鹿嶋春平太チャーチ

人は"見えない影響者”を思わずには生きられない存在です。ここは「神の存否は五分五分」を出発点として探究を続ける場です。

しばらくお休みいただきました。

2020年02月06日 | キリスト教の正しい学び方

 

記事投稿を、長いことお休みさせていただきました。

しばらくぶりの本(kindle 電子ブック)の作成に注力しておりました。

下記のような本です。(クリックで拡大します)

 

 

もうこんな長い本は、年齢的、体力的に最後になるかも知れません。

現在、アマゾンから、2月20日の予約販売として出ています。

https://www.amazon.co.jp/dp/B084JB6CJS/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E9%B9%BF%E5%B6%8B%E6%98%A5%E5%B9%B3%E5%A4%AA&qid=1580993848&s=books&sr=1-1

ご参照、ご支援いただければ幸いです。

 

 

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天皇即位フィーバーの正しい理解

2019年10月23日 | 政治見識のための政治学

 

 

天皇即位式典の情報を、全地上テレビはこぞって、しかも長々と流すことになりましたね。これには人為的な動因がありますが、それは後にして、この機会に、まず天皇なる存在の正しい理解を示しましょう。

これはまず明治維新時点に焦点を置いて論じるのがいいです。それ以外に妥当な方法はありません。
明治新政府は、参事会を最高決定機関として開始されました。西郷、大久保、岩倉、大隈ら数人余の参議の合意でことが決定されました。
その決定の宣布に天皇が関わるのですが、これについては、政治というものの本質を知らないと妥当な認識はできません。
残念ながら当面、日本の政治学専門書も大学の政治学講義も、これらに盲目な状態でいますので、そこから語ります。

<国家の一体性>

政治は具体的には、政治権力を握った担当者によってなされていきくというリアルな活動です。ただ漠然となっていくのではありません。
その際、担当者の最初にして最大関心事は人民の「一体性」です。それは打っていく政策の浸透度と効力を左右しますし、分裂までいくと、政府そのものの存在が無となりますし、政権者個人の存続、生存もできなくなる危険が産まれます。つまり殺されるわけです。

だから担当者は、なによりもまず、国論の一体性の形成に非常な努力をします。出来上がった後にも、その維持に神経を使い続けます。

日本史の教科書では明治維新に関して「五箇条の御誓文」というのが出てきます。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に始まる5つの命題がそれです。これまでは藩主や家老たちが決めてきた事柄を、これからはみんなが参加して公論でもって決めるのだよ、という宣言です。これを読んだ生徒は、「そうだ、これからみんなで議論して決めていく時代に入るんだ」、と鮮烈な印象を受けたと思います。

だが、教科書のなかでこれは立ち消えになっていきます。「万機公論」とは最後まで「理を通して」決定するという方式で、素晴らしいのですが何故焦点から消えていくのでしょうか。
それは「理を通す」ことには「分裂による一体性喪失」の危険が伴走しているからです。百論続出して「まとまりが」つかなくなってしまう。その危険が大きいのです。

これを和らげるために、維新の主導者たちがもってきたもの、これが天皇です。
当時、天皇というのは、長期間特別な神秘的存在というイメージが人民の間に今以上に~今もそんなこと行ってる学者が多いけどね~濃厚でした。

そこで、明治新政府主導者は、最高決定機関だった参議会の決定に天皇というのをかませようとしました。
岩倉具視あたりの発案でしょうが、参議会の決定を最後に天皇にあげて、その決定を「みことのり」として下させるという方式を考案したのです。

 

<天皇に「みことのり」させる>

いったん「みことのり」として降りてきたとなれば、政府外からの反対は大いに抑制されます。
当時、西欧列強は日本の植民地化を虎視眈々と狙っていた。そういう時代でした。こういう環境の中で国論が割れれば、各国は思い思いにその一方に荷担し、分裂をさらに増し、政府自体を機能しなくなるようにできるでしょう。政府が機能しなくなったら、もう、列強の思うがままです。

