鹿嶋春平太チャーチ

人は"見えない影響者”を思わずには生きられない存在です。ここは「神の存否は五分五分」を出発点として探究を続ける場です。

21.負債も債権も帳消しされるようになる

2018年11月14日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、日々の糧が「与えられる」は「不足分が加えられる」と解読するのが正しいと言った。

 
<焦点は心の安息に>
 
「これでもか、という程に」ではないのは何故だろうか。
 
イエスは人間の地上の生活においては「心の平安・安息」に焦点を置いているからである。
 
不足分が常に補填されるならば、倉に糧をため込む必要が全くない。
そもそも糧が倉にふんだんになっても、もっともっとという貪欲が人の心に常駐するのは何故か。
心底に「食べられなくなって飢えるかも知れない」という恐れがあるからだ。
だから、いくら持っても貪欲の心は続く。

(余談:稲盛経営哲学はこの貪欲の心を処理する必要と方法を説いている)
 
+++
 
だが、食えなくなる事態が全くなくなったら、もう糧は日々満たされたら十分となる。
それが御国が来れば実現するとなれば、もうため込む必要は全くなくなる。
その結果、糧については完全な安息が得られるのだ。
 
+++

イエスはかく、安息を重視していた。
 
だから、「自分は十字架で殺されてしばらくいなくなるよ」と弟子たちに告げた時にも、動転する彼らに~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私は、諸君に平安(安息)を残します。・・・(中略)・・・諸君は心を騒がしてはなりません。
恐れてはなりません」
  (ヨハネによる福音書、14章27節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~といった。
 
 
 
<②は借金、貸金の話だ>
 
今回は、このことを心に留めて、「御国がくればこうなる」の第二番目に移ろう。
 
筆者は先回、その邦訳文を「②罪が許され、他者の罪をも許せるようになる」と述べた。
 
だが、この邦訳にはもっと適切な文がある~。
 
「②負債(借金)が帳消しされてなくなり、かつ、他者への債権(貸金)も帳消ししてあげられるようになる」がそれだ。
 
+++
 
この部分の英文は~、
 
・・・・・・・・
And forgive our debts, as we also have forgiven our debtors.
・・・・・・・・
 
~となっている。
 
debutという語の意味は、ほとんどもっぱら債務・負債である。
他の意味は、派生したものだ。
 
「恩義」もそのひとつだ。
これは、「金を借りたこと」から「何かしてもらったこと」を拡大連想してできた派生語だ。
 
「罪」もこれと同様に、神学で考案された派生語である。
 
つまり、「負債(借金)を赦す」という言葉の意味はよくわからなかった。
だがここで動詞がforgive(赦す)とある。
「赦す」となればまず、犯罪gilt)が想起される。
そして犯罪は聖書にある罪(sin)を連想させる。
そこで、このdebtsは「罪」だろうとした。
(英文聖書にも、sinと英訳したものがある)
 
そんなところだろうが、もしここで負債で意味が通るのなら、ここは素直に本来の意味でもって解するべきなのだ。

 
             
 
<カネの貸し借りは人の安息を壊す>
 
地上の人間の心の安息に焦点を当てれば、②の文は「負債」で明確に意味を持つ。
 
借金が人の心の安息を奪う度合いは甚だしい。
借金していると、期限までに返せなくて取り立てられるのではという恐怖が常時心につきまとう。
 
利子が付いていたらなおさらだ。
日々返済すべき金額(元利合計)は増えていくのだから。
 
現代のサラ金などはこれがバカ高くて、うなぎ登りに増えていく。
これは恐怖だ。
 
恐怖で安息を破壊されると、人は正常な思考、判断が出来なくなる。だからどんどん窮地に追い込まれていく。
 
これは人間に対する根底的な悪だ。
 
 
<御国の波動が来ると>
 
だが御国が来れば、その波動は借金・貸し金なる存在を無くしてしまう。
 
貸主が貸金を帳消しすると、その分は波動が物質化して出現した貨幣によって補填される。
だから、貸主は貸金を帳消しにし、借主は安息を取り戻せる。
 
その意味で②の部分の邦訳文は「負債(借金)が帳消しされてなくなり」がより妥当となる。
 
 
 
