鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.289『イエスは創造主の名を現した』(17章6節)

2010年08月31日 | ヨハネ伝解読
創造主に向かってイエスが語りかける(祈る)言葉が続きます。


本日の聖句はこれです。
(右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしは、あなたが世から取り出して私に下さった人々に、あなたの御名を現わしました。
彼らはあなたのものだったのです。そしてあなたは彼らを私に下さいました。
彼らはあなたの御言葉を心に保ちました」(17章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                 


この聖句も、詳細に吟味しておくべき点をいくつか含んでいます。


                    

<予定説ではない>

まず、「あなたが世から取り出して」 の聖句。
これを見て「えっ?」とおもう人も少なくないでしょう。

創造主が「イエスの12弟子を世から取り出してイエスに与えた」ということは、
「創造主はみな選んで事をなされる」のか、と。
すると、救われるのも実は、創造主の選びによることになるのでは?ないか、と。

さらにそうすると聖書では救われるのは、「福音の言葉を信じる(信仰を持つ)ことによる」のですから、
信じる心を持つ、すなわち「信仰を持つ」のもあらかじめ選ばれた人がそうなるように決まっているのか、となります。

だったらこれは予定説だ。「予め創造主が救われることを予定した人だけが救われうる」という予定説だ。
宗教改革で有名なカルバンが唱えた予定説は正しいことになるんだ、と。


                    

だがそうではない、と鹿嶋は解します。
12弟子たちは特別な職務を与えられるのです。
イエスが天に昇った後、イエスの教えを人々に伝道するという職務です。
職務は選びによります。パウロも選ばれてあの働きをさせられているのですね。

だが「救い」は創造主が選ばれるのではない。個々人がイエスの言葉に信頼をよせることによる。
信頼する可能性は全人類に開かれている、と鹿嶋は解しています。

                    

<被造物は創造主のもの>

次は「彼らはあなたのものだったのです。そしてあなたは彼らを私に下さいました」です。
これはそう複雑ではないでしょう。


聖書の思想では12弟子に限らず、この世の存在物はみな基本的に創主のものです。
創主はそのなかから12人の男を選び出されたのです。
そしてこれを創主はイエスに与えられた。そういう理解をイエスはしているわけです。

                    


<「創造主の名」は解読が必要>

さて
「(イエスが弟子たちに)あなたの御名を現した」は、衝撃的で思案すべきところの多い聖句です。


「創造主の御名をあらわす」の「現す」は「ニューアメリカンスタンダードバイブル」
(米国で最もギリシャ語聖書の原文に忠実とされている)
ではマニフェスト(manifest)となっています。
昨今、日本の政治記事でお馴染みのマニフェストです。

この語の意味は「明示する」と辞書に出ています。
だが、聖書には何処にも「創造主の名はこれこれだよ」とイエスが明示している場面はありません。

これはどういうことでしょうか。
ひとつには、こういう可能性もあります。
イエスは弟子たちに明示した。が同時に、これは他者には絶対に明示してはならない、といった、と。
だから聖書にも明示されていない。ヨハネもこれは敢えて書いていない、と。
屁理屈ではない。これは真面目にいって、ありうることだと鹿嶋はおもいます。

もう一つには、こういう可能性もあります。
manifestは「幽霊が目の前にでて来るように現れてくる」という意味も持っています。

これでいきますと、イエスは「創造主の名を当初からはっきりするように明示したのではなく、
幽霊がだんだん見えてくるようにした」というようにもなるのです。

いずれにせよ、創造主の名がなんであるかは解読せねばなりません。
ここではその覚悟を定めるまでとしておきましょう。


                    

<心に保持する>

最後に、「彼らはあなたの御言葉を心に保ちました」です。
この「保ちました」は上記の英文聖書では、kept(keepの過去形)となっています。
すると「守りました」とも訳したくなります。
でも日本語の「ことばを守る」は、「ことばに行為が反しないようにする」
という意味が優勢になります。
けれども、ここはそうではない。
「ことばを弟子たちが心に保持する」という意味のほうが適合するでしょう。


                    


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Vol.288『私はこの世が創られる前に創造主と共にいた』(17章5節)

2010年08月28日 | ヨハネ伝解読

「ヨハネ伝解読」、相変わらず17章を進みます。

この章は全文が創造主に向かってイエスが語りかける言葉です。

イエスが弟子たちに語る時には、「ここまでは今は理解できないだろうな」 とか、
「ここは喩えで話すしかないな」というところが出ます。
だが、全能の父なる創造主に祈るときには、事実そのままで語ることができる。
それだけに、他の章にはない奥義が17章には期待できます。


本日の聖句はこれです。
(右上に「文字サイズ変更」機能があります。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「今は、父よ、みそばでわたしを栄光で輝かせて下さい。
世界が存在する前に、ごいっしょにいてもっていましたあの栄光で。」(17章5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