実際、当時代表的なところだけでも、英国は薩摩を支持援助し、フランスは幕府を援助する姿勢を示していました。

そのまま二つに割れて、国内戦争になれば、最終的には勝者の側を支持した国の手に、国家統治の実験は握られます。たとえば薩摩側が勝ったとすれば、薩摩は英国の意向のままになる。すると英国の利権にあずかるべく、みんな英国側に~軍隊を携えて~加わってきます。かつて中国がされたと同じ植民地状態です。

<非合理ゾーンを持ち込む>

そこで、明治新政府は天皇による「みことのり」を持ち込んだのです。これは万機公論での「理」とは異質な要素であり、非合理要素です。神秘イメージ満載の天皇は、万機公論に非合理要素をもちこむ手段ですが、それでもって「もう公論はそこまでにしよう」という圧力をかけられるのです。

これは一体性の形成・保持には極めて有効でした。このようにして、明治の国難においては、天皇という存在は、大きな役割を果たしたのでした。

 

<人材の劣化>

ところがそういうと「ほらこのように天皇様は日本のためにお役立ちなのだ」という人々が、これまた非常に多いのも「純朴者の国」ニッポンの現状です。これには政治学教科書や政治学者の無能もあずかることろ大きいのですが、とにかくそれはホントに純朴ですよ。

この「みことのり方式」は長期的には大きなマイナス面も持っていたのです。この方式は、公論という合理的領域に、神秘という非合理領域をもちこむ方式なのです。

政治権力ゾーンに身を置いていると、多大な社会経済的利得が得られるのも世の常です。そこで、この非合理ゾーンに働きかけて、自分の子弟を政治業務を行うポストに就けてもらおう、とする親が現れます。親は子に弱いのです。こうして、人事面で理の通らない行為がおこなわれ、これが人財の劣化をもたらします。

この動向は、時を追って拡大します。同類はあい集まります。非合理な神秘ゾーンの力でポストを得た劣等人材は連携します。そしてまた、非合理ゾーンの人事を行っていくからです。

こういう人材は、徐々に決定機関にも紛れ込んでいきます。この動向は時の流れの中で増えていきますから、ついには、決定事項の大半に、「公論で決す」要素が通じなくなってしまう状況に、至るのです。

+++

みことのり方式は、後に天皇の絶対権として、明治憲法の中に法的に組み込まれて続行されます。ですからこの動向はどんどん進展し、明治末期にはすでに、最高決定機関の人材は「中もの~大物でなく~」で占められるようになりました。昭和に入った時点では、「小もの」までもた愛すべき存在として混入した。こうして日本の最高決定機関は「中・小もの」しか、参加できない事態となりました。

対中国、米国への戦争に負けてから、やっと最高決定者たちの無能が論じられるようになりましたが、それは昭和初期にはすでにピークに達していたのです。

 

<責任逃れも産んでいく>

「みことのり」要素の介入は、もう一つ、これも巨大なるマイナスを産みます。それは決定機構の交代が非常に困難になること、がそれです。
「みことのり」を出す人は天皇ですが、これによって、最高決定機関の全員に多かれ少なかれ権威の色彩が付加され、機関構成者にも「不可侵」のニュアンスが付け加わる。これによって、彼らはお粗末な決定をしても、取り替えられ難くなります。それが結果的に、責任をもってものごとを論じ尽くすことを妨げていくので、責任の所在も曖昧になっていくのです。
その結果、誰も責任をとらない、というのが当たり前という状況が出来上がっていきます。これもまたが重要なマイナス面ですので、次回に論じます。

(第一回・・・完)

 

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19.「信仰」は「霊識」に

2019年08月14日 | 西洋を知る基督教再入門

 

