鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.327 『 今後もあなたの御名を悟らせ続けます』(17章26節)

2012年02月23日 | ヨハネ伝解読


17章も最後となりました。
26節です。                    

                   
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「そして、わたしはかれらにあなたの御名を知らせました。また、これからも悟らせます。
それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、
またわたしが彼らの中にいるためです」(17章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


逐次言葉を追って解読を試みましょう。

  「わたし(イエス)はかれら(弟子たち)にあなた(創造神)の名を知らせました」

この「あなたの名」が「イエス」だったことがこの17章の11節で示されました。

この節で「あなたがわたしにくださった名(イエス)」が「あなたの名」であったことが明かされています。
鹿嶋は「Vol.301~303」でそう解読しました。

そのことが、従来漠然としていた聖句のつながりを、大きく浮上させてくれます。
旧約聖書に登場している「エホバ」の名がどういういものだったかも明かしてくれます。

そしてこうした「名の奥義」は「ヨハネ伝」以外の書物には示されていません。
筆者はヨハネ伝の比類なきすばらしさの一つがここにあると思っています。

                    
                    

次です。

  「また、これからも悟らせます」

イエスはこれからも折あるごとに、その認識を更新するといっている
~これが鹿嶋の解読です。
前回に述べたように、人間は忘れやすい生き物で、その記憶は薄れていきます。
イエスはこれを更新させるといっている。
どうやって?

イエスの名の権威で被造物がその命令に従う場面をつくることによってでしょう。
そうやって~
「ああ、この名が創造神の名だなのだなあ」と再認識させるのです。

                   

次に行きます。

「それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあるためです」

「それは~のため」というのは聖書特有の表現です。現代流にいうと、
「その結果~が実現する」となるでしょう。

すると「かれらはイエスを創造神の名だと再認識する結果、
人間の愛とは違った創造神の愛をもまた心に呼び戻す」ということになります。

                    

最後です。

「またわたしが彼らの中にいるためです」

  これも同じ聖書的表現です。現代風にいうと~

「イエスの名が弟子たちの心の内に保たれることによって、
その名を持った創造神の御子もまた彼らの心に保持される」

~となるでしょうか。

こう確認するように父なる創造主に語りかけたところで、
ヨハネの記録したイエスの17章の祈りは終わっています。

  奥義に満ちた、深い凄い祈りでした。
とても人間にはできそうにない祈りだと思います。


                  

 

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Vol.326 『 祈りは基本認識証言の後で』(17章25節)

2012年02月19日 | ヨハネ伝解読

  臨時版がとぎれとぎれで続きました。原発事故以来の世界の変化に鹿嶋は動転していたようです。
この問題に取り組まざるを得なくなっていたのですが、思えば情けない。
本来の「ヨハネ伝解読」も淡々と行うくらいの腹の据わりようがなかったことを反省しています。

                    

 で、久しぶりに解読に戻ります。17章も最後の節の一つ前となりました。

この章は全文がイエスが創造神に直接語りかける言葉で埋められています。
  弟子たちには難しくて語らなかったこともあった。だが、ここではすべてが率直に述べられています。

その意味で、ヨハネ伝17章はこの福音書のクライマックスです。
のみならず、他の福音書ではこれを記していませんので、
福音書全体の、さらには聖書全体のクライマックスといってもいいかもしれません。

聖句を示します。

                   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「義なる父よ。この世はあなたを認識していません。だが私はあなたを認知しています。
そしてこの人々(イエスの弟子たち)は、あなたが私を遣わされたことを悟りました。」
(17章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   


 この25節の主旨についてはこれまでに解読してきました。
「世」は創造神を認識できていない。悪魔に目をふさがれているからという論理です。

  けれどもイエスは「わたしは父なるあなたを認知しています」とわざわざいっています。

 そして「世」から選び出された「弟子たちも、創造神を認識し、
そしてイエスがその神から遣わされてきた存在であることを悟りました」
と創造主に語りかけています。

 創造神は全知です。そんなことはお見通しです。
でもイエスは、これらのことを「わたしは認識しています」
と父なる創主に念押しするように明示しています。

「あなたは義なる方です」とまでわざわざいっている。

 粋じゃないなあ。どうしてこんな野暮なことするんでしょうね。江戸っ子ならそういいそうなところです。

                   

<忘れやすい生き物>

 でもイエスは祈りの中ではそれをしています。
自分が認識していること、信じていることを、改めてきちんと創造主に報告しています。

 イエスは自らのこの姿を通して、祈りの秘訣を我々に教えてもいるように見えます。

人間は忘れやすい生き物です。
ごく当たり前と日頃思っているようなことでも、記憶が薄くなっていることが多い。
だから、「これはきちんと私の意識にあります」、と創造主に示すのは、
見方によっては祈るときの当然の義務であり、礼儀であるかも知れないのですね。

なのにこれを我々はお祈りするときについつい省略します。
こんなことは創主はご承知に決まってる、と、
きちんと言葉に出して確認することをしないきらいがある。

でも、それを忘れやす生き物がしないのは、謙虚でないかも知れないんだよね。

「わたしはあなたを全知全能の創造神だと認識しています。」
「イエス・キリストをあなたが救い主としてこの世に送ってくださったことを認識しています」

~こういう、通常当たり前のようなことをも、創造主にお願いをするときには、
きちんと自己確認している姿を示すべきかも知れません。

これをしないから、普段の祈りが十分に聞き届けられないかも知れません。
祈っても応答がない、という原因は、案外そんなところにあるかも知れませんね。
この節でのイエスの姿は、それを教えてくれているような気がしています。


                   

 

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ヨハネ伝解読、Vol.325 『 臨時版「別れる時代がきたか?」』

2012年01月26日 | ヨハネ伝解読


 「ヨハネ伝解読」 今回も臨時版です。
しかしヨハネ伝の知恵がいろいろ出てきます。
今回は、日本列島が新しい時代に入ってきていることを、福音の論理で示そうと思います。


