⇒ 空中再臨 ⇒ 天国への受容)を述べたところだ。 

 (もちろんこの時点では弟子たちにはその具体的中身はわからない) 

 

+++ 

 

 まずイエスは「これから私は諸君の目の前からいなくなるが、心の平安を保ちなさい」という。 

 平安はこれからイエスが展開するドラマを認識するに必須の精神状態である。 

 

 これからイエスは、すべてイエスに頼り切ってついてきた弟子たちの前から、殺されて消え去る。 

 弟子たちにとって動転する事態だが、動転心理では感情が認識をさえぎる。 

 

 それではいけない。 

 

<平安に知的認識を> 

 

 イエスはこれから弟子たちに、我が教えを伝道させたいと思っている。 

 それには、平安な心を保って、これからのイエスの教えを、冷静に、五感でもって知的に認識せねばならない。  

 

 感動が混じってもいけない。 

とにかく平安が保たれ続けねばならない。 

 

 短期的にもこれからわたし(イエス)は殺されていなくなって、すぐに、よみがえって弟子たちの前に現れる。 

 現れたときにも、動転してはならない。

よろこぶのはいいが感動までいってはならない。

とにかく平安な心で、五感で、起きている事態を記憶にとどめるのだ。 

 

+++ 

 

 これから弟子たち自身が伝道するときにも、奇跡を伴わせるようにする。

 その方法も教えていく。 

 だがそれも、平安な心の状態の時だけに現れる。 

 

 礼拝にも、平安が土台になければならない。 

 賛美の音楽も冷静、平安に歌わねばならない。 

 

 メロディは美しくてもそれに「酔って」はならない。 

 

 イエスの言う平安は、そういう深い意味を込めている。 

 だから、その後もここというときには、「平安あれ」とまず一声するのだ。 

 

 (続きます) 

 

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永続確信は最後の砦

2022年06月17日 | 永続確信のための聖書解読

 キリスト教会での「アガペ愛推奨」がもたらすのは、単純ではない。 

 それは教会運営に不純な要素をももたらす。 

 そのことに留意しておくために脇道にそれた。 

 

 本筋に戻ろう。 

 

+++ 

 

 筆者は在米中に、あるアメリカ人に、日本人が当然として抱いている無常観を説明したことがある。 

 取り立てて熱心な信仰者でもない、米国では普通のクリスチャン・ビジネスマンだ。 

 

 彼は驚いてこう言った~。 

 

 「自分が永続するというのは、私の全てを守る砦(とりで)だよ。

永続しなかったら、私の全ての夢、理想、美、倫理、道徳、愛などみんな崩壊するよ。

残るのは、快楽への突進だけになるよ・・・」と。 

 

 もっともなことだ。 

では「自分が永続する」という確信を日本人でも、聖書を読んで抱くことができるか。 

 

 本稿の主題は、それだった。 

あらためて、その探求を再開しよう。 

 

(続きます) 

 

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「アガペ愛」の効果は複雑

2022年06月13日 | 永続確信のための聖書解読

 

 イエスが見せた「無償の愛」「利己心なしの愛」には、後に「グレースの愛」とか「アガペの愛」という(神学)用語がつけられる。 

 

 その結果、キリスト教界にはこの概念が広く普及するに至っている。 

 

 それによって、「アガペ愛」の理念は一人歩きして、教会に複雑な影響を与えてきている。 

 

このことを、いま、このタイミングでみておこうと思う。 

  

<アガペ愛の推奨> 

 

 まず、この概念が普及した結果、教会指導者が一般教会員に「アガペ愛」を賞賛し、その模倣を教会員に推奨する傾向ができあがった。 

 

 教会員も、無償の愛に励むことによって「利己心からの解放」が得られ、心が軽くなり快感が増す。 

 

 そこで、この行為を実行するようになるのだが、その続行が教会内にもたらす変化は複雑だ。 

  具体的に、教会が、教会員を主な働き手として老人介護施設を運営しているケースで考えてみよう。 

 

 

<「施設」を良くはするが> 

 

 教会でアガペ愛が増大すれば、人びとに「思いやりの心」が強くなる。 

 

 老人介護施設で働く教会員の奉仕精神は外部社会の施設より高くなる。 

  入居者の満足は大きくなり、入所希望者は増え、施設は成長する。 

 

 アガペ愛に動機づけられた労働は、代価が低いから、満足の増大分にかかる費用は低い。 

  収益は増大し、教会には経済財が増える。 

 

 それでもって、教会堂を美麗化すれば、礼拝の快適さは増し、新教会員も増大するだろう。 

 

+++ 

 

 このように教会でのアガペ愛普及は、経済財蓄積をももたらす。 

 

 そして、その蓄積が一定以上になると、財貨の使用方針をめぐって内部対立が発生する。 

 

 

<教会開拓> 

 

 日本では、「教会開拓」という語が示すごとく、牧師が一から教会を開拓し始めるケースが多い。 

 彼は、最初は自宅の空間も礼拝に提供したりもする。 

 

 教会員はそのあとから、文字通り開拓されて現れた存在だ。 

  だから、最初は牧師は全てにおける指導者であり、支配者である。 

  

+++ 

 

 彼は、アガペ活動で教会に蓄積された財貨の使用方向も、ほどんど一人で決定する。 

 

 牧師の家族が快適に暮らせる牧師館の建設も、彼が発議して実行する。 

 

 だが、資産がたまるにつれて、その直接の作り手である一般教会員の貢献度が顕在化してくる。 

 

  

<公益法人> 

 

