ヨハネ伝解読、今回は17章23節です。
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=聖句=
「父よ、お願いします。
あなたがわたしに下さったものを、わたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。
あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたために、わたしに下さったわたしの栄光を、
彼らが見るようになるためです」
(17章24節)
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前の23節では、イエスはこの世に残って働く弟子たちについて父なる創主に祈り願いました。
それに次いでイエスは、弟子たちが宣教の使命を終えて、この世を去った後の彼らの処遇について祈り願っている。
それがここ24節の聖句です。
「自分のいるところに、彼らも共にいさせてくれ」というのが願いの言葉です。
ここで「彼ら」は弟子たちで、「イエスのいるところ」とは天の創造主王国、いわゆる天国です。
広く言えばそうですが、天国には「創造主の家」があるというのが聖書の思想です。
ということは、家の外もあるということだ。
つまり天国そのものが創造主の家なのではなくて、創造主の家の外側の空間も天国にあるというわけです。
『黙示録』の聖句では、創主の家とは城壁に囲まれた「天のエルサレム」が相当するのではないでしょうか。
そこでもやはり、城壁の内の空間と外があるわけです。
そして外の空間も天国内ですから、地獄の炎に「熱い、熱い」と焼かれ苦しむことはありませんが、
内側にいるような恵まれ方はない、となるでしょう。
天国に行っても、創造主の家に入れない者もいるなかで、イエスはむろん、創主の家の内にいます。
そして「弟子たちもその家の中でイエスと共にいるようにしてください」と祈り願っているわけです。
<霊イエスから発する栄光>
弟子がイエスと共にいるのは、「私(イエス)の栄光を彼ら(弟子たち)が見るようになる『ため』」~という表現は、
「イエスと共にいるとイエスの栄光を見ることになる」ことを実質上意味しています。
創造主の家でイエスと共にいれば、弟子たちはイエスの栄光を見ることになるのです。
これまで繰り返しのべてきましたように、聖書では栄光は、力、創造の光、栄誉という3つの意味を持っている
と鹿嶋は解読しています。
それらはいのちエネルギーがとる3つの様態ですから、みな関連しています。
そこで「見る」というのを広くとって、この3つを見ると解していいかもしれません。
あるいは「見る」というのを狭くとって「創造の光」に代表させてイメージしてもいいでしょう。
<力はイエスを愛されたが故に>
そしてその栄光は、父なる創造主がイエスに、この世が創世される前から与えていたものだという。
このヨハネ伝の著者ヨハネは、冒頭の章で次のように述べています。
~すなわち「始めに言葉があった。言葉は創造主と共にあった。言葉は創造主であった」と述べ、
さらに「この言葉が霊としての御子イエスであって、この霊であった時のイエスが実はこの世を創られた。
創っておいて人の姿をとって世に来たのに、世の人々はそれを認めなかった」
~という旨を書いています。
霊としてのイエスは、すさまじい創造の力を与えられていたのですね。
そして「そのような創造が出来るエネルギーは、父なる創造主がイエスを愛されて、与えられたものだ」
~との旨をイエスは祈りの中で述べています。
これはヨハネ自身の神学にはなかったところですね。
このように、イエスが創造主に向かって直接述べる言葉には、新しい奥義が表される。
これが17章の醍醐味ですね。
<霊イエスからは栄光がストレートに放射される>
けれどもイエス(創主から出た言葉)はこの世には人の姿で肉体と血となって来ていた。
その間その栄光は直接には現れませんでした。
だが、天に昇れば再び霊としてのイエスです。
この世を創造する時の霊イエスです。
そのイエスからは、すさまじい創造のエネルギーが直接放射している。
これが発する光(創造の光、栄光)を弟子たちは直接見る。
これが「わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見る」の意味だと解されます。