<貸した側も安息を失う>
 
金を貸した側も、心の安息はそこなわれる。
そもそも、貸してくれと言うのは、金がないから言うわけで、返してくれなくなる恐れは常にあるのだ。



綾小路きみまろ>

綾小路きみまろという芸人さんがいる。
苦労時代の長かった人で、その間、交わった人も沢山いる。
彼らの内で金銭的にうまくいっていない人に「お金を貸してくれ」と言ってくる人が一人ならずいるそうである。

これに対して、きみまろさんはいつも30万円入れた現金封筒を準備している。それを渡してこういうそうだ~。

「このお金は返さなくていいからね。そして金のこと言ってくるのはこれ限りにしてね」~と。本にそう書いていた。

何度も来ないように、という思いもあるだろう。これでもって依存心を切り捨てて立ち上がるようにとの思いやりあるだろう。
が同時に、貸した金を思うことによる安息の破壊、それによる話芸への障害を避けようとする意図もあるだろう。

+++

だけど、何度も30万というのもまた、苦痛が全くないことはないよ。
ところが御国が来たら全然苦痛でなくなる。その分が毎回補填されるのならばそれを帳消しにしてあげたるのは楽なことだ。
そして心は平安・安息となるのだ
だから御国がくれば、すべての貸主は帳消しにしてあげることになる。

 
 
つまり、こうして、その地上空間では借金も貸し金もなくなるのだ。
金銭的に、すべての人が安息の中で暮らせるようになる。
御国が来て覆い重なった地上空間ではそうなる。
 
②のdebtはそのまま「債務」でいいのだ。
 
このようにしてイエスは「くだくだ祈るな。御国を来たらせてくださいとだけ祈れ」と教えたのであった。



 

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20.御国の力が地に及ぶ範囲

2018年11月12日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、人間に日々の糧を与える「地上の方法」と「御国(天国)の方法」を述べた。
今回は、御国の方法が地上に及ぶ範囲を吟味しようと思う。

(重箱の隅をつつくような理屈話と思うかも知れないが、これは大事なところだ)
 
 

<天の力が地のすべてに?>

「地に天国が来た」というと、われわれは直感的に「天国の力が地のすべてに及ぶ」と思いがちだ。

だが、「地上の糧の不足分が満たされる」という解読も成り立つ。

+++

そこで聖句を吟味すると、後者が正しそうなことが見えてくる。

~ここでイエスは「食べものや着るものを心配するな。創造神は与えてくださる」との旨をのべる。
それは邦訳聖書(新改訳など)ではこのようになっている。

・・・・・・・・・・
「創造神の国(天国)をまず第一に求めなさい。そうすればこれらのものはすべて与えられます」
   (マタイによる福音書、6章33節)
・・・・・・・・・・
 
「ルカ伝」12章22節以降にもイエスの同様な言葉が収録されている)

まあ、ざっくり言えばそれもいいだろうが、邦訳文のこの「与えられます」は英文聖書ではwill be given でなく will be added となっている。

・・・・・・・・・・・・・
“Seek first HIs kingdom and His righteousnesuu, and all these things will be added to you"
・・・・・・・・・・・・・

よく見よう。addに「与える」という意味はないよ。それはほとんどもっぱら「加える、付け加える」だ。



<いい加減な邦訳文>

では、何を付け加えるかというと、それは英文聖書でも明言していなくて、these things となっている。だが、その「これら」は直前の文脈からすると「食べものや着るもの」しか思い当たらない。

つまり、日ごとの糧は、アッドされる、つまり、「付け加えられる」のだ、御国が来ると。

では、何が付け加えられるかというと、それは今ある糧が必要に充たない分(我慢している分)しか考えられない。

+++

つまり、地上の方法ですでに得ているもののうち、欠けている部分が充填されるのだ。

たとえていえば、米びつに米はあるが、それは満ち足りる程食するには足りない。するとその不足分が補填される、というがごとしだ。
同様に、冷蔵庫の野菜室でも野菜が増え、チルドルームに肉や魚が増えているだろう。

あるいは、それを買うだけの貨幣収入が、何故か増えた、ということもあろう。
英文にも漠然としたところはあるが、邦訳文が~厳しく言えば~いい加減なのだ。


    
 
