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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.3 「統治を支える二本柱」

2012年07月31日 | 政治見識のための政治学



 マックス・ウェーバーという大物社会科学者がいます。

彼は政治、経済、宗教など人間社会に関わる事象全般を考究しています。
だから政治学者、経済学者などの呼称がみな役者不足になりまして、しかたなく社会学者といわれました。

だけどアメリカで社会学なる分野名称が出来て普及しますと、これも役者不足になります。
そこで筆者は仕方なく社会科学者と呼んだわけです。

がとにかく彼はそれほどの大物でして、筆者が経済学を学び始めた1960年代には、
彼とマルクスは社会科学の二大天才となっていました。

 その彼が「支配の社会学」という論文で、国家の統治を成立させる二本柱をあげています。
支配というのは、この場合、統治と同じ意味です。二本柱は~

①正当性意識
②物的暴力手段

~です。




<正当性意識>

 正当性意識というのは、現在の統治者とその統治に対して国民が「正統である」と思う、その思いです。
 これがないと、人民は統治者の作る秩序(ルール)に従おうとしませんし、
命令にも従いたくない気持ちになります。

 統治が成り立つには少なくとも、過半数は当該統治者の支配を「正統である」と思ってくれることが必要だ。
でないと秩序に反するやつは捕らえて牢屋に放り込んだらいいといっても、
逮捕者の数に牢屋が追いつかなくなってしまいます。これでは統制は崩壊します。

だからまず、国民の大多数に正当性意識がなければならない。
・・・なるほど、それはわかります。

ところがウエーエーバーはそれだけでは十分でない、といいます。
もう一つの柱がいる、というのです。




<物的暴力手段>

 それが②物的暴力手段です。

 暴力とは、「相手の身体に害を及ぼすような力」です。

 こういうと、暴力手段などを持つのは文化国家のすることではない、
という思いを抱く人もいるでしょう。

 確かに暴力手段は文化的なものではありません。
だがそれは、国家統治が成り立つには必要な手段だと彼は考えます。

国家の物的暴力手段とは具体的には警察と軍隊を指しています。
ウェーバーがこれも必須要素だというのは、なぜでしょうか?

 統治者は自分の価値観に沿って、ルールを作り、命令を発し、国を運営していきます。
だが国家という社会集団には、いろんな価値観をもった人間がいるものです。
中には統治者と対立する価値観をもっているのもいる。

 たとえば統治者が「この国は共産党の一党独裁制がいいのだ」
という価値観で国家運営しているとします。
その国にも、「いや民主制による国家運営がいいのだ」という価値観をもつ国民もいるのです。

逆の場合もあるでしょう。
民主制国家の中に、「有能な政治家の独裁制の方がいいのだ」、と言う人も。

 このような場合、統治者が対立する価値観をもった人々を説得して同意させるというのは難しいです。

 その結果、自然なままでは、統治者と対立する価値観の人間が、
自分の思想そのままで社会で言動することも起きます。

でもそれを放置すると国家社会の秩序は希薄になり、統治が崩壊の危機に瀕します。
 そこで統治者は、こういう存在は物的な力で従わせなければならなくなります。

この場合の物的な力が、「相手の身体に害を及ぼすような力」です。
物理的に懲らしめるわけです。

それすなわち暴力です。
統治者がこの力を発揮するための手段が暴力手段です。




<警察と軍隊>

 警察は主に国内の人民に対して身体的害を及ぼしうる手段です。

軍隊は主に、外部の国の人民が自国の人民に身体的な害を及ぼそうとてきた場合、
それらに身体的害を及ぼしうる手段です。

 他国の人民が自国の人民や施設を破壊することもありえます。
すると自国内の秩序も物的な力で壊されていきます。
こうした他国の物的な力を逆に破壊し、自国の統治秩序を守る。
そのための手段が軍隊です。

 だが軍隊もまた、警察の力が足りないときには、国内の秩序維持に働き得ます。
ウェーバは国内統治に主眼を置いて統治を説明をしていますので、
軍隊もその面で理解していいかもしれません。

 がとにかく、こうした物的暴力手段もまた、
国家の統治を成り立たせるには必要な要素だと、ウェーバーは言うわけです。




<天才マックス・ウェーバー>

 ウェーバーという人は、元来多様で複雑な現実の本質的なところを洞察し、
切れのいい言葉(概念)を考案して現実をスパッと切り取ってみせる、
~そういう才能に長けた人でした。