ここでの「世界」は我々の住むこの宇宙です。
『創世記』の冒頭に造られていく様が記されている「この世」です。

聖句でイエスは、「この世が存在する前には、自分は創造主と共にいた」と創造主に語りかけています。

ヨハネはこのイエスの創造主への語りかけ(祈り)の言葉を記憶していました。
それによって有名な「ヨハネ伝」の冒頭聖句を書き出すことが出来ました。

「始めに言があった。言は創造主と共にあった。言は創造主であった。
この方は、初めに創主と共におられた」(1章1節)がそれです。


                    

<創造霊の肉体化>

蛇足ですが、この思想は同じ冒頭章の14節にも繋がっていきます。

ヨハネは、十字架上のイエスの身体が槍で刺された時、「水と血が出た」ことを観察していました。

「この方の身体は、われわれの身体とは違うものだったのだ」と確認しました。
それと本日の聖句にみられる「イエスはこの世が創られる前に霊として創造主と共に存在していた」
という思想が組み合わさりました。

こうして「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(1章14節)という聖句が生まれました。
 それは「(創造霊の)肉化」(incarnation)という神学用語にも繋がっていきます。


                    



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Vol.287『わざはあなた(父)からのものです』(17章4節)

2010年08月22日 | ヨハネ伝解読

「ヨハネ伝解読」17章を進みます。
(右上に「文字サイズ変更」機能があります。
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本日の聖句はこれです。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「あなたがわたしに行わせるべく与えて下さったわざを、
私は地上で成し遂げて、あなたの栄光を現しました」(17章4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


17章は全文が創造主に向かってイエスが語りかける言葉です。
前回、第三節ではイエスの言葉の主旨を
「永遠のいのちを得るには創造主を実感すること」、
というふうに解読しました。

今回第4節は、イエスのわざと創造主とその栄光との三者の関係をいうところです。


                     

イエスが地上を去る時が近づいています。
イエスはこの地上でなしてきたことを創主に向かって総括するなかでまず~
「あなたがわたしに行わせるべく与えて下さったわざ」
~という言葉を発します。

これはイエスが「自分がこの地上で行った癒しなどのわざは、父が与えて下さったもの」
と確認する言葉です。
地上で癒しを行う前にも後にも、イエスの意識の中には常に創造主があるのです。


                    

<わざの代表は癒し>

イエスがこの地上で人間に見せるわざの代表は「癒し」です。
病は人間の肉体を痛め、苦しめます。これは地上の人間が経験する最も直接的な苦しみです。
人々は癒されることによって最も強くイエスのわざを実感するのです。


                    

<わざは創主からのものという知識背景>

イスラエル人は、癒しのような技は創主のみがなすものという知識をもっています。
そういう思想が旧約聖書(イスラエル人には「聖書」)にあって、
彼らは旧約聖書に記されていることを真理だとして暮らしているいるからです。

(ちなみに旧約では、そういう民族イスラエル人を創造主が意図的に造ったということになっています)

そこにイエスがわざを成した。人々は驚きます。
だがイエスはそれを「父なる創造主が与えて下さったもの」と常時意識していますので~

「わざを、私は地上で成し遂げて、あなたの栄光(力)を現しました」

~という本日の聖句になるわけです。

(この場合の「栄光」は力という意味です)



                    


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Vol.286『永遠のいのちは創造主をリアルに感じることによって得る』(17章3節)

2010年08月01日 | ヨハネ伝解読
ヨハネ伝解読、本日は17章の第3回で、聖句も第3節です。
(右上に「文字サイズ変更」機能があります。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(17章3節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

この節は、永遠のいのちを得る方法がポイントです。
前の第3節で、イエスは「イエスを信じる者に永遠のいのちを与える権威を、
父なる創主は独り子イエスに与えられた」といいました。

 本日の第4節では、その永遠のいのちは「創造主とイエスを知ることによる」といっています。

                    


ただし聖句では「永遠のいのちとは・・・・を知ること」という表現になっている。
「いのち」はすぐ後に述べるように、鹿嶋はエネルギーと解していますから、
これは具象名詞です。他方、「知ること」は行為を示す抽象名詞ですね。

このふたつは通常等号で結びつきがたい。
やはり「知ることによる」というふうに方法を言っていると解すべきでしょう。


                    

<いのちはエネルギー>

 では、「創造主とイエスを”知ること”」によってどうして永遠のいのちは得られるのか。
これを考えていきましょう。

 まず著書でもこのブログでも繰り返し申してきましたが、
鹿嶋は聖書の「いのち」とはエネルギーのような概念だと把握しています。
だからわかりやすくするために「いのちエネルギー」と言い換える。

 (聖書の思想ではまた、このエネルギーは全ての存在物の源でもあり、永遠に存続するものです。
全ての被造物は、このエネルギーが転化することによって創造されたものなのです)

他方、人間の霊は、このエネルギーを充電する充電式乾電池のようなイメージになっています。
いのちエネルギーは、人の霊に充電されうるというのが聖書の思想なのです。

そして、人の意識が創造主の意識と共鳴する状態で創造主に向けられているとき霊は充電される。
創造主はいのちエネルギーの源で、エネルギーはそこから常時放射されている
~という思想に聖書はなっているというのが鹿嶋の解読です。


                                        

<聖書の「知る」はリアリティ濃く知る>

 ところが本日の聖句では、「意識を向ける」ではなく「知る」となっている。これはどういうことか?

