鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

日本人への福音伝道

2007年01月31日 | “エホバ”の奥義
   
                    

創造主の概念は生活実感から自然発生するものではない。
このことはキリスト教という教えの特色を明確に浮上させてくれます。
この教えは創造主の存在を大前提にした教えですので、初めは実感が伴わないのが当然なのですね。

 その点、仏教は対照的です。この教えは人間が無常であるという自覚から出発しています。
そして無常感というのは、まさに人間がかなりな幼少時から実感してきているものなのです。

 無常文化の濃厚な日本で育った人間には特にそうです。だから、仏教の話は初めからよく「わかり」ます。
これに比べるとキリスト教の話しは、初めはピンと来ないもいいところなものなのです。

                    

 日本で福音を宣べ伝える人は、そのことをよく踏まえる必要があります。
この教えは、初めの一定期間は実感が伴うことのない教えである。
伝道の最初にそれを相手に明示することが必要なのです。
福音を知りたければ、最初は実感が伴わなくてもまず聞け、という。
「信仰(福音の)は聞くことから始まる」とはよく言ったものですね。

 そしてこう話を続けます。
~~しかし、ある時それが突然バンとわかる(実感できる)時が来る。
福音とはそうい特性を持った教えなのだ、と。
そうやって得られる実感は他に比類なく素晴らしいものだよ、と。

                    


 こういう説明のステップを踏まないことが、日本人への伝道を成果の薄いものにしてきた一因だったのではないでしょうか。
福音の話をし始める。聞く方は実感が湧かない。そしてこう思います。
「やっぱり西洋の宗教は我々日本人には心情的に合わないんだなあ」と。

 日本での福音伝道は従来こういういわばマイナスの確信を与えることでもって終わってしまっていたのではないでしょうか。
だから伝道活動が期待とは反対に、福音からますます人を遠ざけるという
皮肉な成果を生むことになってしまっていたのではないでしょうか。

~~飛鳥石舞台から、の考察はこれくらいにして、著書のはなしに戻りましょう。


                    


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命令も旅の途中に与えている

2007年01月29日 | “エホバ”の奥義

                                        

 イスラエルの民は、エジプトに定住しますが、これは奴隷としての定住でした。こういう立場での定住は、寄留というか仮住まい感覚が伴ったものです。心から腰をそこに落ち着けて暮らせない。鹿嶋はこれにもエホバの持つ深い智恵を感じます。

 そういういわば「半定住状態」に置いておいた後に、エホバは彼らを再び旅に出します。モーセを指導者にして荒れ野を40年旅させる。エホバは創造主の概念を本格的にこの民族に導入し、植え込むのはこの旅の中においてなのです。

                    

 この世が創造主によって創られた状況を文書化させたこと。
創造主以外は拝むな、カタチあるもので現すな、と命じたこと。
週に一日は終日創造主を憶えよ、という命令を与えたこと。
そして、幕屋の作成を命じて創造主への一定の実感~~擬似的な実感でしたけれど~~を得られるようにしたこと。

                    

~~これらはみな荒れ野を通る旅の途中で与えられた。だからこういうメッセージは民族の心に入っていったのでしょうね。定住してる時だったら、自然発生的な神々が障害となって、入っていかなかったでしょう。あるいは一時的に入っていったにしても、時とともに蒸発していったことでしょう。現代日本に住むわれわれが、そうなる可能性が高いように。

 しかしこのストーリーはすごいなあ。人間の心情を洞察し尽くしている。リアリティに充ちている。これだけでも聖書の記述は作り話とはとても思えません。芥川賞、直木賞、ノーベル文学賞といったレベルを遙か超えています。こんな本は他にないし、もうこれからも人類社会には現れないと思うほかありません。

 飛鳥石舞台で考えさせられたことはまだありますが、当面これくらいで留めるべく、次回でもって最終といたします。

                    


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民を定住させなかったのは

2007年01月27日 | “エホバ”の奥義
                    

 創造主という神の概念は人間の意識に自然発生しない。
これを一民族社会のマジョリティ(大多数)の意識に植え付けるためにエホバは様々な仕事をしている。
~~こういう観点から旧約聖書に書かれている出来事を追ってきました。
これをしている過程で鹿嶋の中に新しい気付きが生じてきています。


                    


 エホバはアブラハムに目をとめて、彼の子孫をそのための民族にすると決めた~~このことは前述しました。
だがこのときエホバはまた、アブラハムに父祖の地を旅立つように命じているんですね。
そして、自分の命ずる方向に向かえと、旅を続けさせています。なかなか定住させない。
その状態で、イサクを授け、ヤコブを授けて人数を増やしていきます。

