鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す31 ~新約聖書の大枠~ 

2015年08月23日 | 米国への無知を正す



新約聖書にはイエスと彼の教えを巡る書物が収納されている。

前回述べたように、旧約聖書は~

① この世が始まってからモーセまでの歴史。
② 創造神が守るべきルールとして与えた律法。
③ 将来、「救い主が現れる」という預言。

~この三つの大枠でなっていた。

このうちの律法を民に守らせるための教団、ユダヤ教団がイスラエルにはできていった。
イエスが生まれた当時、教団には高僧たちがいて、上層階級の人々(パリサイ人、サドカイ人と呼ばれていた)がそれを支えていた。

イエスはそうしたユダヤ社会の中に生まれ、教えた。





<旧約は創造神メッセージと断言>

彼は沢山のことを教えたが、すべてを旧約聖書との関連でもって見ることが必要である。

イエスは、自分が創造神の子で全てを知る存在だと宣言して教え始めた。
そのスタンスから彼は「旧約聖書は全編、創造神メッセージの受信記録集であるのに間違いない」とした。

この認識は「創造神メッセージである可能性が高い」といった生半可なものでない。
全知の創造神の子だから、メッセージ記録そのものだという断定となる。

その上で彼は、全てをこの書物から一歩も外れることなく教え、また(旧約の預言通りに)行動した。




<画期的な旧約解説>

けれども彼の旧約聖書「解釈」は、これまで誰もなしたことのないものだった。

+++

イエスは、旧約の預言者たちを高く評価した。
だが、超霊感者といえども人間だ。

彼等の霊感受信能力には限界がある。
だから彼等に与えられた幻もそれに応じたものになる。




<「天国」が欠けたメッセージ>

なによりもそれは「天国」に関するメッセージが全くないことに現れていた。
(旧約には天国という言葉は一度も出てこない)

イエスはその「天国」という理念を導入することでもって、教えを始めた。
イエスの宣教第一声は、「悔い改めよ、天国が近づいた!」〔マタイによる福音書、45章17節)であった。

ここで「天国が近づいた」とは、「天国がこの世〔宇宙)と呼応していることを人間が認知できるほどに、人間に接近している」ということである。
イエスがそうする、のである。

イエスは以後、天国との関係で教えを展開した。




<「天国」とは>

イエスによれば、天国は人間が住む宇宙〔物質界)をも含む、広大な霊的空間である。
そこは創造神が王として完全統治する創造神の王国(Kingdom of Heaven)である。

我々の住む「この世〔宇宙:物質界)」は、天国の影のようなもので、本体は天国である。
そして人間がうける究極の幸福(祝福)は、死後肉体を抜け出た霊がこの天国で永遠に住めることだ。
~そうイエスは教えた。

+++

これを旧約聖書の思想と比較するとこうなる~

旧約聖書の預言者は、天国のことまでは受信できない。
そこで創造神は、幸福をこの世〔宇宙)でものとして示した。
だから、旧約での「祝福」はこの世の幸福となる。

その具体的内容は、肉体の健康と富(この世に生きている間に用いられる財貨)が与えられること、~となる。

だが、イエスはこう教えた。
この世の祝福はホンモノの影であって、本当の祝福とは、死後に霊が天国で住めるようにされることだ~と。




<旧約時代の「救い主」>

すると旧約に出てきた「救い主」の意味も変わることになる。
旧約時代にはイスラエルの民は、「旧約で預言された“救い主”は、ダビデ王のような王様の再来」だと思っていた。

+++

どうしてそうなるかというと、当時の中東の諸国は異民族の国々と隣接していた。
王の能力が凡庸なら自国は隣国に征服されっぱなしとなる。
さすれば、領土は切り取られ、富は強奪され、富がなくなれば人民は飢えて、健康にも支障が生じる。

イスラエルの民は、そういう環境の中で日常を生きていた。
その歴史の中で、ダビデ王はイスラエル民族に連戦連勝をもたらした戦の天才だった。
人口も増え、領土も拡大した。

そして、ダビデ王はいなくなった。
そういう中で暮らしていれば、救い主とはなによりも、旧約での幸福の必須要素を確保してくれ、かつ守ってくれる王様となる。


イスラエルの民がダビデ王のような王様を救い主として待望するのは、自然な成り行きであった。




<イエスのいう「救い主」>

ところがイエスの幸福観では、人間の祝福〔幸福)とは、死後、その霊が天国で住めることだ。

だが創造神の王国である霊界に入るには、人間の霊から罪がなくなっていなければならない、とイエスはいう。
では罪とは何かというと、それは(旧約でモーセを介して与えられた)律法に反することによって、霊に生じるものだ、という。