鹿嶋はこれまで、「聖書の論理はいのちエネルギーの論理」だと言ってきました。
聖書からはいろいろと論理体系が引き出せますが、核心はそれだと思っています。

敢えて言えば、他の論理はその周囲をぐるぐる回っているものです。
ニッポン道徳キリスト教などは、一番外側かもしれません。

                    

<いのちの凝液体>

ヨハネ伝で著者ヨハネは、イエスの身体が創造神の「ことば」が肉体になったもの、
という洞察を記していました。

「初めに、ことばがあった。ことばは創造神とともにあった。ことばは創造神であった。」(1章1節)
「ことばは人となって、わたしたちの間に住まわれた。」(1章14節」)

  これを神学では肉化(incarnation)といっています。

ヨハネはまたイエスの「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠のいのちを持つんだよ。
その人をわたしは終わりの日によみがえらせるよ」(6章54節)
    ~ということばも記録しています。

 ヨハネはまた、このことばを聞いて「これはひどい話だ」と
イエスの元を去っていった人がたくさんいた、とも記しています。

だが、ヨハネ自身はのちにこの意味を悟ります。

創造神から出ることばはすなわちいのちエネルギーでもあります。
イエスの肉は創造神からでるいのちエネルギーのいわば凝固体だったと悟るのです。

またイエスの血は、その凝液体だったといえる。
 凝液という語は辞書にありませんが、凝固が結集して固体になるのなら、
同じく結集して液体になる凝液があったっていいでしょう。
鹿嶋はこの語を使いますよ。

                    

<「罪赦される」は「血の凝液で被われる」こと>

話は飛びます。
 前述の臨時版、  <イエスの血と「いのち」の力>(8)『放射能時代への聖書的打開策』
~で鹿嶋は、奇跡を連発してきたベニーヒンの先生であるホワイト師の説を援用しました。
  ホワイトは「イエスの血」をあがめ唱えると、いまでも当たり前のように「しるし(奇跡)」が現れると、
たくさんの事例と体験を示して述べています。

余談ですが、ホワイトは聖霊のバプテスマも、イエスの血を唱えたら
あっという間に簡単に受けられたという例も挙げています。

鹿嶋にはこれも驚きでした。鹿嶋は聖霊を受けるのにさんざん苦労したからです。
まる二年かかった。それがそんなに簡単に受けられるとは・・・。
この人の『イエスの血の力』(オアシスクリエイト刊)にはホントに感銘を受けました。

  話を戻します。
 その彼は、罪の許しに関してもイエスの血から独特の聖書解読をしています。

許しは英語ではatonementで日本語では「贖い(あがない)、贖罪(しょくざい)」です。
そしてこのアトーンメントの原義は「被うこと(covering)」だというのです。

だから「罪許される」ということの真意は、「罪が消えてしまう」、とか、
「罪が清められてしまう」とかいうのではない、という。
それはイエスが流した血によって、「罪が被われる」という意味だというのです。

 これは「ああ、そうですか」と聞き流す話ではないんだよね。
なぜなら罪許されるにはイエスの血への信頼が必須だと言うことになるから。
イエスの血の自覚がない贖罪は空虚だと言うことになるからです。

では「イエスの血」がどうしてそんな決定的な力を持つか。
ここからはホワイト説ではなく、ヨハネ神学です。

それはいのちエネルギーの凝液体だから、となる。
この凝液体が、霧が被うように当人の身体を被う。
すると創造神は「その罪を見ない」ということになります。

罪が清められて当人が「雪のように白くなる」(という歌詞の賛美歌がある)んじゃないんだよね。
その罪が「ないもの」と創造神が見なす。これが許しの実体だとホワイト思想ではなります。

 鹿嶋はこれ的を射ていると直感します。
なぜなら「最後の審判」でイエスを信頼してきた人の霊は「裁きをバイパスする」
というのが聖書の思想だと解してますから。

これは罪なき者と「見なされる」のであって、
その時点では(天の創主王国に入ったらどうなるか知りませんが)罪は持っていると解しているから。
またイエスを信頼したら罪がなくなりますといわれても、そういう感触はどうしても得られませんから。

  ともあれ、ホワイトは「イエスの血の自覚」を福音の決定的要素だと確信していますので、
「血なしの福音は邪宗」とまでいっています。

                   

<放射物質はいのち吸い取り物質>

またまた話が飛びます。
こんどは放射能。

  臨時版、  <イエスの血と「いのち」の力>(8)『放射能時代への聖書的打開策』
  で、鹿嶋は、原子核を分裂させると膨大なエネルギーが放出される、とのべました。

またも余談ですが、原子炉ではその3分の1を使って水蒸気タービンを回して
電気を起こしているそうです。
あとの3分の2は地球上に放出されてしっかり温暖化を引き起こしてる。
原子力発電は地球温暖化を起こさないというのは大嘘。小出裕章さんの証言です。

  話を戻します。
こんどは鹿嶋の聖書的解釈です。

分裂でできた新物質が放射能物質ですが、
これは本来保有しているべき大量のエネルギーを放出したので、
ひどいエネルギー欠乏症候群になっています。

エネルギーは聖書の思想では「いのちエネルギー」です。
これが大量に欠乏しているので、新物質は近づくものすべてからエネルギーを吸い取ろうとします。

 いのちエネルギーを吸い取らずにいられない状態。
これはマイナスのエネルギーを持っている、と言い換えることもできます。
この性質が百万年以上続く。これが聖書的に見た放射性物質の実体となります。

 こういう物質がこのたび福島原発から吹き出しました。
史上最大の想像を絶する量が吹き上げた。
そして収束どころか、いまも吹き出しつつあって止められない。

その粉じんが大気に舞い、地上の土や水に降りおりて、それがまた風で舞い上がります。
この春一番の季節は、非常に危険だと言います。(マスクは必帯だそうです)。

  地球上すべてがそうですが特に日本列島は
マイナスのいのちエネルギーに覆い尽くされることになってしまいました。

                    

<未曾有のことではない>

しかしこれは聖書的にはまったく古今未曾有ということではありません。
(誰ですか?{みぞうゆう}なんていうひとは!ああ、麻生君か、まあしょうがないなぁ・・・)

