鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.205『“わからなくても従え”という命令もある』(13章33~5節)

2007年07月25日 | ヨハネ伝解読






「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)

 今日も創り主を想いましょう。

 創造主を憶えた状態でものごとをなしているかどうかは、福音のすべてに関わることがらであり、福音理解の8割をしめることだと思います。

 イエスを言うときにも、その方が創造主のふところから出た存在であることを意識していなかったら、この世でまつられている偶像に実質近いものに、心の中ではなっているでしょう。
 
 聖霊を言うときにも、その方が、創造主から分離した存在であることを意識しなかったら、まじない信仰のあるじに近いものに、心の中ではなっていくでしょう。

 葬式に列席していても、飲み食いしいていても、そういうことがらが万物を創った創造主のふところの中で行われていると覚えていたら、福音の8割は把握していることになるのではないかな。

                                       

本日の聖句も、前回と同じです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私(イエス)は、今、新しい命令を諸君(弟子たち)に与えます。互いに愛し合いなさい。わたしが諸君を愛したように、諸君も互いに愛し合いなさい」(13章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 今回は「命令します」の、第二のケース、「今はわからなくても従え」について少し突っ込んで考えてみましょう。
      
 我々の日常を考えましょう。なにか「して欲しい」と言われることがある。その際我々が自発的に行動する可能性は、内容がわかり、納得したときに出ます。納得できないときには、そういう可能性は出ません。


                    



<通常イエスは理解に余裕を与えている>

 イエスは通常どう弟子たちに接触しているでしょうか。彼らの自由意志を基本的に大切にし、理解する余裕を与えていますね。教えを述べるときに、強制や脅しをいっせつ使っていませんし。

 ただしこれは通常は弟子たちが理解しているからではないでしょう。イエスの言っていることについては、弟子たちはその理由がよくわかりきれないという部分もあるのではないでしょうか。

イエスの教えは、霊界に関わりを持つことです。またイエスは全知の「父なる」創造主と交信している存在ということに、聖書ではなっています。対して、聞く方は人間です。理解できない「部分」があっても当然でしょう。

 イエスは、詰まるところは自分のメッセージはそういうものだ、と考えているように思われます。教えを心に受け入れるという作業にも、実は、理解し切れない部分もあるけれど受け入れていくという心的行為が含まれている---こうになりますね。

 でも、「命令だ」といって行動を積極的に要望してはいません。時間を掛けてゆっくり理解していけばいいんだよ、というのがイエスの通常の姿勢ですね。


                    

<詰まるところは「幼子のように」>

 他方でイエスは、こういうことも述べています。

 「・・・幼子のように創主の国(天国)を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決して出来ない」(ルカによる福音書、18章17節)

   ---天国に入ることとは、いわゆる「救い」を受けることです。これには「信仰による救い」の原則からして、教えを受け入れ、信じるだけでいいのすよね。

 これをイエスは「幼子のように」という。どういう意味か。
 私の教えには、つまるところは幼子のように受け入れるしかない部分があるんだよ、とこの聖句は言っているのではないでしょうか。

 
                   


<「理屈抜きに信じよ」と解しては危険>

 この「詰まるところは・・・」というニュアンスを看過して、「幼子のように」を“単純に”金科玉条にすると、危険が出ますよ。教理主義教会の教職者に支配される危険も出ます。

 大人は「イエスの教えは、理屈をあれこれ考えないで、幼子のように受け入れるべきだ」と、始めから受けとってはいけません。大人には、知性があります。やはり、教えの内容を可能な限り論理的に理解しようという作業は一方でしなければなりません。「信仰に知性を」という思想も聖書にはありますしね。

 その上で、理解しきれないところが残る。これをどうするか、ということへの答えを上記の聖句は示しています。そこは「幼子のように受け入れないと」救いには至れないのだよ、と。

 教会をのぞいていて、「よし、バプテスマを受けよう」と最終的に踏み切るのも、結局はこういう「幼子ステップ」を踏んでいるからではないでしょうか。

 大人が理屈を全く抜きに、ある教えを受け入れたら、まじないや呪術的宗教と同じグループの信仰に到りますよ。イエスの教えにまずは、出来うる限りの理解を志すのは必要なのです。春平太がいまやっている「解読」も、そういうことなのです。


                     


<オーラルロバーツ「癒しのステップ」>
         
 はじめに戻って繰り返しますね。イエスが、「自分がいなくなっても、諸君は互いに愛し合え」といった命令は、第二の方の「分からなくても従え」という命令です。

こういう通常と違ったことを言うのは、それがいまどうしても必要だったからでしょう。
 弟子たちが愛し合い一つになっていることが、イエスがことをなすのに必須だった。弟子たちが愛し合い一つに集まっているところに、聖霊を注ぐのですから。だから、イエスは「これは命令だよ、従いなさい」といったのですね。

+++

 こうした考察を通して聖書における「理解」「命令」「従順」「信仰」「知性」「主体性」などの思想の相互関係を正確に把握しておくことは大切に思います。

 で、最後にこうしたことへの知識にとって有益だと思えるものを一つ紹介しておきます。
戦後米国での三大ヒーラーエバンジェリストの一人、オーラル・ロバーツさんが語った「癒しに到るステップ」がそれです。

