前回の日記に関連して自己紹介なしの(Unknown)人からの質問(コメント)がありました。以前の文章を読んでくれるように言ったのですが、やはり改めてエッセンスを記しておきましょう。
<「物理的イメージ世界」と「純イメージ世界」>
人間は各々、心の中に世界のイメージをもって生きています。それを鹿嶋は二種類に分けて捉えています。
人のイメージは通常は五感で受信したものを契機にして形成されますよね。目の網膜に写ったものを、そのまま意識に入れてはいません。それを取捨選択して自分なりのイメージを造っています。あの人はどういう人か、現実社会はどうなっているかなどのイメージです。
それらを組み合わせて造った世界のイメージを鹿嶋は「物理的イメージワールド」と名付けています。
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他方、そういう物理的な刺激がなくても、人は心の中でイメージを形成することもできます。これは考えてみると驚くべきなんですけれど、とにかく、そういうメンタルな力を人は与えられているのですね。
かぐや姫の「竹取物語」や桃太郎の「猿蟹合戦物語」などおとぎ話の世界はそうです。
東京ディズニーランドが形成するイメージワールドもそうでしょう。このパークはおとぎ話をたくさん組み合わせ、それを映画のセットのように装置付けし、音楽をつけ、人を配置しているものです。
これが形成する世界を鹿嶋は「純イメージワールド」と名付けています。
通常は、「空想の世界」とか「ファンタジーの世界」とか表現されていますよね。
<もうひとつの驚くべき精神現象>
人の精神能力、メンタルな力にはもうひとつ驚くべきものがあります。
それは、「純イメージワールド」にも強い現実感がもてるということです。
現実感、すなわち英語で言えばリアリイティですね。そのリアリティを時として物理的イメージ世界以上に濃厚に感じることが出来るのです。
まさか、そんなことあるか・・・。
それがあるんです。
東京ディズニーランドは全編おとぎ話の世界ですよね。
子供は純な存在ですから、人が入って動いているぬいぐるみのミッキーマウスにも、最初から生き物としてリアルなものを感じています。
大人は通常ディズニーランドに子供につきあって同行します。
アトラクションの乗り物も一緒に乗ります。
最初は「これは作り物のおもちゃの世界だ」と感じています。子供にとってと比べればつまらないものです。
ところが繰り返し色んなものに乗っている内に、心理が変化していきます。そしてあるときこれを子供と同じく楽しむようになっていくのです。どうなってるの? 大人もいつの間にか、この世界をリアルに感じるようになっているのです。
自分もミッキーマウスと握手しちゃったりして・・・・
<遊園地側の徹底した仕掛け>
実はこのために遊園地側は、徹底した手だてをしています。
ゲスト(お客さん)の目に、外の(浦安市の)現実社会が入らないように、公園の周囲に外壁を張り巡らせています。その高さは、入場者がどこにいても外部の景色は絶対に入らないように計算されたものになっています。
観覧車というのは公園につきものですよね。だが、これも設置していません。外界のイメージを入れないためです。
従業員(キャスト)は、ゴミが出たら即座に拾ってしまうべく回遊しています。ゴミは現実の物理的社会を想い出させます。ゴミが全くない世界が純イメージワールドの条件なのです。
ゲスト同士にいさかいなどが起きたときは、即座に当事者を別室に連れて行ってしまいます。けんかはゲストに恐怖感を与え、現実に引き戻します。即座に目に触れないようにしてしまうのです。
「カリブの海賊」とか「スモールワールド」とか「ピーターパン」とかの乗り物施設はアトラクションと総称しています。これらはたくさんありまして、そのいくつかを順繰りに手直し工事をします。故障もありえますしね。で、そいう工事があるときには、それが目にはいる周囲の乗り物なども全部休止にしてしまいます。誰にも見せない。工事現場は人を現実社会に引き戻すのですね。
その他諸々の仕組みが、公園を夢の世界に保つように設定されています。
このように徹底した純イメージワールドにい続けると、わずか一日のうちにでも人はそれに濃厚な現実感、実在感あるいは本物感といったらいいかなぁ・・・、とにかくそういうリアリティを感じるようになります。
こういう能力が、人間の心には与えられているんですね。
驚くべきことです。
<聖書の提供しているイメージ世界>
聖書が提供するイメージ世界も、純イメージワールドです。物理的イメージ世界ではない。でも人間には、これに現実感、リアリティを感じられるようになる素質が与えられています。
だだし、人がそうなるための仕掛けは、ディズニーランドのように物的に大がかりなものではありません。しかけは、言葉だけです。
聖書のイメージワールドは~~
万物の創造主がいて、
その創造主が統治する天の王国があって、
その中に天使がいて、
王国の中の外れた一角に小さな小さな(闇の)空間があって、
これが宇宙で、
その中に悪魔と悪霊が閉じこめられていて、
