鹿嶋春平太チャーチ

解釈自由原則で聖句を吟味している教会です。YouTube「ヨハネ伝解読」の動画とあわせご覧ください。

「グレース」と「トルース」の波動の中に

2018年06月21日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

もう一つ、わかりにくい聖句を吟味しておこう。
 
・・・・・・・・・・
「諸君がわたしの名によって父に求めることは何でも、父は、私の名によってそれを諸君にお与えになります。
 諸君は今まで、何も私の名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです」
        (ヨハネによる福音書、16章23-24節)
・・・・・・・・・・
 
 
これも「イエスを証言し、しるしで証明する」というイエス最後の遺言の大枠の中でとらえるべき聖句だ。
 
だから欲しいものを何でも無条件に野放図に与えるというのではない。
 
+++
 
だが、それでも夢の聖句だ。
 
またこの特権は弟子たちだけに与えられるのでないだろう。
 
後にイエスを証言する人々にも与えられると解するのが道理だろう。
 
+++
 
だけど実際には、そんなことおきてないよね。
 
証言者がイエスの名によって求めても、超自然的な事象があらわれることはほとんど観察されてない。
 
だから、これも解読がいるのだ。
 
 
 
 
 
<イエスの名の信号に伴う波動ワールドの中で>
 
 
まず、「私(イエス)の名によって」は誤訳だ。
 
前述したように、これは「イエスの名の信号(シニファン)に伴う波動ワールドの中で」が正しい訳だ。
 
そのこともまた、ヨハネ15:7の解読知識を援用してわかることである。
 
見返すと信号(シニファン)「イエスの名」の意味内容(シニフィエ)は盛り沢山だ。
 
「創造神イエス)の(意識)波動ワールドの中に住み、その意識波動に証言者の波動が共振・共鳴し、彼の意識の中に創造神波動ワールドが内住した状態」というのがその正確な内容だ。
 
だが、「創造神の意識波動ワールド」というもの、まだ、漠然としている。
 
今回は、それをもっと具体的に吟味してみよう。
 
 
 
 
<七つの意識波動構成要素>
 
創造神の波動ワールドを構成する意識波動体を具体的に考えてみる。
 
わたし、鹿嶋が聖書を吟味して触れてきた様々な波動体のうち、とりあえず代表として次の七つをあげてみる。
 
その波動たちは~、
 
①グレースの愛(与えるだけの無償の愛)、
 
②トルース(真理:変わらざる知識)
 
③平安に満ちた静けさ(英語のcalmが相当する)
 
④健康(悪いところすべてが新創造された完全な健康)
 
⑤富裕(魚とパンを次々に創出した力による豊かさ)
 
⑥復活(死んでも生き返る力)
 
⑦永遠のいのち(客体に留まり続けるいのちエネルギー)
 
~といった波動たちだ。
 
+++
 
少し説明がいる。
 
まず①グレースと ②トルースについて~
 
これはヨハネによる福音書の1章17節から採っている。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしたちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、グレースの上にさらにグレースを受けたのである。
・・・・(中略)・・・グレースとトルースはイエス・キリストによって実現したからである」
   (ヨハネによる福音書、1章17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


二つの語は、邦訳聖書では、①恵み ②まこと・・と訳されている。
 
 
 
<グレース>
 
どちらも日本語にはない概念だった。
 
で、邦訳聖書作成者のヘボン先生(ヘボン式ローマ字の)は苦心された。
 
結局、グレースを「恩愛」と訳され「めぐみ」との読み仮名を付された。
 
だが、意味はよくわからない。
 
それで、戦後、口語訳にしようという際に(ヘボン先生の訳文は文語文)、「もうどうせわからないのなら・・・」と「恵み」にされた。
 
これがグレースだ。
 
 
 
 
<トルース>
 
トルースの意味を表す言葉も日本語にはなかった。
 
(時が流れても永遠に)「変わらない知識」という思想は日本人にはなかった。
 
理念がなければ、それを示す用語も産まれない。
 
ヘボン先生はやむなく「真理」(言語上は「まことの理論知識」という意味)をつくってそれにあてられた。
 
でも、やはりこれもモヤモヤしている。
 
そして、結局、日本人には「もやもや」した状態できているがそれでは駄目なのだ。
 
そこで、わたしは、もう、英語の発音をそのまま日本語にして「グレース」「トルース」としたのだよ。

 
 
