鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.201『栄光(glory)は「主の祈り」の解読にも』(13章31~2節>)

2007年06月26日 | ヨハネ伝解読

「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)

 今日も創り主を想いましょう。



                    



 ヨハネ伝13章に出てきて我々を悩ませる「栄光(glory)」は、
イエスが教えた祈り方であるところの「主の祈り」にも出てきます。
そしてここでもこの教えが意味するところを難解にしています。
これについても少しここで考えておきましょう。

 

 「主の祈り」は伝統的に、次のような日本語で唱えられています。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 天にまします我らの父よ。
願わくば御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天になる如く、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを、我らが許す如く、我らの罪をも許したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と榮とは、限りなく汝のものなればなり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(なお、イエスが教えた祈り方は、マタイ6:9~12とルカ11:2~4に記録されていますが、
いずれにおいても、最後のフレーズ「くにと力と栄えとは・・・」はありません。
だがそれだけでは「主の祈り」としてはまとまりが今ひとつということで、後でくっつけられたのでしょう)

                                        

 この祈りの言葉には最初から難しいフレーズが並んでいます。
でも、ここではグローリーが出てくる、最後の所だけを考えておきましょう。

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」というところです。
この日本語は、何いっているのか、わかりにくいです。


                    


<「くに」って?>

 まず「国」という訳がいけない。この英語はkingdomで、これは創造主が王として統治する王国です。
これは天にあるので天の創主王国といってもいい。聖書で天国というのはこの意味です。

 それを「くに(国)」と一語で言ってるんですからねえ。
わかるはずがない。わからないのが正常です。

~~何でこんな訳にしたんでしょうね。多分、語呂(口調)がいいようにしたのでしょう。
「くにとちからとさかえとは・・・」とやれば口調がいいでしょ。
どうせわからないんだから、語呂のいいので行こう、といったところだったのでしょう。

 (どうして最後に、天の王国はあなた様のものですから、ということになるかは、
後の「ちから」「栄誉」が終わってからまとめて述べましょう)

                    

<「ちから」はエネルギー>

 次は「ちから」です。
 これは訳語としてそれでいいのではないでしょうか。

 力はエネルギー(いのちエネルギー)です。
 天の王国は、創主様、あなた様のものであり、
そこから発する力もあなた様のものだ、といっているわけです。

                    


<「栄え」はここでは「栄誉」がいい>

 そしてグローリーが出てくる。これを「栄え」と訳しているのですが、意味は不明でしょうね。
栄えは繁栄というのが、通常の理解でしょう。
だけど、繁栄があなた様のものです、といったんではなんだかわかりません。

 以前に、グローリーというのは、基本的にいのちというエネルギーであり、
そこから「力」と「栄光」という光とが派生し、栄光から栄誉が派生するといいました。

 それをふまえると、ここは誉れ、栄誉とするのがいいように思われます。
すると「天の王国とそこにみなぎる力と栄誉はあなた様のもの」ということになります。


どうしてそんなことを言うか? 
わけは次のように考えられます。

すなわち、それまでのフレーズでは、「~~してください、してください」とお願いしていますよね。

そこで最後に「この様にあなた様にお願いするのはこういう理由によってです」といってるわけです。
その理由を言うのがこの最後のフレーズ。

その理由の意味は、「この宇宙をも含む天の王国も、そこにみなぎる力(エネルギー)もあなた様のものだから、
あなた様でしかできないから」であり、

 そしてそれをしてくだされば、「そのみわざにたいしての栄誉もまたあなた様のものでありますから
(私たちはあなた様を誉めたたえますから)」どうぞしてください

~~ということになるでしょう。

 全能の創主に何かしていただく場合、被造物にできるのは誉め讃えて感謝することだけですから。


                    

<「限りなく」は「永遠に」>

 なお付言すれば、これに続く最後の「限りなく汝のものなればなり」も何言ってるのか分かりづらいですね。

まず「限りなく」、がいけない。これは「何時までも変わりなく、永遠に」という
時間的なことをいっています。
だが、「限りなく」ですと、空間的に限りなくという意味をも含んでいて、漠然としてしまいますね。
「すべてが・・・」というニュアンスになって、意味がぼけてしまっている。ダメですね。

                    


<「汝」とは何じゃ!>

   もうひとつ「汝」。これは「分からない」を通り越して「いけない」。
創造主様に向かって「なんじ」とはなんですか!