 それもとても「鋭い概念構成」でして、目から鱗の気持ちにさせてくれます。
実際、筆者が前回に示した、統治ができあがっていく歴史的プロセスも、
ウェーバーのこの概念メガネを通すと、きれいに整理されるような気がしてきます。

「ああ、あのへんは正当性意識が出来ていく話だなあ」
「この辺は物的暴力手段が確立していく話だなあ」

~といったようにです

これが天才というものでしょうか。











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Vol.2 「部族社会の中で統治が始まる」

2012年07月30日 | 政治見識のための政治学




 そもそもの最初から思考を進めますね。

人間は集まって集団社会を作ります。
その最初は部族集団でした。それがあちこちの地点に出来ました。
お釈迦様も、インドのある地方の部族社会(国家)の王子だったと言います。

後に広域大国家になるローマも、はじめはイタリア半島の中部を横切るチベレ川の流域に出来た一部族社会でした。
チベレ川の近辺には、他にも部族社会が沢山あったでしょう。




<昔の食糧確保は大仕事>

人間が群れて暮らす理由の一つは、集団で効率よく食物を生産することでしょう。
食料生産は、昔は、一大仕事でした。

鹿嶋は聖書に親しんでおりますので、天使という言葉によく出会うのですが、
聖書での天使はイメージ上の存在ではありません。れっきとした霊的実在です。

霊ですからいろんな姿に変身しますが、そのデフォルトというか、基本形は人間と同じです。
羽が生えているというのは、後から作ったイメージ上のフィクションです。
聖書にそんなことは書いてありません。

だが天使は肉体をもちません。
ということは肉体を維持するために食物を得る必要がないということでもあります。

これには鹿嶋は本当にうらやましく感じました。
人間は肉体を持つ(ように創られた?)が故に、常時食べ物を確保しなければならない。
食べても一日に何度かまたおなかがすくのです。
それに病気になるし、けがをするし、死の恐怖をもたねばならないし、本当に大変です。

 (天使はいいなあ・・・)





<襲撃の恐怖のなかでの生活>

ともあれその食料生産は、集まって分業ですると、効率が飛躍します。
それが集団社会を造る一大理由でしょう。

しかし、もう一つの理由の方が直接的で強大です。
他の隣接部族からの襲撃、略奪を防ぐことがそれです。

人間は、同じ群れの人に対しては、共感も同情ももちます。
だが、会ったことも交信したこともない人間には同情は生じません。
だから、自分の食料が足りなくなったりしたら、野獣のように他部族を襲撃して物品を奪えるのです。

この襲撃を防御するために、人間は互いに集まり部族集団をつくって暮らします。
昔の部族集団は、四六時中外部からの襲撃の危険の中で生存しておりました。





<知力・腕力に優れた家族>

部族の中には、腕力、武力、知力に優れ、勇敢でもある人の多い家族もあります。
この人たちは、他部族からの襲撃に率先して戦い、防御します。
他の家族は、この腕力に優れた家族の防衛活動を頼りに思っていきます。

またこの家族は、部族内のもめ事の調整・処理に関しても頼りにされます。
知力に優れた彼らの裁きには、他の人によるよりも知恵があり、尊敬されます。
また腕力があるから人々は恐れ従います。

その裁きが、一定のルールでもってなされれば、集団社会には秩序が生まれ、保たれることになります。

こうして、この勇敢ものの多い家族は、対外抗争と内部秩序の維持を集落民から請け負うことになります。
権力委任の開始です。




<統治の成立>

時と共に彼らはそれを専業的に行うようになります。
だが自分たちも食べなければならない、着なければならない。
彼らはそれらの物質を、集落民から徴収するようになります。これが税です。

