聖句主義者たちが人類史に成し遂げたことは、政治面だけを見ても驚異的である。
彼らは、表社会から圧迫される中で、独立革命を仕掛け、憲法設立を誘導し、そこに信教自由・言論自由の原則を挿入させた。
一体バイブリシストたちはどうしてこのような離れ業ができたか?
それはひとえに聖句という素材を選び、その吟味を自由小グループでし続けてきたことによる。
まず、聖句という素材の特性からみよう。
<想像力拡大効果>
聖句という素材は、イメージを巡らすべき対象範囲が驚異的に広い。
まず空間範囲を見よう。
その論及世界は霊界にまで及んでいる。
つまり、「物質界」と「霊界」の両方にわたる物語が事実として展開されている。
霊界とは見えない世界の総称である。だから両者を会わせた空間は人間が考えうる極大の空間範囲だ。
次に時間的カバー範囲をみよう。
聖句での物語の展開時間範囲は、無限の過去から無限の未来にまで及んでいる。
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聖書は「万物の創造神」が存在するとしている・・・この前提が聖書の広大な論及範囲を作り出している。
創造神に存在のはじめがあるならば、この方はそれ以前のものに対しては「オレが造った」とは言いがたいだろう。
だから、「万物の」創造神であるには、それは永遠無限の過去から存在してなければならない。
こう推論できるだけでなく、実際そのことを示す聖句も、聖書の中には収録されている。
同様なことは未来についても言える。
万物の創造神が、未来のある時点で存在しなくなるならば、彼はそれ以後のもについて「オレが造った」と言えない。
だから永遠無限の未来にまで存在することになるのだ。
このように、極限にまで広がった時間空間的舞台の中で聖書の物語は展開している。
<「旧約聖書」の物語世界>
今少し、具体的に見よう。
聖書は旧約聖書の部と新約聖書の部の二部からなっている。
「旧約聖書」の部は、預言者と呼ばれる超霊感者による、万物の創造神からのメッセージ受信記録集ということになっている。
(ところでこうしたことが事実かどうかは「経験科学的には」肯定も出来ないし、否定も出来ない。
だが、読み続ける人は実際上「事実」と期待して読む。
ここでは、その人々の立場にたって、「・・・ということになっている」といちいち言わないで、おおむね「・・・である」と記すことにする。
特に必要な場合には、「ということになっている」と記すことにする)
<モーセの著書>
最初の預言者著者はモーセである。旧約聖書の最初の5冊は彼が書いたとされていて、「モーセ五書」と呼ばれている。
彼が受信したメッセージは「彼の時代とそれ以前の昔」の歴史事項となっている。
特に、彼自身が生まれる前の出来事に関するメッセージを受信していることが、他の預言者にないユニークな点である。
その論及範囲は、この宇宙が創造され、そのなかにわれわれの住む地上世界が創造される様にまで及んでいる。
地上では、空、海、陸が創造され、そこに、植物、動物が創造され、人間もまた創造される様が記述されている。
また彼はイスラエル人の始祖であるアブラハムについても記しているが、この始祖は彼より500年も前に生まれた人である。
モーセは今から3500年前に生まれ、アブラハムは4000年前に生まれている。
(無限空間の中に、宇宙以前に天の創造主王国が創造される様は、他の預言者の受信メッセージの中に、奥義としてちりばめられている。
このように聖書全体としては、記述された事柄は無限の過去に及んでいる)
<モーセ後の預言者と「新約聖書」>
対照的にモーセ後の預言者は、将来の事柄に関するメッセージを受信している。
さらに新約聖書の『黙示録』では、被造界の終焉までの様に加えて、それ以後永遠に続く霊界(天国)の様子まで記されている。
だから聖書全体では、無限の過去から無限の未来にまでにわたって物語が展開されていることになる。
政治見識の育成には、個人の等身大世界を超えた空間に思いをはせられる能力の形成が必須である。
聖書の持つこの物語範囲は、人の想像世界を比類なく拡大する力を秘めている。
(素材特性の話は続く)