 昔はどうだったか知りませんが、今の日本語では、汝というのは、同等以下の相手を指して使う単語ですよ。
牧師さんが「汝、罪人よ!」と会衆を指して言ったりしている。
仰ぎ見るべき存在に向かっていう言葉ではない。
被造物が、自分をお創りになった創造主に対して、使う言葉ではありません。

 日本語では、やはり「あなた様」とかいわないと、何言ってるのか分からなくなります。


                    


 現代日本ではこの「主の祈り」は礼拝時に多くの教会で唱えられています。
だけど、ほとんど意味が分からないままに出席者は唱えているでしょうね。

意味が分からないで唱えているのは、呪文と同じです。
日本の福音活動には手直しをせねばならないところがまだ多く含まれていそうですね。

                    

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臨時版 『創り主を覚える』

2007年06月24日 | ヨハネ伝解読
 




                   

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「若き日に、汝の創り主を覚えよ。わざわいの日が来ないように。また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」(伝道者の書、12章1節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 このチャーチではしばらく、上記の聖句を掲げたく思っています。

 鹿嶋は、田舎者のせいか、人の品位感について思いをはせることがよくあります。
色んな人に出会います。上品な人もいれば、そうでない人もいます。

 時が流れて、また会います。
 レベルは低くても前より上品になっている人もいます。
 上品だけど以前に比べると下品になっている人もいます。

 人間から発する品位感というのは、何から出来上がるだろうか、と想います。



                    


<修練した品位感>

 ある宗教者に、ある乗り物の中で出会いました。
 修行、修練をとても重視する宗派の僧侶さんです。
 歳取っても輝いているような上品さでした。

 人間離れしている上品さとでもいうか。
それが強烈にあふれ出ていました。

 けれども、その上品さには、努力の跡がありました。
 修練した上品さと言いましょうか・・・。
とりようによっては、見せるための、というニュアンスが全くないわけではない。
これはもうプロには避けられないものでしょうが。

                    



<自然な品位感>

 他方、修練せずとも、平凡な日常生活を送っていて、上品の薫りが漂う人もいました。
この人には“修練した上品さ”はありませんでした。
 それは努めて作ったものではなく、なにか他のどこかから与えられて薫りを漂わすという感じでした。

 春平太には、長い間その由来が不明でした。
 けれども最近すこし感知できてきたような気がしています。

 それはいつも「自らの創り主を覚えることによって」なっているのではないか。
「いのちエネルギー」を常時与えられていることによってそうなっているのではないか。

 「創り主を周期的に、または、常時覚えること」が自然な上品さの源泉ではないだろうか~~と。

                    



<意図せず楽しんでいるうちに>

 のみならず、これは聖句を「動くもの」、「活きて働くもの」にするポイントでもないかとも思います。

 「自分の創り主を想うと」聖句の持つ味わいや風味、その素晴らしさが格段によくわかってきます。すると、その快適感を味わいたく、また聖句に触れていきます。

 自然な品位感というのは、その行為の結果なのではなかろうか、と思います。
「自然な」というのは「意図せざる」と言い換えてもいいものでしょうから。
品位感を高めるのを意図していたら、それは「修練した品位感」になっていくでしょうから。


                    

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Vol.200『一連の偉業は今すぐ実行されるよ』(13章31~2節)

2007年06月11日 | ヨハネ伝解読
 

イエスの次の言葉に参りましょう。

                                        

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

「『そしてもし、創主が彼(人の子:イエス)によって栄光を受けられるならば、
創造主はご自身によって彼(イエス)に栄光を与えられるはずだ。
しかも創主はただちに与えられるよ』」(32節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