前回、聖書の記述を物理学的にイメージさせてくれる新しい存在論~量子力学~を導入しました。

今回は、もう一つ、前もって吟味しておくべき重要事項を考えますね。

それは「信じる」という言葉です。
これは英語のビリーブ(believe)の邦訳語として、長いこと使われてきています。

前述しましたように、日本は「神イメージがほとんど宿物神のみ」できている国です。

で、宿物神イメージの中身はどうかというと、これは物質に触発された「神秘的な感情・感慨」のみです。
そこには神を説明する理屈、言葉がありません。
たしか、前の第6、7回あたりでそれを示しましたよね。

そしてこういう無論理な中身の神イメージに対しては、人間は、それを「全体として受け容れるか、受け容れないか」という姿勢しかとれません。
そこで、我が国のように「ほぼ宿物神イメージワールド」では、「信じる」という語は、「何も考えないで心に受け容れる」という意味にしかならないのです。


<イエスの「あとでわかる」>

だけど、これは聖書の邦訳語としては、致命的な欠陥を持っていますよ。

だって、聖書での神イメージの主役は「(万物の)創造神」でしょ。
この神概念は広大にして深遠な論理内容をもっていますよ。

これは聖書で「徐々に示されていく」神イメージであって、読者も聖句を手がかりに「思考・探究を続け、認識を深めていくべき」性格のものです。
それはイエスの言葉「(いまはわからなくても)あとでわかる」が代表的に示しています。

 

望「つまりbeliebeは日本語での「信じる」とは対極的な概念ということになるのでしょうか?」


~ですよね。だからこれを「信じる」と言っているのでは、もう最初から、聖書の世界観の探究を放棄しているようなもので、全然話しにならない。
これはもっと前に、対処しておかねばならない事柄だったのです。


 
<「ビリーフ」は「霊識する」>


望「そんなこといっても、この日本語は長いこと使われてきていて、もう、常識ですよ。最近出席した礼拝でも、牧師さん“信じる”とか“信じなさい!”とか叫んでましたし・・・。いったい、どうしたらいいのですか?」


~これはもう結論からお話したほうがいいでしょう。

鹿嶋は色々試行してきました。そして、現時点では「霊識する」がいいと結論しています。
「霊識」は文字通り「霊的に認識する」という意味を持っています。

イエスの「創造神は霊ですから・・・」とのみことば(聖句)が示しているとおり、その認識は「霊的」でなければなりません。

また、「識」は「認識する」の識で、これは「探究を続行している」というニュアンスも含んでいます。


望「存在を受け容れたら“もう考えてはいけない、あれこれ考えたらばちが当たる”というものではないのですね」


それは宿物神に対する姿勢です(笑)。


 
<ゴーイング・コンサーンで>

ただしここでちょっと難しいけれど、留意しておくべきことがあります。

この「霊識する」という認識活動は、通常言うところの~「客観的(科学的)認識」活動ではありません。

科学は基本的に「対象(創造神)と心理的に距離を置いて」なす活動ですが、「霊識する」は対象(創造神)の存在を基本的に心に受容した上で深めていく認識活動です。

敢えて言えば、「愛をもって」する探究活動です。


望「愛をもって・・・ですか?」


~そう。愛をもって受容しながら、同時に探究は続けているといいう認識状態です。

英語ではこの状態をゴーイング・コンサーンといっています。
日本では「活動態(かつどうたい)」と訳しています。

 
 
<「信仰」は「霊識」>

望「う~ん、飛躍した直感で申し訳ないのですが・・・、そうすると“信仰”なんてのも問題になりませんか? 先だっての礼拝でも、“信仰が足りない!”って牧師先生が信徒さんを叱っておられましたけど・・・」


~いや、飛躍じゃないよ。「信仰」は「信じる」と背中合わせの用語だ。

この語の英語は、ビリーフ(belief)とフェイス(faith)なのですが、この邦訳語も、「信仰」では全然ダメです。

だって「仰ぐ」というのは上方の高貴なる方を「考えないで拝する」というものでしょ。
「信じる」だけでも無思考状態なのに、さらに「仰いでいる」のでは、重ね重ね「識」がない。