マイナスのいのちエネルギーとはすなわち「死のエネルギー」です。

そして悪魔、死霊(悪霊)はそれを発する存在であり、
すでにこの「世」(宇宙)に存在していると聖書は示しています。

放射性物質がそれに加われば、死のエネルギーは増幅されることになります。


                   

<別れていく時代>

ではこれに人間はもう侵蝕されていくしかないのか。
ホワイト神学はそうではないと言います。
  「イエスの血」いのちエネルギーの凝縮液、凝液がある、と。

この凝液によって、霧に被われるように被われたらいいのだ、となる。
イエスの血の力を信頼し、あがめ、唱え、求めればそれは簡単に実現するのだと。

  だけど、放射能と悪魔が連合した死のエネルギーは以前より強いんではないの?
心配ない。そこは聖句が保証しています。

「光はやみの中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(1章5節)

創造神から出るいのちエネルギーは死のエネルギーを相殺・中和してなおかつあまりがあるのです。

そうだとすると、事態はこうなるでしょう。

イエスの血の効能を信頼して求めるものに、相殺は実現します。
他は死のエネルギーに肉体を侵蝕されていきます。

怖がることなどありません。打開策が存在しているのですから。

ただ今まで曖昧だったものが、そういう風に明確に別れていくだけのことかもしれない。

福音的には、日本列島はそういう時代に新しく入りつつあるというだけの話かもしれません。


                    


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ヨハネ伝解読、Vol.324 『 臨時版「新しい本について(2)」』

2012年01月09日 | ヨハネ伝解読

 もう少しご報告がてらに「聖句主義」を紹介する本の原稿について述べてみます

聖句主義は日本ではマイナーであるキリスト教というテーマの中の、
さらにマイナーであるところの「聖書をどう扱うか」というテーマである。
こんなものは日本では売れない~出版担当編集者のこういった見解を前回に示しました。

これについては若干の議論をしたときもありました。今回はそれを示してみます。

鹿嶋の見解を以下にまとめて記します~

~「だが、聖句主義活動は長い間、歴史に記されないできた活動で、マイナーだったが、
実は現代の民主主義制度という大きな事項の発生源になっている。

  聖句主義活動は人に聖書のただ一つの正統な解読は人間には見出せない、
ということをしかと体験させる。だから個々人の聖句解釈を自由にする。

その体験から出た制度が近代民主主義だ。
  もしも人間にただ一つの正統な答えが見出せるならば、多数決などいらない。
その真理でもって社会のことを決定すればいいからだ。

 それがわからないから、なるべく多くの人が求める決定をしようとして多数決をするのだ。
このように民主主義制度は聖句主義思想を土台にしているのだ。

 このような由来を歴史を通して深く知らないと、結局国民はそのやり方を「なぞる」だけになる。
そういう浅い理解でもって運用する民主主義制度は、真の機能をしない。
今の日本に見るようにだ。だから聖句主義の歴史を知ることは今の日本に大切なのだ。」

                    

 「正統な解釈が人間に見出せるという前提でしているのが教理主義活動だ。
だがそれは結果的に人の意識を縛ってしまう。
人間には「真理は一つ」という本能的な期待の思いがあるから、
その前提に知らず知らずに心を奪われてしまう。

 日本の教会でそれに意識を縛られ苦しんでいる信徒は多い。
信徒だけでなく、牧師さんも自分の解釈が違っていないか心底でびくびくしながらやっている。
無自覚の内に「正解が一つある」という教理主義的思想にとらわれているからだ。

これが聖句主義という行き方を知ることによって自覚できるようになり、打開できる。」

                    

 「日本ではキリスト教会での問題はマイナーだが、問題は教会だけではない。
「真理は一つ」の通念は教育界をも縛り傷つけている。
教科書の知識が絶対の真理だとして教えられるものだから、
生徒は自分でものを考えることができなくされている。

 個人の聖句解読を自由にして、
それでもってグループがばらばらになることのない状態を知れば、教育も変わるのだ。
聖句主義史の知識は、それ自体はマイナーであっても、
現代日本のメジャーな問題につながっているのだ。

こういう風に、物事を深い源から知ることが、
西洋の知識を「なぞっているだけ」から日本人を解放する。
日本人が付け焼き刃でない、深い哲学をもつ最上の契機にも
聖句主義史の知識はなるのだ。」

                   

 「 北関東大災害によって、日本人の姿勢も変わってきている。
深い原理を知ろうという人が増えてきている。
「鹿嶋春平太チャーチ」のアクセスも更新しないのに増加傾向をたどっている。」

 ~こんな見解を鹿嶋は述べました。

対して編集者はこう述べました~

   「本作りをしていると事態は逆に感じる。
大災害を契機に日本人はますます手っ取り早くノウハウを求めるようになってきている。
そういう本しか売れなくなっている」

~彼は残念そう不本意そうに語りました。
実感のこもった声はそれが事実であることを告げていました。
この流れを一冊の本で変えることなど不可能、と
その表情は語っていました。

                     

             

 

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ヨハネ伝解読、Vol.323 『 臨時版「新しい本について」』

2012年01月08日 | ヨハネ伝解読

こんにちわ。

   ブログが更新されないまま日がたち新年に入ってしまいました。
懸案の本の出版のために苦闘しておりました。いまも続行中です。
「聖句主義」に関する本がそれです。

ところがこのテーマが障害になっている。
このキリスト教活動方式は日本人の全く知らない行き方なんですね。

のみならず日本ではキリスト教自体がマイナーな領域である。
さらにその中の聖句の扱い方の一つというのは、「辺境の中の辺境」となる。
そう出版社は言うのですね。

 だからそれを紹介するだけでは、多くの人が買うことはない、と推定される。
出版不況のなかでそういうものを出すのは、勘弁してくれと接触してきた出版社いうのです。

                      

 だけど、日本に聖句主義という方式を紹介するのはとても有益です。
この知識がないから日本では無自覚の内に教理主義的な意識が働いてしまう。
それに思いを縛られて苦しんでいる人がたくさんいる。