これによって「統治」が経済的にも成立します。統治は政治の別名です。

彼らは武力を強くするために、他の「命知らず」の部族民を雇うようにもなります。
こうして統治機関は展開していきます。

税は習慣化、制度化します。
彼らはその税を調整して、武器を改善し、戦闘技術を高め、
さらに知力教養を高め、贅沢な暮らしをします。

彼らは、外部の襲撃に対して生命の危険を冒してくれますので、民もそれを容認します。
そうした中で彼らは次第に、容認されそうにないことも「命令」するようになります。

そしてこの命令力が強大化すると、それは、絶対権になります。
これを手にしたものが、王です。

王はいつも一人です。
複数の人が王になると、命令が食い違ったりして、秩序が逆に乱れてしまします。
統治者家族の中から王は一人出るわけです。

かくして部族集団は、部族国家になります。






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Vol.1 「政治見識を育てる政治学が必要」

2012年07月30日 | 政治見識のための政治学




このチャーチは、チャーチですから俗世のことは扱わないのが原則です。
だが、ここで「一般人民が政治見識を持つために必要な知識」を書いておこうと思います。

大変な時代になりました。
今回もまた、現実の必要に背中を押されてしまいました。

福島原発事故を契機に、原発に対する政府のあり方に、多くの国民が疑問を持つようになりました。
これは自分や子孫の生存に関わる問題ですから、その動機は強力です。
そして脱原発を選択するものは、その政策を求めて自分たちの見解をデモでもって表明するようになりました。

こうして人々は否応なしに、政治というものが自分たちの生存に直結していることを自覚せざるを得なくなった。
1960年代から70年にかけての安保闘争以来、久方ぶりの国民規模での政治意識の浮上です。

それと共に、ツイッターやフェースブックで、いろんな見解が交わされるようになりました。
筆者もそれに加わったりしましたが、そこで、日本の人々には政治見識がほとんど育っていないことを痛感しました。




<無政府主義は美しき妄想>

たとえば、こんな事態を経験しました。
大阪市長になった橋下徹さんへの批判がフェースブックでは盛んでした。
筆者はそれに対して~、
「希有な政治資質を持っているのではないか。なにせ堺屋太一さんが最高顧問をする気になったくらいだから・・・」
~と発信しました。
すると「堺屋さんも権力が好きだからな・・・」という否定的見解が出ました。

それはある大学の准教授か教授かの方の意見でした。
素晴らしい原発情報、放射能情報を提供してくださっている方でした。
以来、敬愛しつづけています。

だがそれでも、その言葉に限っては、それを受けて筆者は次の言葉を失いました。

橋下さんは地方自治体政府の現役の政治家ですよ。政治に権力はつきものですよ。
政府というのは人民から権力を委任されてなり立つものですよ。
なのに「権力が好き」というのを否定の理由に出すのはどういうことでしょうか?

権力が嫌いだからでしょう。
気持ちはわからないことはありません。

権力というのは、他者に対する強制力です。
人を強制的に動かすというのは、人間の自然な感情にはあまり気持ちいいものではありませ。
それなしで、説得と理解だけで、政治が行えたらそんないいことはありません。

事実、そうした政治を期待する政治思想もあります。
無政府主義がそれです。

この思想自体は純粋で美しいものです。
だから理想意識の高い青少年時代に人はそれを希求します。

だが、無政府主義というのはナイーブな幻想なのです。
これから示していきますが、統治というのは権力を委任されることなくして成り立たないものです。

けれどもその非現実的な妄想に照らして、現実を批判する人が日本には多いです。
政治見識が幼いのです。

終戦直後、連合国GHQ司令長官として日本の土を踏んだのは、米国の将軍ダグラス・マッカーサー元帥でした。
彼の就任直後の第一声は~

「日本人は政治的には13才」

~でした。彼は日本人の政治見識の幼稚さを、厚木空港に降り立って即座に洞察したのです。

前述の大学教授先生は理科系の先生だったと思います。
だが文化系でなくても、大学教師たるもの、無政府主義的ナイーブさからは脱却していなければなりません。
そうしたことも含めた日本人の雰囲気をマッカーサーは洞察したのでしょう。




<悲しき日本政治学の実情>

しかし、我々日本人側としてもやむを得ない理由があります。

日本の大学にも政治学という講座があります。政治学の専門書もあります。
それらが提供する知識が生きたものではないのです。

それらはほとんど西欧学者の言葉の引用に終始しています。
それも吟味してかみ砕き理解して上ならまだいいのですが、99%がそうではない。
ろくに理解もしないで、羅列に終始している。それに出典の註を、
盆踊りや祭りのぼんぼり提灯のようにぶら下げまくっているだけ。