 旅を続けさせた意味も、鹿嶋は実感できるようになってきました。
人間は定住すると、生活実感の中に自然に発生する神々をその地にどんどん蓄積していくのですね。
実感を高めるために像に刻みますから、それらがその
土地に残る。
こうして時とともに神々を蓄積していくことになる。湿潤の土壌に雑草が生い茂っていくかのように、神々が増殖していきます。


                    

 アブラハムの一族だって、ある地点で定住したらそうなり易いのですね。
だからエホバは、彼に妻と使用人たちをつれて父祖の地を出るように命じ、
さらにあちらへこちらへと旅を続けさせたのでしょう。

 でも、目的地はありました。それがカナン(今のイスラエルとその周辺の地)でした。
彼らがそこにつくと、エホバは彼らをしばらく定住させます。
しかし、後にまた飢饉を起こしてエジプトに向けて旅立たざるを得なくします。

 どうしてそんなことをするか。
創造主の概念をこの民族のマジョリティに定着させる仕事は、まだ完成していなかったからでしょう。
旧訳聖書のストーリーはこういう風に鹿嶋の中で新たな意味を持ってきました。
それは実感の伴う意味理解です。
それにつれて、聖書という書物に書かれていることへの鹿嶋の信頼は一層深まってきています。

(続きます)

                    


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幕屋:拝する「場」を造らせる

2007年01月23日 | “エホバ”の奥義


~~写真は、再建された幕屋の構造模型
(出所:Alexander, Dsvid & Pat(1973)、中村寿夫・森正義、松代幸太郎訳(1978)『カラー聖書ガイドブック』いのちのことば社、P.166)




~~1、2,3月は毎年、鹿嶋のバイオリズムが低調になるときのようです。もともとよくない頭の回転が、更に悪化します。視力も弱って少しやると霞んだりします。更新が思うようにいきませんが、皆様よろしくお願いします。


                    


  ゴッドリーな世界観の型枠を一民族の中の多数派が抱くようにするのは、とても難しい。エホバはそのために様々な手段を講じた~~という見方から旧訳聖書の出来事を眺めると、幕屋というのも新しい意味を帯びてきます。

  創造主は自分がこの世を造ったと文字に書かせ、他のものを拝むな、と命じ、週に一日は終日仕事をせずにオレを想え、と命じてゴッドリーな世界観の型枠をイスラエルの民の大衆に持たせようとした~~こういう風に考察してきました。その線でいくと、それだけでは十分でないから幕屋を造ったのではないか、と見ることも出来るようになるわけです。

                    

<移動神社>

 幕屋というのは、日本でいったら神社ですね。移動神社。
 モーセに幕屋を造れと命じられたときのイスラエルの民は、エジプトからカナン(今のイスラエルとその周囲の地域)に向かって荒れ野を旅していました。

 だからたたんで移動させられるものであることが必要でした。後に彼らがカナンの地に入って定住するようになると、これが固定的な神殿としてエルサレムに建てられます。でもいずれにせよ神社です。

                    


<具体的な場があると実感が湧く>

 幕屋は創造主のイメージを具体的にして実感を高めるのにとても有益です。神様を拝せよと言われたら、人間はどちらかの方向を向いて、何かに向かって礼拝したくなるものです。そうできると見えないものにでも、ある程度の実感を持って礼拝することが可能になります。幕屋はそれを可能にするのです。

                    


<時間空間的無限者>

 論理的に言いますと、万物の創造主というのは時間的にも空間的にも無限者となります。

自分以外の「万物」を創造したというのなら、自らの存在に出発点があってはなりません。それがあったら、それ以前に存在したかも知れないものに対しては、「オレが創った」といえません。創った以上はそれなりの影響を与えているわけで、影響を与えるにはその時点で既に存在していなければならないのです。

 被造物の特徴は、存在に初めがあることです。創られたものでありますから、創られた時点がその存在の出発点となっています。

 とはいえある被造物が非常に昔の時点にも存在していた可能性があります。それらも含めた「万物」を創造したと言えるためには、創造主は無限の過去、永遠の過去から存在していなければなりません。

 未来についても同様なことがいえます。無限の未来にも存在していなければならない。だから、万物の創造主は永遠の過去から永遠の未来に向かって存在していなければならないことになります。つまり、万物の創造主は時間的に無限な存在者です。

                    

 空間についても似たことが言えます。創造主は無限の広がりを持っていなければなりません。もし、ある範囲までしか存在しないのでしたら、その外側のものについては、オレが創ったとは言い難いのです。そこで空間的にも無限の広がりを持った無限者と言うことになるのです。

