(前回の続きです)
「女の子孫」は、イエスを意味するということで、まあ解読できたとしましょう。
では、「悪魔の子孫」はどうでしょうか?
これは難しい・・・。
もう一度、この部分の聖句を引用して考えましょう。
「わたしはおまえ(悪魔)の子孫と女の子孫との間に敵意をおく」
(創世記、3章15節)
女の子孫(イエス)との「間に敵意を置く」というのが気になりますね。
これが手がかりにならないでしょうか?
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これと非常に関連が深そうな言葉が、新約聖書でイエスの口から弟子たちに向けて発せられています。
「もし世があなた方を憎んだら、世はあなた方より先に、私(イエス)を憎んだことを知っておきなさい。・・・・・(中略)・・・・しかしいま、彼らはわたし(イエス)をも、私の父をもみて、その上で憎んだのです。これは『彼らは理由なしにわたし(イエス)を憎んだ』と、律法(旧約聖書)に書かれているとおりです(聖書の言葉が成就するためです)」
(ヨハネによる福音書、15章18~25節)
ここで「世」というのは、この宇宙の中の地上に住む人間たちです。それを「彼ら」と言い換えていますね。その彼らが「理由なしに」わたし(イエス)を憎むことになる、と旧訳聖書は預言している。これをイエスは弟子たちに言っているわけです。
「理由なしに」というのは、もう意識の根底から、潜在意識の底から、理屈抜きに憎しみの念がわいてきている、ということです。この憎しみの念が、すなわち、両者の間に置かれた「敵意」に対応していそうです。
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そうすると、さらに、ヨハネ伝に登場する地上の人々が、上記聖句の「悪魔の子孫」に対応していることになります。地上の人々、すなわち、人類すべてです。
人類が悪魔の子孫だって?!
だったら俺も悪魔の子孫かよ?
言われてびっくり・・・。
しかし、驚くことないんですね。聖書の論理では、宇宙の内側にある「世」は悪魔のもの、というのが鉄則です。宇宙は悪魔を一時的に閉じこめた牢屋ですが、悪魔はそこの親分、牢名主ですからね。
限られた時間とはいえ、その間、宇宙の中のこの「世」は、悪魔の法、悪魔の正義、悪魔の教育、悪魔の支配で動いているというわけです。アダムが創り主に不従順して以来、人間の心(霊)にはその悪魔の支配を受ける余地が出来てしまった。つまり、人間の支配者は、創り主にとって代わって、悪魔となったのですね。
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そして、悪魔の霊はいのちと反対の「死のエネルギーで」完全充電です。もうその意識は、創造主のそれとすべてにおいて完全対極にあるわけです。
そのなかでアダムの霊は、当初、聖なる状態でした。だけど、創り主の意向に背いて、知識の木の実を食べた。以来、彼の霊はいのちエネルギーが不完全充電になってしまった。
その不完全部分には「いのち」と反対のエネルギーが入ってしまった。これすなわち、「死のエネルギー」です。
すると、アダムの意識(霊)は、悪魔のエネルギーである「死」がベースになります。そして、その後の人間の内にある霊は、このアダムの霊から分離した「生き霊(いきりょう)」みたいなものですから、結果的に、この地上の人類の意識はみな悪魔ベースになっている~~これが聖書の論理になるんですね。
だから、イエスは「世が理由なしに私を憎む」と語った、という道理になります。
人類の意識(霊)は悪魔ベースになっているんですね。
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すると、イエスとの間にもう、敵意が「置かれてしまった」状態になっているわけですね。敵意を「置く」と創り主が言ったのはそういうことだと考えられます。
これは、もう、個々人の意志の力、思い直し、考え方の反省、等々ではどうにもならない絶対的な状況、ということです。
聖書では、霊を基準にものを考えます。聖書に書かれているのは、根本的に霊の理論です。それで、霊(意識)が悪魔ベースになっている人間は、悪魔の子ということになります。
その人間が、肉体を持っていますから、次々に増殖してくる。
だから、「子孫」になるわけです。
以上によって、聖書では、この世の人類は「悪魔の子孫」だ、となります。
「考えていったら」そういうことになってしまいました。
(・・・だが、こうなっても失望しないでくださいね。
これを創り主の子にもどす方法を持って、イエスが地上に「人の子」としてやってくる、という風に、聖書の論理は展開していくのですから)