そして、人間は生きていれば必ず律法に反して罪を犯すのだ、とイエスは教えた。

たとえば律法には姦淫の罪というのがある。
これは行動だけでなく、思いにも適用されるもので、たとえば「女を見て姦淫の情を抱けば姦淫の罪を犯しているのだ」とイエスは言った。

+++

さあ、大変。
これでは「人間はみな罪人」となる。
世上言われる「人間みな罪人」が真理となってしまう。

イエスは、その通りだという。
そしてその罪を取り除く存在が「救い主」なのだ、といったのだ。

この論理は若干複雑だが、述べないわけには行かない。




<贖罪のメカニズム>

まず、人の罪を取り除くには、代償を造らねばならない。
そして、それは、罪のない存在が、死ぬべきでないのに殺されることによって造られる。
これを贖罪(しょくざい:代価を支払って罪を帳消しにすること)という。


人間には、そういう代価は造り出せない。
なぜなら人間はみな、「律法を犯している罪人」だからだ。

律法には「罪の報酬は死」という鉄則がある。
律法に反することをすれば、霊には死がやってくる~という意味だ。

そしてそういう霊の状態は、肉体にも反映するので、人間の肉体は放っておいても老化して死ぬ。
そういう「死ぬのが当然な」肉体が死んでも、罪の代償は造出され得ない。

霊に罪がない存在の肉体が、死ぬべきでないのに殺されることによってのみ代償は造出される。
自分(イエス)は創造神の子だから、人間のように罪を持っていない。
その自分が死を味わう(肉体が死ぬ)ことによって、代償は造られる~とイエスは言った。

また、そのことを信じて受容する人間には、それが実現して、罪が代償される。
その人の霊は、死後、天国に入って幸福の内に永続できる。

~イエスはそれをするのが真の「救い主」であって、それは旧約聖書に奥義として預言されていると、聖句解読をして示した。

+++

このようにしてイエスは、旧約聖書に預言されている救い主は自分であると教え、宣言した。
そして、その通りに殺された。

加えて、三日後によみがえって(復活して)、自分が罪なき存在であったことを証明した。

以後50日間にわたって、500人の人の前に現れた。
弟子たちには、追加の教えをした。

そして、多くの人の目の前で天に上昇していった。

+++

その後、イエスは愛弟子ヨハネに、「この世(宇宙)」が消滅する様と、天国の都の素晴らしい様子を幻でもって示した。

~以上が、イエスのわざである。

以後、弟子たちはイエスの教えを宣べ伝えた。
信じる人が急増し、教会が出来ていった。





<新約聖書の大枠>

新約聖書はそうしたイエスとその言動を巡る事柄の記述を集め編集したものである。

その大枠は次の四つと把握することが出来る。


第一は、イエスの生涯の言動記録。
      (四本の伝記で、これを「四福音書」という)

第二は、弟子たちが教会を建てあげていく様の記録。
     〔『使徒行伝』がそれである)

第三は、手紙によるイエスの教えの解説。
    (これ自体が神学の理論知識になっている。神学とは聖句の論理的関連を見出す作業だからである)

第四は、世(宇宙)が消滅するまでの様子と、天の都の情景の幻の記録。

(天の都は創造神の存在を信じる者が入るところ。それは透明の純金で出来ている。
幻はイエスの愛弟子ヨハネに延々と与えられている)




<7部構成の教典書物>

これに、前述した旧約聖書の三つの大枠を加えると、合計7つになる。

これが示すように、聖書ではまず、モーセにこの世(宇宙)が出来る様の幻が与えられ、最後にこの世が消滅する様の幻が愛弟子ヨハネに与えられている。
つまり、この世の最初と最後、アルファとオメガが幻で示されている。