  ということは人間がその形をイメージすることは出来ない存在ということでもあります。なぜなら人間がイメージする形というのは、ある空間的な境界を持ったものですから。我々はその境界線や面をなぞって、それを「形」と意識するのですから。

                    


<一定の実感をもって拝せるために>

  そういう形のないものが創造主の実体です。だから「私を形あるものに創ってはならない」と創造主は命じたのです。そのカタチあるものとはすなわち偶像でしたよね。

  ですけれども、カタチのないものということになると今度は、実感し辛い、という問題が起きてきます。少し先走って言いますと、創造主が究極の実感を与る方法は幕屋によるものとは別のものです。カタチのイメージからではなく創造主と同質であるところの聖霊を受けさせて創主を体験させる、これによって人の霊感にその確かな感触を与えるというのがそれです。

 (イエスがヨハネ伝4章でサマリアの女に「あなたがたが、この山でもなく、またエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る。・・・・・・・。まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととを持って父を礼拝するときが来る」といったのはその関連においてです。)

                    


 けれども人類がそこに至れるのは、まだ先の話ですからね。イエスが人間の姿で現れて、教えを残し、十字架上で殺されて、復活して、天に昇って、それからの話です。旧約の時点では、エホバはそのプロセスが展開されうるために、ゴッドリーな世界観の型枠を一民族の大衆に形成しなければならないのです。

 そのためにとった手段が、礼拝する具体的な「場」を造ってあげる、ということだったのでしょう。この場所で、ここに並んで、この方向に向かって礼拝せよ。これを指示する具体的な場と、建物などを造ってあげると、人間は実体の感触がない段階でも、ある程度の実感を持って礼拝できるんですね。そうしてゴッドリーな世界観の型枠を人々は意識に形成しやすくなる。

 そのために幕屋は必要だった、ということになります。大和三山があってもその麓に、神社が必要だったように。

(続きます)

                    


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週に一日は、終日オレ(創造主)を想え

2007年01月18日 | “エホバ”の奥義
前回まで、創造主は聖書に自分のことを記録させ、かつ、十戒でもって自分以外の存在を礼拝するな、と命じたと述べました。

                    

<終日創造主を>

 もう、それだけしたらいい? そうじゃないんだよね。さらに命令を重ねます。
「週に一日、終日俺を思え」と。

 具体的には土曜日です。安息日と名付けられていますけれど、安息の名は第一に創造主が、6日間創造の業をされて安息されたことから出ています。この理由が示すように、ここでも創造主中心の神本主義です。

 人間はまあ、仕事はしないのですが、全くのお休みというわけにはいきません。その日がもうけられた理由が、創主が創造の業を終えて休まれたからだという。それを憶えて休めということは、創主は意識に置いていろということですからね。そういう精神作業があるわけです。

 なお、このとき仕事をしないのは家長の当人だけではありません。その息子、娘、男女の奴隷、さらには家畜に到るまで、また、当人の町囲みの中にいる在留外国人にも安息させろ、という。徹底していますね。

                    

<制度化の力>

 がともあれ、一日中何もするな、というのは厳しいですね。現代のクリスチャンも安息日をもちます。日曜日で、これが聖日であるとして教会で礼拝します。でも、午前の2時間ほど賛美歌うたったり説教聞いたりして、献金しておしまい。あとは街に出て食事したり、映画見たり、ゲームしたり、カラオケしたりしてます。

 旧約の安息日の厳しさは飛び抜けている。エホバもそこまでやるか、という印象です。しかもこちらは、十戒という命令の一つで、守らねば子々孫々呪うという罰則付きですしね。

 でもこれがゴッドリーな世界意識の型枠を社会に造る力は大きいと思いますよ。週に一日となれば、民族社会の行事になるわけですからね。ゴッドリーな行動様式が制度化されたことになります。これができたら、大人だけでなく幼い子供もその中に組み込まれずにはいられません。行事は人々のライフスタイルを形作ります。

                    

<ラマダンの型枠形成力は強烈>

 その観点から見ると、イスラムのラマダンという行事も、宗教的な思考の型枠を造る力は実に大きいでしょうね。イスラム歴の9月の1ヶ月間を、断食月とする。日の出前から日没までは、飲食するな、性行為をするな、怒るな、虚言を吐くな、人の悪口を言うな、という。もう日中はただジィ~と命令を守ってるしかない。

 で、陽が落ちたらわぁーっと解放されて飲み食いする(うまく出来てるなあ~)。で、夜が明けたら又断食。そういう暮らしを全社会で一ヶ月間繰り返すのですからね。毎年それがやってくる。子供などもイスラム教の思考型枠をもたないものはいなくなるでしょう。

                    

<エホバは毎週させた>

 しかし、毎週一日、終日なにもしない、という行事も相当なものですよ。そしてエホバがそこまでしたのは、それが必要なほどに、人間社会で多数者がゴッドリーな思考の型枠を持つようになるのは難事だったからでしょう。

(続きます)

                    


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飛鳥石舞台から:鹿嶋は何している?