 

<生来もちあわせなかった波動体の中に住む>


どちらも、もともとは産まれたままの人間の意識にはなかった、意識波動体だ。
 
(西欧にそれがあるのは、聖書の理念をいち早く取り入れたからに過ぎない)
 
つまり、創造神のみから出た意識波動体だ。
 
わたしは、それを創造神の波動耐候性要素として、まず、最初に受け止めている。

 
 
 
 

<共振がなると「神」ができる>

そして人の意識がその中に住まわっていると、自らの意識もそれに共鳴し始め、結果的に、それらと同じ意識波動が自らの内に形成される。
 
神は波動で構成されているので、共鳴した意識体は創造神でもある。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・『私は言った。あなた方は神である』と書いてあるではありませんか。
もし、神の言葉を受けた人々を神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、
『私は神の子である』と私が言ったからといって・・・」
         (ヨハネによる福音書、10章34-35)
・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
~というイエスの言葉は、それを言っている。
  (少し難しかったかも知れないが)
 
 
こうして、自分の内に創造神の意識波動体が形成されることを、エペソ書ではこういっている。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「このキリストの中で、あなたがたもともに建てられ、御霊によって創造神の住まいとなるのです」
          (エペソ人への手紙、2章22節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
  
 
  (こういう論理は量子論(存在波動論)があって初めて明確に理解できる)
 
 
そして、こうなると、自分が希望する事柄は、その創造神が出動することによって、超自然事象として実現される~という論理だ。
 
+++
 
だから、人はイエスの名に伴走する波動ワールドの中に、住まっていればいいのだ。
 
(ちなみにそうすれば、うつ病にもかからないし、かかっていても回復する。この波動の中に住まっていれば、心が喜びに満ちあふれるからだ)
 
そして黙想していればいい。
 
あとは、オートマチックにことはなっていく。
 
望むことも超自然的に実現される。
 
 
+++
 
そういう論理体系になっている。
    (これは福音(よきしらせ)の中核でもある)
  
③ 以下の意識波動体は、次回にするね。
 
 
今回はここまでにしよう。

 

 

 

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56.「ヨハネ15:7」は不明な聖句も明かす

2018年06月11日 | 安全なキリスト教の学び方
 

 


ヨハネ福音書15章7節を時間をかけて解読してきたね。

この解読は、他の難解聖句を解明するのにも役立ってくれるよ。

+++

聖書の中には、重要そうだが「ほとんど意味不明」という聖句がいくつかある。

それを解読するのに、とても助けになるのだ。




<信じる者にはしるしが伴う?>


例えば次の聖句(イエスの言葉)を見てごらん。
 
「・・・」は(中略)を示すよ。 
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。・・・・・・
・・・信じる人々には次のようなしるしが伴います。
すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、・・・・・・・病人に手を置けば病人は癒やされます」
    (マルコによる福音書、16章15-18節)
・・・・・・・・・・・・・


これ、凄い約束だろ?

だけど、福音を宣べ伝える人に、現実にこういうこと起きてる?

教会には「信者さん」はたくさんいるよ。

でも、そんな力は現れてないよ。

+++

牧師さんだってそうだ。

「うちの教会の牧師さん、そんな力ないよ。祈ってはくれるけどね」

~という教会員が日本ではほとんどだ。

で、牧師さんは説教でも、このマルコ16:15はパスしてやっている。

それが習慣になって、この聖句はないものとして扱うようになっている。

つまり、無視している。

それでいて「みなさん、聖書は神様の言葉ですよ! 疑わないでみな信じなさい!」

~などとニッポンの牧師さんは説教してるもんね。

そんなことしてる教会に、人々が留まると思う?