前半の
「『そしてもし、創主が彼(人の子:イエス)によって栄光を受けるならば・・』」

 ~~は、前回に述べたのことを、繰り返している部分です。
ですから、「栄光」を「栄誉」に変えて、

『そしてもし、創主が彼(人の子:イエス)のなかで栄誉を受けるならば・・』

 ~~と解すべきとなります。

前回にはそれを、「イエスの功労が創主の栄誉の表れになる」と意味に解しました。


                    


では後半の~~

「『・・・創造主はご自身によって彼(イエス)に栄光を与えられるはずだ。・・・』」(32節)

  ~~はどうでしょうか。鹿嶋はここでも栄光を栄誉に変えて
「創主が・・・イエスに栄誉を与えられる・・・」という風に解するのが妥当に思います。

 具体的にどうやって栄誉を与えるかというと~~
イエスを復活させ、昇天させ、天の創主王国の統治者にすること、ことによってそうされるのだと解します。

 天の王国は創主の王国です。
そこでイエスに統治者の地位を与えるということは、栄誉を与えることになるでしょう。


                    


 では末尾の
「『・・・しかも創主はすぐに彼(イエス)に栄光を与えられるよ』」(32節)

 はどうか?

 この栄光はダブルミーニング(二重の意味)をもつとして解したらどうかな。
一つは、「力(いのちエネルギー)」です。

31~2節に記録されたイエスの一連の言葉の、最初のフレーズ「創主はイエスに力を与える」と同じですね。すなわち

「『・・・そして創主は(これから)すぐに彼(イエス)に力を与えられる』」(32節)

~~となる。
そして、それがイエスに栄誉を与えることに繋がっていきます。
つまり、もう一つの意味は「栄誉」ですね。

「イエスに力を与えること」は、それ以前に言ったプロセスの出発点になっています。
 これがなると、以下はドミノ倒しのように進行していくのです。すなわち・・・

 ①イエスに力を与える。
→ ②イエスが苦難の業を成し遂げて、自らの中で創造主の栄誉を現す
→ ③その功労をみて今度は創主が、死んだイエスを復活させて、
自らの「天の王国の」中で、イエスに最高統治者としての栄誉を与える。

 ・・・であります。

 そしてイエスは、このプロセスはいま直ちに実行される、といっているのではないか。
 
 難しいですね。
 でもなんか、200回目にふさわしいような雰囲気の記事になりましたね。

                    


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Vol.199『イエスによって創主の栄誉が現れる』(13章31~2節)

2007年06月07日 | ヨハネ伝解読

グローリー(栄光)の根本は、いのちエネルギーであり、力である。
前回示したこの見解から、先ほどのイエスの言葉を理解してみましょう。
聖句は前回と同じです。


                                        

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

「彼(ユダ)が出て行くと、イエスは言われた『今、人の子が栄光を受けたよ。また創主が人の子によって栄光を受けられた。
創主が彼(人の子:イエス)によって栄光を受けられたのであれば、創造主もご自身によって人の子に栄光を与えられる。
しかも創主はただちに栄光を与えられるんだ』」(31~32節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    

このうちまず、
 「『今、人の子が栄光を受けます。そして創主が彼によって栄光を受けます。」(31節)

~~という部分から。


~~結論的に言って、これは次のように訳した方が意味が通るように鹿嶋は思います。

 「今人の子が力(グローリー)を受けます。そして創主が彼(イエス)によって
栄誉を受けます」(31節)



                    

~~そのうちの前半の「今、人の子が栄光を受けます」は、

 「栄光」を「力」に置き換えた方が適切な訳文になると思われます。
ここは、今イエスが従来に増して大きなパワーを受ける、ということを指していると鹿嶋は解するからです。

 これからイエスは、ものすごい拷問を受け、その苦しみに耐え通して、自分がこの世に来た責務をやりとげます。
以前に行った様々な癒しにもパワーが必要だったのですが、
今回の仕事は、それを遙かに超えた力を必要とするのです。



                    

