鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.92『「私は行かない」は偽りか?』(7章)

2005年10月28日 | ヨハネ伝解読

                              


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=聖句=
 「そこでイエスは兄弟たちにいわれた『わたしの時はまだきていない。しかし、あなた方の時はいつも備わっている。・・・・(中略)』・・・あなたがたこそ祭りに行きなさい。わたしはこの祭りには行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」(7章6~8節)
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 仮庵の祭りのシーズンがきました。弟たちは「仮庵(かりいお)の祭りにエルサレムにいきなさいよ」と勧めました。対して、イエスは「行かない」と答えています。ところが、弟たちが出かけた後で、ひそかに出かけています。ここには、ああそうか、というだけでは済まないところが鹿嶋にとってはあります。

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 以前、鹿嶋は、創主には出来ないことがある、と書きました。それは偽ることである、と。イエスは創主の子です。自分は、父なる創造主の語るところを受けて語っている、と言っています。イエスの言葉は創主の言葉なのです。

 創主は他のことには万能ですが、偽ることは出来ません、創主の言葉には、偽りはありませんーーーと、言いましたが、ここではそれに反しているように見えるのです。

 「行かない」といっておいて、
     行っている。

 これは一体どういうことでしょうか。イエスは、その場の都合で、弟たちにうそを言っているのでしょうか。

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 そうだったら、まずいですね。
 ここは、イエスが弟たちに言った言葉を、詳細に検討したいですね。イエスはこの時、まず、

 「私の時はまだ来ていない。だが、あなた達の時はいつも満ちている。世はあなた達を憎むことが出来ないけれども、私については憎んでいる。私が、世の行いを悪いというからだ」(6-7節)

              ~~と言っています。

 イエスが「世の行いを悪い」というのは、「世は基本的に悪魔にリードされているところ」というイエスの見方が背景になっています。イエスは悪魔のことを「世の君(君主)」とも言っています。だから、世は基本的に悪なのです。従って、「世の行いは、悪い」と言うことになるわけです。

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 そんなこと言わなければいいのに、「みなさんは立派だよ・・」とか何とか言っておいて、自分の目的とするところに誘導すればいいのに、ホントに正直すぎるよ、イエスは・・・。そう言いたいほど正直です。偽りを交えてうまく持っていくということが全くない。そういうイエスです。偽りが言えるはずがありません。

 ここでは、「私が世の行いは悪いというから、世は私を憎んでいる」ということが、「私の時がまだ来ていない」ことの理由になっているのではないでしょうか。しかし、ここは例によってまた、話が少し飛躍しています。中間項を埋めなければなりません。

中間項は、「だから、今私が行くには、殺される危険がある」ということです。7章の冒頭で、ヨハネはそのことを記しています。「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、イエスはユダヤ地方を巡回しようとはされなかった」がそれです(1節)。

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 ユダヤ教の高僧たちは、すでに、イエスを殺そうとしていたのです。殺しも出来る諜報員を派遣していたのです。弟たちがエルサレム行きを勧めたその時点ですでにそうだった。だから、イエスはガリラヤ地域のみを巡回して教えていたのです。そういう状況でしたから、イエスは「私の時はまだ来ていない」と言ったわけです。  

 これを理解した上で、イエスの断りの言葉を眺めてみましょう。イエスは単に行かないと言っているだけではありません。それに「私の時はまだ満ちていないから」という理由をつけています。それは「時が満ちれば行く」という余地を残した言葉と理解できないでしょうか。道中、ひそかに安全に行かれるように時が満ちるまでは行かない、という意味でもあると。

 すると、後にイエスがエルサレムに向けて発ったとしても、殺される危険がなくなったならば、自分の言葉の通りに行動したことになるでしょう。つまりここでもイエスの言葉には偽りはなかった、となります。

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 「兄弟たちが祭りに行った後で、イエスも人目に立たぬように、ひそかに行かれた」とヨハネは記しています(10節)。そして、祭りの期間が半分ほど経過したところのエルサレム神殿に出現し、説教をし始めたとあります(14節)。

 これから推察するところ、ユダヤ教側の諜報員たちは、途中の行路でイエスを殺そうとしていたのではないでしょうか。エルサレムの神殿では、公然と広場で説教しているのに、とらえることも出来なかった。それは、多くの群衆の目の前だからです。

 イエスはすでに、大変な人気でした。彼が王となってユダヤの独立王国を再建してくれるのではないかという期待を持つ人々も多かった。これを正当な理由もなくとらえて殺害することは、群衆が許さなかったのでしょう。ユダヤ教の高僧側としては旅路の途中にひそかに殺害するしかなかったわけです。

 ガリラヤからユダヤにいたる行路には、ユダヤ教団が派遣した殺し屋工作員たちが待ち伏せていた。ところがガリラヤの人々がエルサレムに向けて発った3日4日後も、イエスと弟子たちは動こうとしない。

 殺し屋たちは、今回は来ないと見て、その旨いち早く報告すべくエルサレムに帰ろうとしたのではないでしょうか。その時、イエスは、時が満ちたと判断した。それらの動きをイエスは透視できたのではないでしょうか。そして、ひそかにエルサレムに向かったということになると、筋は通ってきます。



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