留まるのは、「あまり考えない」人たちだけだ。

だから、日本の教会は、概してみな、小さいんだよ。



 
<「最後の遺言」を追うところから始まった>

では、この聖句を解読してみよう。

まず、このところの一連の話は、イエスの「最後の遺言」とでもいうべき言葉の意味解明から始まったことを思い出そう。

遺言聖句はこれだったね~。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖霊が諸君(イエスを信じる人々)に臨むとき、諸君は力を受けます。
そして・・・(中略)・・・地の果てまでの、私の証人となります」
           (『使徒行伝』1章8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
この意味内容を解明する最大の手がかりとして、鹿嶋はヨハネ15:7に目を付け、その解読を試みたんだね。

この聖句ももう一度掲げておこう~。

・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。
それはかなえられます。
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

<同じ信号を繰り返し受信すると人の感覚は麻痺する>

上記マルコ16:15-18の意味内容(シニフィエ)も、このヨハネ15:7と同じだと考えられるんだ。

なのにイエスが別の表現をするには理由がある。

同じ言語信号を繰り返すと、その信号に人間の感覚は麻痺する。

つまり飽きる。

飽きて、その意味内容に思いを至らせる意欲が湧かなくなる。

だからイエスは色んな表現で、本質を語るのだ。




<対応する一対を取り出す>

そこで、その同じ内容に対応していそうな聖句をマルコ16:15と、ヨハネ15:7の聖句から各々取り出してみる。

一対はこうなりそうだ~。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の名によって悪霊を追い出し、・・・(中略)・・・・・病人に手を置けば病人は癒やされます」
    (マルコによる福音書、16章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
・・・・・・・・・・・・・・・・
欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます」
     (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・

この二つはどちらも~

・・・・・・・・・・・・・・
私(イエス)の証人(超自然的なしるしで証拠する人)となります」
   (『使徒行伝』1章8節)
・・・・・・・・・・・・・・

~の具体的な様態をいっているペアーだ。

 
 
 
<残りの一対も見る>

では他のペアーは?

残るは、もう一対だけで、それらは上記超自然事象を実現する方法をいっている。

それを示す信号は、マルコ伝では~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「信じる者には次のしるしが伴います」
     (マルコによる福音書、16章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~の「信じる」だ。

他方、ヨハネ伝ではこれだ~

・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、」
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この聖句の内容を、わたしは長々と解読したのだったね。

だから、解読内容はもっと長く、豊富なものとなったよね。

それらの豊富な内容を示す信号に対応する、マルコ伝での信号はたったの一言「信じる」だけだ。

これではマルコ伝聖句がわからんのは当然だよね。

 
 
 
<「信じる」は砕きにくい言葉>

この「信じる」という言葉は短い一言であるだけではない。

一般的に言って、そもそもその内容がわかりにくい言葉なのだよ。

なぜなら「わかる」ためには、その語の意味を日常語に砕いてみねばならない。

だがこれは漢語から直接そのままきている語なので、日本で出来たことばのように、意味を砕いてみることが困難なのだ。

+++

我が国ではこの「信じる」という言葉は、通常「この幼稚園、小学校が子どもにいいと信じる」「この薬は効くと信じる」のような風に用いられている。

つまり、何かの客体を対象として、「いいと思う」程度の意味で用いられている。

+++

だが日本語の聖書で「信じる」と訳されている語の英語は 「believe in 」だ。

  「in」は「中に」だ。

でも「中に信じる」では、意味をなさないだろ?

「信じる」ならbelieveだけでいいじゃないか?

なぜ、in がついているのだ~となる。

やはりこれを「信じる」と訳すことそれ自体に無理があるのだ。

+++

日本語聖書の邦訳者ヘボン先生は、ここでも苦労された。

そして blieve in には他に適切な語がなかったので、「信じる」を邦訳語として使われた。

やむを得なかったことではあったのだが、その結果、この「信じる」という語は聖書に出てくる毎に、よくわからん言葉になっているのだ。


    


<イエスの波動ワールドに住まうのが「信じる」>

そのことがこのマルコ伝での「信じる」にもあらわれている。

もうこれはヨハネ15:7を援用して考えるしかない。

やってみよう。

+++

この「信じる」は、ヨハネ15:7の「「諸君が私(の言葉)に留まり(住まい)、私の言葉が諸君の内に留まる」に対応していたよね。

そしてそのヨハネ伝聖句の意味は~

「イエス(の言葉)という信号に伴う(意味内容である)波動ワールドの中に住まわり、かつ、そのワールドが自分の中にも内住すること」~だった。

これを「信じる」の「ヨハネ伝的」意味内容とする。

(以後、聖書の中の「信じる」は「その波動ワールドに住む」と解するのがいい)