 勉強量を示すためですが、かくのごとくに著者の意識がそれを審査・評価する先輩学者の方を向いている。
そしてその先輩のほとんどが、西洋文献をかみ砕かないでやる人だから、もう救いがないのです。

 政治学というのは、理論的にはあまり成熟していない学問です。
だが、米国の大学ではこれを現実の政治問題に関する議論を学生にさせることでもって補っています。
「中国の民主化は可能か?」といったテーマで議論をさせる。
そしてこれをポリティカル・サイエンスとして、ほとんど必修科目にしています。

日本の授業は、外国文献の引用の羅列講義がほとんどです。
これでは日本人は、大学に行っても政治見識の持ちようがありません。




そうした現状の中で、鹿嶋は自家製の政治学をここに披露しようと思うのです。
私は政治学の専門家ではありません。素人です。
だが、それだけに素人が政治見識を持つに役立つ知識が展開しやすいかも知れない。
そう期待して始めることにします。

でも、どうなるかな?
すでに原稿が出来ているわけではありません。
書きながら、次を作っていきます。
いつものことながら、更新が遅れても、あしからず・・・。





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「エホバとイエス」再論

2012年07月22日 | “エホバ”の奥義

 

                    

 もうだいぶ前(2007年頃?)ですが、「”エホバ”の奥義」というカテゴリーで、
「エホバとは何か」、「その名はイエスという名と、どういう関係にあるか」を考えました。

そのとき鹿嶋の見解は、「エホバは創造主の役割をする天使の名」であり、
「イエスは創造主そのものの名」だったように記憶しています。

でも、当時の気持ちには、なにかすっきりしないものも残りました。
それがず~と続いていたのですが、今回、新しい見解にたどり着きました。

                    

結論から言うとそれは~

「エホバも創造神の名であるが、その名は、創造神の役割をする天使が用いることもある」というものです。

言い換えると~

「エホバは創造神を指す場合もあり、創造神の役割をする天使を指す場合もある創造神の名」

~ということになるでしょうか。

(すると、エホバという語が出てきたときにはいつも、それが創造神を指しているのか
あるいは、創造神として振る舞う天使を指しているのかを、識別する必要がある、
ことになります)

他方、イエスはどうかというとこれは~

「父なる創造神、子なるイエス、聖霊の三つを指す名」

~となります。

                    

 これでいきますと、新約聖書にエホバの名が全く現れなくなっている
理由も次のように考えられます。

すなわち一つには、新約時代には創造主の御子イエスが地上に人の姿で来て、
人の言葉でもって直接(比喩によって出なく)真理を明かしていく。
こういう時代には、もう天使が創造主の役割を演じる必要がない。
だからエホバの名も不必要になって、現れないのだ、と。

もう一つこういう理由も挙げられます。
すなわち、エホバもイエスも創造神の名であるけれども、
エホバは広い概念の言葉ということができます。

創造神という創造霊と、天使という造霊との両方に適用できる言葉ですから。

他方、イエスは創造霊(父・子・聖霊)だけに適用できる言葉です。
その意味で、「より限定的な」概念の言葉、ということができます。

そこでこうもいえそうです。すなわち~
「旧約聖書では創造神を言い表すのにエホバという広い意味の言葉を使っていたが、
新約聖書ではイエスという「より限定的な言葉」が登場した。

「より限定的」というのは、「より明確」という意味であり、
「より明確な言葉」が現れたら、以前の「広く漠然とした言葉」は要らなくなる。
それが新約ではエホバの語が全く現れていないもう一つの理由である、と。

                    

この見解で行くと、聖書解読が、エホバ、イエスという名のところで
引っかかってうまく進まない、ということがもうなくなるような気がしています。

もちろん、また、新しい見解が出てくるかも知れません。
聖句は限りなく深い吟味余地をもっていますから。

それだからまた、聖句吟味の種は尽きない、ということになるでしょう。
だが、当面の所、上記のような理解で鹿嶋自身はやっとすっきりしたように
感じています。



                    


 

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【日本のマスコミと政治的無能について】

2012年07月09日 | 「幸せ社会の編成原理」
 このブログは「チャーチ」ですから、現世の生々しいことはあまり書かないのが正解に思います。
だが、他のネットメディアで、「日本のマスコミから流れる情報の低級さ」と「日本人の政治的見識の低さ」が
原発問題を契機にしばしば話題になっています。
 