 そうしたなかで聖句主義という行き方をこのブログで知ることによって、
やっと日本での教会活動からくる縛りから解放されたという、
感謝の声がこれまでもコメント欄に寄せられてきました。

 鹿嶋はその実状を痛いほど経験してきましたので、
聖句主義の情報を日本に伝えることはとても大切だと思っているわけです。

 それに聖句を自由に吟味する方式は、今の日本社会を改善し民主化する鍵にもなります。
その意味でも大切なことです。

 そしてこの情報を収集することは自由な立場にいる鹿嶋だけにできたことだとみていますので、
これを本にして読めるようにしておくのは鹿嶋の責務のように思えてならないのです。

                  

 そこでこのテーマを、今の日本の現実問題とのつながりをつけて示すという作業に入りました。
これが思ったより大変でした。着手するときにはこんなに難しいと思いませんでした。
今も苦闘しています。

 その過程で、本の仮題も複数出てきました。
『聖句主義~隠されてきたキリスト教史~』
『幸福社会の編成原理~バイブリシズム史が示すもの~』などです。

 この原稿はこういう風に、様々に仕立て直し・衣装替えをすることができることもわかりました。
これも新しい発見です。そして今も、毎日修正のアイデアが出てきて止まりません。
それが明け方に出てくるので、起床してすぐにそれを書き留めるという生活を続けています。

 そんなわけで、この「鹿嶋春平太チャーチ」の更新が滞ってすみません。
鹿嶋はライフワークで苦闘しています。どうぞご理解ください。
  そしてもしこんな原稿の出版可能性を吟味してみようという物好きな編集者がおられましたら、
ぜひお知らせくださいますことを。



                                       

 

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ヨハネ伝解読、Vol.322 『真理を求めて』(8章31~2節)

2011年10月09日 | ヨハネ伝解読


   久方ぶりに、「ヨハネ伝解読」をいたします。
本日は、前の方の聖句に戻ります。イエスの言葉です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「もし諸君がわたしのことばにとどまるなら、諸君はまことの私の弟子になる。
そして諸君は真理を知り、真理は諸君を自由にするよ」(8章31~2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 真理って何でしょうか?
英語のtruthを邦訳した言葉です。そしてtruthは「変わらざるもの」という原義をもっています。
「もの」ですから、事物のすべてに当てはまります。たとえば「不変の物差し」があれば、それは真理です。
それは他のものの長さを、「絶対の正確さ」でもって測ります。
でも、現実には物差しは金属や竹などの物質でできています。物質は温度によって伸縮しています。
だから絶対の尺度は、頭では考えられても、現実には存在しないわけです。

 だが、ここでは知識ないしは理論をさしてイエスは言っています。

                    

<「真理」とは不変の知識>

「変わらない理論」とは「究極の理論」でもあります。
人間がみずから物事を観察して得る知識・理論は変わっていきます。改善されていくと言ってもいいです。

 宇宙に関する知識を振り返ってみましょう。
 望遠鏡が出来る前には、人間の観察出来る頭上の空間は肉眼で見える範囲のものでした。
それだけの情報のもとでは、地面が平らで動かず、天がそれを取り巻いて回っているという風にしかみえません。
だからみな天動説という理論が正しいと信じて疑いませんでした。

 ところがガリレオが望遠鏡を発明して観察できる空間が拡がると、事態は変わりました。新しく見えてきた天文事象が天動説では説明が難しくなった。そこで地球も含めた惑星が太陽の周りを回っているという風に理屈を変えると、新事象も矛盾無くつながってくれた。こうして地動説の方が正しいことになりました。

 このように人間が正しいと思う理屈は観察できる範囲が広がるにつれて変わっていきます。
改善されていくと言ってもいい。これは変わる可能性のある理論でして真理ではない。
仮説(仮に設定した説)といって、改善・修正される余地を持つ理論にすぎません。

 変わらない宇宙知識をうるには少なくとも空間にある全存在が観察されつくしていることが必要です。
もうこれ以上観察空間は広がらない、だから理論は変わらないという状況が必要だ。
その上でこの「全存在のありかたに正しく対応している理論」そういう究極の知識が真理となるのです。

                    

<人間の知識は皆「仮説」>

  だけど存在するものの全てを認識することなど人間の力でできません。
いま空間についてみましたが、それだけでも限りなく果てしなく拡がっています。
対して人間は限られた有限の範囲しか観察できません。

 地動説だって、太陽とそれを巡る惑星だけの空間、いわゆる太陽系だけが観察できた上での理論です。
だが、宇宙は果てしなく広がっていますよね。
パップル望遠鏡やペースシャトル技術によって宇宙にはその他に一千億個の銀河系があるらしいこともわかった。
けれどもそれだって限られた空間です。さらに宇宙だって有限の空間ですよ。宇宙の外は無限に拡がっているはずだ。
その全てを観察するなど、人間にはとうてい出来ません。
だから究極の理論、もうこれ以上改善されないという知識などは人間には作れないのです。

                            

<唯一の例外事態>

   となれば「真理を知ること」は人間にはできないことになります。残念だが仕方がない。だが、例外事態もあります。
もしもすべての存在(万物)を創った創造者がいるならば、その方はすべてを観察できていますよね。
テレビを造った人間がその存在目的も仕組みも全て知っているように、万物の創造者は自分が創った全存在を知っているはずです。

   そしてもしも、この創造者が人間に全存在の有り様をふまえた啓示を与えてくれて、人間がこれを受信して言葉に記録したとすればどうか。
だったらその言葉は人間にとって究極の知識、真理を知るという夢を実現する手がかりとなるはずでしょう。

 そして「自分がその手がかり集だよ」と自ら述べている書物がこの世に存在している。
そのつまるところの真偽は確かめられねばなりませんが、ともかく、そう自称している書物が存在しています。
それが聖書で、広くいえば旧約、新約を含めた全体がそうですが直接的には旧約聖書です。

                    