そしてこれを援用すると、懸案の上記マルコ伝聖句はこうなる~。


・・・・・・・・・・・・・・・・
「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。・・・(中略)・・・
私(の言葉)の中に意識が住まい、かつ、その意識の中に私の言葉が住まわった者には、次のようなしるしが伴います。
すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、・・・(中略)・・・・・病人に手を置けば病人は癒やされます」
    (マルコによる福音書、16章15-18節)
・・・・・・・・・・・・・


こうなると、マルコ伝、16:15-18の聖句はリアルな内容を伴って我々の前に浮上する。

信徒、牧師さんたちにも(そして鹿嶋にも)この意識状態が成立していたら、宣べ伝えた福音を証明する「しるし」は現れるはず、~となる。

当面現れてないのは、この状態が完成していないから、というだけのことだ~となる。


今回はここまでにしておこう。






 
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55.内なる創造神が出動して証拠する

2018年06月08日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

りんたろうくん。

ビッグ聖句の解読、続行するよ。

今回は、いよいよ夢のフレーズ「欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます」だ。

全体の聖句はこれだったね。

・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




<ここで決めてやる!>


「望むことはななえられる」という聖句に焦点を合わせよう。

これはもう言葉通りで、敢えて吟味する必要ない、と人は思いがちだ。

だがそうでもない。

そのままでは、人は張り切って自分で事をなそうとするのだ。

 

だがそれでは超自然の奇跡は起きない。

人間(の意識体)にそんな力はないからだ。


+++

では、「創造神に内住されている自分」を意識してやったらどうか。

オレには創造神がいるのだから「ここで一発決めてやる!」と攻める。

燃え上がってイエスの名で命じたりする。
 
だがそれでも、超自然事象はおきない。

この状態でもまだ、「自分という意識体」を働かせようとしているからだ。

 
 

<滑り込んだ創造神に出動願う>

こういう「自分」を取り除いてしまったら残るは「うちに住まわっておられる創造神」だけ、となる。

もうこの方に出動を願うしか手がなくなる。

そこで、自分は何もしないで、この方に軛(くびき)を負ってもらう。

「私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイによる福音書、11章30節)の波動ワールドに安住して、負ってもらう。

+++

創造神は巨大なる天国、その中の一部である宇宙~これらを含めて何から何まで言葉創造した、巨大な力の持ち主だ。

全エネルギーの発生源だ。

この方ならば超自然事象を実現できる。

これに100パーセントゆだねる。

いっせつ手を出さない。





<言葉が留まれば、あとは私がする>

「・・・私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます」というのだから。

「留まったら、次にこれこれをしなさい」とは全く言っていない。

というのは、後は「求めたように実現される」ということだ。

だから、自分は何もする必要がない。

自分はこの聖句波動世界に安住していればいいのだ。

(実際上それは、「自分の内に創造神が住まわっておられる」という実在感が濃厚にあって可能になるものなのだが)

さすれば創造神は、自ら出動して超自然事象を証言に伴わせてくださる。

+++


~以上が「ヨハネ15:7」のビッグ聖句の私の解読だ。

現時点での鹿嶋解読。

今回はここまでにしよう。





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54.最悪感には「血の代償」の実在感で

2018年06月07日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

前回、量子論のおかげで、ヨハネ15:7の「「諸君(弟子たち)が私イエス)の内に留まり、かつ、私が諸君の内に留まる」という聖句を物理的にイメージできるようになった~ことをみてきた。

だが、それでもこの聖句は「我々が意識に留める」には実際上難しいところがある。

今回は、その「実践上の障壁」を取り除く方策を考えておこう。

+++

「創造神が我々の内に入る」ときくと我々の心には恐れ生じるのだ。


これ、クリスチャンも例外でないよ。

・聖なる創造神様が、こんな私の(霊の)内に入って住まわれるなんて」、そんな恐れ多いことが起きるはずがない!