<日ごとの糧は地上だけのもの>
 
 
われわれは、「天国が来た」というとそこは「(死後に救いを受けて入る)天国のような状態になる」と考えがちだ。
(そう言わないと「信仰が足りない!」と叱る牧師さんもいるし)

だが、御国の実在と地上の現実世界とは、地上では二者択一の関係にはない。
御国がきても、地上の方法がまるごと代替されることはない。

物理学的イメージでいうと、地上の実在の上に天国の波動空間が覆い重なる、という感じだ。
そしてその力が地上の「欠けている部分」に及ぶ、というイメージだ。
 
+++
 
考えてみよう。
天国に行くときは、人間(の例)は肉体を抜け出ているんだよ。だから、人は肉体を養わなくていい。
 
肉体がなければ、「祈り方」でいう日ごとの糧(食糧)は無用だ。
つまり(御国が来れば)「日常の糧は与えられます」は地上にいる人間だけに対してなされることなのだ。
 
地上に来た御国の波動空間と、天国そのものとが同じだとするのは、純朴すぎるのだ。

 
 

<聖書を読む意味が半減>

両者を混同しないのは、非常に大事なことだから、繰り返し述べておく。
 
人間は御国が来るまでは、100%地上の方法でもって糧を得て生きてきている。
糧が必要に100%充たなくても我慢して暮らしている。
 
そこに御国が来ると、その不足分が出現して与えられる、
 
具体的には、米びつに不足分の米が出現していたり、冷蔵庫の野菜室に野菜が増えていたり、チルドルームの肉や魚が増えていたりする。こういう解読が正解だ。
 
イエスの~

「まず、創造神の国と義を求めなさい。そうすればそれらのもの(日ごとの糧の欠けた部分を埋める分)は加えられます」
 
~はそれをいっている。
 
この聖句が不足分の補填を意味していることが、いままでのところ気付かれていない。ただ漠然と「与えられる」と解されている。
 
それが邦訳文に現れている。
だが、そうすると、「まさか・・・、現にそんなことどこでも起きてないよ・・・」となって、この聖句はスキップされ、無視され、放念される

それではいかん。
こんな風に、御子イエスの言葉をスキップしたら、聖書を読む意味は半減してしまうのだ。





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19.日々の糧を得る~地上の方法と御国の方法~

2018年11月09日 | 鬱を打破する聖書の論理

「御国が来れば、御心が天になるように地にもなされます」の具体的中身の第一声は「(御国が来れば)日常の糧は与えられます」
~だった。
今回はこれを吟味しよう。

われわれ人間は地上にいる間は肉体を持っているので、それに日々糧(食べ物)を与えねばならない。
もちろん、衣食住といって、衣料も住み家も必要だ。ここで糧はそれらを総称しているとみていいだろう。

+++

そして、それをうる方法は地上の「この世」でのものと、「御国」のなす方法とで異なっている。




<「経済学の父」アダムスミス>
 
「世の方法」は、自然物に働きかけて、もの(財貨)を生産する方法だ。
 
古代、中世を通して、人々の生産効率は低く、人類は貧しかった。
近世になって「経済学の父」アダム・スミスは、生産効率を急速に高める方法を見つけ出した。
 
社会に分業を行き渡らせる、というのがそれだった。
 
 
 
 
<鍵は分業にある!>
 
分業とは、生産の作業を細かく要素(部分)に分けて、人々が割り当てられた作業に専念することだ。
 
分業が広がると、個々の生産作業は単純化する。
たとえば、釘を造るという活動には~、
 
「仕入れた針金を伸ばし」「短く切り」「一方の端をたたいて頭を造る」「他方の端をヤスリで削って先を造る」「火入れと水による冷却によってヤキを入れる」

~などの作業が含まれる。
中世までは、この一連の作業を一人の職人がすべてやっていた。
 
+++
 
だが近世になると、人々を工場に集め、各々の作業を各人に専門的に担当させるという方式が現れた。
スミスはこの方式を社会全体に普及させることをすすめた。
 
この方式を採ると、生産効率は急上昇する。
個々人の作業は単純化し、それを繰り返すと熟練して技能が上がる。




<生産が機械化される>
 
さらに、単純化した作業部分は、機械に置き換えやすくなる。
それを水車などの動力につなぐと、生産は自動化し、生産量は飛躍する。
 
スミスはこの方式が社会に広がることが、人民富裕化の鍵だとみた。
 
+++
 
こういうことが、様々な生産分野で起きたのが、産業革命だ。
 
それが進展して今の人類は、歴史上かつてなかった物的富裕を享受している。
 
 
 
 
<五千人の糧を造る>
 
御国がやってきて地上でなす方法は、スミスとは全く別である。

存在の源である波動を、物質に様態変えさせる、というものだ。

この事例は、新約聖書に記録されている。イエスが「魚とパン」を次々に出現させた状況に見ることが出来る。それはマタイ伝にも下記のように記されている。
 
・・・・・・・・・・・・・・
「イエスは言われた『あの人たちに何か食べるものをあげなさい』
しかし弟子たちはイエスに言った『ここにはパンが五つと魚が二匹よりほかありません』
 
するとイエスは言われた『それをここに持ってきなさい』
そしてイエスは、群衆に命じて草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚をとり、天を見上げてそれらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
 
人々はみな、食べて満腹した。
そして、パン切れの余りを取り集めると、12のかごにいっぱいになった。
食べたものは、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった」
      (マタイによる福音書、14章16-21節)
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
量子物理学は、この事態を物理的現象として理解させてくれる。 
 
この物理学はすべての存在の元は波動であることを明かした。
その波動が凝集した部分が粒子となり、粒子は組み合わさって物質を形成する。
 
イエスが行ったのはこれだったのだ。ちなみに『創世記』冒頭に期されている「創造」のわざも同様にして理解できる。
 
 
        
 
<資源がなくならない方法>
 
アダム・スミス流の「この地上の方法」も画期的だった。だがこちらでは天然資源が細って行くにつれて、生産物も細っていく。
 
対して、御国がやってきてなす方法では、資源は無限だ。波動だからだ。波動は創造神から全被造界に際限なく放射され続けていてる。


 
<関連するイエスの言葉>

「パンと魚」の出来事の際には、イエスの事件に関連した言葉も記録されている。

上記「マタイ伝」では~

・「あの人たちに何か食べるものをあげなさい」

・「それ(五つのパンと二匹の魚)をここに持ってきなさい」

~がある。

同じ出来事を記録した「ヨハネ伝」には~

・「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」(ヨハネ、6:5)
 
・「人々を座らせなさい」(ヨハネ、6:10)
 
・「余ったパン切れを、一つも無駄に捨てないように集めなさい」(ヨハネ、6:12)

事件に関連した言葉は記憶しやすい。これも人の意識波動体が住まうべき「イエスの言葉群」のなかに入れておくのがいいだろう。




 
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18.イエスの言葉群の中核は「御国」についての教え

2018年11月07日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、臨時で「信じる」の意識波動的な意味を考えた。
「イエスの意識波動体の中に住まう」という考えが出てきたついでに~先のために~考察した。寄り道したが大丈夫、ゴールは「鬱心理を打破する聖書の論理と力」においている。これを焦点としての遠望は保っている。
後のための先取り的な仕事だった。本論に戻って、イエスの夢の言葉の解読を続けよう。

+++

今回は~、
 
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~のうちの「わたしの言葉」だ。

前々回に、(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり」の内の「留まる」の意味を解読した。
それは、イエスの言葉が形成する意識波動体のなかに、自分の意識波動体が「住まう」ことであった。
 
だが、その住まうお家である「イエスの言葉」が具体的に何であるかのイメージがないと、聖句の意味は明確化しない。
今回はそれを解読する。
 
 
 
<言葉は「言葉群」>
 
それにつけ、ここでまず上記の夢の聖句の邦訳文に、若干修正を加える。
筆者が踏まえる英文聖書は、New American Standard Bibleだ。
これは米国内で、最もギリシャ語の原文に即していて、かつ、英文が平明と定評あるベストセラー聖書だ。
 
この聖書を見ると、上記邦訳文の「言葉」は“words”と複数になっている。このニュアンスをも含めて日本語にするとこの語は「言葉群」とでもいうべきだろう。人間(諸君)が超自然事象を得るために住まうべく家は、より正確には「イエスの言葉群」だった。