<真理を知る夢を含んだ書物>

   この、夢を含んだ書物の成り立ちはこうなっています。
今から数千年前、万物の創造者が人間に向けて啓示(メッセージ)を送っていると信じる民がいました。
啓示だから誰もが受信できるものではありませんが、霊感の飛び切り豊かな者は受信出来ると信じていた。

   この霊感人間を聖書では預言者といっています。「予」言者ではありません。
定期預金というように「預」は「あずかる」という意味です。
聖書では「万物の創造主からの啓示を豊かな霊感でもって受信し、言葉でもってあずかる人」となっている。
この預言者の受信記録を古代イスラエル人、いわゆるユダヤ民族は保存・蓄積し続けたのです。

  最初の預言者モーセから、以後千百年間にわたって出現した預言者たちの啓示受信集が旧約聖書です。

  これがホントに万物の創造者からのメッセージ記録なのか。預言者たちの単なる思い込みではないのか。そのあたりはただちにはわかりません。
ですけれど、真理という究極の知識を含んだメッセージ記録集かもしれない。そういう可能性、夢があることは筋として否定しきることはできません。

人間が考え出す知識は、可能性ゼロですよ。それは最初から可能性がない。
だけど、こちらの方法論でこられたら、完全否定はできないです。
だって、預言者の受信したメッセージが万物の創造者のもので「ない」、ということは証明できないからね。
創造者からのものと証明もできないが、そうでないとの証明もできない。

そういうものは、合理的にいって、出発点では可能性は五分五分です。
その意味での希望を持った書物、人類に与えられた唯一の「真理の希望の書」これが旧約聖書です。

                   

<イエスは「真理の書」であるとして説き明かした>

  後に登場したイエスは、これを「真理が含まれた書である」としました。
そしてそれを解読して「真理はこうだ」と説き明かしました。それが本日の聖句に繋がっています。

「諸君が私の言葉にとどまるなら・・・真理を知る」がそれです。
「まことの弟子になる」や「真理は諸君を自由にする」は後にして、
とにかく「イエスの言葉にとどまれば真理を知る」ということの意味はそういうことです。

                    

<イエスが説き明かして初めてわかる>

  「イエスの言葉にとどまれば真理を知ることになる」とは
「人間には旧約聖書の言葉そのままからは真理を読み取れない」「イエスの解き明かしによって認識できる」ということでもあります。

 で、その解き明かしが新約聖書に書かれていることになります。
でもイエスが直接的に明確に解き明かした旧約聖書の聖句はすべての旧約聖句ではありませんでした。
弟子たちを含めて後の人々が解読すべき聖句が大量に残った。
旧約に真理が埋め込まれているとしてもそれらしきものは一つではありませんでした。
無数にある存在の各々に関する真理が多数埋め込まれているはずだった。
人間に関する究極の知識、宇宙に関する究極の知識等々限りがない。
旧約聖書はそれらを含んだ究極の知識集、真理集らしかった。

 実際、弟子や信徒が旧約聖書を解読すると(イエスが語った言葉を手がかりにしながら)
どんどんと真理らしき知識がわかってきました(わかる毎に深い感動を得ました)。
そこでイエスが解き明かさずにおいておいた部分を、後の信徒たちは解読してきています。これが聖句の吟味・解読活動です。
そして個々人各々がわかっただけの真理が、その人の聖書とイエスへの信仰(信頼心)を形成していきます。
だから「キリスト教活動の神髄は聖句吟味にある」ことになるのです。

                   

<ヨハネ伝は記録と一部の解き明かし>

 イエスの伝記(福音書)にはイエスの言葉が記録されています。伝記は四本、新約聖書に収められています。
各々別の著者が書いています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。
そのうちヨハネはイエスの側近として付き従いました。彼とペテロはイエスの鞄持ち、助さん、格さんでした。
だからイエスの言動を直接受信して書いている唯一の伝記著者です。
他の三人はイエスがいなくなってから取材して書いていますが、ヨハネは取材の必要がなかった。

 取材した情報には、不確かな感じが残ります。「・・・といわれている」という感じが残る。
ヨハネは直接見聞きしていますから、そういうことはありません。
それもあって、彼は記録だけでなく、それを踏まえた彼の解読、イエスという存在、その言動への解読をも記しています。

 「ヨハネ伝」はそういう、特別な福音書です。その福音書の解読を鹿嶋は創造的誤読を恐れず、自己流にやっているわけです。
気がついたら300回を超えていますね。


                    

 

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いいニュース

2011年03月20日 | ヨハネ伝解読

福島原発

5号機、6号機への通電がなり、冷却装置が
作動し、水温が15~20度ほど、下降した模様です。

3号機への注水が成功し、
水温が低下した模様です。本日、4号機への注水が
試みられるようです。

併行して1~4号機への
通電の回復が試みられるようです。

多少の受信誤差はあるかもしれませんが
概要は以上のようです。

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Vol.321 『弟子たちは天でイエスのエネルギーを直接みる』(17章24節)

2011年02月28日 | ヨハネ伝解読


    ヨハネ伝解読、今回は17章23節です。
  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「父よ、お願いします。
あなたがわたしに下さったものを、わたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。 
あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたために、わたしに下さったわたしの栄光を、
彼らが見るようになるためです」
  (17章24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

  前の23節では、イエスはこの世に残って働く弟子たちについて父なる創主に祈り願いました。

  それに次いでイエスは、弟子たちが宣教の使命を終えて、この世を去った後の彼らの処遇について祈り願っている。
それがここ24節の聖句です。

  「自分のいるところに、彼らも共にいさせてくれ」というのが願いの言葉です。
  ここで「彼ら」は弟子たちで、「イエスのいるところ」とは天の創造主王国、いわゆる天国です。

広く言えばそうですが、天国には「創造主の家」があるというのが聖書の思想です。
ということは、家の外もあるということだ。
つまり天国そのものが創造主の家なのではなくて、創造主の家の外側の空間も天国にあるというわけです。