~~後半の「そして創主が人の子によって栄光を受けます」は、
「栄誉を受けます」と解します。訳文もそうした方がいいのではないかな。

 イエスはパワーを受けて、創主に与えられた責務を従順になしとげます。
それは「創造主はその命令で、イエスをそれほどまでに従わせられるお方」ということを
イエスによって明示されたことになります。
これすなわち「イエスによって創造主は栄誉を受けている」ことにつながるでしょう。
そこでここでの「グローリー」は「栄誉」が適している、と考えられるのです。


                    

<癒しと創主の栄誉>

 上記の箇所はイエスが行った癒しと、創主から与えられるパワー、及び創主の栄誉
との関係を考えると、
もう少し理解しやすくなるかも知れません。

 聖書の論理では「癒し」というのは、いのちエネルギーを集中的に浴びせたら実現することになります。

 創造主からは、いのちエネルギー(力)があまねく放射されています。
しかし、それは春の陽光のように、そのままでは、穏やかな暖かさでもってモノを暖めるだけです。
しかし、凸レンズでそれを一点に集めたらどうなるでしょうか。新聞紙をも燃やすほどの熱になるでしょう。

 イエスの癒しはこういうメカニズムで実現していると考えられます。
なぜならイエスの意識(=霊)波動は、創主のそれと同じになっています。
「人の子」イエスは、地上ではそう努めています。

 すると、いのちエネルギーは、まるでレンズに集められるかのように、
その意識を発している霊に呼び込まれ、集約され、凝集されます。
イエスはそれを特定の対象に照射します。
こうして癒しが生じる~~という図式です。


                    


 創造主から発せられているいのちが凝集され、照射されたら、
病んだ細胞などたちどころに溶解し発散・昇華していきます。
同時にまたそこに新しい細胞が創造される。これが病むものが回復する道理です。

 その際、そのいのちエネルギーの源は創造主です。
それがイエスの癒しの業によって現わされる。
こうして、創主の栄誉がイエスによってこの世に現わされたわけです。

 「創主が彼(イエス)によって栄誉を受けます」(31節)

 ~~というのは、そのように理解できそうです。



                    


<ヒーラーエバンジャリストの癒しは?>   

 この機に、ヒーラー伝道師のケースにも触れておきましょう。

 ヒーラーは人間です。
けれども人間の意識(霊)であっても、創主の意識に近くなれば、
自らの内にいのちエネルギーを凝集させ、病人に対して照射して癒しをもたらしうる道理になります。

 創主と同じ意識というのは、イエスと同じ意識と言うことです。
そうなるにはどうしたらいいか。
イエスの言葉が内に留まるようにしたらいい。
それが留まり、動き出し、自分の意識を動かすようになればいい。
そういう論理になりますね。

 イエスの「わたしの言葉があなた方の内に留まるならば、父に求めるものは聞き届けられる」という言葉が、
しばらくすると後の章に出て参ります。この約束は、今述べた論理に対応しています。


                    


 これがヒーラー伝道者の癒しの仕組み、癒しの論理です。
戦後米国でオーラルロバーツやキャサリンクールマンやベニーヒンに現れてきた癒しのわざは、それによる。
彼らの意識が創主のそれにとても近くなっているからだ、と考えられるのです。

 そして、鹿嶋春平太にそれが現れていないのは、まだ、そこまで意識が近づいていないから、ということになる。
読者の皆さんの大半も同じでしょう。

 でもこれでがっかりしないようにしましょう。
「まだ」そこまで行っていないので現れないだけ、ということ。
みんな、癒しを現す可能性は持っていると考えましょう。


~~ともあれ、イエスやヒーラーエバンジャリストたちが行う癒しは、
父なる創造主から発するパワー(いのちエネルギー)によってなされるわけです。
それすなわち、創主(の力)が現れたのであり、
こうして「癒し現象のなかに、創主の栄誉が顔を出して現れている」ことになる。

「創主が人の子(イエス)によって栄誉を受けられる」(31節)という聖句の訳は、
そういうアイデアで鹿嶋がつくったものです。

                    


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Vol.198『グローリー(栄光)とは何か?』(13章31~2節)

2007年06月05日 | ヨハネ伝解読
~~少し余裕が出来ました。
 「ヨハネ伝解読」を一寸進めてみようと思います。


                    