 
  
 
<言葉群の中核は「天国についての教え」>
 
けれども、ではその「(イエスの)言葉群」とは何か?といわれると、少々困る。
イエスは沢山の言葉を述べている。そのすべてをいきなり相手にしたら収拾が付かなくなる。
やはりまず、中核になる言葉から吟味していくべきだ。
そしてそれは「天国(の性質を持った空間)に関する教え」である。世にイエスの教えの中心は福音(よき知らせ)というが、そのよき知らせは具体的には「天国(という空間)に関する知らせ」なのだ。

+++
 
そのことは、四福音書の最初の書物「マタイによる福音書」に如実に現れている。ここでイエスは「天の御国が近づいた」と宣言して教えを始めている。以後、その天国の説明を中心に、イエスの説教は延々と展開していく。
いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれるようになっている説教も、みな「天の御国」に関する教えだ。
 
だから、マタイ伝では~特に前半に~「天国」の語が繰り返し繰り返し出てくる。もういやというほど、数えたことはないが20回は優に超えているだろう。
このようにしてイエスは天の御国の特性をまず集中的に説明する。
中核は天国に関する教えなのだ。


 
<天国空間が来たら「こうなる」ぞ>
 
そして、その説教のなかでも特にイエスが「天国が来たらこうなる」とズバリ述べた言葉がある。これが中核中の中核だろう。まず吟味すべきは、その言葉だ。
具体的にはそれは、後に人々が「主の祈り(the Lord's Prayer)」とのニックネームをつけた聖句だ。そしてこれが結構くせ者なのだ。だが避けて通れない。
なにはともあれ、この一般的訳文を口語文で示そう。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天にまします我らの父よ。
御名があがめられますように。
御国を来たらせてください。
 
御心の天になるように、地にもなさせてください。
私たちに日常の糧を与えてください。
我々に罪を犯すものを我らが許すように、我らの罪をも許してください。
 
我らを試みに会わせず、悪より救い出してください。
天国と力と栄光はとこしえにあなた様のものだからです。
 
(マタイによる福音書、6章9-13節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 
 
 
これは文字通りに見ると、「お願い」の祈りだ。なのに筆者はいまさっき、これが「天国(の性質を持った空間)が来たらこうなる」と示す言葉、宣言する言葉といった。どうしてそんなこと筆者は言うのか。これについては、若干込み入った解読を示さねばならない。

 
<「主の祈り」の名は付けすぎ>
 
筆者は考える。まずこの聖句につけられたニックネームは放念すべきだ、と。
この「主の祈り」という呼称は、語呂がいいからそう付けたのだろうが、いわゆる「付けすぎ」だ。それはほとんど間違いと言える程に不適切で、妥当な解釈の阻害要因になっている。
これをみたら当初ほとんどの人は、主(イエス)が父なる創造神に祈った言葉と予感するだろう。だが、中身は全然違うのだ。
 
+++
 
これは「諸君の祈りはこうすべきだよ」と「人々にイエスが教えた祈り方」なのだ。これを教える時の状況はこうなっている~。
 
人々は「自分たちは創造神にどう祈ったらいいか」とイエスに尋ねている。
対してイエスは~
 「長々と祈るな。全知の創造神は、諸君が求めていることなど、すべてわかっている。ただ、短くこう祈れ」といって教えている。
そういう、人間に、いってみれば「お前ら、祈るんならこう祈れ」といって発した言葉なのだ。
ゆえにまずそれを知って、誤解を誘うネーミングを放念すべきである。
 
 
 
<お前ら祈るんならこう祈れ>

第二にこれも知らねばならない。
 
上記邦訳文の一つ一つのフレーズの各々は、文字の上では父なる創造神に祈り求めている「願いのことば」になっている。
 
だが、イエスがここで究極的に教えようとしている真意はそうではない。
「天にまします我らの父よ、御国を来たらせたまえ」につづくフレーズの真意は、祈念ではなく宣言だ。
天国の空間(空気、オーラといってもいい)がやってきたら、それは地上の現実に覆い重なって、御国の性質が実現されていく、という宣言なのだ。
 
