鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.327 『 今後もあなたの御名を悟らせ続けます』(17章26節)

2012年02月23日 | ヨハネ伝解読


17章も最後となりました。
26節です。                    

                   
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「そして、わたしはかれらにあなたの御名を知らせました。また、これからも悟らせます。
それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、
またわたしが彼らの中にいるためです」(17章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


逐次言葉を追って解読を試みましょう。

  「わたし(イエス)はかれら(弟子たち)にあなた(創造神)の名を知らせました」

この「あなたの名」が「イエス」だったことがこの17章の11節で示されました。

この節で「あなたがわたしにくださった名(イエス)」が「あなたの名」であったことが明かされています。
鹿嶋は「Vol.301~303」でそう解読しました。

そのことが、従来漠然としていた聖句のつながりを、大きく浮上させてくれます。
旧約聖書に登場している「エホバ」の名がどういういものだったかも明かしてくれます。

そしてこうした「名の奥義」は「ヨハネ伝」以外の書物には示されていません。
筆者はヨハネ伝の比類なきすばらしさの一つがここにあると思っています。

                    
                    

次です。

  「また、これからも悟らせます」

イエスはこれからも折あるごとに、その認識を更新するといっている
~これが鹿嶋の解読です。
前回に述べたように、人間は忘れやすい生き物で、その記憶は薄れていきます。
イエスはこれを更新させるといっている。
どうやって?

イエスの名の権威で被造物がその命令に従う場面をつくることによってでしょう。
そうやって~
「ああ、この名が創造神の名だなのだなあ」と再認識させるのです。

                   

次に行きます。

「それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあるためです」

「それは~のため」というのは聖書特有の表現です。現代流にいうと、
「その結果~が実現する」となるでしょう。

すると「かれらはイエスを創造神の名だと再認識する結果、
人間の愛とは違った創造神の愛をもまた心に呼び戻す」ということになります。

                    

最後です。

「またわたしが彼らの中にいるためです」

  これも同じ聖書的表現です。現代風にいうと~

「イエスの名が弟子たちの心の内に保たれることによって、
その名を持った創造神の御子もまた彼らの心に保持される」

~となるでしょうか。

こう確認するように父なる創造主に語りかけたところで、
ヨハネの記録したイエスの17章の祈りは終わっています。

  奥義に満ちた、深い凄い祈りでした。
とても人間にはできそうにない祈りだと思います。


                  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.326 『 祈りは基本認識証言の後で』(17章25節)

2012年02月19日 | ヨハネ伝解読

  臨時版がとぎれとぎれで続きました。原発事故以来の世界の変化に鹿嶋は動転していたようです。
この問題に取り組まざるを得なくなっていたのですが、思えば情けない。
本来の「ヨハネ伝解読」も淡々と行うくらいの腹の据わりようがなかったことを反省しています。

                    

 で、久しぶりに解読に戻ります。17章も最後の節の一つ前となりました。

この章は全文がイエスが創造神に直接語りかける言葉で埋められています。
  弟子たちには難しくて語らなかったこともあった。だが、ここではすべてが率直に述べられています。

その意味で、ヨハネ伝17章はこの福音書のクライマックスです。
のみならず、他の福音書ではこれを記していませんので、
福音書全体の、さらには聖書全体のクライマックスといってもいいかもしれません。

聖句を示します。

                   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「義なる父よ。この世はあなたを認識していません。だが私はあなたを認知しています。
そしてこの人々(イエスの弟子たち)は、あなたが私を遣わされたことを悟りました。」
(17章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   


 この25節の主旨についてはこれまでに解読してきました。
「世」は創造神を認識できていない。悪魔に目をふさがれているからという論理です。

  けれどもイエスは「わたしは父なるあなたを認知しています」とわざわざいっています。

 そして「世」から選び出された「弟子たちも、創造神を認識し、
そしてイエスがその神から遣わされてきた存在であることを悟りました」
と創造主に語りかけています。

 創造神は全知です。そんなことはお見通しです。
でもイエスは、これらのことを「わたしは認識しています」
と父なる創主に念押しするように明示しています。

「あなたは義なる方です」とまでわざわざいっている。

 粋じゃないなあ。どうしてこんな野暮なことするんでしょうね。江戸っ子ならそういいそうなところです。

                   

<忘れやすい生き物>

 でもイエスは祈りの中ではそれをしています。
自分が認識していること、信じていることを、改めてきちんと創造主に報告しています。

 イエスは自らのこの姿を通して、祈りの秘訣を我々に教えてもいるように見えます。

人間は忘れやすい生き物です。
ごく当たり前と日頃思っているようなことでも、記憶が薄くなっていることが多い。
だから、「これはきちんと私の意識にあります」、と創造主に示すのは、
見方によっては祈るときの当然の義務であり、礼儀であるかも知れないのですね。

なのにこれを我々はお祈りするときについつい省略します。
こんなことは創主はご承知に決まってる、と、
きちんと言葉に出して確認することをしないきらいがある。

でも、それを忘れやす生き物がしないのは、謙虚でないかも知れないんだよね。

「わたしはあなたを全知全能の創造神だと認識しています。」
「イエス・キリストをあなたが救い主としてこの世に送ってくださったことを認識しています」

~こういう、通常当たり前のようなことをも、創造主にお願いをするときには、
きちんと自己確認している姿を示すべきかも知れません。

これをしないから、普段の祈りが十分に聞き届けられないかも知れません。
祈っても応答がない、という原因は、案外そんなところにあるかも知れませんね。
この節でのイエスの姿は、それを教えてくれているような気がしています。


                   

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする