鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.55『自堕落女なら、イエスは聖書解説の話に入らない(4章)』

2005年01月28日 | ヨハネ伝解読
 サマリアの女は自堕落な女ではなかった、ことの理由の第四です。

 これは春平太には決定的な理由に見えます。イエスが彼女に、聖書解説に相当するような話をしているということ、がそれです。

 これは、サマリアの女が聖書を無視して生きている人間ではない、ということを示唆する大きな証拠なのです。

 聖書で、イエスが教えを述べるのは、みな、一定の(旧約)聖書の知識がある人に対してのみです。そのうえで、ユダヤ教の僧侶たちが下している解釈と違った解読を教えます。

 そして、かれはそれを真理であるとして教えます。「私が真理である」というのは、そのことを意味しているのです。

      @      @      @

 このサマリア女が、聖書を離れて自堕落な道に入ってしまっている女ならば、イエスは「いのちの水」に関する話などしたでしょうか。ヨハネ伝の第8章に、姦淫の現場で捕らえられて、イエスの前に引き出される女の話が出てきます。

イエスは、女が石打の刑で民衆に殺されるのを救っています。その後この女にイエスは、聖書の解き明かしをしているでしょうか。していませんね。ただ一言、「もう罪を犯すな」といっているのみです。そうして、放してやっています。

      @      @      @

 ユダヤ人には、聖書の知識を身につけた人が多数いました。もちろん、そうでない人も多かったのですが、イエスはその素養のある存在に、その聖書の真意を、真理として教えていきます。

 彼等がいなかったら、イエスも教えようがありませんでした。その意味でも、ユダヤ民族は、福音の最初の受け皿でありました。

 サマリアの町の人々も、多くは聖書知識を身につけていました。肉体的には混血ユダヤ人でも(旧約)聖書的素養のある人たちだった。サマリアの女も、その一人だった可能性が高いのです。

      @      @      @

 サマリアの女は、むしろ、創主の御旨にかなった生き方を忠実に守っていた女だったのではないか、と春平太は解読する。その見解を支える根拠は以上四つですが、今ひとつ付言しておきましょう。

 春平太は、イエスの透視の内容を、次のように前述しましたね。サマリアの女の結婚歴は、天における、この地上に対応する部分にも実現し、ハードディスクに記録され、反復上演されているのではないか、と。イエスはそれを見て言っていたのではないか、と。

 もしそうならば、それは、サマリア女が自堕落な女でなかった、という見解と筋が通ります。天に成るのは、「創主の御心に沿ったものだけ」だからです。自堕落な行いは、天の創主王国には実現されない(記録されない)はずですからね。
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Vol.54 『村人が彼女を排除していない(4章)』

2005年01月28日 | ヨハネ伝解読

 サマリアの女は自堕落な女ではなかった、ことの理由の第三です。

 彼女の住む町の人々が、彼女を村八分にしていない、ということがそれです。

      @      @      @

 サマリアの女は、水瓶を井戸のところにおいたままで、町に向かいます。そして、町の人たちに、「私の過去をことごとく言い当てた人がいますよ。もしかしたら、キリスト(救い主)かもしれませんよ」と告げています(29節)。

 すると、人々は、この言葉を受けて、イエスのいるところに向かっています。これは何でもないことのように見えますが、看過すべきではありませんよ。

 旧約世界では堕落か堕落でないかの基準は律法です。繰り返しますが、自堕落な女というのは、律法に反した行いを平気でする女と言うことです。そういう女ならば、町の人々は鼻つまみ者として、村八分にしてしまっているでしょう。

 だったら、彼女の言うことなどに、まともに耳を貸すはずがありませんよね。また、それ以前に、そういう状況ですから、彼女は町の人々に、そういうことを告げに行く気にならないはずでもあります。

 ところがこのサマリアの女は、ストレートに町の人々に報告に行く。人々もそれを、率直に受け入れています。そういう関係です。彼女は自堕落な女ではなかったのです。

      @      @      @

 なお、純粋なサマリア人は今日では700家族くらいだそうです。他民族の相手と結婚しないことによって、サマリア人の血統を守ってきた。そのために、集落を作って生きてきている人々ですね。

 彼らは、旧約聖書の律法に、厳格に従って生活しています。まさに今でも律法の民なのです。

 しかし、少数になるほどに、いとこ同士の結婚がふつうになるなどして、血が濃くなります。そこで、遺伝上の懸念などで、ユダヤ人をはじめとする他民族との結婚を志望する若者も出現しているということです。

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Vol.53『「まことの礼拝場所とは?」と女は訊ねている(4章)』

2005年01月28日 | ヨハネ伝解読
 
 サマリアの女は自堕落な女ではなかった、ことの理由の第二です。

 「まことの礼拝場所とはどちらか?」と、彼女がイエスに質問していることがそれです。

 サマリア人においては先祖が、その井戸の場所から見える山で礼拝してきた。ところがユダヤ人は、エルサレムこそ真の礼拝の場所だといっている。一体どちらがまことでしょうかーーーと彼女は訊ねています(20節)

      @      @      @

 こういう質問は、聖書の律法を守って生きようとしている人からでないと、出ないものではないでしょうか。

 もちろん、聖書には、その答えはそのものズバリでは記されておりません。そこで、様々な記述や歴史事実から、答えを推察していくわけです。つまり解釈をする。その解釈が、サマリア人とユダヤ人との間で異なっていたわけです。

 女は、常々それを疑問に思っていた。いったい、真の礼拝場所とはどこだろうか、と思いつづけていた。そこに、預言者と確信できる人、イエスが現れた。そこで、真っ先にその質問が口をついて出たのではないか、と思われます。

 これが、自堕落な好色女に出来ることでしょうか? ここで自堕落というのは、律法(聖書)など関係ないよ、といって生きているという意味です。自堕落だったら、創主を礼拝する場所などどこであっても、“あっしにゃかかわりのねえことでゴザンス”、となるのではないでしょうか。

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Vol.52『前後の文脈で検証してみよう(4章)』

2005年01月28日 | ヨハネ伝解読

 サマリアの女は、自堕落な女か、そうでなかったか? の続きです。

 つまるところ、そのどちらが正解なのでしょうか。春平太は結論的に、自堕落な女ではなかったというのが、正解に思っています。

 それに至るには、前後の文脈、さらには、聖書全体の文脈とも照合してみる必要がありました。すると、自堕落な女ではあり得ないという根拠がいくつも見出せるのです。

      @      @      @

 第一に、彼女はイエスに過去を透視されて「あなたは預言者だと信じます」と言っていますね。それは、彼女が、聖書に記されてきた預言者という存在が、実在するものと受け入れているーーーと言うことを示しています。

 当時のサマリア人は、みんなそうであったか? そんなことはないでしょう。 いつでもどこでも、信仰心のある人とない人とはいるものです。当時のサマリアで言えば、信仰心の無い人は、聖書(旧約)の話そのものを信じない人となります。

 そういう人は、かつての預言者と呼ばれている人が、霊感が卓越した特別な人だった、ということも信用しません。預言者が今後現れるといわれても「フン!」と笑って信じません。

 そうやって生きている人もたくさんいる。これが世の常です。ところが、サマリアの女はそれを信じているのです。イエスに対して「あなたは預言者だ」といった彼女の言葉がそれを示しています。

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Vol.51『でも、同棲してるじゃない?(4章)』

2005年01月27日 | ヨハネ伝解読

 サマリアの女は自堕落女か? の続きです。

 この女に関して「5人の夫を持ってきた」に加えてもう一つ、自堕落という印象を与えるせりふが記されていますね。

 「今一緒に住んでいる男は夫ではない」

 というイエスの言葉がそれであります。今流に言えば、これは同棲ではないか、ということになる。このように追い打ちをかけられると、もう、弁護の余地はないように見えます。

      @      @      @

 だが、これも我々が現代日本の家族構成を前提に考えているからかもしれないのです。古代のユダヤ社会(そして、ギリシャ社会、ローマ社会でも)では、家族というのはもっと大きな集団でした。そこには妻、子などの血縁関係者だけでなく、奴隷もたくさん含まれていました。それらを一家の主人が強い権限を持って統率している、これが家族です。

 なお、この場合の奴隷というのも、日本語から通常描かれるイメージとは、かけ離れています。日本語で奴隷といえば、牛馬のようにむち打たれて働かされる存在というイメージですよね。だが、当時はそうではない。たとえば、家族の金銭関係の管理を任されている執事のような知的な仕事に携わる存在も、身分は奴隷であり得ました。

 聖書に出てくる「奴隷」という言葉は、「自由人」に対する、反対概念です。そして、この場合自由人というのは、自分の属する集団の全体に関する情報を持っているもの、という意味です。そういう情報を与えられていない人は、専門家であっても奴隷でありうるのです。

 家族の財務管理を担当している執事も、奴隷である場合が多かった。それが家族全体でどういう位置にあるかの情報を与えられておらず、ただお金を運営するエキスパートであるならば、すなわち奴隷でありえたのです。日本語ではむしろ「しもべ、下僕」という感じですね。

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 そういう状況ですから、6番目の弟が、その家族の中にいたのかもしれません。ヨハネがイエスの言葉として「共に住んでいる」と記しているのは、それだけのことである可能性も十二分にあるのです。

 でも、それが「夫でない」というのはなぜか。それもあり得ます。彼は、律法に従って、将来、彼女の夫になることに決まっています。だが、次の結婚を兄の妻だった女性とする前に、一定の期間をおいていたのかもしれません。

 そういう可能性も十分です。現代日本だって、再婚登録をする場合、離婚後6ヶ月以上は待たねばならないことに法律で定められていますね。

 このように、彼女が今流に言う「同棲生活」をしているのではない確率も、十分にありえます。兄の嫁だった女も家族です。その弟と元兄嫁が、同じ家族として「共に住んでいる」だけという可能性を否定することは決してできません。
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Vol.50『サマリアの女は自堕落女?(4章)』

2005年01月27日 | ヨハネ伝解読

 ここで少し脇道に入りましょう。このサマリアの女とは、どういう女だったのでしょうか。

 ほとんどの解説では、情欲の強い自堕落な女だったとされています。5人も夫を換えて、しかも、その後、夫でない男と一緒に住んでいるというのだから、というのがその根拠です。驚くべき堕落女・・・。

      @      @      @

 けれども、そうでない可能性もあるのです。つまり、彼女は旧約聖書に記されている律法に従って生きていた、信仰深い女性である・・・と。たとえば、申命記という書物には、次のような律法が書かれています。律法というのは、創主から人間に下された命令という意味をもった言葉です。

  「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に彼に子がない場合、死んだものの妻は、家族以外のよそ者に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない」(申命記、25章5節)

 このサマリアの女は、上記の律法に忠実に従っていたのかも知れないのです。子供に恵まれないままで夫に次々に先立たれた。そこで、律法に従ってその兄弟を次々に夫にせざるを得なかったのかもしれません。

      @      @      @

 まさか、とお思いになる読者が多いでしょうね。だがそれは、今の日本の家族構成を前提に考えているからでしょう。今は、子供が2人からせいぜい3人くらいです。

 けれども、それは日本でもごく最近のことであります。戦前までは男の兄弟が数人という家族は、珍しくありませんでしたよ。明治維新以降だけでなく、江戸時代にもたくさんの子供を産みました。

 イエス時代のユダヤ系民族の社会でも、状況は同じだったかもしれません。ユダヤ人が多産系であったことは、聖書にも記されています。

 モーセに率いられてエジプトを脱出する以前、彼らはエジプトに奴隷として暮らしていました。その頃の彼らに関して、エジプト人が驚異に感じるほどの多産であったことが記されています。

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ローマ帝国が与えたもの・4(ローマ法)

2005年01月26日 | キリスト教活動の歴史

 鹿嶋春平太です。ここ4日ほど、ルイジアナ州ニューオーリンズに出かけておりまして、投稿をお休みしました。ニューオーリンズはジャズの発祥地です。が、その話はまたにして、「ローマ帝国が与えたもの」を再開します。本日は<ローマ法>です。

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帝国政府は、ローマ法という法律を整備し、統治しました。
それを、征服して併合し属州にも適用しました。

 法とはルールです。ルールがあると、人民も何をしたらほめられ、何をしたら罰せられるかを明確に知って行動できるようになります。権力者によって、その時の気分でもって傷つけられたり、殺されたりする心配なくして暮らせます。

 住民は恐怖で心が萎縮すること少なくして暮らすことが出来ます。すると、彼らの精神も以前より活性化して、いい仕事をするようになります。そうすればまた、国家は強くなります。

