前回の続きです。もう一度CMを見てみましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=Wy52yueBX_s
このバックラウンドソングとして使われているIn the Airの歌詞は、
全体として何を言っているか漠然としていて、様々な解釈を生んでいるようです。
友人(または家族)が溺れている現場にいながら見ているだけで助けることができなかった男の話だとするのもあり、
そうかといえば作者のPhil Collins自身は、前妻との結婚生活におけるフラストレーションを描いたもの、
と言っているとも伝えられていますが、
そういういろんな解釈が出来る多義的で意味深なところが大ヒットの一条件なのでしょう。
(簡単にわかってしまわれると簡単に飽きられるのです)
だが、CMでは、その冒頭にもってきたサビの部分
~冒頭で視聴者を惹き付けるべくサビを先頭にもってくるのを、「サビ頭」ともいうそうです~だけが使われている。
もう30年も前のヒット曲です。視聴者はその部分だけを独立に解釈する可能性が大です。
そして、そのように受け取ってCMの映像展開と組み合わせると、これはやはり
「ゴリラが創造主から創造的な精神エネルギーを受けて~ゴリラですらも~曲想をえて演奏する」
としか受容しがたいものでしょう。
そして聖書文化圏の人々は、それにそった思想を意識の底に持っているのです。
<L字型意識とハイフン型意識>
西欧人の意識は、自分目線の人間世界に向かっている(これを「世的:secular」といいます)。
と同時に、自分の上方、すなわち「いと高きところ」にも向かっています。
そんなことが出来るか、と思われますが、人間にはこれが出来るのです。
人間の意識は多重人格的です。
例えば、誰かに向かって感情をぶつけている時、
それを(俺は感情的になりすぎているかなあ~)と見ているもう一人の自分がいる。
マックス・ウェーバーという社会科学者は、人間のそういう意識能力を前提にして、
追体験という認識手法を薦めました。
歴史上の人物の心情を理解する時、まず、自分がその状況にいると創造し、人物に感情的に同化してしまう。
すると自分の心が動きますが、それをもう一つの自分でもって観察し記述します。
これが追体験手法ですが、こんなこと人間が複数の人格を同時に働かせられるという前提なくしては、
言えないことなのですね。
話を戻しますと、ですから人間は意識を上方に向けながら同時に横一線方向にも向けていることが出来る。
でなかったら、西欧人はいと高き方向に意識を向けつつ街を歩いている時、
互いにバンバンぶつかり合うことになるでしょう。
これを象徴的に、西欧人の意識はL字型になっていると言うこともできるでしょう。
対して日本人は横一線のハイフン型となります。
横一線だけの世界意識は通常自分目線の「世的」(セキュラー)な人間世界だけに関するものです。
テレビドラマもバラエティー番組で交わされる会話も、日本ではセキュラー世界だけのものです。
日本ではそれが当たり前としてなされていますが、これをL字型文化圏の人間が見ると、
「なんと世的なことか・・・(How secular・・・)」と言うことになる。
米国人には顔をしかめてそういう人が沢山います。(米国ではungodlyともいいます)
<ずっとずっとマクセルCM>
実はこの年確か、日本から日立マクセルのCMが候補参加作品として持ち込まれていたはずです。
日本の鹿児島の南方にある小さな離島で小学校が閉校になりました。
生徒は女子三人で、彼女たちが最後の卒業式に近づいていく状況を記録した
ドキュメンタリータッチの番組を同社は作りました。
村の人々の感慨と共に描いた、涙なみだの映像で、
それを背景に用いた120秒のドキュメント風CMが作成された。
商品は日立マクセルのDVDディスク。思い出をず~と残せる記録媒体として、
「ず~と、ず~とマクセル」と最後に提示するものでした。
http://www.youtube.com/watch?v=TSLeih1tRkI
このCMは心に「浸み込む」希なる作品として、
ACC賞(各年度のコマーシャルを表彰する日本では最も権威のある賞)グランプリを受賞しました。
関係者の絶賛を浴びて受賞でしたので大きな自信と期待を伴ってのカンヌ参加でした。
ところが、英国のゴリラCMのグランプリ受賞となった。
日本広告マンが結果を聞いて不快感すら覚えたのは、そういう事情もあったともみられます。
<究極の“癒し”とは?>
鹿嶋は、実は、この「ず~と、ず~と」CMが「今年こそは」の意気込みで持ち込まれようとしている時、
「たぶんダメだろうなぁ・・・」と感じていました。
当事者たちの意気を削ぐことも避けたいと、口には出しませんでしたがそう思っていた。
こういう人間世界だけの、人間相互の情感「だけを」深掘りして描くような作品は、
国際社会では異質なものなのです。(中国人にとってもおそらくそうでしょう)
日本では、この情感、この涙こそが究極の“癒し”と信じて疑われませんが、
西欧社会ではこれは「なんと世的なことか・・・(How secular・・・)」ともなるのです。
このギャップは大きい。
鹿嶋はこのことを1994年に、『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)で書きましたが、
読者は限られた人々だったようです。
<「異文化ストレス」最大の癒し>
前述しましたように、日本ではTV番組もみなこのセキュラーワールドのイメージ世界でもって作られ放映されています。
情報化時代と言いますが、実は、西欧文化の思想背景はほとんど日本のマスメディアでは情報化されていない。
対して世俗ワールドのイメージ世界は、テレビメディアを通してますます大量に発信されていきます。
ハイフン型世界意識はますます再造成・再補強されているのです。
このままの状態で世界諸国が情報的に相互接近していけば、異文化ストレス増大の勢いが強くなるでしょう。
これは鬱状態を生みます。日本の対処策は、ただひとつ、
L字型精神文化を知的に「理解」することです。
理解は異文化ストレスへの最大の癒しです。
完全な癒しまでに行かないにせよ、不快感を抱かされるのは少なくとも避けることができるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=Wy52yueBX_s
このバックラウンドソングとして使われているIn the Airの歌詞は、
全体として何を言っているか漠然としていて、様々な解釈を生んでいるようです。
友人(または家族)が溺れている現場にいながら見ているだけで助けることができなかった男の話だとするのもあり、
そうかといえば作者のPhil Collins自身は、前妻との結婚生活におけるフラストレーションを描いたもの、
と言っているとも伝えられていますが、
そういういろんな解釈が出来る多義的で意味深なところが大ヒットの一条件なのでしょう。
(簡単にわかってしまわれると簡単に飽きられるのです)
だが、CMでは、その冒頭にもってきたサビの部分
~冒頭で視聴者を惹き付けるべくサビを先頭にもってくるのを、「サビ頭」ともいうそうです~だけが使われている。
もう30年も前のヒット曲です。視聴者はその部分だけを独立に解釈する可能性が大です。
そして、そのように受け取ってCMの映像展開と組み合わせると、これはやはり
「ゴリラが創造主から創造的な精神エネルギーを受けて~ゴリラですらも~曲想をえて演奏する」
としか受容しがたいものでしょう。
そして聖書文化圏の人々は、それにそった思想を意識の底に持っているのです。
<L字型意識とハイフン型意識>
西欧人の意識は、自分目線の人間世界に向かっている(これを「世的:secular」といいます)。
と同時に、自分の上方、すなわち「いと高きところ」にも向かっています。
そんなことが出来るか、と思われますが、人間にはこれが出来るのです。
人間の意識は多重人格的です。
例えば、誰かに向かって感情をぶつけている時、
それを(俺は感情的になりすぎているかなあ~)と見ているもう一人の自分がいる。
マックス・ウェーバーという社会科学者は、人間のそういう意識能力を前提にして、
追体験という認識手法を薦めました。