・私はこれまでの人生で、自分の汚れを沢山認知してきている。

・私の良心が、それを体験してきている

・「神様が内住して下さっている」なんて、「平気で」言ってる人は神を恐れぬ傲慢な人間だ・・・。


~こう反射的に思って、人はフリーズする。

顔も身体も萎縮して固まってしまって、イエスのこの言葉を考えるのをやめてしまう。

その結果、この聖句は放念してしまったりもする。
 
 
 

 

<自然の情には聖句で対処する>

これは生きとし生きるものが抱く、自然の情だ。

でも、この壁を崩さないと「夢の果実」には至れない。

どうしたらいいか?

産まれながらの情に対処するには、やはり、聖句でもって対応するしかない。

+++

まず、思考を小休止する。

そして黙想し、聖句の波動を聞く。

すると、事態を打開する聖句が浮上してくるだろう。

有用な一つは、次の聖句(イエスの言葉)だ。

・・・・・・・・・・・・・・
「これは契約の血です。罪を許すため、多くの人のために流されるものです」
    (マタイによる福音書、26章28節)
・・・・・・・・・・・・・・

 



<「イエスの十字架で許された」はアバウトな認識>


聖書は「私のような汚れたものに・・・」という「汚れ」の源は、「罪」だとしている。

罪があるから汚れが生じている。

そしてその罪を相殺するのは「イエスの十字架」とか「十字架死」だとか漠然と思っている人は多い。

だがそれはアバウトな認識だ。

Sサイズの人に、Lサイズの洋服をあてがうような認識で、間違いではないが、いいかげんなところがある。

上記聖句は、罪を許すのは「イエスの血」だとズバリ言っている。


 
 


<ピンポイントは「血」>


これは、イエスが十字架死をする前に受ける拷問の際に流す血だ。

大量の血が流れ出る。

十字架に釘付けされるときも、兵士が槍でイエスの脇腹を刺すときにも、イエスの血は噴き出す。

これらの血が、ずばり「信じる者の罪を洗い流す実体」というのが聖書の正確な論理なのだ。


 
 
 

<旧約聖書との照応>

そのことは旧約聖書と照応させると浮上してくる。

旧約では、エホバ神が~モーセを通して~イスラエルの民にこう命じている~。


~(幕屋(神殿の前身)には、聖職者が罪の赦しを祈る聖所がある。

その奥に至聖所があって、そこは究極の祈りの場所である。

そこには毎年、選ばれた一人の祭司が入ることが出来る。

その祭司はそこで、屠ほふ)られた動物(若い雄牛や子羊)の血をで七度降りそそげ)~と。


・・・・・・・・・・・・・
「・・・会衆の長老たちは、エホバ神の前でその雄牛の頭の上に手を置き、その雄牛をエホバ神の前でほふりなさい。
油注がれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持って入り、祭司は指を血の中に浸して、エホバ神の前、垂れ幕の前に、七たび振りかけなさい。・・・・」
   『レビ記』4章15-17節
・・・・・・・・・・・・・


~といった如くに。

この血が、直前の一年間にわたる、民が犯してきた罪の贖い(代償)になるというのである。


 




<影と本物>
 


旧約聖書に書かれていることは、新約聖書に書かれている真理の影である。

これは聖書の鉄則だ。
 
今みたように旧約聖書では、殺される動物(子羊など)の血が、罪の代償として振りかけられている。

それが本物であるイエスの影のだとすると、本物の生け贄はイエスであり、罪の代償はその血だということになる。

+++

ちなみに、これは次のような論理にも繋がっていく~。
 
すなわち、旧約における動物はイエスの影だから、その血は、毎年流されねばならない。
 
だがイエスは本物だから、その血は一度流されたら永遠に有効となる。
 
このようにイエスの血は永遠の贖いの力を持つ、と。
 
~聖書全体では、そういう論理構造になっている。

 
 
 
 

<物理的イメージは>
 
 
これには、次のような論理も繋がっている。
 
~旧約聖書には「血はいのち」とある。(『申命記』12章23節)