その中にチリのように小さな太陽系と地球があって、
人間がその地表に造られて存在していて、
そこで各々が肉体を持って
各々、百年ぐらい生きていて
そういうのが生まれたり死んだりを繰り返している
~~というようなワールドです。
これって大半が人間の五感覚で認知できないものですよね。だから、このイメージ世界はほとんど純イメージワールドだ。
そしてこの世界のイメージが、聖句という言葉だけによって形成されるようになっています。人間には想像力という驚くべき能力が与えられていますので、言葉を契機にしてイメージワールドを形成することが出来るのですね。
<言葉だけでどうやって?>
けれども聖書は言葉だけですよ。
こんなものだけで、そのイメージ世界にリアリティを感じられるようになることなどありうるでしょうか。
歴史的には「あり」でしょうけどね。
これに多くの人が現実感を持ち、そのために殉教したり教会を造ったりしてきたのですから。
だけど、今はテレビもありますから・・・。
現代感覚でそんなこと起きうるのか。
少なくともディズニーランドにおけるように容易でないことはたしかでしょう。
答えは「聖句を繰り返し、繰り返し読むこと」です。
聖句は言葉であり、言葉には外皮があります。この皮を突き通して内側にある肉を味わうことができると、人はその世界にリアリティを持つに至ります。
それには、その言葉を繰り返し繰り返し、読み、検討し、探求していくことが必要なのです。
それには数人の小グループを作って検討会をしていくと大いに助けになります。
こうして、生涯探求し続けるとある日突然聖書の世界がリアルになるのです。
<繰り返していて飽きない?>
繰り返し、繰り返し、というとこういう疑問がごく自然に出るでしょうね。
「・・・飽きない?」
そうですね。
普通の書物だったら、まず、しばらくしたら飽きるでしょうね。
けれどもバイブルは別なようです。
この本はとてつもなく深遠で、広大で、多面的な意味内容を持っています。
読んでも読んでも毎回新しい局面が開けてきます。
しかも、この書物に書かれている言葉の内で、イエスの口から出たものについてはイエスはこう言っています。
「私が諸君に語った言葉は霊でありまた“いのち”です」(ヨハネによる福音書、6章63節)
「私の語る言葉を掘り下げていくと霊にいたり、また、いのちに至る」という意味です。これは聖句の外皮だけをなでている間には体験できません。
内部の肉を味わい、掘り下げていくと、聖霊という創造主の霊に遭遇するわけです。そして、聖霊からはいのちというエネルギーがわき出しているので、そのいのちエネルギーも味わい吸収できることになります。
<聖句と教理>
人はなぜ聖書を解釈しようとするのでしょうか?
聖句の皮を貫き、肉に至るためです。
その探求のガイドになるのが先人の試みた聖書解釈です。これを教理ともいいます。
教理を書いた教理書は、聖句の内部に短時間で人を導くためのガイドなのです。
だが、教理書そのものは繰り返し読んでいくとまもなく飽きます。
教理書には、聖書の内容がわかりやすいように論理的に整理されて書かれています。
だが、論理的で容易にわかるというものは内容がそんなに深遠ではない、ということでもあるのです。
飽きないのは聖書の言葉、聖句であって、これを解釈した言葉ではありません。
ルターもカルヴァンも歴史に残る立派な神学者ですが、彼らが書いた言葉も繰り返し読んでいると結局飽きます。
<地下水脈とたまり水のプール>
これはたとえていうとこんなことでしょう。
聖句が持っている内容は、ある水源から水が限りなく流れ出している地下水脈のようなものです。
これをくみ上げ、飲み、味わうために人は地下にむけて深く掘りつつ、水道管を通していきます。
いわゆる、井戸掘りをするわけですね。
そして管の先端が水脈に突き当たると、以後美味しい水をくみ上げることができます。
他方、この地下水脈からは少量の水が漏れて上方に沁み通っても来ています。
岩や砂の間を通って沁みあがるわけです。
そして水脈と地表との間に、一定の容積の空間がありますと、そこに水がたまって地下水のプールができあがります。
掘り進んだ水道管が途中でそこに達しても水はくみ上げられるわけです。
そこで汲んだ方が水道管も短くて済み、安価です。
けれどもここでは、しばらく水をくみ上げていると、砂が混じってきます。
プールされている水の量に限度があるからです。
これがすなわち、教理書の言葉です。
対して、聖句は地下の本水脈に当たります。
聖書の言葉そのものを何度も繰り返し検討していくことが、聖書のイメージワールドにリアリティを感じられるようになる唯一の方法なのです。
(鹿嶋のブログを定期的に読んでくださっている皆さん:本日の記事は日本の福音動向のコンポンにかかわる内容のものです。ブログの最初のページをしばらくこのままにしておきますので、訪問の都度繰り返し読んでみて下さいね。「あ、またか」なんて思わないでね・・・)
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