そして、世が消滅した後の天国の幻も、ヨハネに与えられている。

+++

天国は霊界で、創造神の意図と統治が貫徹する永遠の国である。
それは「この世」の本体であり、この世は「その影」に過ぎない。

またその影は、生成し消滅するひとときのものである。
そこで演じられるのは、永遠の世界である「天国」の一角での「一幕のドラマ」だ。

旧新合わせた全体としての聖書は、こうした永遠の本体世界と、一幕の影の世界のドラマを、両者を呼応させつつ、重層的に描いている。

また、それは全くの作り話ではなく、真理である可能性も持っている。
そして、その可能性を肯定する面から吟味していくと、その心理的可能性は通常、増大していく。

それが聖書の全体像である。






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米国への無知を正す30 ~旧約聖書、三つの塊~

2015年08月10日 | 米国への無知を正す





今回は、旧約聖書の聖句にみられる大枠を示そう。

キリスト教の聖書は、旧約聖書に新約聖書が合体して出来ている。

旧約聖書の冒頭には、まず、万物の創造神が世界をつくった様子が記されている。
暗闇の中に光が造られ、次いで、天と地、陸と海、空を飛ぶ鳥や地上の動物、海中の魚などが造られる。

+++

この話を書いたのは、映画『十戒』にも描かれたモーセとされている。
だけどモーセは紀元前1500年頃の人である。
それを勘案すれば、次のような考えは当然出るだろう。

~そんな大昔の、何億年も前のことなど、モーセだってわかるわけがない。
勝手に自分の頭で考えて、あたかも事実であるがごとくに書いているのだろう。




<幻の受信記録>

だが、旧約聖書の記述には、次の想定がある。
つまり、その主要部分は「万物の創造神から見せられた幻」を言葉にして書いたもの、とされている。

だから、モーセもその幻を、天の「万物の創造神」からのものと信じて記録していることになる。

(ちなみに同じ旧約聖書の後に出てくる『ヨブ記』という書物の記述も、そういう幻の記録とみるべきである)

+++

その記述の真偽は別に考えるとして、ここでは、実際に筆を執ったのは、祐筆たちだろうことを、確認しておこう。

日本の戦国大名と同じく、祐筆がモーセに付き従っていたのだ。
見せられた幻をモーセが言葉で語ると、彼らがそれを記録したのであろう。

モーセを聖句では第三人称として、書いていることがそれを示唆している。
たとえばエジプトからカナンの地に向かう旅の途中で、モーセが行ったことを,聖句は「私がこれこれした」とは書いていない。
「モーセがどうこうした」と書いている。

もっとも新約聖書の「ヨハネによる福音書」では、著者ヨハネは、自分を第三者的に書いはいる。
この書物で「イエスが愛した弟子」と言うのは、著者ヨハネ自身のことだ。
だから、モーセもそう書いている可能性がある、とも思えるかもしれない。

けれどもモーセについては、彼が死ぬ前後のことも、記されている。
そのあたりのことは、モーセ自身はいくらなんでも書けない。
やはり、祐筆が責任もって書いたのだ。

+++

豊臣秀吉の祐筆が書いた手紙が、秀吉の手紙とされているように、旧約聖書の最初の五つの書物は、モーセの著者とされている。
それらは「モーセ五書」とよばれている。

そこには、彼が生きた同時代の歴史的事実も記されている。
けれども、それは付随的な部分であって、書物の主要部分は彼の受けた幻の記録である。
それを中心に、旧約聖書は見ていくべきである。