そしてイエスの血は「いのち(エネルギー波動)の凝集体」だ。

イエスのその "いのち”は、宇宙を含む被造物のすべてを存在たらしめた、巨大なエネルギーでもある。


+++

他方、人間の罪は、「いのち」概念を用いて言えば、「マイナスのいのちエネルギー体」だ。

人間は宇宙からしたら塵にも及ばないサイズの存在だ。

その塵以下の内にある「マイナスのいのちエネルギー」など量的には微々たるものだ。

それは、創造神の御子イエスの巨大な「プラスのいのちエネルギー」にあたれば
ロウソクの火が吹き消されるように消滅する。

当人が、後悔してもしきれないと悩み苦しむ罪も、この巨大なエネルギーによればあとかたなく洗い流されることになる~と
 
 
 
 
 
<傍証する聖句たち>


・・・聖書には、それらを傍証する聖句もある。

・「人の子」として地上に現れた創造神の御子イエス。

・その十字架死までの生涯と死のありさま。

・復活し500人の前に現れた、という記録。

・福音の宣教命令とそれに伴うしるし(奇跡)。

・イエスの昇天の様

     ~などなど。

+++

これらが形成する意識波動群は、人間の人生経験のなかで蓄積された罪悪感と当初は~当人の心の中で~激しい戦いを繰り広げるだろう。

だが結局は聖句にある力が勝る。

その波動が罪悪感の波動を凌駕していく。

「自分はイエスの血で完全に聖められている」という確信が心の中に満ちるだろう。

そのとき、創造神(のことば)が「自分の内に住まわれる」という理念への恐れは消滅する。

それに併行して、「私の言葉が諸君の内に入って住まう」というイエスのことばは、人間の平安な心のうちに内住していくだろう。


今回は、ここまでにしよう。


 








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53.言葉が「包み」かつ「内に入る」とは?

2018年06月03日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

今回は~

「私(イエス)のことばが諸君の内に留まる」だ。

聖句では「留まれば」となっているが、ともあれこの「言葉が(諸君の)内に留まる」という事態について、吟味しておく。

全体の聖句はこれだったね~。


・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
    (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 






<「もやもや」のままで>

ここでは「諸君が私の内に留まり、かつ、私が諸君の内に留まる」といっている。

これってわからんよね。

この思想はわれわれの日常感覚では、わからない。

なのに、そのままで、キリスト教会はやってきた。

そういう、「もやもや」を含めながらやってきてることは、「キリスト教はわからん・・・」という印象を一層強めている。





<波動体は弾力的>

これは従来の物理学を援用しても、物質的にイメージすることが困難だ。

ニュートン物理学でも、アインシュタイン物理学でも、「物質」は、粒子(つぶつぶのもの)が組み合わさってできていると考えられたからね。

その大きさは固定的なんだ。

+++

ところが量子力学(量子論)はこれを物理的にイメージできるようにしてくれた。

量子論は物質の根源が「波動」であることを見出した。

すると物質は波動の凝集体であることになる。

(量子論学者には「波束(波の束)」などと呼ぶ人もいるようだ)

+++

すると、物質を構成する波動たちの凝集の度合いは大きくなったり、小さくなったりすると考えられる。

それにつれて、凝集体は小さくなったり、大きくなったりする。

凝集体(物質)は弾力的なのだね。

であれば、(大きくなって)他の波動体を包含したり、(小さくなって)その波動体の中に住まわったりすることも出来るはずだ。

つまり、互いに「相手を含み、かつ、相手の中にいる」ことができることになる。




<創造神も様態は「波動の凝集体」>
 

弟子たち(諸君)の意識も波動の凝集体だ。

他方、創造神も意識体であって、その様態は人間と同じく、波動の凝集体と考えられる。

もちろん、被造物と違って、みずから波動を放射することのできる意識体だろう。

だが、創造神イエスもまたその様態は波動の凝集体だ。

だから、「諸君が私の内に住まい」かつ「私が諸君の内に住まう」ということも可能になるはずだ。



 
 
 
<繰り返し出てくる表現>
 

こういうたぐいの表現(思想)は、新約聖書に何度も何度も出てくる。

イエスの「父が私におられ、私が父にいる」(ヨハネによる福音書、10章38節)もそうだ。
 
量子論のおかげで我々はそれを、物理的にイメージできるようになったのだ。


今回はここまでにしよう。

 

 

 

 

 

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