歴史上の人物の心情を理解する時、まず、自分がその状況にいると創造し、人物に感情的に同化してしまう。
すると自分の心が動きますが、それをもう一つの自分でもって観察し記述します。
これが追体験手法ですが、こんなこと人間が複数の人格を同時に働かせられるという前提なくしては、
言えないことなのですね。
話を戻しますと、ですから人間は意識を上方に向けながら同時に横一線方向にも向けていることが出来る。
でなかったら、西欧人はいと高き方向に意識を向けつつ街を歩いている時、
互いにバンバンぶつかり合うことになるでしょう。
これを象徴的に、西欧人の意識はL字型になっていると言うこともできるでしょう。
対して日本人は横一線のハイフン型となります。
横一線だけの世界意識は通常自分目線の「世的」(セキュラー)な人間世界だけに関するものです。
テレビドラマもバラエティー番組で交わされる会話も、日本ではセキュラー世界だけのものです。
日本ではそれが当たり前としてなされていますが、これをL字型文化圏の人間が見ると、
「なんと世的なことか・・・(How secular・・・)」と言うことになる。
米国人には顔をしかめてそういう人が沢山います。(米国ではungodlyともいいます)
<ずっとずっとマクセルCM>
実はこの年確か、日本から日立マクセルのCMが候補参加作品として持ち込まれていたはずです。
日本の鹿児島の南方にある小さな離島で小学校が閉校になりました。
生徒は女子三人で、彼女たちが最後の卒業式に近づいていく状況を記録した
ドキュメンタリータッチの番組を同社は作りました。
村の人々の感慨と共に描いた、涙なみだの映像で、
それを背景に用いた120秒のドキュメント風CMが作成された。
商品は日立マクセルのDVDディスク。思い出をず~と残せる記録媒体として、
「ず~と、ず~とマクセル」と最後に提示するものでした。
http://www.youtube.com/watch?v=TSLeih1tRkI
このCMは心に「浸み込む」希なる作品として、
ACC賞(各年度のコマーシャルを表彰する日本では最も権威のある賞)グランプリを受賞しました。
関係者の絶賛を浴びて受賞でしたので大きな自信と期待を伴ってのカンヌ参加でした。
ところが、英国のゴリラCMのグランプリ受賞となった。
日本広告マンが結果を聞いて不快感すら覚えたのは、そういう事情もあったともみられます。
<究極の“癒し”とは?>
鹿嶋は、実は、この「ず~と、ず~と」CMが「今年こそは」の意気込みで持ち込まれようとしている時、
「たぶんダメだろうなぁ・・・」と感じていました。
当事者たちの意気を削ぐことも避けたいと、口には出しませんでしたがそう思っていた。
こういう人間世界だけの、人間相互の情感「だけを」深掘りして描くような作品は、
国際社会では異質なものなのです。(中国人にとってもおそらくそうでしょう)
日本では、この情感、この涙こそが究極の“癒し”と信じて疑われませんが、
西欧社会ではこれは「なんと世的なことか・・・(How secular・・・)」ともなるのです。
このギャップは大きい。
鹿嶋はこのことを1994年に、『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)で書きましたが、
読者は限られた人々だったようです。
<「異文化ストレス」最大の癒し>
前述しましたように、日本ではTV番組もみなこのセキュラーワールドのイメージ世界でもって作られ放映されています。
情報化時代と言いますが、実は、西欧文化の思想背景はほとんど日本のマスメディアでは情報化されていない。
対して世俗ワールドのイメージ世界は、テレビメディアを通してますます大量に発信されていきます。
ハイフン型世界意識はますます再造成・再補強されているのです。
このままの状態で世界諸国が情報的に相互接近していけば、異文化ストレス増大の勢いが強くなるでしょう。
これは鬱状態を生みます。日本の対処策は、ただひとつ、
L字型精神文化を知的に「理解」することです。
理解は異文化ストレスへの最大の癒しです。
完全な癒しまでに行かないにせよ、不快感を抱かされるのは少なくとも避けることができるでしょう。