鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.86『弟子もほとんど教えについていけなかった』(6章)

2005年10月22日 | ヨハネ伝解読
                        



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=聖句=
「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」(6章66節)。
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 「私の肉を食べ、私の血を飲まなければあなた方の内にいのちはない」

   ~~~イエスのこの言葉は、ヨハネにとってその時も以後も不可解であり続けたにちがいありません。いったい、この方の身体とは何なのだろう? 

 そして、その疑問が解けたからこそ、ヨハネは自らの手で「福音書」を書き始めることが出来たのでした。

 そのことが、ヨハネ福音書の冒頭を「はじめにロゴス(言葉)があった」から始めたことに現れているようにみえます。そう感じたが故に鹿嶋は、この「ヨハネ伝解読」をその説明から始めたのでした。

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 そのあたりを繰り返しますね。
 ヨハネは、イエスの身体は「創主からでたロゴスが変化して出来たもの」である、そうでしかあり得ない、と悟ったと鹿嶋はみた。

 だから「言(ロゴス)は肉体となり、私たちのうちに宿った」(1章14節)と書いた、と解しました。

 そこでは、イエスの肉、血とは、イエスの言葉とイコールになるわけです。

 それを「食べよ、飲め」というのは、「自分の口から出る言葉を自らの血肉になるように消化し、同化しなさい」というのと等価になる。

 それが後の、

 「・・・私の言葉があなた方のうちにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。それは与えられる」(15章7節)につながっていきます。

           ~~すごい論理ですね。

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 けれども、かくいうヨハネも、6章に書かれているこの時点ではそんな悟りはなにもありませんでした。

 群衆は去っていきました。「なんだ、なんだ、今日は食べ物出してくれないのか・・・」といったところでしょう。飢餓時代の庶民とはそんなもんです。

 だが、イエスのこの話が与えた衝撃は、庶民を去らせる程度の生やさしいものではありませんでした。弟子たちのほとんども去っていったのです。

 けれども、“イエスが最も愛した弟子”ヨハネは去りませんでした。踏みとどまってそれを記録したのが、本日の聖句~~

「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」(66節)
       ~~だったのですね。

 これってすごいドラマじゃありません?


コメント
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