『黙示録』の聖句では、創主の家とは城壁に囲まれた「天のエルサレム」が相当するのではないでしょうか。
そこでもやはり、城壁の内の空間と外があるわけです。
そして外の空間も天国内ですから、地獄の炎に「熱い、熱い」と焼かれ苦しむことはありませんが、
内側にいるような恵まれ方はない、となるでしょう。

 天国に行っても、創造主の家に入れない者もいるなかで、イエスはむろん、創主の家の内にいます。
そして「弟子たちもその家の中でイエスと共にいるようにしてください」と祈り願っているわけです。


                    

<霊イエスから発する栄光>

弟子がイエスと共にいるのは、「私(イエス)の栄光を彼ら(弟子たち)が見るようになる『ため』」~という表現は、
「イエスと共にいるとイエスの栄光を見ることになる」ことを実質上意味しています。
創造主の家でイエスと共にいれば、弟子たちはイエスの栄光を見ることになるのです。

 これまで繰り返しのべてきましたように、聖書では栄光は、力、創造の光、栄誉という3つの意味を持っている
と鹿嶋は解読しています。
 それらはいのちエネルギーがとる3つの様態ですから、みな関連しています。
そこで「見る」というのを広くとって、この3つを見ると解していいかもしれません。

 あるいは「見る」というのを狭くとって「創造の光」に代表させてイメージしてもいいでしょう。

                    

<力はイエスを愛されたが故に>

そしてその栄光は、父なる創造主がイエスに、この世が創世される前から与えていたものだという。
 このヨハネ伝の著者ヨハネは、冒頭の章で次のように述べています。

~すなわち「始めに言葉があった。言葉は創造主と共にあった。言葉は創造主であった」と述べ、
さらに「この言葉が霊としての御子イエスであって、この霊であった時のイエスが実はこの世を創られた。
創っておいて人の姿をとって世に来たのに、世の人々はそれを認めなかった」
~という旨を書いています。

 霊としてのイエスは、すさまじい創造の力を与えられていたのですね。

そして「そのような創造が出来るエネルギーは、父なる創造主がイエスを愛されて、与えられたものだ」
~との旨をイエスは祈りの中で述べています。
これはヨハネ自身の神学にはなかったところですね。
このように、イエスが創造主に向かって直接述べる言葉には、新しい奥義が表される。
これが17章の醍醐味ですね。

                    

<霊イエスからは栄光がストレートに放射される>

 けれどもイエス(創主から出た言葉)はこの世には人の姿で肉体と血となって来ていた。
その間その栄光は直接には現れませんでした。

 だが、天に昇れば再び霊としてのイエスです。
この世を創造する時の霊イエスです。
そのイエスからは、すさまじい創造のエネルギーが直接放射している。
これが発する光(創造の光、栄光)を弟子たちは直接見る。
これが「わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見る」の意味だと解されます。


                    


 

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Vol.320 『弟子たちは完全に一体化し、人々は信じる』(17章23節)

2011年02月16日 | ヨハネ伝解読


   ヨハネ伝解読、17章が終わるまではこのまま進みます。
今回は17章23節です。
  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=
   「わたしは彼らの中におり、あなたは私の中におられます。
それは彼らが完全に一体になるためです。
そしてそれは、あなたがわたしを遣わされたことと、
あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
                             (17章23節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   


  本日の聖句もやさしくないですね。
文の構造からすると、二番目の文章、すなわち「弟子たちが完全に一体化すること」が中心になっています。
そしてその前の文  はそれをもたらす原因です。
具体的には「わたし(イエス」が彼ら(弟子たち」の中におり、
そのイエスの中にあなた(父なる創造主)がいる」ことがそれです。


あとの文では、それ(弟子たちが完全に一体になること)によって引きおこされる結果が述べられています。
具体的には世の人々が「創造主がイエスをこの世に遣わし、
彼とその弟子たちを愛されてきたのだなあ」と悟ることです。

                    

<一体性の維持は至難の業>

この聖句を解読する大きな鍵は、
「複数の人間が自分たちの力で一体となり続けるのは至難の業だということを悟ること」にあるとおもわれます。
 人間は各々自分の思想や欲を持ちます。
同じ師匠について芸や思想を学んだ間柄でも、深いところでの思いはなかなか一つにならない。
個々人には私欲があって望むところが一致しない。
茶道、華道の上層部世界をみてごらんなさい。会社で有能な上司に仕えた部下たちを見てごらんなさい。
一時的に一体化しても、他のところでの不一致が浮上してまもなく分裂しいさかいます。


                    

<不動の言葉を共有したら奇蹟が起きる>

  そんな人間たちでも、イエス(の言葉と霊感)が共有できたら、一体化できる。
それは心の底を揺るがし感動させる不動の言葉だから、
これに霊感が協働して霊魂に浸み込んだら自然に一体化していくのです。

その上に、そのイエスの中に父なる創主がいたら、一体化は完全になる。
万物の創造主はいのちエネルギーの源泉です。
そこから流れるエネルギーがイエスに注ぎ込み、イエスを通して弟子たちに注入されたら、
彼らの意識には力が与えられます。
いのちエネルギーに満ちたイエスの言葉が彼らの心底に充満するのです。

だから弟子たちは完全に一体化する。
そして外部者から見たら信じられないような連携活動もしていくのです。


                    

<創造主の愛と働きを悟る>

あとの文はその結果を述べています。
こうした異例な一体化、連携行動をみたら外部の世の人々はどう思うかです。
彼らは「人間のこんな姿はこれまでみたことない」のです。
「人間だけではとても出来ない」ことだと思わざるを得ない。

すると「弟子たちが共に信じているイエスという存在は、やはり只者ではない。人間だとは思えない」
「万物の創造主がこの世に送った存在としか考えられない」となるでしょう。
ユダヤ人たちは、奇蹟は創造主だけが起こすもの、との思想を旧約聖書によって抱いていますから。

それだけではない。ただこの世に遣わしただけでなく、愛していのちエネルギー(栄光)をおくられたのだ。
そして、イエスの弟子をも同じく愛してエネルギーを贈られたのだ~と思うことになる。
そうイエスは創造主に向かって言葉に出して確認している。これが本日の聖句だと解せられます。