信仰もまた宿物神の神イメージだけに適用されるものなのです。
やはりこれも「霊識」とするのがいいでしょう。

このシリーズでは、「信仰」を「霊識」に一貫して置き換えていきますよ。

慣れるまでは違和感があると思いますが、実践しなければなりません。
聖書の思想を対極から否定するような用語を使っていたんでは、「出発点から闇の中」ですからね。


望「基督教再入門だ、まさに・・・」


~茶化すんじゃないよ。


 
 
 
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18.量子力学が「創造」の物理的イメージを可能に

2019年08月03日 | 西洋を知る基督教再入門
 
 

脇道に入ってたので、これまでの流れを回顧してみましょう。
 
基督教再入門のために、鹿嶋はまず~
 
①「創造神」の概念を今まで以上に入念に吟味したよね。次に~
 
②聖書の話は、まずは「世界観の一つ」として認識するのがい、といった。そうしたら~
 
③世界観というものが、人間の意識にもたらす効果も考えないでおられなくなった。
特にそれが民族間戦争を誘引する構造を無視できなくなって、ついつい立ち入ってしまったのだったね。
 
~だけど、もう本筋に戻らないとね。
 
「聖書の世界観」の具体的な解読を進めましょう。
 
 
 
聖書の提供する世界観は、創造神とそれによって創られる被造界で構成される世界イメージです。

聖書の最初の書物『創世記』をみると、創造神が「光あれ~」といって光を出現させ、天地と海を創り、そのなかに植物動物を創り、最後に人間をつくっています。
 
男と女に造り、「生めよ増えよ地に満ちよ、全ての生きものを支配するように」といっている。
 
~ここで世界創造の記述は一段落です。



<言葉を発して創造>

 
ここで創造神は、被造物の創造を「言葉を発する」ことによってなしています。
 
光(光子という素粒子)も「光あれ!」という言葉を発することによって、創造され、現れます。
 
従来「それは、カミサマのなされる神秘的な現象」と人間(読者)は受け取ってきました。
 
 
だが、それを物理学的にイメージするのを可能にする最新の理論が、物理学の世界に出現したのです。
 
量子論(量子力学ともいう)がそれです。
 
 
 
<古典物理学の存在論>
 
この思想は独特の存在論を含めています。
 
それ以前の物理学では、物質は究極的には「粒子」(つぶつぶのもの)によってなっている~と考えていました。
 
具体的には~

物質を構成する「つぶつぶ」のものとしては、まず原子が発見されていました。

次に、その原子は陽子や中性子や電子でなっていることがわかりました。

そこでこれらが究極の構成要素と考えられ、素粒子と呼ばれました。

素「粒子」だからつぶつぶの物質のイメージなんですね。

ニュートン物理学のニュートンも、アインシュタイン物理学のアインシュタインもそう考えてきました。

 
 
<二重スリット実験>

ところが、後に量子物理学者と呼ばれるようになる人々は、素粒子の一つである電子(でんし)についてある実験~「二重スリット実験」と呼ばれる~をしました。

そしてそれは粒子でもあり、波動でもあることを発見したのです。
 
このあたりの情報は下記の動画(主に前半)を参照して下さい。

 
わかりにくい場合は、これも見て下さい。二重スリット実験を、ビジュアルに(動画で)示してくれています。

 
 

 
<根源は波動>

さて、この「粒子でもあり、波動でもある」というのは解りづらいですね。
両者の関係はどうなんだ?とね。
それは次のように理解したらいいでしょう。

すなわち~、

根源は波動(振動:バイブレーション)の方であって、その波動の海の中に、振動が凝集する領域もある~と。
それが(つぶつぶの塊)と感じられ、粒子と認識されてきただろう~とね。

+++

上記の動画で「波束(波束:波動の束)」といっているのはこういう情景をイメージしての用語だと思うよ。

ともあれ、その振動(波動)の海に量子(クオンタム:quantum)との名が付けられた。
これが量子という物質の原風景です。
 
 
 
