鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

悪魔関連のことはアダムの時代に決まっていた

2005年10月09日 | 「考える宗教」へ

                  




 前回、聖書という書物の、他に類例のない点を示しました。可能性としてですけれど。

 若干繰り返しも含みますが、これをもう少し詳しくみてみましょう。

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 この書物は冒頭で、アダムが創り主に従順でない行為をして(罪を犯した)、楽園から追い出されることを記しています。だが、同時にその時点で4000年後に起きる事件をすでに預言していることになります。

 聖書では、創り主から出た預言は、必ず実現するという鉄則があります。必ず実現するということは、もう、そうなるように決まった、と言うことですね。つまり、イエスが「女の子孫」としてこの地上に現れて、十字架にかけられ殺されるということも、4000年前のこの時点で、もう決まっていたことになります。

 計画されていた、と言ってもいいかもしれませんね。創り主の計画は、人間の計画と違って、必ず成就します。だから、創り主が計画していた、というのは、必ずそうなるように決まっていた、というのと同じです。

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 そういう解読が可能な本だったら、すごい。だから鹿嶋は、すごい本だ、すごい、スゴ~イ、といいました。

 だけど、これで感嘆して終わったんでは、「考える宗教」は中途半端です。
 もう少し考えを進めましょう。

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 イエスが出現する4000年前に、すでに、「女の子孫(イエス)がおまえ(悪魔)の頭を踏み砕く」ことが、決まっていたとはどういうことか。この「踏み砕く」というのは、悪魔の本性がイエスを殺すという「行動に現れる」、それによって本性が証拠として出る、ということでしたね。

 証拠があがってしまったら、創り主は裁きを下すことが出来ます。だから、ユダヤ教の僧侶たちがイエスを十字架にかけて殺すためにとらえに向かう時点で、イエスは「今、この世の君主(悪魔)が裁かれる」という主旨のことをいうという筋にもなっています。

 創り主は、正義の存在ですから、自分で定めたルールに沿ってしかことをなしません。裁きには、裁きのルールがあるのでしょうね。それは、それはこの地上で行われる裁判と同じく、証拠主義なんでしょう。証拠があがらないことには、裁けないわけです。

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 ということは、こういう形で、証拠が現れて、悪魔に裁きが下る、ということも、すでにアダムが創り主の命令に沿わなかったこの時点で「決まっていた」ということになりますね。それが聖書の論理になりますね。

 すると、こういう疑問がわきませんか?
このストーリーは、悪魔が中心対象になっている。聖書の論理はそういう風でいいのか?・・・と。


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 だが、これで良さそうに思わせる聖句が、新約聖書にあります。

 「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。
     悪魔は、初めから罪を犯しているからです。
       創り主の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」
            (ヨハネの第一の手紙、3章8節)

 これも、悪魔に焦点を当てていますね。

 ここで、「創り主の子が現れたのは」の「現れた」は、「この地上に人の姿をとって現れた」ということでしょうね。つまり、イエスが人としてこの世にきた、ということ。そしてその目的は、「悪魔のしわざを打ち壊すため」といっています。この聖句は、少なくともアダムが初めて罪を犯した時点では、もう、それが決まっていたという解読をある程度支持するようにもみえます。

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 ここで知っておくことがあります。
 「悪魔のしわざ」にはいろいろあるでしょうけれど、詰まるところの本質は、「あらゆる点で創主と反対のことをする」ということです。

 これは、人間を幸せにしたり、いわゆる「救う」ことにもつながっています。創主は人間を幸福にしよう、しようとする。悪魔は、不幸にして苦しめよう、苦しめようとする。

 創主は人間を「救おう」「救おう」とする。悪魔は、救われないように、救われないようにと活動する。

 そういうことも広い意味では悪魔のしわざに含まれてきますから、悪魔のしわざを打ち壊すというのは、人間を幸せにしよう、救われるようにしよう、とすることを含んでいるわけですね。

 だから、悪魔のしわざをうちこわすことは、結果的には間接的には人間と関係しているんですね。
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 けれども、創主の目の「焦点」は、ヨハネのこの聖句では、そういう人間関連のところではなく、悪魔関連のところにしぼられています。イエスは悪魔のしわざを打ち壊してしまうためにこの世にきたというのですから。

 それを、「女の子孫がおまえの頭を踏み砕く」に対応させますと、その内容は、十字架刑で殺されて、悪魔の本性の証拠を挙げて、有罪宣告を完成させてしまうということになります。あとは、刑の執行を残すのみ、という状態を完成することに。

 すくなくとも、悪魔関連では、イエスがこの世に現れる4000年前の、アダムの時代にことは決まっていた。大枠は決まっていた。そういう筋書きに読むことは出来そうですね。


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