その問題を避け続けるのは、これ以上はよくないと思いましたので、ここに記してみます。
これはおそらく、誰も気づいてないことで、かつ根底的なことだろうと思いますので、敢えて、書くことにしました。
 
+++
 
 明治維新後、日本政治の最大課題は「国の西欧化」でした。
そしてそのためには為政者はとにかく「洋行して現場を見なければ」ければなりませんでした。
そこで乏しい国費から指導者とその候補を海外に出しました。岩倉具視を団長とする西欧視察団に始まって、ふんだんに遊学させました。 
 「坂の上の雲」の主人公、秋山兄弟も、ともに海外遊学に出してもらっています。 重税に耐えた国民も大変だったろうと思います。
                          
 
 <汚職やスキャンダル記事を売り物にするしかなかった>                                       
 
 だが、新聞社を始めた人々には洋行するお金はありませんでした。瓦版屋からスタートしてますからね。
彼らは西洋の現場情報がないので、政府の政策に関して適確に評論することがきませんでした。
 
+++
 
近代政治は国際社会の認識を背景にしておこなわれます。
国際社会の実情を肌で感じるには、最低限、2年くらい海外でごろごろする必要があります。
ところが新聞社は貧しくて記者にそれをさせられなかった。
だから日本の新聞は政治家の汚職とか女性スキャンダルとかの
暴露記事しか売り物に出来ませんでした。
 
後は「魔風恋風」とかいった、扇情的な連載新聞小説で引っ張るのみでした。
 
ここでもう出発点から、日本のマスコミが発信する情報は「低級」を宿命づけられています。
 
<俺たちが遊学させてもらってないのに>
 
 だったら、新聞社も大きくなったら若い者を海外遊学させたらいいではないか、と常識的には考えられます。
だが、そうならないのが「日本人」でした。
 
先輩(上司)たちは「俺たちはやってもらわなかった。なのに若い者を出すのは不公平」、とか、「出してやりたくない」とかで、
結局特派員以外は出さない風習が出来ていった。
それがなんと、今日まで来ているのです。
 
 だから、新聞社の論説委員なんていうと、聞こえがいいですけど、会って話してみると、
信じられないほど凡庸です。NHKも**通信といった通信社も同じです。
 
 そうした中で「これではいけない」と気づく人もほんの少数ながらいました。
かれらは定年近くになって、早期退職して、遅ればせに米国暮らしをしていました。
鹿嶋の限られた経験ですけど、そういう人も観察しました。
 
こういう人は、前職のイメージを活かして、どこか日本の大学の専任教員になりたいと望んでいました。
それで日本の大学教員とつながりをつけようと、米国の大学キャンパスをごろごろしていました。 
暴露的な話はなるべく避けたいのですが、もう、日本人も実情を知るべきと思って、書いています。
 
それで、結構、成功している人もいました。
日本の大学は、依然として、大新聞とか通信社とかNHKとかの肩書きイメージに弱かったんですね。
開けてびっくり玉手箱だったでしょうけどね。
 
+++
                                 
 その一方で、メーカーなど一般企業は、1980年代くらいになると、湯水のように海外勤務に社員を送り出していました。
その彼らの方が、大新聞やNHKの幹部記者より国際社会への見識をはるか豊かに持ってました
そういう奇異な現象は、おそらく、今も続いていると思います
 
<大衆の見識はマスコミ情報で教育される>
 
 だから、日本のマスコミ情報は低級にしかならないのです
そして一般国民はこれでもって「教育」されますから、日本人一般もまた、政治見識は幼稚にならざるを得ない。
 
戦後、日本統治のため厚木空港に降り立ったマッカーサー、GHQ司令長官が日本で放った第一声を知っていますか。
 
 「日本人は政治的には13才」
 
~がそれです。そしてこの状況は、今も基本的には変わっていないのです。
マスコミの無能が、国民の政治的無能を宿命的に再生産し続けているのです。
 
これは非常に大きな国家問題です。
何とかしなければなりません。
 
どうしたら打開できるでしょうか?
それは次の機会に考えることにします。
 
 
コメント (2)
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