 
<言葉の波動が物質に影響・・>
 
量子力学の思想は「見えない世界のことがら」についての物理学的に理解可能な領域を大幅に広げてくれますよ。
 
たとえば、新約聖書には「イエスの言葉が病人の身体を変化させた」という旨の記述が繰り返し現れています。

イエスが「歩け」と言葉を発すると脚萎えが歩き出します。
「目よ開け」というと、盲目者が見えるようになりますからね。

これなど従来牧師さんや神学者たちは「神様であるイエス様の不思議な力によりま~す。信仰で受け止めなさ~い」などと教えてきました。
こういう風に科学的理由なしで「信じなさぁ~い!」とやってきたわけです。

+++

ところが脚や眼球を構成する物質の根源が波動だとなれば、この「奇跡」が物理学的に理解できてしまいますよ。

言葉も波動であることは、前々からわかっていました。言葉は「人の意識を信号にして伝える波動」なのだ、とね。

そこで、創造神の子イエスの発した言葉の波動は、被造物をそれに従わせる力を持った「創造神の強烈な波動」とイメージしましょう。

するとこれが、脚や眼球の根源的な構成物である波動に影響した、と理解できるでしょう。

かくして~

その強烈な波動の影響を受けて、脚の筋肉や眼球を構成していた波動が変化し、肉体組織が再創造された

~というような物理学的理解が可能になるのです。
 

 
<エネルギーの実体も波動>

ついでに、物理学のもう一つの鍵概念、エネルギー(力)も量子論的に理解しておきましょう。
 
従来、エネルギー(力)は存在するとは認識されていたけれど、その中身は必ずしも明確ではありませんでした。
 
ニュートンは、宇宙には重力、磁力という二つの力があることを見出しましたが、力の中身については何も言い遺しませんでした。

アインシュタインは、重力は空間のゆがみから生じるとはいいましたが、その力の中身がどういう実体かは、やはり言わなかった。
 
彼はその実体が不明な状況のままで、「エネルギーと物質は相互転換しあう関係にある」とみました。
 
そして両者の間の量的関係を明かしました。

E=MC2 (2はCの自乗をしめすため、本来Cの右上に小さく書かれるべきもの)がそれです。
 
核爆弾の製造・実験の成功によってその妥当性は証明されました。
けれども、エネルギーの実体は依然として不明なままでした。

+++

ところが量子論の思想を援用して、「エネルギーの実体は波動」だと考えたらどうなるでしょうか。

すると~

世界が本質的に量子でできているのなら、その世界では波動(エネルギー)は凝集して物質となり、物質はまた分解してエネルギー(波動)ともなる。つまり両者は相互に転換し合う状態にある

~とイメージできてきます。

アインシュタインの見出した関係も、あえてエネルギー「法則」などというまでもない、ごく当たり前の事象として量子論では理解できるのですね。
 
 
個人的な考えですが、私は~

量子論の考えは、それ自体で実在にほぼそのまま妥当する究極の命題でなっているのではないか~と、感謝も込めて、思っているよ。

つまり、存在の根源を粒子とする理論仮説には、比喩的なニュアンスがつきまといます。だけど量子論には比喩的側面がほとんどない、そのままの真理群だと、ね。

入れ込みすぎかな?

望「そんなことないと思います。すごくわかりやすいです」

~そうか、では以後、この存在論思想をベースにして考究を進めることにしましょう。






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17.民族国家という世界観と先進国間戦争の仕組み

2019年07月21日 | 西洋を知る基督教再入門


~今回は、世界観と民族主義、および、民族間戦争の関係について考えましょう。



<関ヶ原以来の人口推移>

~突然ですが、望君に一つ質問します。

日本では関ケ原の戦の後、江戸時代がスタートしますが、その頃の推定人口は大体2500万くらいだそうです。
当時は、いまの国勢調査のように、直接頭数を数えてえられるような人口データはありません。