2007年01月15日 | “エホバ”の奥義
                    


~~すこし反省してみたくなりました。

 受け皿の民族がどうとか、十戒の中核がどうとか、こんな考察を鹿嶋は何のためにしているのでしたっけね。
そうでした。この世界に創造主がいるという世界観について考えていたのでした。
そういう世界観をさす言葉は、日本語の辞書にはないでしょう。
で、鹿嶋は敢えて有創造主世界観などという言葉を創ってやってきたのでした。
でもこれは長ったらしいですね。

                    

<ゴッドリー、アンゴッドリー>

 英語にはそれを指す単語があります。ゴッドリー(Godly)というのがそれです。
この一言で、創造主がいて被造物がいるという世界イメージを示しています。
では、創造主のいない世界観はどうかといいますと、アンゴッドリー(ungodly)といいます。
これはゴッドレス(Godless)ということもありますが、アンゴッドリーの方が対照的でいいでしょう。

 たとえば、米国でもテレビ番組で、現世的な欲望一点張りでギンギラギンな人々の展開するドラマがあります。
ビバリーヒルズとかいった豪華住宅地を舞台にしたメロドラマなどにそういうのがあります。
これらを見てクリスチャンがこうつぶやくことがあります。
「ハウ・アンゴッドリー(なんとアンゴッドリーなことか・・・)」と。
このアンゴッドリーはセキュラー(世的)という語になることもあります。

                    


<文化は多数派に従う>

 ゴッドリーな世界イメージというのは人間の意識に自然発生的に生じるものではない
~~このことを飛鳥の地で鹿嶋は自らの心で実験して確認したのでした。
とはいえ、ゴッドリーな意識を持つ人間は、社会の中に一人や二人や数人はいるでしょう。
ノアもアブラハムもそういう人でした。
けれどもそれは例外的なほんの一握りでして、
社会の多数派(マジョリティ)がそうなることは自然な状態ではありえない、ということです。

 社会の文化、風俗というのは多数派が造っていくものです。
ですから人類社会には通常では、ゴッドリーな文化、風俗、社会通念が出来上がることはほとんどあり得ないでしょう。

 日本に住んでいる我々日本人には体験的によ~くわかること。日本の文化はアンゴッドリー一色です。
有識者と称される人の語る評論からバラエティー、ニュースの論調、テレビドラマにいたるまで、
アンゴッドリーな世界観を前提のものばかりです。
ここにゴッドリーな文化を形成しようというのは至難の業であります。


                    


<ゴッドリーな思考の「型枠」>

 日本だけではありません。人類社会が全面的にそういう状態だったのです。
そこにゴッドリーな世界観の「型枠」をもった民族を、力ずくで一つ造ろうとした。
エホバがイスラエルの民に対して試みたことがこれだったのです。
 
  どうしてそんなことを? 
イエスが説く「いのち」のメッセージ、霊界の真理のメッセージを一定の数の人々が受け入れる土壌を形成するためです。
それには、その社会にゴッドリーな世界意識の型枠が出来ていることが必要だったからでしょう。


                    

 新約聖書を読んで、改めて不思議に思うことがあります。

 イエスの説く教えについて、ユダヤ人たちは大いに反論しています。
でもそこにこういうのは出ていないんだよね。
「そもそも父なる創造主なんてのがどうしているって言えるんだよ!」といった反論は・・・。
なんと彼らの意識にはゴッドリーな世界観の「型枠」は当然なこととして出来上がっていたのです。


                      


<イエスの仕事はコンテンツの入れ替え>

 そういう土壌が出来ていたからイエスは、そこから今ひとつ踏み込んだメッセージを送ることが出来たのですね。
その型枠の中身、今流でいうコンテンツですね。
旧約のコンテンツは健康と富という福でした。
だが、新約でのイエスによる種明かしからするとこれはホンモノの影絵でした。
ホンモノは霊に与えられる「いのち」という福でした。


 イエスはイスラエルの民の心にあるこの影絵を、ホンモノに入れ替えていけばよかった。
もちろんそれ自体がすごい難事業ですけどね。

 イスラエルの民においても、その影絵そのものが心に定着してしまってそれこそが真理だと信じている人が多数派でした。
イエスを殺そうとしていったユダヤ教僧侶たちはその代表でした。