 宗教法人は公益法人だ。 

 法的にはその運営権は、牧師も含めた教会構成者全員に属している。 

 

 一般教会員は、それをベースに指導権の分配を主張するようになる。 

 

 +++ 

  

 対して、牧師はまず自らの神格化をはかることが多い。 

 あるいは息子が後継者ならばその神格化を図る。 

 信徒はこれに抵抗するようになる。 

 

 この構図が進むと、教会は分裂する。 

 教会成長は止まり、停滞・衰退が始まる。 

 

 日本では、ひととき急成長した教会であっても、多くがこういう過程をたどる。 

その状況が、信徒人口比率1%以下という状態を形成している。 

 

+++ 

 

 イエスはこういう構造を見通していたので、最後の晩餐で弟子の足をあらって見せたと思われる。 

 これについては、機会があれば後述しよう。 

 

(続きます) 

 

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「無償の愛」は人の心を打つ

2022年06月12日 | 永続確信のための聖書解読

 

 

 ここで富豪たちのイエス支援の動機を考えておこう。 

 

 利己心もあったことは否定できないだろう。 

 

 人間誰しも自分と家族の健康は主要関心事である。 

 だが、経済的に豊かなものは、特にその意識が強い。 

 

 日々食べることに関心を多く注がなくてすむからだ。 

  彼らには、愛する家族が重病になったとき、癒やしてくれる人の価値はとりわけ大きい。 

 

 癒やし人には、いざというとき頼めるように支援しておこうとなるのは、自然なことでもある。 

 大阪のオバハンなら「お友達になっておきたいわ・・・」とつぶやく場面だ。 

 

 

<「お人好し」の愛> 

 

 だが、富豪の支援者の動機はそれだけではなかっただろう。 

  

 イエスには、「教祖になって楽な暮らしをしよう」とかいった「世的な」動機はまったくみられなかった。 

  ただ、愛と哀れみでもって病人を癒やすという、「お人好し」気質に満ちていた。 

 

 支援者たちはそれをみて、心洗われる心情になっただろう。 

  

<「自分が何をしてるかわからないのです」> 

 

 この愛を言葉で定義するのはむずかしい。 

 

 シャンソン歌手の美輪明宏が絶叫する「無償の愛!」が言葉の上では比較的近いかもしれないが、具体的中身となると大違いだ。 

  実際にシャンソンで歌われるのは、愛する男性の幸せを願って身を引く女性の心情程度のものであって、イエスが癒やしで見せた愛とはほど遠い。 

 

+++ 

 

 これはやはり、イエスが十字架上で死ぬ直前にみせた言動をみるのがいいだろう。 

  彼は自分を十字架に釘で打ち付けて罵倒するローマ兵士たちのために、祈り始めた。 

 

 「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです・・・」 

 

 このくだりを福音書で読んで、あるいは牧師の説教で聞いて、クリスチャンになった人を、筆者は一人ならず知っている。 

 

 彼らはこの場面で「ああ、これは人の愛を超えている」と感動した。 

 「この人は人間ではない、神の子だ」と確信したのだ。 

 

+++ 

 

 この愛に折々に触れた富豪たちは、青年イエスをまるで自分の息子のように愛したのではなかろうか。 

 

 そしてイエスを「自分のことのように」援助したと思われる。 

 

 

(続きます) 

 

 

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イエス逮捕は先送りされていた

2022年06月11日 | 永続確信のための聖書解読

 

 イエスはエルサレム神殿だけに居続けたわけではない。 

 

 故郷のガリラヤ地方(地図で言うと上の方にある)にも帰って教えるし、途中のサマリアという村にも立ち寄って宣教をした。 

 

 また、エルサレムでヤバくなると、ヨルダン川の東側ギレアデ地方にも逃れて時を稼いだ。 

 

++++++ 

  

 そうした状況でのエルサレム滞在だったが、神殿広場でのイエスの教えは、他の地域での説教よりも根源的なところをついていた。 

  脚なえを歩かせた時には、こんなことを言っている。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事もおこなうことができません。」 

 「父がなさることは何でも、子も同様におこなうのです」 

  (ヨハネの福音書、5章19節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 ~イエスの教えが普及した時代の我々にとっては、この発言は珍しいことではない。 

 父、子、聖霊を神とする三位一体論だ。

 だが、当時の状況はそんな甘いものではなかった。 

 

 <文句なしの「石打ち」刑> 

 

  ユダヤ教は、創造神の完全一神教だ。 

 イエスはその本山で、神を「父」と呼び、自分を「子」といった。 

 

 もうこれはとんでもない律法違反で、石打ちでの処刑に値する。 

  「石打ち」とは、こぶし大の石をみんなで投げつけて骨を砕いて殺す集団処刑だ。 

  

<奇跡には創造主が共に> 

 

 だが、イエス逮捕は先送りされていた。 

 

  ユダヤ教には同時に「奇跡をおこなう人には創造主が共に働いておられる」という思想があった。

 これもまた大鉄則だったのだ。 

 

 旧約聖書でのモーセの奇跡もエリアの奇跡も「神が共にいたからできた」という理論だ。 

 

 その奇跡を、イエスはもっと大がかりに、高頻度で行っていた。 

 この面では、会議でも高僧たちはイエスに一目置かざるを得なかった。 

 

 二つの思想が彼らの中でせめぎあっていた。 

  イエスの逮捕が先送りになっていたのは、

単に、神殿でのイエス人気によるという、

そんな浅薄な理由だけではなかったのだ。 

 

(続きます) 

 

 

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