鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.321 『弟子たちは天でイエスのエネルギーを直接みる』(17章24節)

2011年02月28日 | ヨハネ伝解読


    ヨハネ伝解読、今回は17章23節です。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「父よ、お願いします。
あなたがわたしに下さったものを、わたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。 
あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたために、わたしに下さったわたしの栄光を、
彼らが見るようになるためです」
  (17章24節)
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  前の23節では、イエスはこの世に残って働く弟子たちについて父なる創主に祈り願いました。

  それに次いでイエスは、弟子たちが宣教の使命を終えて、この世を去った後の彼らの処遇について祈り願っている。
それがここ24節の聖句です。

  「自分のいるところに、彼らも共にいさせてくれ」というのが願いの言葉です。
  ここで「彼ら」は弟子たちで、「イエスのいるところ」とは天の創造主王国、いわゆる天国です。

広く言えばそうですが、天国には「創造主の家」があるというのが聖書の思想です。
ということは、家の外もあるということだ。
つまり天国そのものが創造主の家なのではなくて、創造主の家の外側の空間も天国にあるというわけです。

『黙示録』の聖句では、創主の家とは城壁に囲まれた「天のエルサレム」が相当するのではないでしょうか。
そこでもやはり、城壁の内の空間と外があるわけです。
そして外の空間も天国内ですから、地獄の炎に「熱い、熱い」と焼かれ苦しむことはありませんが、
内側にいるような恵まれ方はない、となるでしょう。

 天国に行っても、創造主の家に入れない者もいるなかで、イエスはむろん、創主の家の内にいます。
そして「弟子たちもその家の中でイエスと共にいるようにしてください」と祈り願っているわけです。


                    

<霊イエスから発する栄光>

弟子がイエスと共にいるのは、「私(イエス)の栄光を彼ら(弟子たち)が見るようになる『ため』」~という表現は、
「イエスと共にいるとイエスの栄光を見ることになる」ことを実質上意味しています。
創造主の家でイエスと共にいれば、弟子たちはイエスの栄光を見ることになるのです。

 これまで繰り返しのべてきましたように、聖書では栄光は、力、創造の光、栄誉という3つの意味を持っている
と鹿嶋は解読しています。
 それらはいのちエネルギーがとる3つの様態ですから、みな関連しています。
そこで「見る」というのを広くとって、この3つを見ると解していいかもしれません。

 あるいは「見る」というのを狭くとって「創造の光」に代表させてイメージしてもいいでしょう。

                    

<力はイエスを愛されたが故に>

そしてその栄光は、父なる創造主がイエスに、この世が創世される前から与えていたものだという。
 このヨハネ伝の著者ヨハネは、冒頭の章で次のように述べています。

~すなわち「始めに言葉があった。言葉は創造主と共にあった。言葉は創造主であった」と述べ、
さらに「この言葉が霊としての御子イエスであって、この霊であった時のイエスが実はこの世を創られた。
創っておいて人の姿をとって世に来たのに、世の人々はそれを認めなかった」
~という旨を書いています。

 霊としてのイエスは、すさまじい創造の力を与えられていたのですね。

そして「そのような創造が出来るエネルギーは、父なる創造主がイエスを愛されて、与えられたものだ」
~との旨をイエスは祈りの中で述べています。
これはヨハネ自身の神学にはなかったところですね。
このように、イエスが創造主に向かって直接述べる言葉には、新しい奥義が表される。
これが17章の醍醐味ですね。

                    

<霊イエスからは栄光がストレートに放射される>

 けれどもイエス(創主から出た言葉)はこの世には人の姿で肉体と血となって来ていた。
その間その栄光は直接には現れませんでした。

 だが、天に昇れば再び霊としてのイエスです。
この世を創造する時の霊イエスです。
そのイエスからは、すさまじい創造のエネルギーが直接放射している。
これが発する光(創造の光、栄光)を弟子たちは直接見る。
これが「わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見る」の意味だと解されます。


                    


 

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Vol.320 『弟子たちは完全に一体化し、人々は信じる』(17章23節)

2011年02月16日 | ヨハネ伝解読


   ヨハネ伝解読、17章が終わるまではこのまま進みます。
今回は17章23節です。
  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=
   「わたしは彼らの中におり、あなたは私の中におられます。
それは彼らが完全に一体になるためです。
そしてそれは、あなたがわたしを遣わされたことと、
あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
                             (17章23節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   


  本日の聖句もやさしくないですね。
文の構造からすると、二番目の文章、すなわち「弟子たちが完全に一体化すること」が中心になっています。
そしてその前の文  はそれをもたらす原因です。
具体的には「わたし(イエス」が彼ら(弟子たち」の中におり、
そのイエスの中にあなた(父なる創造主)がいる」ことがそれです。


あとの文では、それ(弟子たちが完全に一体になること)によって引きおこされる結果が述べられています。
具体的には世の人々が「創造主がイエスをこの世に遣わし、
彼とその弟子たちを愛されてきたのだなあ」と悟ることです。

                    

<一体性の維持は至難の業>

この聖句を解読する大きな鍵は、
「複数の人間が自分たちの力で一体となり続けるのは至難の業だということを悟ること」にあるとおもわれます。
 人間は各々自分の思想や欲を持ちます。
同じ師匠について芸や思想を学んだ間柄でも、深いところでの思いはなかなか一つにならない。
個々人には私欲があって望むところが一致しない。
茶道、華道の上層部世界をみてごらんなさい。会社で有能な上司に仕えた部下たちを見てごらんなさい。
一時的に一体化しても、他のところでの不一致が浮上してまもなく分裂しいさかいます。


                    

<不動の言葉を共有したら奇蹟が起きる>

  そんな人間たちでも、イエス(の言葉と霊感)が共有できたら、一体化できる。
それは心の底を揺るがし感動させる不動の言葉だから、
これに霊感が協働して霊魂に浸み込んだら自然に一体化していくのです。

その上に、そのイエスの中に父なる創主がいたら、一体化は完全になる。
万物の創造主はいのちエネルギーの源泉です。
そこから流れるエネルギーがイエスに注ぎ込み、イエスを通して弟子たちに注入されたら、
彼らの意識には力が与えられます。
いのちエネルギーに満ちたイエスの言葉が彼らの心底に充満するのです。

だから弟子たちは完全に一体化する。
そして外部者から見たら信じられないような連携活動もしていくのです。


                    

<創造主の愛と働きを悟る>

あとの文はその結果を述べています。
こうした異例な一体化、連携行動をみたら外部の世の人々はどう思うかです。
彼らは「人間のこんな姿はこれまでみたことない」のです。
「人間だけではとても出来ない」ことだと思わざるを得ない。

すると「弟子たちが共に信じているイエスという存在は、やはり只者ではない。人間だとは思えない」
「万物の創造主がこの世に送った存在としか考えられない」となるでしょう。
ユダヤ人たちは、奇蹟は創造主だけが起こすもの、との思想を旧約聖書によって抱いていますから。

それだけではない。ただこの世に遣わしただけでなく、愛していのちエネルギー(栄光)をおくられたのだ。
そして、イエスの弟子をも同じく愛してエネルギーを贈られたのだ~と思うことになる。
そうイエスは創造主に向かって言葉に出して確認している。これが本日の聖句だと解せられます。


                    

 

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