  けれどもイエスの説くコンテンツの方がホンモノだと感知して、それに入れ替えをする人もいました。
イエスの弟子になった人々(イスカリオテのユダは別だったのですが)がそれでした。

 そういう人も一定数出たということは、イスラエル人にゴッドリーな世界観が当然という土壌が出来ていたからである。
このことは注目すべきことに鹿嶋は思います。



                    

 繰り返しになりますが、
もしイエスの説教がアンゴッドリーな世界観の人々に対してなされたらどうなっていたでしょうか。
イエスの話ははなっからてんで通じなかったのではないでしょうか。

 イエスによる真理の伝達がなされるに到るには、やはり、踏まれるべきステップがあった。
そして、それは人類に出来上がっていた本性からして、簡単なことではなかった。

~~ああ、自分でこのように書いてきて初めて明確になりました。
鹿嶋は、ゴッドリーな思考の型枠が一民族の中に形成されていく歴史を旧約の中に確かめようとして、
これを書いてきているようです。


(続きます)


                    



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 さらに「他を拝してはならぬ」の命令で補強する

2007年01月13日 | “エホバ”の奥義
                      


~~前回、エホバはまず創造主を深く心に抱く一人の男、アブラハムを選び、彼の子孫だけからなる民族をメッセージの受け皿にした、と申しました。その民族の意識にまず、世界には創造主が有るという世界イメージを形成するためでした。

 その民族の中からモーセを選び、エホバはその仕事を開始します。まず、世界が創造主によって作られた様のメッセージを送り、モーセにそれを書物に記述させました。こうして世界は創造主によって作られているのだ、という考えが文字として定着した。前回そこまでを申しました。


                    


<命令も与える>

  エホバの仕事は、それに留まりませんでした。彼はモーセを通してイスラエルの民に、創造主だけを神として礼拝せよという命令も与えています。

 「世界は創り主によって創られたんだよ~」という「説明」だけではないんですね。命令で追い打ちされることによって、創造主の概念はイスラエルの民の心に更に固定化されていきます。

 次いでエホバは「創造主を形あるものに造って拝んではならぬ」とも命じています。それは、創造主は目に見えない霊的な存在であって、偶像に姿を変容させたり像の中に入ったり染み込んだりするものではないのだ、ということをも明示しています。こうして創造主の概念はさらに限定的で、明確なものにされていきます。

                     


<賞罰付きで命令す>

 またこの命令は賞罰付きです。守れば子々孫々何代にもわたって福を与えるが、守らねば呪いを与える、という。子々孫々までにいたる罰則付きとは厳格ですね。このように飴と鞭でもって「創造主アリ」の世界イメージをイスラエルの民に叩き込んでいこうと、」エホバはしています。

                     


<十戒は前半が中心>

 これはご承知の「十戒」の前半領域に含まれた部分です。前半で創主に人間が対すべき仕方を命令していて、後半では人間が人間に対すべき仕方を命令しています。しかし、重点は前半にあります。

 後半の最初に、「汝の父母を敬え」というのがあります。父母とは自分を肉体的に存在せしめた人間です。肉体の話は目に見える世界でのものですのでわかりやすく、実感が伴います。これを敬うというのは実感を伴う行為として出来るのです。

 これを敬っていると、人には、自分をこの世にあらしめた存在を敬うという思考の「型」が形成されます。それが目に見えない創造主を、自分を存在せしめてくださった方として敬い拝する準備作業になっています。

 人を殺すな、人から盗むな等々の対人行為に関する命令も十戒の中核ではありません。これらは万物の創造主が存在し、被造物を統治しているというイメージ世界を前提とし、その中で意味を持つものなのです。

 そしてこれらの命令も又、モーセ五書のなかに、文字として残されていきます。

(続きます)

                     

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アブラハムを選んで「受け皿」を造り、モーセに自分を文字にさせる

2007年01月11日 | “エホバ”の奥義
~~ 外生的な神概念は、外から言葉で与えられて人の心に生じるもの、と前回申しました。

                    

<文字で知れるようになるのは今から3500年前>

 旧約聖書では、その神、すなわち万物の創造主は冒頭から出てきます。世界がこの創造主によって造られる場面から聖書は始まるのですから。

 この時点は、聖書ではいまから何億年前か何兆年前か、とにかく気の遠くなるような昔のこととなります。だがこの時点では、聖書という書物は存在しません。

 この考えを人が(といってもイスラエルの民だけに対してですが)文字で知ることが出来るようになったのは、モーセがモーセ五書(旧約聖書の最初の5つの書物)を記したときからです。それはイエスがこの世に現れる1500年前ですので、現在の我々からすると約3500年前、となりますね。

 このとき、創造主は人間(イスラエルの民)に対して文字でもって自分の神概念を紹介することを始める。そんなに旧いことではないんですね。


                    
<交信能力ある人間だけにする>


 ただし、聖書によれば、そこに至るまでの助走段階があります。まず、創主は天地を創造し人間を造ります。その上で、今から6000年前にこれと同じ形のアダムという人の身体を造り、彼に創主と交信できる霊を入れます。

 聖書によればこのアダムは、創造主を実感認知できておりました。だが、イブが悪魔にだまされて罪を犯しアダムも彼女と運命をともにすることになって、創主への実感が薄くなりました。

 (創造主が人間に自分の概念を実感を伴う状態で認知させようとする仕事がここから始まります)


 アダムの子孫もアダムと同じ状態です。だが彼らはおまけに、創主と交信できない霊をもった人間の娘が美しいのに魅了されて雑婚してしまいます。そしてハイブリッド人間を増やしていきます。そこで創主は、ハイブリッドでない純粋人間であるノアの家族だけをのこして、後は大洪水で絶滅させてしまいます。

(ああ、人間に自分を認知させるためにこんな仕事をもせねばならないとは、創主様も大変だなあ。)

                    

<確かな受け皿を作る>


(だが創主がすべきお仕事はまだまだあります)

 ノアから再び始まった人間の中に、創主の声への霊感の豊かな人間がいます。アダムより2000年後、イエスより2000年前にでたアブラハムです。このアブラハムを選んで、創主はその子孫を一民族とし、この民族を受け皿としてメッセージを与えていきます。

 (こういう風に、まずは霊感の豊かな人間の子孫に限定的に創造主の概念を紹介しているのには注目すべきでしょう。最初から全人類にメッセージを与えても、それは受け手の中で希薄化し風化していってしまうんでしょうね。それほど人類の意識に創造主というイメージを定着させるのは難しい仕事ということです)

                    

<イメージを文字に定着させる>

 そしてアブラハムより約500年後に、この民族の中に生まれたモーセを創主は選びます。彼にメッセージを与え続けてイスラエルの民を指導させ、なおかつ彼の霊感に創世以来のことを伝えて、記録に残させます。それがモーセ五書であって、この書物に始めて創造主の概念が文字として記録されることになります。

 ですから、アダムが造られるのはイエスより4000年前であっても、一つの民族という多数の人間に、創造主の概念が文字で伝えられる始めるのは、イエスの出現よりわずか1500年前だったことになる。

 あるいはこうもいえるでしょう。イエスが出現する前の1500年間をかけて、創主は創造主の概念をイスラエルの民という限定された人間たちに、紹介し続けた、と。文字というのは誰にも読めるものですし、いったん文書(当時は巻物でした)にすると以後常時人々はこれにアクセスできます。こうして結果的に創造主の概念を受け皿の民族の人々に紹介し続けることになったわけです。

(続きます)

                    


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飛鳥石舞台から:「内生的な神」、「外生的な神」

2007年01月09日 | “エホバ”の奥義
~~前回の続きです。

                    


<内生する神意識>

 明日香の地を取り囲む周囲の山々に足を運びますと、どの山の山腹にも神社があります。
おそらく人々は山に神性を感じて、神が降り立つ場所を作ったのでしょう。

 飛鳥時代の人が山に神性を感じる気持は追体験できました。
山は、木の実・草の実・木材等々の恵みを人々に与えてくれます。と同時に、恐怖感も与えます。

 電気のない時代です。もちろん、テレビの深夜放送もありません。
夕方から明け方まで10時間近くを延々と人々は毎日暗闇の中で暮らしました。
現代人がタイムスリップしたら、全員鬱病になるのではないでしょうか。

 強風の吹く夜などは、回りの山々はゴーゴーと呻ったでしょうね。
人々はそれに神の怒りを感じ、日頃の行為を反省し、後悔もしたでしょう。

 そして、そうした神の降り立つ場所を作り、そこを拝したことでしょう。
日頃の恵みに感謝し、同時に、悪い行為を謝ったでしょう。


                    

 なお、この神社の構造は旧約の幕屋にとても似ています。
幕ではありなせんが、周囲が四角く石の杭で囲まれています。
その中に聖所のような建物もあります。又その中に至聖所のような空間もあります。
至聖所的な空間の中にはご神体が置かれている。多くの場合それは鏡のようです。
そして人々はその神社を掃き浄め、礼拝しました。

 もちろんバリエーションもあります。明日香の盆地を少し外に出てすぐのところには、三輪神社があります。
これなどはご神体が三輪山という山そのものです(これはヨハネ4章で、サマリアの女がイエスに
「(創主を拝すべき場所は)この山でか、あるいはエルサレムでか」
と尋ねる場面を想い出させます)。