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

「彼(ユダ)が出て行くと、イエスは言われた『今、人の子が栄光を受けます。そして創主が彼の中で栄光を受けます。そしてもし、創主が彼(人の子:イエス)のなかで栄光を受けるならば、創造主はご自身の中で彼(イエス)に栄光を与えられるであろう。そして創主は(これから)すぐに彼(イエス)に栄光を与えられましょう』」(31~32節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    

~~いや~ぁ、難しいですねぇ。

 ともあれ、前回の聖句「悪魔がユダに入った」(27節)は「ユダに悪魔の“思い”が入った」と解釈することにいたしましょう。

 するとユダは外に出て行きます。そして後に、イエスを捕らえようとする一群を連れてくることになる。ですから、ユダが最後の晩餐の場から出て行くところでもって、事態はクライマックスに入っていくわけですね。

 で、このタイミングにイエスの口から出たのが、本日の聖句です。

 ここは難しい。なに言ってるのかわかりにくい。
 ですけどこの聖句の中では「栄光(glory)」がキーワードらしいことはわかります。


                     


 けれども、このグローリー(栄光)というのが、わかったようでわからない聖書用語なんですね。今回はそれを考えましょう。

 栄誉のような感じもする。栄誉として解釈すると、通るところもよくあるのです。しかし、力と解した方がよく意味をなすところもあります。そうかというと文字通り、光と解せそうなところもあります。

 どうもこの聖書用語は、多義的(たくさんの意味を持っている)な言葉なようです。

 でもそれを、そのままにしておいたら、解読になりません。なにか、より根本的で統一的な意味を見出しておきたいことろ。そこで今回は、グローリーに対する春平太の個人的解読を示すことにします。


                    


 結論から言いますと、グローリーの実体は、創主から出ているエネルギーとイメージするのがいいと鹿嶋は考えます。

 創造主から出ているエネルギーは、聖書では、「いのち」という言葉で示されている「いのちエネルギー」です。

<力>

 エネルギーは、そもそも力でもあります。だからグローリーは力でもあることになる。この力という側面は、後の光や誉れよりも、根底的です。グローリーの実体が、いのちエネルギーなのですから。


<光>

 エネルギーは光を発することもあるのではないかと思われます。一定の凝集をすると光を発するとイメージできる。で、いのちエネルギーの発する光を示す言葉が栄光です。

 栄光の光は、この世の物的な光(light)とは違います。近代物理学が明かしているように、この世の光の実体は、光子という一つの素粒子です。素粒子は非造物ですから、こちらは「被造の光」です。

 対して栄光(glory)という光は、「創造の光」です。鹿嶋は被造物というのは「いのち」エネルギーが凝固して形成されていると想像しています。その被造物の源になっている存在が発する光ですから、これはまた、被造の光などとは比較にならない深さ、強さを持っているとも考えられます。

<誉れ>

 光輝くモノに対しては、非造物である人間や天使は、誉れを感じ、仰ぎ見る本性をもっています。栄光は被造の光よりも桁違いに輝かしい強烈なものです。そこで栄光の光を発するものに対しては、とりわけ他者は栄誉を与えるようになります。かくしてグローリーは栄誉という面も持つことになります。

                    


余談ですが、聖書というのは、煎じ詰めたら、いのちエネルギーの方程式理論ではないか。そういう印象を鹿嶋は受けています。この「いのち」の行方、あり方に注目したら、奥義は顔を出すのではないか、というのが春平太の感触です。

                    

 ~~本日の聖句に戻りますと、これからイエスはさげすまれ、拷問され、多量の血を流し、十字架で処刑される・・・という苦難に遭います。もうこれは彼がこの世に来たときすでに決まっているのであって、それが彼の果たすべき究極の仕事なのです。

 その彼がこの仕事を成し遂げられるように、いま創造主は、栄光という創造の光を発するエネルギー(力)をイエスにふんだんに与えます。このあたりまでは問題なさそうですが、それ以上の詳細はホントにわかりにくいです。次回から、解読を試みましょう。微力ながら・・・。どうなるかわかりませんけど・・。

                    
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