そこで人口学者たちは、当時の米やあわやひえなどの穀物生産量のデータから人口を推定するそうです。
で、その推定数は諸説ありますが、まあ2500万くらいといったところなようです。

では、江戸時代の終わり、明治維新時にはどうかというと、3000万くらいでした。つまり、250年間に500万人くらい増加しているんですね。

+++

では明治維新から100年後の1968年(昭和43年)にはどうか?
1億人以上になっています。100年間に7000万の増加です。

望「維新以来急増しているのでしょうか?」

~ですね。関ヶ原以来の人口を時系列グラフに書けば、明治維新の時点以降、人口カーブは急上昇を描いています。

どうしてこんな変化が起きたのでしょうか?




<食糧が人口の上限を決定する>

望「江戸時代にはあまり子どもが生まれなかったのかな・・・」

~いや、子供はどんど生まれました。一組の夫婦が10人以上生んでます。江戸時代の状態は明治維新後も続き、第二次大戦での敗戦のしばらく後に止んでいます。
以来、一組の夫婦が子どもを二人とかせいぜい三人生むようになるのですが、維新から敗戦までの期間が急増時代なんですね、

望「江戸時代には沢山産まれていたなら、人口があまり増えてないのはどうしてでしょうか?」

~経済が貧しかったからです。生産力が弱かった。

食糧生産量が、人口の上限を決定していたのです。


望「つまり、食べられなくて死ぬ人間も多かったと言うことですか?」

~江戸時代までは、庶民は極貧の生活をしていました。
栄養は悪く、医療の知識も技術も低く、平均寿命は20歳代でした。

長く生きたといわれる人も50歳くらいで死にました。
生まれてまもなく死ぬ子もたくさんいました。

だから沢山生まれても、人口はあまり増えなかったのです。



<産業革命~Industrial Revolution~>

望「明治維新で何かが起きたということでしょうか?」

~その通り、西欧で起きた産業革命が導入されはじめたのです。

産業革命とは、一口で言えば、生産の機械化ですね。
これで農業生産の道具や機械も急増産される。肥料生産も効率よくなるのです。

すると食糧生産も急上昇を開始します。

江戸時代に人口数の上限を決めていたのは食物量でしたね。これが上向きになれば、人口も急増を開始するわけです。

+++

これは欧米でも同じです。

産業革命が起きるまでは、庶民は、いつも食糧不足のなかで、死と非常に近い背中合わせの状態で生きていた。

そのなかで身体の比較的丈夫な者だけが、30,40まで生きる、という状態でした。

望「税金も高かったんと違いますか?」

~そうだね。人口の一割くらいを占める支配階級の武士たちが、五公五民とか、六公四民とかの比率で農民の生産物を吸い上げていました。



<飢餓が常態の人間を追体験する>

望「庶民は哀れなものだったんだ・・・」

~そう、彼らの日常は、いつも腹へらしていて、力のない状態です。

こうなると人間の精神状態はどうなるか、を想像するのは、今の我々には容易ではありません。

だけど、ここは産業革命後の庶民理解の鍵です。瞑想の時間をとってでも追体験しなければなりません。

飢えが常態になると、人間は頭がボーとしてるのが、常態となるのです。ただ、弱々しい食欲があるだけの心理状態です。

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こういう状態にいると、世界観といっても、自分の家族からせいぜい親族までの世界のことがらだけのものとなります。

まあ、それも立派な世界観ですけどね。

だけど、自分と家族の等身大を超えた空間視野での世界イメージなど描けません。

人生観といえば、その家族に生まれて順番に死んでいく、というだけのものでした。

 