 この山に向かう参道の入り口には、巨大な鳥居が建てられていて、夜にはライトアップされ空にそびえています。
ご神体である三輪山を拝するのはここからだ、と明示しているわけです。

                    


  が、いずれにせよ、このように山に神性を感じるのは人間の自然な情ではないでしょうか。
鹿嶋もその気持ちがよく実感できました。
山そのものをご神体として、その一方向の入り口に巨大な鳥居を作って拝む気持もわかりました。
あるいは、山にいる神が降り立つ具体的な場所を神社として造り、降り立つ焦点に鏡を置く気持もわかります。

 鏡は光を反射します。それがそこから光が発しているようにもみえます。
その光を発するポイントに神が降り立っていると感じる気持が、よくわかります。

 人の心の内から自然に生じる内生的な神の概念は、人間にとって最初から実感の伴う神概念です。


                    


<外生的な神概念>

 次に鹿嶋は考えました。
山に神々が入るという実感は人間の情として自然に起きることだ。
では、これらの山々やそこに住む神々、さらにはそれらをも含めた万物を創った唯一の存在、
というイメージは自然に意識に生じるものだろうか、と。

 鹿嶋は盆地にたたずんで、じっくり想像してみました。そういう感情が内生的に心に生じるだろうか。
自らの心で実験してみました。実感してみようとしてみました。しかし、出来ませんでした。

 「万物を創った唯一の創造主」という理念は、人間自然の情として内生的には生じないようです。
これはどこか外から与えられねば心に形成できない、外生的な理念でありました。

 外から、というのは、人間に対しての場合は、具体的には言葉としてでしょう。
そうです、心の内に内生しない概念でも、言葉として与えられたら、
人はそういう概念を心に抱くようになりうるのです。

 ただしそれは、少なくとも当初は実感が伴うものではありえません。
自分の内側から沸々と自然にわき上がる感情を、理念にした者ではないのですから。
そうです、外生的な神概念は最初は実感が伴わない神概念なのです。

 
                   


<創造主を人類の意識に入れるプロセスとして>

 鹿嶋は飛鳥の地で、創造主なるものを自然な状態では心に内生できないのが人類の精神的資質だと実感しました。
と同時に、面白いことに気づきました。すると聖書を~
~創造主が自分(創造主)を人の意識に形成していくプロセスに焦点を当てて~~読んでみたら面白いのではないか、と。

(アダムが罪を犯した後からは、人間の心には創造主は自然には生じない、というのが聖書の基本思想です)


 新約聖書のある今、最終的なゴールの状態は、示されています。
それは創造主を実感を持って意識に納めている状態です。
それは最終的には聖霊を受けることによって実現します。

 だが、聖書では人類がそこに到る過程は簡単ではないようです。
おそらくそれは、罪を犯した後のアダムからの人間の霊感が、劣化してしまっていることによるのでしょうが・・・。

 そういう状態の人間の意識に創造主を抱かせて、「創造主有り」の世界観、いうなれば有創造主世界観を持つようにし、
さらにはそれを実感の伴うものにするに、創造主はいかなることをしてきているだろうか。
聖書でその過程を追うというのも一つの解読ではないだろうかと。

                    


 もしある程度でもできれば、まさにそれは創造主中心の神本主義での聖書解読になるでしょう。
人間は、聖書を解読するとしてもやはり自分中心の人本主義の読み方に知らず知らずになっていくものです。

 創主がどうしてきたか、という観点から一貫して聖書をたどることは、そのマイナス面を補うのではないか。
明日香盆地に腰を下ろして、そんなことを漠然と考えていて気がつくと、
夕闇迫る飛鳥の空気は急激に冷えを増してきていました。

(続きます)

                    


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新年随筆:飛鳥石舞台に行ってきました

2007年01月08日 | “エホバ”の奥義


~~写真は、石舞台史跡の入場券


                    

 
 新年に、すこし随筆のような文を書いてみたくなりました。「著書について」は途中ですが、思いつくままに書いてみます。

 鹿嶋は最近、奈良県は明日香の地にある石舞台という史跡に行って来ました(写真参照)。明日香は飛鳥とも書きます。ここは日本の歴史において大和朝廷ができていくときの舞台です。

石舞台の実体は蘇我馬子の墓ではないかと推定されたりもしているようですが、石棺を入れる為に大きな石を四枚組み合わせて作った10畳ほどの部屋です。3つの側面を巨大な石の板が囲っています。石を壁のようにして前側と左右にたてている。そしてその上に屋根のようにしてもう一枚の石の板が置かれています。一つの側面には石の板の壁はありませんが、その側面から石の階段が下方に降りていくように作られています。人がそれを下っていったところがちょうど部屋のような空間になっています。そこに高貴な人の遺体を入れた石棺が置かれていたわけです。