まず聖書で用いられる「知る」は、現代我々が通常使う「知る」より重い意味を持っていることを知ってください。
われわれは通常「知る」を「認知する」と解しています。すると認知は軽いものでもいい。

聖書ではそれはむしろ「体験して知る」を意味するのが通常です。
バイブルの「知る」は確信の大きい、深い認識を意味しているのです。
ですからこれは「実感する」というか対象をリアルに、リアリティ(真実味)をもって認識することを意味する。

同じ認識でもリアリティの薄い認識もあります。
対象のイメージでいうと、リアリティ(真実味)が濃いときにはイメージも濃いのではないでしょうか。
そのとき人は、自然にその対象に強く意識を向けるようにもなります。

今回その認識対象が「父なる創主」と「その独り子、イエス・キリスト」なわけです。
そこでこの対象に関する「リアリティ」についてに考えてみましょう。
                    

                    

<創造主は姿をイメージ出来ない>

万物の創造主を直接認知することは人間にはできません。
創造主は霊であると同時に、時間的にも空間的にも無限者だからです。
空間的に無限者ということは、その像をイメージ出来ないとうことでもあります。
像というのは、有限な広がりを持つものを、その周縁をイメージすることによって成り立つからです。

周縁がないから形がない。
形がないから像のイメージが結べない。
もし結んだら、それは創造主とは無縁な偶像ということになります。

だからイメージが濃いも薄いもない。
そもそも形成することすらでにないのですから。
故にリアルに認識することなどできません。


                    

<イエスは創造主を実感させる方>

 このように創造主の認知は難しいのですが、聖書はその方法を提示しています。
イエスを認識することでもって、それを通して父なる創主を実感するという方法がそれです。
イエスが「わたしを見た者は父を見たんだよ」と弟子ピリポに語った言葉はそれ示しています。
(ヨハネによる福音書、14章9節)

でもこれは短絡的な表現ですね。
実際にはイエスを見たことが、即、父なる創主をみたことになるのではないでしょう。
イエスと父なる創造主は「全く同じ」ではないからです。
つまり、「イエスを知ることで、これこれになって、父なる創主を実感したことになる」
という「これこれ」の説明がここでは必要です。


                    

<奇蹟と聖句のディテール>

イエスが「父からのものだ」として行う行為がたくさん聖書には記録されています。
代表は奇蹟でしょう。
特に癒しは、創造主が全能で哀れみ深い方であることを実感させてくれます。

奇蹟以外ではどうでしょうか。
イエスの行為を通して 示されるイエスの品性も、創造主の品性を想像させます。

だが、奇蹟を見ることもイエスの品性を感じることも、それがそのまま創造主を深く認識することには繋がりません。
もう一つ、その認識を「深める」方法が必要なのです。

 その方法は、結局「聖句を詳しく吟味していくこと」になると思います。

イエスは自分の語る言葉も「父からのもの」といっています。
そして聖書の中のイエスの言葉は多岐にわたっています。
それは旧約聖書を背景にしていますので、旧約の聖句にもつながっています。
その詳細に立ち入って吟味すると、創造主をリアルに実感することに至るのです。


                    

 人間にはそういう心理がある。
小説作法を示す格言に「リアリティ(真実味)はディテール(詳細記述)に宿る」
というのがあります。
小説はつまるところはフィクション(作り話)です。
その作り話にどれだけリアリティを感じさせるか、が作品の勝負所です。
そしてそれはディテールをどれだけ描くかにかかっている、というのです。

司馬遼太郎は歴史小説の中で、しばしば歴史資料から事実を詳細に書き加えています。
それは実は、読者にリアリティ感覚を抱かせる手段でもあったのですね。

聖書を読む時にも同じ心理が働きます。
ディテールに立ち入って吟味すればするほど、聖書の話のリアリティは高まる。
イエスに関する話も、詳細に吟味するほどに、実感が高まる。
父なる創主も深く実感出来るようになります。
そして、そうするとその人の意識は、創主に強く向けられ、
その意識波動も創造主の波動によく共鳴するようになります。
こうしていのちエネルギーは霊に充電されるようになります。


                    

<聖句主義の利点>

 また細部(ディテール)に入ることによって、深い実感を得るというのは聖句主義活動でこそ起きることです。
これは教理主義では得られない感覚です。
教理はディテールを削ぎ落として簡素にしたものですから、探求余地は少ないからです。
鹿嶋はそれ故に、バイブリシズム(聖句主義)活動をキリスト教活動の神髄と見ているわけです。
このことはキリスト教の奥義だと思っています。


                    



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