                    

 

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Vol.319 『全弟子に力が現れ、一体を実感する』(17章22節)

2011年01月27日 | ヨハネ伝解読

 

 相変わらずヨハネ伝解読です。17章が終わるまではこのまま進みます。
今回は17章22節です。
  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=
「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。
それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
(17章22節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

また「栄光」という難しい言葉が出てきました。

栄光(glory)には三つの意味があると鹿嶋は考えています。
一つは、創造の光です。この世で我々が見ている光(light)は光子という素粒子でして、
それは一秒間に地球を七周半走る速度を持っています。約30万キロメートルですかね。

対して、栄光の光は、無限の速度を持っていて、たとえば天の創主王国からこの地上まで一瞬にして到達すると考えられます。

 

                   

 

第二はエネルギーです。栄光の光を発する実体は、いのちエネルギーです。
ですからそのエネルギーそのものを栄光が指す場合があります。この場合はエネルギーまたは「力」ですね。

第三は、栄誉です。
被造物は深く強い光を見たり、力の成果をみたりすると、それを讃える性質を持っています。
そこから栄光は栄誉という意味が派生します。

                    

   本日の聖句での栄光は、二番目の力の意味で用いられているとおもわれます。
「父なる創造主はイエスにいのちというエネルギーの力をくださった」とイエスは言っています。
それによって、イエスは病の癒しをはじめとする様々な奇蹟を地上で実現しました。
それが「創造主とイエスが一体であること」のあかしでした。
創造主にしかできない奇蹟を行うことによって、イエスは自分が父なる創造主と一つなのだと証明してきました。

「その力を弟子たちにも与えた」とイエスはここで創造主に伝えています。
それによって弟子たちに奇蹟の力が現れます。力はみんなに現れます。
すると弟子たちは、おのおのイエスに繋がっていることを実感します。
そしてそれを通して、自分たちはイエスに繋がって一つなのだと確信します。
それが「彼らも一つである」の意味だとおもわれます。

 

                    

 

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Vol.318 『新参者も天の生き方で一体になれば』(17章21節)

2011年01月24日 | ヨハネ伝解読


ヨハネ伝解読、今回は17章21節の後半です。
  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=
  「また、彼らもわたしたちの内にいるようになるためです。
そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを世の人々が信じるためです」
(17章、21節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

21節の前半では新しい信徒も世から聖別して「一つにして下さい」とイエスは祈りましたね。

後半ではまず、新しい信徒たちを聖別していただくのは、彼らもまた「創造主とイエスの内にいるためだ」といいます。
聖別されたらそうなりますよね、論理的にも。イエスはそれを確認するようにきちんと口に出しています。

                    

 そして「新参者たちがそうなると、天の創造主がイエスを遣わされたことを世の人々が信じる」のはなぜでしょうか。

新参加者たちが天の創造主の側に立って一つになっている姿を見ると、人々はこう思うでしょう。

「彼らはどうして一体になって我々と違う生き方、聖なる生き方が出来るんだ」
「どうもみんなイエスを信じて一体化しているからのようだ」
「ならばそのイエスは天から遣わされた天の性格を持った存在と言うことになるなぁ」

~こういう風に、世の人々から信じる人が出るでしょう。
そうなるためにも、彼ら新参加者も聖別してください、とイエスは父なる創主に願い求めていると解せます。

                    

 

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Vol.317 『信じて加わる人も含めて一つにして下さい』(17章20~21節)

2011年01月21日 | ヨハネ伝解読


  ヨハネ伝解読、20~21節に進みます。

   (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                      
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=

 「わたしは、それをただこの人々のためだけでなく、
彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。(20節)
 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、
彼らがみな一つになるためです。(21節)」
 (ヨハネによる福音書、17章20~21節)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                     

  21節では、イエスは祈り願う対象を弟子から、弟子の伝道する言葉を信じる人々にも広げています。
新しい信徒のためにも祈っている。

祈りの中身は前回では「弟子たちを真理によって(世と)聖め分かつこと」でした。
ここでは「弟子たち」だけでなく「弟子の伝道で信じる人々」をも真理で聖め分かって下さいといっている。

                    

ここで真理というのは、天の創主王国からの言葉、すなわち、イエスの言葉です。
これを心に抱く人は、それによって必然的に「世」と分かたれるのですね。

ですから、新たな信徒も必然的に聖別されるのです。
そうすれば、弟子も新たな信徒も一つにまとまらざるを得ない。自然にそうなるのですね。

                    

でもイエスはそのことを、改めて口に出して祈っています。
弟子と新しい信徒がみな一つになるために、聖別して下さい、と確認するように祈っている。

ここでも、いわずもがなのことを改めて口に出していることが、注目されます。

祈りでは、このようにひとつひとつを確認することも必要なようですね。

     
                    

 

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Vol.316 『弟子のため改めて自分を聖め世と分かつ』(17章18~19節)

2011年01月08日 | ヨハネ伝解読


みなさん、すみません。 
「ヨハネ伝解読」更新できないままに、年を越してしまいました。

「聖句主義クラブ」の順調な滑り出しのために、忙殺されていました。
ようやっと安定しつつあります。自分は聖句主義で行くと決意された方は、どうぞ参加希望を出して下さい。
会が安定するにつれて、入会条件は緩やかになります。

さて、本日の聖句はこれです。

                    

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
      「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。(18節)
わたしは彼らのために、わたし自身を聖め分かちます。彼ら自身も真理によって聖めわかたれるためです。(19節)」
          (ヨハネによる福音書、17章18~19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


<弟子は本来天にいるべき存在>

まず18節です。
イエスは「自分が創造主によってこの世(宇宙)に遣わされた」ということを
確認するように父なる創造主に明言しています。
そして、そのようにして父が自分になされたと同じように「自分も弟子たちをこの世に遣わす」といっています。

弟子たちはすでにこの世にいるのですから、「世に遣わす」というのも変な感じですけれど、
ここは「天に召すのではなく、世で働かせる」ということをそういう形で言っているのでしょう。
あるいは、「弟子たちは本来天に召されているべき存在なのだ」という認識を持っていて、
「その天から遣わすのだ」という感覚でそういっているのかも知れません。