 もともとはこの石の屋根の上と周囲とには土が盛られて、全体が小山のようになっていました。だが年月の流れの中で土が流れ落ちて、石が露出するようになりました。その結果、その姿があたかも石で作った舞台のようにみえる。そこで石舞台と呼ばれるようになりました。

                    


明日香の地に立ちましたら不思議に気持が落ち着きました。平地を歩くと有名な大和三山(耳成山、香具山、畝傍山)やその他の山が囲んでくれています。山々の高さも適度で、富士山のようにそびえるという感じは与えません。かといってハイキングで簡単に頂上まで登れるほどの低いものでもない。人間の感覚に適度なような気がします。

 こうした地に身を置くと、他の人でも気持ちが落ち着くのではないでしょうか。山々は適度の距離と適度の高さにあって、人を囲ってくれている。こうして一つの閉じられた空間感覚をつくってくれることによって、気持を落ち着かせてくれるんですね。だだっ広い平原にいるときと比べたら解ります。たとえばアメリカ中西部のオハイオ州とかイリノイ州はほとんどどこまで行っても平原で山は一つも見えません。こういうところにいますと、鹿嶋も含めて少なくとも日本人は、精神不安定になる傾向があるのではないでしょうか。

(続きます)

                       

     
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『誰もが聖書を』8~序章を比較して~~

2007年01月02日 | 著書について
                
新年になりました。話を『誰もが聖書を』の序章に戻します。

                    

前作の『聖書の論理が世界を動かす』の序章は、編集のsさんの指示する項目の各々について鹿嶋が文章を作った、と申しました。この第二作でも序章は必要でしたが、今度は鹿嶋が自分で構成し文章化しました。それにsさんが注文をつけるという方法がとられました。今度は自分でさせて鹿嶋の序章作成力を育てようとされたのかもしれません。


 結果を前作と比べますと、やはり見劣りするように思います。前作では、文章が躍動していました。ぴょんぴょんと跳躍しています。対して二作目の序章は、ウオーキングしているという感じです。跳躍でなく、地をはっているというか。文章のキレが悪い。べたっとしている。リズム感が乏しいです。

                    

<序章はブリッジ>

 後に振り返ってみますと、sさんと鹿嶋とでは、序章というものの役割の見方が違うことに気づいてきました。sさんは、序章はブリッジだと割り切っておられるようでした。どういうことかというと~~

~~著者が述べようとしている本文は、聖書の思想、論理の話です。これ自体は、日本の一般読者の興味とは距離があります。で、そのままでは読者は本を手に取る気になりません。そこでそれと読者の興味あることがらとにつなぎを付けることが必要になります。端的に言えば、著者の関心と読者の興味との間にブリッジ(橋)を架けるわけですね。sさんにはそういう明確な役割認識が序章にあったように思われます。

 対して著者というのは、概してそう明確な位置付けをしていないことが多いのです。その状態で、自己の心情や、本論に到る思考過程を吐露したりするのに序章のスペースを使います。読者の興味とのつなぎも考えていないことはないのですが、それ一本という明確な割り切りがありません。これは今思うとアマチュアの感覚ですね。対してsさんはプロ。本作りのプロでした。

                    

<アマチュアのままで>

 これに気づくと同時に、sさんの「食いつきが・・・」という言葉の意味がわかりました。一作目の序章を作っている途中でこの言葉を聞いたとき、鹿嶋は「なんか一般読者を魚みたいにいうんだなぁ~。食いつきがわるい、なんて~」と漠然と思いました。そしてそれはず~と記憶に残ってきましたが、釈然としないままでした。それが、本作りのプロとアマチュアと言うことに気づいて、その意味がパラリとわかりました。いや~そうだったんだ、とね。

 でも、sさんは、それをわかってて二作目は赦してくれていたのでしょうね。それでいいから、やってみなさい、と。で、アマチュアのままで『誰もが聖書を』はやらせていただいたといまわかります。

 鹿嶋は、この機に言いたいことをできるだけ活字にさせてもらおうというスタンスでした。あれかこれかでなく、あれもこれも盛り込もうとした。アマチュア丸出し。結果、予想以上の厚い本になりました。前作の1.5倍近くになったんじゃないかなあ。

 ・・・で売れ行きは? 近く機会をみて書くかもしれません。

                    

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2007年が明けました

2007年01月01日 | 著書について


2007年が明けましたね。
A Happy New Year !
今年もよろしくお願いします。

鹿嶋春平太


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