それを明示するために、まずとにかくそのように訳文を変えてみよう。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天にまします我らの父よ。
御名があがめられますように。
御国を来たらせてください。
 
(御国の空間が来れば)
~御心が天になっているように、地にも実現します。
~①私たちに日常の糧が与えられます。
~②我らの罪は許され、我らも私たちに罪を犯すものを許せるようになります。
~③我らは試みに会わせられることはなく、すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます。
 
天の王国とその力と栄光(パワーも含めた天国空間の波動)は、とこしえにあなた様のものだからそうなるのです。
 
(マタイによる福音書、6章9-13節の真意)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
 ~後の議論がわかりやすくなるために、筆者が①②③と番号を打っている~ 
 
イエスが教えようとした究極的な内容はこれだ。
 
だが、これを語った時点ではまだそれをそのままいうことはできなかった。
イエスがいわゆる「山上の垂訓」でこの「祈り方」を教えたのは、イエスが宣教を開始したばかりの出発時点で、ほとんど第一講なのだ。

+++

この後、イエスは十字架死して罪の代償を作り、復活して天に昇って、聖霊を送る。その聖霊が「天国の力」を超自然的事象でもって証拠する。
 
だがこの説教の時点でイエスは、自分が十字架死して人間の罪の代償を作るという予告もしていない。そういうタイミングで、究極の真意を言っても聴衆は理解できない。
そこで「祈り方」の全フレーズを「お願い」の言葉としてまずは飲み込みやすく教えたのだ。

+++

鹿嶋の深読みとの嘲笑があっても筆者はそう解読する。
「祈り方」の奥義は「天国はこういうところ」という教えであり宣言だと解読する。
 
次回には、その宣言の内容をさらに具体的に追ってみよう。







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17.「信じる」は「意識波動体の内に住まう」こと

2018年11月05日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回の最後に筆者は「波動体は波動体の「内に住まう」ことが出来るから、もうぴったりだ」といった。

このことはイエスの次の言葉の意味を明かしてくれる。(筆者には「ようやっと」わかった、という実感がある)


<父が私におられ・・・>


・・・・・・・・・・・・・
「たとえわたしの言うことが信じられなくても、わざ(イエスの行うしるしと不思議)を信用しなさい。それは、父が私(のなか)におられ、わたしが父(の中)にいることを諸君が悟り、また知るため(のもの)です」
(ヨハネによる福音書、10章38節)
・・・・・・・・・・・・・


括弧がいっぱい付いた聖句になったが、まあ、いいだろう。
このなかの「父が私(のなか)におられ、わたしが父(の中)にいる」がず~と筆者はわからなかった。
だが~量子力学思想のおかげで~いまはこう解読することができる~。

創造神もイエスもその本質は波動体だ。意識を持った意識波動体だ。波動体は波動体の中に住まうことが出来るので、「父なる創造神は御子イエスのなかにいる」ことができ、また、御子も「父の中にいる」ことができるのだ。

(ちなみに、創造神の波動体は、いのちエネルギーを自ら放射する波動体だ。そのエネルギーでもって被造の波動を造り、それを物質に変化させたりする。これが被造物の創造である。・・・そういうイメージだ)



<感覚がつかめない言葉>

さて、今回はこれに関連して聖書のキーワード「信じる」の意味をも明かしておこう。聖書に於いてはこの語は「キーワード中のキーワード」だ。

ところがこの語はよくわからないのだ。これは中国語から借用したらしい語だからだ。

われわれが言葉を感覚的にも理解しようとするには、その語が日本人の生活の中で出来上がってきた過程を追ってみることが必要だ。
だが、「信じる」はそういう出来方をしていないので、われわれにはその感覚がつかめない。いってみればその意味は扁平なままだ。

 

<やっとわかった難解用語>

だが、その意味は前回の考察が示してくれる。「意識波動体が意識波動体の中に浸って住まうこと」がそれだ。職人をめざす弟子が、親方の意識世界に浸り住まう事態・・・これが「信じる」の中身だ。

筆者は以後、このニュアンスで「信じる」を読んでいく。
もし読者がこの方法をフォローされるならば、聖書が一段とハッキリ見えて来るであろう。



 
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