 彼は体験上それを四段階だといっています。

①信頼(信仰)
最初のステップはやはり意図的に、創造主をわからなくても信頼すること。

②知ること(知識)
聖句を通して創主の意図をよく知り、知識を増すこと。

③信頼感が心から湧きあふれ出る
  創主が分かってくると、創主への信頼感があるとき意図的でなくして心から湧き上がりあふれ出す。

④病めるものに手を置いて祈ると癒される。

~~ここでもやはり、最初は分からなくても信頼すること、からスタートしていますね。
そして次には知ること。創造主に関する知識を増すこと、つまり、「知」に入っています。


                    



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Vol.204『信じている状態と、行動する状態との違い』(13章33~5節)

2007年07月18日 | ヨハネ伝解読




                    

「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)

 今日も創り主を想いましょう。
 生活の雑事の中で、創主を放念しがちになっても大丈夫です。聖句がりますから。創造主が意識からなくなっていく。そのとき「若き日に、汝の創り主を覚えよ」という言葉がありますと、また、創主を想う意識が再形成できます。御言葉はキリスト教信頼(信仰)の中核です。御言葉を抱いていきましょう。


                    


 本日の聖句も、前回と同じです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私(イエス)は、今、新しい命令を諸君(弟子たち)に与えます。互いに愛し合いなさい。わたしが諸君を愛したように、諸君も互いに愛し合いなさい」(13章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    


 今回は「命令」について考える回です。
 命令といっても、「・・・しろよ」というような「行動の命令」です。

 少し理屈っぽく考えましょう。
 行動の命令といっても二つのケースが考えられるんではないでしょうか。

 第一は、「教えを只単に理解し心に受け入れるだけではなく、その通りに行動しろよ」という命令。

第二は、もう少し厳しい。「理解できず、心に受け入れられなくても(そういう部分があっても)、言われたとおりに行動せよ」というものです。


                    


<愛する人は教えに「従う」人>

第一から行きましょう。次の14章でイエスはこういっています。

 「・・・私を愛するものは、わたしの教えに『従う』でしょう」(ヨハネによる福音書、14章21節)


 この聖句を先取りして考えます。これは、「イエスの教えを理解して受け入れても、自分の行動がそのようにならない人もいる」ということを暗示しています。「信じている」けれども、まだ従わない人ですね。

 そういう状態もあり得るのです。言葉を理解し、ああこれはいい教えだ、と受け入れているだけの状態ですね。

 なおそういう「信じている」も、信仰を持ったことにはなります。だから、いわゆる「救い」にはあずかれるということに、聖書の論理ではなっています。救いは信仰による、というのは聖書の大原則ですから。

 しかし、そういう人は「わたしを愛する」人ではない、とこの聖句は言っているんですね。「従う」ひとが、「私を愛する人」だというのですから。いずれにせよ、第一の命令は、こういう「分かったか? では従え」という命令です。


                    


<弟子への要求は「とにかく従え」>

 ところが「従え」には「分かってなくても従え」というのもあるんですね。第二種類のの命令です。通常行動の命令というのは、これが多いですよね。

 「互いに愛し合え」という命令について、弟子たちは命令を受けた時点でその根拠、大切さを理解できたでしょうか。どうもそうでないように思われます。

 その理由が後になって分かってくる、というのが聖書のストーリーですからね。イエスがそれほどにいうのだから、「イエス亡き後に、自分(弟子)たちが愛し合う(愛し合い一つにまとまっている)というのは、よほど大切なことなのだろうなあ」という推察はできたかもしれませんが内容の理解には到っていません。

 イエスは、これについて命令と受け止め、従えといっています。考えてみれば、命令の大半はこの第二のタイプであって、命令の本質はこちらにあり、とでもいえそうですね。
この命令が持つ性格を、次回に考えてみましょう。


                    


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Vol.203『信徒が愛し合うのは、命令』(13章33~5節)

2007年07月17日 | ヨハネ伝解読


                    

「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)

 今日も創り主を想いましょう。

 生活の雑事の中で、創主を放念しがちになっても大丈夫です。聖句がありますから。創造主が意識からなくなっていく。そのとき「若き日に、汝の創り主を覚えよ」という言葉がありますと、また、創主を想う意識が再形成できます。

 御言葉はキリスト教信頼(信仰)の中核です。御言葉を抱いていきましょう。

 
                   


 本日の聖句は、前回と同じです。

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=聖句=
「私(イエス)は、今、新しい命令を諸君(弟子たち)に与えます。互いに愛し合いなさい。わたしが諸君を愛したように、諸君も互いに愛し合いなさい」(13章34節)
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 本日は、「命令」という言葉に注目しましょう。
イエスを信ずるものたちが愛し合うのは、自分が与える「命令」だとイエスはいっています。