<精神生活は支配層だけのものだった>

そうしたなかで、日本では武士、西欧では騎士階級以上の少数者だけが、等身大以上の広がりを持った世界観を持って暮らしていました。

その広がりは、西欧では領主の君臨する領国空間、日本では藩ですけどね。
それらの空間が彼らの世界観に入っていました。

そして、その中で、彼らの人生観も出来ていました。
欧州では騎士道、日本では武士道がそれですね。

これが産業革命以前の、人間の世界観のありようでした。



<産業革命は文字通りの「革命」だった>

さてそこに産業革命が起きると、庶民はどうなるか?
彼らにも、満腹できる日々のある人生が始まります。

彼らにも家族親族を超えた世界観を持つ余裕が生まれ、精神文化をもつ余裕も生まれます。


望「そうか。だから明治維新後日本に様々な庶民文化の花が開いたのですね」

~お察しの通りです。
だが、産業革命以後の経済は市場の機能を生かした資本制経済です。このシステムでは景気循環の波が大きいです。
庶民は、不況時に再び十分食べられない状態に陥ります。

産業革命前にはこの状態は庶民に「非常に苦痛」というものではありませんでした。
生涯、毎日がそうだったですからね。そういうもんだと思って生きていたから・・・。

だが人間は、いったん満腹を知ると、激しく空腹からの脱出を欲望するようになります。
人間とはそういうものです。

そこで国民の中で、「弱小の隣国の富を奪ってでも、空腹から逃れたい」という機運が湧き上がります。

これは良し悪しの感情を超えて強烈に頭をもたげてくるのです。

 

望「その気持ちは、わたしにも追体験できる感じがします」

~それはいいなぁ。

国家の戦争力は、武器技術が一定ならば、戦う人間の数が多いほど大きくなります。
そこで人民は、集団の規模を同一言語を話す人間、すなわち民族の数いっぱいにまで広げようと願望します。

この人民心理は、同一民族の国家という世界観を抱く動因を庶民の心に強く作ります。

そこに民族主義の世界観を指導者が投げ入れてあげるとどうなるか。

庶民はその中に、自分を位置づけることができてしまいます。

こうして、生まれて初めて、自価意識も積極的に持てるようになります。

それまでは、そんな価値はお侍さんたちや「偉い人たち」が持つものでした。
取るに足りない自分たちなどにとても持てるものでなかった。

ところがそこに自分の民族へ誇りを宣伝されたらどうなるか。

自分の意義、価値の意識を生まれて初めて積極的に抱けるようになるのです。

 

<ジェイムズの洞察通りになる>
 
これによって突然生じる快感は、前回に紹介したウイリアム・ジェイムズが示した通りです。

庶民は狂喜、興奮の中で、精神的に民族「国家」の一員となり、「国民」となります。
(この状況は、ナチスドイツと人民たちの恍惚常態の映像が、今も示唆しています)

望「う~ん、そういうことだったのか・・・」

~そういうことです。

その結果、庶民の成人男子徴兵制への抵抗感が薄くなります。

従来は戦争は、支配階級(武士)だけがするものでした。
そこに庶民も加わる条件が完成します。

こうして「国民国家」が誕生します。

+++

国民国家を実現した国は、戦も強いですよ。
そこで産業革命を成し遂げた先進国は、競って国民国家の創成に走ることになります。


望「日本の版籍奉還、廃藩置県もそれだったのか・・・」

~ですね。西欧列強との対抗上、やらねばならなかったのですね。

がとにかく、欧州でも先進国はこぞって国民国家を実現します。

彼らはみな、未開発国、弱小国に戦争を仕掛け、富を収奪しようとします。

人間集団が、そういう性質を濃厚に帯びていくのです。

+++

さすれば、これらの国はまた必然的に、植民地の確保争いに至ります。

これが、先進国間の戦争に繋がっていきます。

さらに、これが世界規模で二グループに分かれて戦う状態に展開したのが、第一次、第二次世界大戦だったのです。


望「すると、また、第三次世界大戦も起きる可能性あり、となりますか? 怖いなあ~」

~二つの大戦の後、その心配は大幅に減っているのですが、その仕組みの話は、またにしましょう。

~とにかく現世の話は、まずはこれまでにして、次からは本来の聖書の世界観、『創世記』の解読にもどりましょう。








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