 帝国ではローマ市民権も、法的に定められた権利として、存在させました。後年、市民権が金銭で売り買いされたくらいですから、ローマ帝国での「法による統治」は徹底していました。

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 被征服地の人民も、ローマ市民権を得れば、本来のローマ人と同等の権利を持って生活できたわけです。新約聖書の「使徒行伝」には、使徒パウロがローマ市民権を持っていたことが記されています。パウロはギリシャ在住のユダヤ人でした。けれども、ローマ市民としての権利を持っていたわけです。

 その彼がある時、福音を述べ伝えたことでもって捕らえられてむち打たれます。彼はこれに対して抗議する。市民は、罰を受ける前に、裁判所で審理される権利を持っていたのです。

 むち打った権力者は、パウロがローマ市民権をもっていることを事後的に知る。それでうろたえる、という場面が記されています。

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 ローマ人は、法律を作る才能に飛び抜けて恵まれていたようです。ローマ法はとても体系的で優れていました。それは後にナポレオンが作った、ナポレオン法典の基礎にもなっています。

 ナポレオン法典は、近代法の先駆けとされています。その法典がローマ法をベースに作られている。ローマ法は、その近代法の父なわけです。

      @      @      @

 現在、欧州諸国は欧州共同体(EC)として連合し、共通の通貨(欧州通貨:ユーロ)を持つようになっています。これを見て、アジア諸国もアジア通貨を作るべきとか、日本がそのリーダーとなるべき、ということをいう専門家がいます。新聞、雑誌などでそういう論説をご覧になったことのある方もすくなくないでしょう。

 しかし、欧州はかつて全土が、ローマ法という共通の法でもって統治された歴史を持っています。そういうかけがえのない体験をもつが故に、諸国が共通のルールで通貨を運営することが出来るのです。

 これをアジアでまねしたら、結局、ぐちゃぐちゃになる公算が高いです。各国が個々の風習でもって勝手に動いて、共通通貨は機能しなくなってしまう。ローマ法が欧州に残した遺産はそれほど大きいものなのです。
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Vol.49『イエスはかまし、女は仰天する(4章)』

2005年01月21日 | ヨハネ伝解読

 本文、4章に戻りましょう。

 イエスは、「霊の食べ物」である“いのちエネルギー”のことをさして、水と言っています。サマリアの女は、肉体の食べ物であるところの、物質の水をイメージして受け取っています。

 すれちがいです。けれども、そんなことはイエスは百も承知。その上で言っているのです。

 「この井戸の水は、飲んでもまた、しばらくすると喉が渇くだろ? ところが、私があげる水は飲んだらもう渇きを覚えることはなくなるんだよ。それどころか、それは、あなたのうちで泉になる。そして、水がそこから永遠に湧き出るんだよ」(14節)と。

      @      @      @

 女は、まだ、物質の水のことを考えています。そりゃそうでしょう。誰だってそう思うはずだ。だから、こう応じます。

 「そんな水があるなら、私にくれませんか。そしたら、もう私はここに水をくみにこなくてよくなって大助かりです」(15節)

 チンプンカンプンの会話だ。だが、イエスは例によってかまわず、ここで一発かまします。

 「じゃあ、旦那さんを呼んできなさい」

 女は答えます。
 「私には夫はありませんけど・・・」

 そして、イエスはここで決定打を打つのです。
 「そうだろうな。あなたはこれまで5人の夫を持ってきたけれど、いま一緒に住んでいるのは、夫ではないからな・・・」(18節)

      @      @      @

 女は仰天してしまいます。この人は、私の過去をみんな透視している・・・。そして、こんな言葉が口をついて出ます。

 「先生、あなたは預言者です。わたし、それがわかります!」(19節)

 完全に、降参してしまいました。それまでは、彼女は、自分の常識、既成知識をベースに持って応答していました。ところが、ここで、それをもいったん横に置いておいて、いわば白紙の状態で耳を傾けるようになります。

 言い換えれば、素直な心、悔い改めの心に転じたわけです。しるし(奇跡)とは、こういう衝撃力を持つのです。今でも、しるしの力なしで初めての人に福音伝道をするのは、困難なことです。

      @      @      @

 さて、ここで他のカテゴリーとのつながりを若干つけておきましょう。この鹿嶋春平太チャーチには『KINGDAM原理からの聖書解読』という小部屋(カテゴリー)もあります。

 そこで、こういう問題を発してみます。「イエスはどうやってサマリアの女の過去を見たのであろうか?」と。

 通常は、神の子だから当然、といった程度に考えられてきています。「そりゃあ、神の子イエスさんのことだ、何でも出来るからね」と。

 しかし、もう少し具体的にイメージしたいとなると、「KINGDOM原理」が役に立ちます。このカテゴリーでは、春平太は、「天の創主の王国には、地上と対応する領域がありそう」と考えましたね。それが聖書の奥義ではないか、と。

 これからしますと、サマリアの女の結婚歴は、天にも対応したものが実現しているのではないか、となります。言い換えれば、天のハードディスクにメモリーされ、反復上演されているのではないか、と。

 もしそうであれば、イエスは天におけるそれを見て、女に語っていることになります。この解読は、筋が通るでしょうか? 他の聖句部分と論理的につながるでしょうか? 興味のあるところです。
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Vol.48のコラム『サマリヤ人は、混血ユダヤ人』

2005年01月21日 | ヨハネ伝解読

 聖書には、イエス時代のイスラエルを示した地図がつけられていることがよくあります。それをみると、ガリラヤとユダヤという二つの地域の真ん中に、サマリアという地域があります。まるで国を二分しようするかのように割って入っています。こんなことになったのは、歴史的なわけがあります。

 昔、アッシリアという国が強くて、大国になったことがあります。周辺の民族国家を併合して大国になりました。イスラエルも併合しました。その際、アッシリアは民族混合政策をとりました。併合した民族の民を移住させ、混合して住まわせ、民族間結婚をどんどんさせました。

 民族が血でもって別れていると、争いが起きる。混血して、みんな同じになったら殺し合うこともすくなくなるのでは、との理想から出たのでしょうか。とにかく、そういう政策を実行しました。その結果、ユダヤ人も、混血したのです。

 ところが、ユダヤ人のすべてがそうはなりませんでした。アッシリアは、ユダヤ国家の内、北のイスラエル王国だけを併合し、南の方ユダ地域のユダ王国については、国家として残しておきました。

 ユダ王国の南には、大国エジプトがありました。これと直接接していると、この強い国と国境で紛争が起きやすくなります。それが戦争に発展して、大被害を受けるかも知れません。そこで、両大国の間にイスラエル民族を挟んでおいたと推測されます。これがユダ王国です。

      @      @      @

 推定が正しければユダ王国は、緩衝地域として用いられたわけです。英語で言えばバッファーですね。現代史にも、この役割をした国家がありました。その代表がドイツです。世界の資本主義地域と共産主義地域との間のバッファー国家。

 欧州に東西に分かれた国がありましたね。東西ドイツです。バッファーはソビエト連邦の共産主義体制が崩れたら、いらなくなります。で、統合しました。いわゆる「ベルリンの壁崩壊」がそれですね。

 アジアでは、南北朝鮮国家やベトナム国家がそれでした。南ベトナムは北に併合されましたが、朝鮮国家は今も南北二つのままです。これらは、地政学的には緩衝地帯なのですね。

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 がともあれ、かくしてイスラエルには純血ユダヤ人も残りました。そして、アッシリア帝国が衰退した後、混血ユダヤ人たちは、ユダ王国の南、故郷の地ですね、ここに帰還してきました。これがサマリヤです。

 その後、サマリアのさらに北に、純血ユダヤ人の新開地が出来ていきました。これがイエスが育ったガリラヤ地域です。

 ガリラヤは、大阪で言ったら、キタ(梅田地区)ですね。ミナミは難波地区です。キタは今でも「北の新地」と呼ばれています。街としては難波が先に出来た。そして梅田は後に開発されたわけです。東京で言ったら、銀座・築地に対する八重洲地区ですね。

 ともあれこういう風に、イエス時代のイスラエルはユダ、ガリラヤという二つの地域で構成されていました。その間に、混血ユダヤ人のサマリア地域があったわけです。

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Vol.47『サマリアの女(4章)』

2005年01月21日 | ヨハネ伝解読

 4章に入ります。
 その冒頭で、ヨハネは有名な「サマリアの女」の話を書いています。

 もちろん、よく知られているのは、クリスチャンの間でのことです。が、そうでない人にも、この「サマリアの女」という言葉は耳にしたことのあるという人も、おられるのではないかと思います。

      @      @      @

 当時のイスラエルの中心は、三つの地域からなっていました。南の方から、すなわち、地図でいうと下の方から、順に、ユダヤ地方、サマリア地方、ガリラヤ地方です。ユダヤは聖都エルサレムのある、ユダヤ(イスラエル)国家の中心地です。

      @      @      @

 サマリアには、混血のユダヤ人がすんでいました。イスラエル人は彼らをサマリア人と呼んで軽蔑していました。ガリラヤは、イエスが幼少時代から育ったふるさとです。なお、他にも、ベレヤ、ツロ、ダマスコといった周辺地域もあります。

ついでに付言しておきますと、今でもユダヤ人コミュニティーでは、若者が他民族の相手と結婚すると、コミュニティーから出してしまいます。ハリウッド映画などに出てきて、自由恋愛するユダヤ人は、こうしたコミュニティーに属さない人々です。属する人から言うと、はずれユダヤ人とでも称すべき存在です。

      @      @      @

 ともあれ3章でヨハネは、イエスがこのユダヤ地域で活躍する様を記述しました。ここでのイエスの名声は高まるばかりでした。著者ヨハネの前の師匠であるバプテスマのヨハネは、相変わらず「悔い改めよ!」とバプテスマ(浸礼:水に沈めておこなう洗礼をそういいます)を授けています。ヨハネ教団は、大教団となっていました。

 一方、イエス教団でも、それをしていました。イエス自身ではなく、弟子たちが代わって浸礼を授けていました。そして、イエス教団は新興の小教団です。だがイエス人気はすごかった。それによって、イエス教団で洗礼を受けて弟子になる人の数の方が、洗礼者ヨハネ教団の方にに行く人より多くなっていきました。

 中小企業の方が、先発の大企業よりも、成長率においては高くなったのですね。そのことは国家宗教であるユダヤ教の指導者の耳にも入ります。かれらは、顔をしかめます。ヨハネ教団も、イエス教団も、既成の国家宗教にとっては、好ましからざる存在なのです。現支配体制を揺るがしますから。

 ヨハネ教団だけかと思ったら、さらに、イエス教団が現れた。こちらの人気はさらに鰻登り。もっと多くの民衆が洗礼を受け、弟子入りしてしまう。そして、イエスの教えを聞きます。その教えは、ユダヤ教の僧侶が教えていた教えを、根底から否定するものでした。彼らはイエス教団をマークし始めていくことになります。

 そこで、イエスは、ユダヤ地方をいったん離れる決断をします。そして、中間のサマリア地方を通って、故郷のガリラヤに向かいます。その途中で、かのサマリアの女に出会うのです。ヨハネは、イエスと彼女との会話を克明に記録しています。


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ローマ帝国が与えたもの・3(小ローマ)

2005年01月20日 | キリスト教活動の歴史

<小ローマ>

 ローマ政府は、首都ローマとのような都市を、征服して属領とした地域にも作っていきました。

 それらの地域に、闘技場と大浴場をもった都市を建設した。そして、同じように食糧を備蓄し、パンとサーカスを提供しました。

 その結果、帝国内の各地に、小型のローマ市が沢山出来ました。これらの都市は、「小ローマ」と呼ばれています。

 こうした都市作りは、米国も大いに似ています。アメリカには、どこに行っても似たような都市があります。商業地区、行政地区、住宅地区が似たように配置され、図書館があり、コンベンションホールがあり、ホテルがあります。

 ショッピングセンターがあちこちにあり、マクドナルド、ケンタッキーフライドチキンなどのファーストフッドがどの都市に行っても安く食べられます。それらを広くわかりやすい道路が結んでいます。

 ローマ帝国被征服地の住民も、これを歓迎しました。前の統治者の時よりも、食べるのに安心が大きく、娯楽とリラックスがたくさんあります。


<むしろローマの属国を望む>

 そういう風ですから、他の領主・王様に統治されている地域の人民も、むしろローマの属領になってもらった方が、暮らしがよくなるということを知っていきました。多くの人が、自分たちの領主がローマに征服されることをむしろ、望みました。

 なかには戦になると、ローマ軍に情報を提供したり、ローマ軍に味方するものもでたようです。ローマは比較的容易に、属領を増やしていくことができました。そして、ここにも、速やかに小ローマの建設をしたわけです。

こうして、ローマ帝国の領土は、安定的に広がってついには、ヨーロッパ大陸全土と、今のイギリスをも含めた大帝国となりました。最盛期には東は中国との国境近くにまで至ったようです。

 中国は支配下におさめられなかったのですが、当時としては人類の歴史に初めて現れた、世界統治国となりました。
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第3章のまとめ

2005年01月19日 | ヨハネ伝解読
 第三章でも、イエスが宣教に乗り出してからの話が続きます。

イエスはいろいろなことを教えていくのですが、この章では「救い」といういテーマが中心的に扱われています。ユダヤ教の僧侶、ニコデモに説くのもそのことです。

 イエスは癒しをはじめとして、様々な奇跡をしています。
しかし、最大の奇跡は「救い」です。
 
 人は死んでも霊が身体から抜け出て永続する、というのがイエスの教えです。当人の意識もそこに留まります。

 その意識体が、いのちというエネルギーを得て、天の創主王国で幸福に生き生きと永続できるようになるーーーこれを「救い」といいますが、もし実現すればそれこそ最大の奇跡でしょう。

 だから、「救い」は、福音の中でも最大のテーマです。ヨハネはこの章で、それを中心的に扱っています。
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ローマ帝国が与えたもの・2(サーカス)

2005年01月18日 | キリスト教活動の歴史
ローマ帝国は、市民に「パンとサーカスを与えた」いわれています。今回はそのサーカスから。

<娯楽とリラックス>

サーカスとは、娯楽のことです。
人は、食べられただけでは満たされません。
なにか、楽しいことを欲します。ローマはこの娯楽も大々的に、気前よく市民に与えた。そこで「パンとサーカス」を与えたといわれるのです。

 テレビなど電波マスメディアのない時代です。娯楽を、沢山の人に一度に与える最高の手段はイベントです。
イベントとは「観客をその場の一員として含めおこなう、非日常的な催し物」といっていいでしょう。日常生活では見られないものです。ローマ政府は、これも提供したのです。

 具体的には、広い闘技場で人と動物を戦わせて見せました。あるいは、訓練した人と人とを殺し合わせ、見せました。こういうイベントを、周期的に催しました。

 この種の血なまぐさい出し物を見ますと、人は、興奮します。これが市民への有効な娯楽となりました。

 それだけではありません。政府は、公衆大浴場をも、ローマ市の中に建造しました。イベントは人の精神を覚醒もさせます。気持ちが高揚し、緊張もします。市民はその後に大きな浴場に入って、リラックスして帰宅することも出来ました。

 至れり尽くせりですね。ローマ市民は、自分や家族が食べる、ということへの心配から解放され、娯楽も与えられ、かつ、リラックス手段も提供される、という生活を送られたわけです。
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Vol.46 『まことの方に会った!(3章)』

2005年01月17日 | ヨハネ伝解読


                    

 ヨハネ伝の3章の終盤は、著者ヨハネの心情が最もストレートに出ている章です。
出ていると言うより、あふれ出してしまった、といった方がいいかもしれません。

 ニコデモは、国家宗教であるユダヤ教の僧侶です。
ヨハネたち庶民からしたら、圧倒的な国家権威を身につけている堂々たる先生です。
その先生が、トンチンカンな質問を繰り返す。イエスは、しかし、根気よく応じます。

 だが、その言葉は論理的には飛躍の多いものでした。イエスはいつも、そういう風に応じるのです。
その頃、ヨハネはすでに一定の教えを受けています。
イエスの答えていることの意味がわかるのです。



      @      @      @


 彼は、弟子の中でも、群を抜いてイエスの教えを理解していました。優等生です。
イエスはそういう彼を、常に自らの片側においていました。イエスの鞄持ち。

 彼は塾頭です。
若いヨハネです。できれば、側から言葉を補充して、ニコでもさんにわからせてあげたい。
その思いでイライラしたのではないでしょうか。
でも、ニコデモ僧侶は、若造ヨハネなど眼中にありません。完全無視。ああ、焦るなぁ・・・。

  ・・・ヨハネは、そのときの状況を思い出しながら
このヨハネ伝を書いているのではないでしょうか。


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 ーー(もう何十年も昔のことだ・・・)だが、書いていると、自分の気持ちもそのときに戻ってしまうのです。
あのときの焦りも。そして、いまなら、あのとき叫びたかった声も、出せるのです。

  人間は、みな、火の池に滅び落ちていくべき状況にあったのですよ、ニコデモさん。しかし・・・、

 「創主は、そのひとり子を送って死なせるほどに、この世を愛してくださったのですよ、ニコデモさん。
それは、御子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るためなんですよ、ニコデモさん」(16節)

 「この御子に直接出会えたのに受け入れなかった人、そういう人の頭の上には、
創造主の怒りが留まるのは当然ではないでしょうか、ニコデモさん」(36節)

 「そういう人は最後の審判で裁かれることになる。いや、裁かれる資格もなく、すでに裁かれている。
拒否したその時点で、もう裁きは終わっている。そうに決まっているんだ!」(18節)


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 春平太は、これらの言葉に、創造主とイエスに対するヨハネの熱い思いがあふれだしている様を見ます。
深い愛の思いが胸に留めきれなくなって噴火している。
ヨハネは、こう叫んでいるのではないでしょうか。

 「わたしは、気がついたら、この世に生きていた。望んで生まれてきたのでもないのに生きていた。
わたしは、どこから来たのだ。どうしてこの世に存在するのだ。
そして、これからどこに行くのだ。なんのために、どう生きればいいのだ・・・」

 ーーーヨハネは、そういう問い、人生の根底に流れる問いを、
まともに追求し続ける人だったのではないでしょうか。
書物も読んだ。そして、いろんな人を訊ねた・・・。



 ユダヤ教の僧侶に始まって、いろんな人に会い、教えを学んだ。
バプテスマのヨハネは、最初の師匠ではなかったのではないでしょうか。
以前にも、たくさんの師匠に近づき、教えに耳を傾けてきたのではないかと思われます。

 
ーーー「ある人は、偽りの人だった。
また、ある人は、はじめは本物そうに見えたけど、詰まるところは金儲けのためにやっていた。
頭はいいけれども、自分の栄華のためにやっている人もいた。
利己心はないけれども、教えが、今ひとつ核心に至っていない人もいた。」


ーーー「しかし、今、わたしはまことの方に出会った!
この方の教えは、紛れも無き真理だ」

ーーー「わたしの胸には、もはや、さらに他の人を訊ねようという意向が全く湧いてこない。
日々核心に触れる喜びに満たされている。わたしは、まことの方に出会ったのだ!」

 “まことの方に出会った・・・”

 第3章でヨハネが叫びたかったのは、それでした。
凝縮すれば、そう言いたかったのです。


                    


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Vol.45『天からの者、地に属する者(3章)』

2005年01月17日 | ヨハネ伝解読
 解読を続けます。
 全師匠・バプテスマのヨハネの証言を記した後、著者ヨハネは、自ら語り始めてしまいます。

 「そもそも、天から来られた方は、地に属する人間たちより、絶対的に上位にあられる。(基本的な格が違うんだ)」(3章31節)

 彼は、前師匠の説明を、このように「天と地」との絶対的な格差、対立関係という枠組みにおさめて、言い換えるわけです。「ヨハネ神学」のフレームワークですね。

      @      @      @

 彼は続けます。

 「天の王国から来られた方は、天で見たこと聞いたことを証言されるのだ」(32節)

 「創主がつかわされた方は、創主の言葉を語られるのだ。創造主が自らの霊(聖霊)を限りなく与えられたからだ」(34節)

 「それを受け入れ信じる者は、創造主の言葉が真理であることを、認めたことになる」(33節)

 「だけど、ほとんどの者は、その証言を受け入れない」(32節)

      @      @      @
 
ーーー(それが『世』なのだ)・・・ヨハネの言いたいのはこれなのです。そして、彼は、こう断じます。

 「万物の創造主は、万物に対する権威を、全て御子イエスに与えられているのだ」(35節)

 「だから、御子を信じる者には、永遠のいのちを持つことになる。では、信じない人はどうなるか。そういう者は、いのちにあずかることが出来ないだけではない。創造主の怒りがその上に留まるのだ」(36節)と。

 ヨハネは、こう断言して、この話を閉じています。 
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