鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「信教自由」原則の本質

2022年12月24日 | 永続確信のための聖書解読
 
 復活のイエスをどのようにしてリアルに認識できるか、の考察中だが、臨時で一つ述べたいことがある。
いわゆる「信教自由」原則の内容に関する知識だ。
 
 この原則は、そもそもは米国憲法に記された条項で、それが第二次大戦後、韓国や台湾、日本にも導入されたものだ。だが、米国憲法にあるこの原則は、単純でない成立由来をもっていて、それを知らないとその内容が理解できず、実用することも出来ない、というしろものである。 
 
<聖句吟味活動に由来>
 
 それは実際の聖句吟味活動をベースにしてできあがっている。 
「聖句主義(バイブリシズム)」というこの活動は、聖句を最終権威としている。であれば、あらゆる解釈は最終権威を持たなくなる。そこから「あらゆる解釈を自由にする」という聖書認識のやりかたがでてくる。
 
<スモールグループが中核組織>
 
 この活動では、まず教会員個々人が自由に聖句解釈をする。その後、その結果を持って、日曜日に自己の属するスモールグループ(数人で構成する)に集まってくる。
 ここでの聖句自由吟味会が、教会活動の中核的役割を果たしている。いまも米国南部で多数存在する聖句主義教会は、このための小部屋をたくさんもっている。
 小グループでは、あらゆる聖書解釈を持った参加希望者を、基本的には受け入れる。
 
<基本解釈を異にしたら機能しない>
 
 だが聖句解読にも基本的なところと、その上に立った細部の領域とがある。そして「実際には」基本的なところで解釈が異なる人々が、ともにスモールグループ活動をすることは不可能だ。
 
 たとえば、聖書におけるイエスの十字架死の効能(贖罪効果)は、聖書と福音における論理体系の基本的な結節点をなしている。
 これを否定したら、聖書全体の論理体系が成り立たなくなってしまう。だからこれについて見解を異にする人々で構成された、小グループ活動は実際上機能しない。
  たとえば「イエスの十字架死は、人間の罪を完全には代償しない」などという見解を持った人との相互吟味活動は、実際上機能しない。
  
<否定はしないで>
 
 そこで、こういう見解の人が参加を希望してくると、グループリーダーは次のように対応する~。
 まず彼の解釈を否定することはしない。そのうえで、「同じ立場のグループを探してそこに参加してくれ」という。
  あるいは、そういうグループを結成して聖句吟味活動をするならば、そのためのルームは提供する、と言う。上記のように教会には、スモールグループ用の小部屋が沢山あるのだ。
 
<「何でも自由」ではない>
 
 米国憲法における「信教自由原則」はそういう前提でできた法律だ。イエスの十字架死の贖罪効果を容認するのも、その基本前提の一つだ。
  米国の「信教自由」は、「何でも自由」という原則ではなく、条件付きの自由なのである。
 
+++
 
 日本人はこれに無知だから、旧統一教会への法制づくりになると、だれかが「これは信教自由との関係で慎重に」というと、もう動けなくなる。委員会メンバーも、議員たちも、立ち往生する。なんとも歯がゆい状態だが、無知だからどうしてあげることもできない。
 
<複数教理の比較が大前提>
 
 聖句主義活動は、「複数の解釈を」自由に比較できる状況で行われる。
解釈は教理(教義)でもあるから、複数教理を比較吟味する状況が、信教自由の大前提だ。
 
 ところが、旧統一教会の宣教は、その前提を満たしていない。自分たちの教義だけを、ビデオを通して繰り返し見せて、その間、事実上、半監禁状態だ。
 こんな宣教は、信教自由原則とほど遠い。それを行う教団には、信教自由を要求する資格が、そもそもないのだ。
 
 
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日曜日未明から墓前に

2022年12月01日 | 永続確信のための聖書解読

 

イエスが十字架上で息を引き取ったのが金曜日。
土曜日はユダヤ人には絶対に安息していなければならない安息日だ。
 
日曜日にやっと動けるようになったマグダラのマリアは、早朝まだ暗い内に、イエスの墓前に立った。
イエスの遺体の少しでも近くにいたかったのだろう。
 
ところが、山の裾野に横穴のように彫られた墓の入り口で、中を塞いでいた石は転がされていた。
驚いたマリアは、弟子たちがいた部屋に向けて走った。
 
 
<弟子たちは閉じこもっていた>
 
この時点では一般人にとって、イエスは極刑に処せられた極悪人だった。
生前多くの奇跡をなしたようだが、やはり、罪のため捕らえられ処刑された犯罪人というのが人々の認識だ。
 
当時のイスラエルは律法をベースにした「ユダヤ教一色」の社会だ。
イエスの弟子と見れば、石を投げつけたり、殴りかかる人はいるだろう。
 
11弟子は危険を避けるために、部屋を閉め切って閉じこもっていた。
 
+++
 
マリアは弟子たちの部屋の扉をたたいて、墓石が転がされ入り口が開いていることを告げた。
ペテロとヨハネは、墓に走った。
 
マリアのいうとおりだったことを見て、また、部屋に戻った。
 
 
@@@
 
以下、正確な追体験のために「ヨハネの福音書」をそのまま引用しよう~。
 
 
<墓前に立って泣き続けていた>
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、マリアは墓前に留まり、泣いていた。
泣きながら身体をかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、二人のみ使い(天使)が、イエスの身体が置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、
一人は足のところに、白い衣をまとって座っているのが見えた。
 
み使いは彼女にいった。
「なぜ泣いているのですか」
彼女はいった。「だれか私の主をとって行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
彼女はこう言ってから、後ろを振り向いた。
するとイエスが立っておられるのを見た。
しかし、イエスであることがわからなかった。
 
イエスは彼女に言われた。
「なぜ泣いているのですか。だれを探しているのですか」
 
彼女は、それを墓の管理人だと思って言った。
「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのかいってください。
そうすれば私が引き取ります」
イエスは彼女に言われた。「マリア」
彼女は振り向いて「ラボニ(先生)!」と言った。
 
     (「ヨハネの福音書」20章11-16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
<マリアは二度振り返っている>
 
細かいことにこだわるようだが、ここでマリアは二度振り返っている。
 
最初は、
「なぜ泣いているのですか。だれを探しているのですか」と言われたとき。
 イエスを墓の管理人だと思って
「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのかいってください。
そうすれば私が引き取ります」と言ったときだ。
 
+++
 
その後、ペテロとヨハネは部屋に帰ったが、マリアは墓前を離れなかった。
そして(ヨハネは記していないが)、また、墓の方を向いて泣いていたのだ。
 
だからイエスに「マリア」と呼ばれたとき、
「彼女は振り向いて」とヨハネは記しているのである。
 
 
<群を抜く思慕の深さ>
 
マリアのイエスを慕う気持ちは群を抜いていた。
このマグダラ村から付いてきた女性は、暴徒に殴られることなど、意に介さなかった。
 
その女性の肉眼に、復活のイエスは「まず最初に」その姿を見せたのであった。
 
 
(続きます)
 
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