                    

<創主の子が敢えて「自分を聖め世から分かつ」というのは>


19節です。
ここは読み流しやすいところですが、注意深く見ると驚かされます。
イエスは創造主の子ですよね。羊の子が羊であるように、創造主の子は創造主です。
そして創造主はもともと聖いのであって、世とは分かたれているべきものですよね。

ところがイエスはその自分をも「聖め分かつ」とわざわざ言っています。
ならば、イエスは聖いのではなかったのか、と思いたくなります。

ここは、「父はわたしより偉大」といったイエスの言葉を思い出すべきでしょう。
イエスは聖いですよ。この世の人間に比べたら。
だけど肉体を持ってこの世で生きている自分は、やはり世に接して聖さを減少させている面もあると自覚しているのでしょうか。
時には怒ったこともあったしね。
その意味で「父ほど聖くはない」と思っているのではないでしょうか。

それで、あたらめてもういちど、その「聖さ」を増すように努める。
そう意識して「わたし自身を聖める」と創造主に語りかけているのではないでしょうか。


それは何のためか。自分を「世とあたらめて聖め分かつ」ことによって、
自分と一つになる弟子たちも、現状より一層「世と聖め分かたれる」ためだ、とイエスは言っています。

                    

自分はこれから世にいなくなる。
いなくなった後に、弟子たちに自分の言葉を世に伝道さす。
これが確実になされるために、イエスはものすごく入念に下地を整えている。

ことを成功さすには、あまねくこうした行為がいるのではないでしょうか。
ここはそういう場面だろうとおもわれます。

                    

 

 

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Vol.315 『基本を認識していることを示してから、お願いする』(17章15~17節)

2010年12月16日 | ヨハネ伝解読

  ヨハネ伝解読。
本日は15~17節です。

  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)   

                                   

あ、それから伝言があります。
このチャーチによくコメントを下さった方、きよ子さん、ISさん、くりまんさん、石ころさん、
もし読んでくださっていたら下記にメールいただけませんか? 空メールで結構です。

     clubbiblic@mail.goo.ne.jp

                    

さて、聖句です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=
「彼らをこの世から取り去って下さるのではなく、悪しきものから守って下さることをお願いします。(15節)
私がこの世のものでないように、彼らも「世」のものではありません。(16節)
彼らを真理によって聖別して下さい。あなたの御言葉は真理です(17節)」
                              (17章15~17節)
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 ここでイエスが創造主に語りかけていることの大半は
両者の間では当然なこととして合意がなっているようなことです。聖句を追ってみましょう。


15節からいきます。
   イエスはこの世での宣教を弟子たちにゆだねようとしています。
だから「彼らをこの世から取り去らないでください」と父なる創主にまず願います。
そして「悪しきもの」から彼らを守って下さい、という。
世は基本的に悪魔のものですから、「悪しきもの」とはすなわち世的なものです。

16節です。
 イエスはここでも、自分が認識していることを創造主に示します。
  「私も彼らも『世に属すものでない』と私は認識しております」
と確認してもらうかの如くに創主に語りかけています。

17節です。
 天のものと世のものとを区分するのは真理です、とイエスは創造主に語りかけます。
これも父と子の間では当然なことです。

真理とは天の創主王国で正しいとされる論理です。
それは創造主から言葉として与えられる、というのが聖書の論理です。
こういう当然なことをイエスは「真理とはあなたの御言葉のこと」とiいって語りかけている。
                    

<喜ばせておいてお願いする?>

~祈りの中では、まずそういう確認するような事項を言葉にして創主に示すべきなのでしょうか。
イエスは、創主との間で当然の合意事項となっているようなことを、
自分は認識していますと、一つ一つ創造主に示しています。

 当然なことを自分はきちんと認識しておりますと
自分の現状を改めて創造主に示すと、創主は喜ばれるのでしょうか。

創主を喜ばせば、それだけ祈りをよく聴いてもらえるのかな。

基本的なことを自分は理解していますと、きちんと示しておいてから願い事を差し出すべきかな。
  イエスがそうしているのですから、そうなんでしょうね。

イエスでもそうしているのですから、ましてや、人間は、
なおさらそれをきちんと示すべきでしょうか。


                    

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Vol.314 『天のもの、世のもの』(17章13~14節)

2010年12月10日 | ヨハネ伝解読

  ヨハネ伝解読。
本日は13~14節に進みます。

  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=
  「わたしは今みもとにまいります。わたしはこれらのことをこの世で語っています。
この世の人々の心の内に私の喜びが満ちるためにそうしています。(13節)
わたしは世の人々にあなたのみことばを与えました。そして世はそれらを憎みました。
それらは世のものでないからです。わたしが世のものでないように、であります(14節)」
  (ヨハネによる福音書、17章13~14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

前半の13節から参ります。
 「それらのこと」とはイエスがこの最後の晩餐で弟子たちに語っている事柄です。
それをイエスは天においてではなく「この世で」語っているといっています。

そしてその理由を次のように言っている。すなわち~
イエスが創主の言葉を心に抱いて喜びに充ちているように、
「その言葉を受け入れた」人たちの心にイエスと同じ喜びが満ちるために~と。
 実際、創主の言葉には創主の思いが詰まっています。イエスはそれをこころに抱いているから喜びに充ちている。
世の人々もそれを心に受け入れたらイエスと同じ喜びが湧くはずだというのです。

                    

14節に進みます。

だが、現実には、世の人々の大半はそれらの言葉を受け入れないどころか憎んだ~とイエスは言います。
その憎しみはもう心の奥底から湧いてくるような憎しみで、憎んでいる当人にも言葉で説明しようがないものです。
なぜか。それは彼らが世に属していて、イエスとその言葉が世に属していないことから来るからだ~イエスはそういっています。

天と世とは絶対的に対立する。憎しみはそういう深いところから来るものです。
それを私は理解しています~と父なる創主に語りかけているのです。

                    

 

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