 これは考えさせられるところですね。
普通、われわれ愛するというのは、その気になるからでしょう。人には自由意志というものがあります。好き嫌いもあるでしょう。生理的嫌悪、という言葉もあります。愛ですから、それに従ってするのが自然で、当然で、正しいことだと思いますよね。

だが、聖書ではそうではないようです。弟子たちが互いに愛するのは、命令に従うことによるのです。イエスの命令となれば、これは、もう、守るべきものなのです。


                    

<教会の出発点からのもの>

 ヨハネは、このことをしっかりと聞き届けているんですね。そしてこれがイエス教団のキーワードだと悟っている。だから、後に長老として、一般信徒に語りかける手紙でも「愛は命令です」と書いています。

 「・・・互いに愛し合いましょう。私はこれを新しい命令として書いているのではありません。これは(教団の)出発点から与えられている命令なのです」(ヨハネの第二の手紙、5節)


 こういうところにも、ヨハネが別格の弟子だったことを鹿嶋は感じ取ります。ヨハネに入れ込みすぎとお思いになるでしょうが、ヨハネは、イエスの教えるところを、ホントに深く、正確に理解していたのです。

 「命令」ときちんと捕らえているところにも、それが現れている。ではイエスの「命令」とはどんな意味を持つのでしょうか? それが「教え」だった場合などとはどう相違してくるのでしょうか? 次回に、それうしたことを考えましょう。


                    
    


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Vol.202『互いに愛し合っていなさい』(13章33~5節)

2007年07月08日 | ヨハネ伝解読





「若き日に、汝の創り主を覚えよ。」(伝道者の書、12章1節)

 今日も創り主を想いましょう。~~といっても、この世の生活の雑事のなかにいると、創り主が意識の中から消えていきがちですね。それはほぼ必然です。だから、仏教では本格的な教えの習得のためには出家が必要としているわけです。

 でも、我々の多くは出家したり、修道院に入ってしまうわけにはいきません。どうしましょうか。

 聖句が放念を補ってくれる手段に思います。創造主が意識からなくなっていく。そのとき「若き日に、汝の創り主を覚えよ」という言葉がありますと、また、創主を想う意識が再形成できます。まさに、御言葉はキリスト教信頼(信仰)の鍵になるのですね。

                    


 さて、ヨハネ伝の内容に戻りましょう。
 本日の聖句です。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私(イエス)は、今、新しい命令を諸君(弟子たち)に与えます。互いに愛し合いなさい。わたしが諸君を愛したように、諸君も互いに愛し合いなさい」(13章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 33節でイエスは、「自分がもうすぐ弟子たちの前からいなくなる」、とはっきり言います。弟子たちには、ぽかんとした人もいたでしょう。大半はそうだったかも知れません。そこでイエスは、もう一つダメを押します。

 「わたしの行くところに諸君が来ることは出来ない」(33節)

 これは弟子には衝撃だったのではないでしょうか。 先生、本気なんですか?・・・と。

 イエスが作り、教え、しるしを現してきたから成り立ってきている教団です。その先生がホントにいなくなったら弟子たちはどうなるでしょう。どうすればいいのでしょう。

                    

<創業カリスマが必要な時期>

 企業でいったらイエス教団は、やっと成長路線に突入したところなのです。まだ、組織として確立していない。創業者とのつながりだけを軸にして、集団の連携が成り立っている。こういうときに、カリスマ創業者いなくなるんでは、もうほとんど倒産です。
 
 企業ではカリスマ的創業者が、会社を成長路線に乗せる時期があります。松下電器の松下幸之助、ソニーの井深大、ホンダの本田宗一郎、そして今も生存中の京セラ、稲盛和夫。

 こういった人たちが、会社がやっと成長し始めたときに、いなくなったらどうなるでしょうか。空中分解です。会社という人間のまとまりが維持できなくなってしまう。

                    


<愛し合っていれば・・・>


 ところが、イエスはかまわず言っています。

 「私は、今ここで、新しい命令を与えます。互いに愛し合いなさい」(34節)

 「もし(私がいなくなった後でも)諸君が互いに愛し合えば、他のみんなが、ああ、あれはイエスの弟子たちの集団だ、と認知します」(35節)

 イエスには計画があったことが、後に分かってきます。だから「互いに愛し合って、群れをなしていなさい。そうすれば、私は次のことをするから」~~がイエスの真意でした。

<ヨハネは信頼して待った>
 
 ヨハネが後にこの福音書を書く時点では、もう分かっています。

(処刑されても復活して群れの中に現れ、聖霊を与え、諸君が私以上に働けて、この何百倍という教団が出来るようにする。だから、とにかく、まとまりを維持しなさい)

 ~~これがイエスの真意でした。でも、この時点では、そういう具体的なことはヨハネにはわからなかったでしょう。けれども、「何かしてくださる」という信頼は内にあったでしょう。

 (このまま、なにもないということはありえない)

 ・・・だが、それは漠然としたものでしかなかったでしょう。後に「イエスの死体がない!」と知らされて、彼はペテロと共に墓に走ります。そして、墓を見て、(ああ、復活なさったんだ)と弟子の中で最初に悟るのです。


                    


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