<幻を言葉にしたのが「預言」>

幻とは、現在我々が見る映画のようなものだと考えたらいい。
それは映像と音で出来ている。

だがこの幻は、霊的な波動によるもので、霊感だけで感知できる啓示だ。
モーセは霊感が飛び抜けて豊かな、超霊感者だった。

その受信内容を、モーセは人々が読むことの出来る言語で語ったのだろう。

こういう人を、
英語は「プロフェット(prophet)」といっている。
日本ではそれを「預言者〔よげんしゃ」と訳している。

受けた啓示を「言」語で「預」かる「者」という意味である。

+++

イスラエル民族の中には、預言者は沢山出た。
そのうち著者として聖書に名を残している人だけでも20数人いる。

モーセ後の預言者たちも、幻を言葉で語り、祐筆が記したであろう。
彼等の記述にも、霊感者当人は概して第三人称で記されている。




<モーセより過去の幻>

モーセは最初の預言者著者だった。
そして彼と、後の預言者たちとは対照的な面を持っている。

モーセは、自分が生きた時代より昔の、「過去の幻」を見せられている。
世界が造られる創世の昔から、モーセ自身の時代までの出来事を幻でもって見せられている。

対して、他の預言者は、自分より将来の、未来の事柄の幻を見せられている。

いうなれば、モーセは過去に向かって幻を見ている。
後継者たちは、未来の方を向いて幻を見ている。




<律法>

モーセはまた、もう一つの幻を見せられている。
それは、「人間が守るべきものとして、創造神が与えるルール」だ。

邦訳聖書ではこれを「律法(りっぽう:law)」といっている。
これを代表する項目が、ハリウッド映画の題名にもなった「十戒」だ。





<ユダヤ教の成立>

この機会に、ユダヤ教のことも述べておく。

幻の受信記録は、概してその意味するところが難解だった。
けれども、律法の部分は比較的記されていることがわかりやすかった。

そこでイスラエルの民は、この律法の部分を抜き出して、これを守って生きるすべを本気で考え、実行した。
この活動が、「ユダヤ教」となった。

だが、これは余談だ。




<旧約、三つの塊(かたまり)>

以上のように、旧約聖書は三つの塊から出来ているとみることができる。

第一は、モーセより過去の世界に関する幻の受信記録である。

第二は、モーセより未来の、幻の受信記録である。

第三は「人間が守るべきものと創造神から与えられたルール、律法に関する幻の受信記録」である。












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米国への無知を正す29 ~「創造神メッセージ」宣言への対応~

2015年08月08日 | 米国への無知を正す





いま筆者は「米国への無知を正す」というタイトルで、米国の群を抜く政治的有能さの構造を考察している。

その視野の下で今回は、「旧約聖書には創造神からのメッセージ受信記録」がふくまれれている、という宣言にどう対応すべきか、を考える。





<「笑わせるな」と「信じます」>

もし「創造神メッセージである可能性につきどう思うか?~と問うたら、日本では二つの反応が出るだろう。
一つは「アホか」「笑わせるな」で、これは日本の一般人の大多数だ。

だが、数は少ないがもう一つの反応がある。
「絶対そうだと信じます!」がそれで、これは日本のクリスチャンの答えである。

日本にはほぼこの二つのグループに尽きるように見える。

そういう日本の中に住んでいると、これが当たり前のように思えてくる。

+++

だが、筆者はあるとき、こんな疑問を抱いた。

「預言者(著者)が書き留めた旧約の言葉が、創造神からのメッセージの受信記録である可能性」という命題は、その中に沢山のテーマを含めている。

そもそも万物の創造神なる存在がいるかどうか。
存在するとしても、その方が、人間にメッセージを与えることなどありうるか。
メッセージを与えたとしても、預言者(超霊感者)がそれを実際に受信したかどうか。

~等々だ。

けれども、これらはみな「見えない物事」が存在する可能性に関する問いだ。
見えない存在のことについて、「笑わせるな」とか「絶対信じる」だけというのはおかしいのではないか。

これを可能性のパーセンテージで示したら、「笑わせるな」組は0%、「絶対信じます」組は100%となるだろう。

こんな両極端だけがあって、その中間がないのは何故だろう。





<合理的には五分五分>


そもそも人間には理性(筋道立てて考える能力)が備わっている。
これに素直に従えば、見えない世界のことは、見える世界のことのように断言はできないはずだ。

こういう世界の存在可能性については、人間が合理的に言えるのは、「まずは五分五分」となるのではないか。

そこで、こんな疑問をぶっつけることが出来る。
まず、「笑わせるな」組に対しては、「見えない世界のことなのにそんな可能性は全く存在しない」なんてどうして言えますか?~と。

彼等は答えに窮するだろう。

他方「絶対信じます」組には、「見えない世界のことなのに、100%の可能性で存在するなんてどうして言えますか?」~と質問する。

もちろん彼等も同様に窮するだろうが、こういうだろう。

「けれども可能性を絶対に100%信じなかったら、信仰生活なんて出来ませんよ」と。
「その心があるから、宗教活動をやっておられるんですよ」~と。

<肯定と否定を「重ね合わせ」たままで進む>


だが、はたしてそうだろうか?

五分五分という認識には、「可能性を肯定する認識」と「否定する認識」の二つが含まれている。

この「肯定と否定とを重ね合わせて」そのままで進んだらどうだろうか。

そして「肯定する五分」の方に軸足を置いて、その可能性を吟味することは出来ないだろうか。

「可能性を否定する」五分の方に立てば、探求する意欲など実際には起きないだろう。
だが、肯定の側に立てば、出来るような気がする。




<素材の実力>



そうやって吟味が始められたら、あとは、素材の実力がものを言うだろう。
それはもう、歴史を見るしかないだろう。





<奥義が見えてくる>


旧約聖書については、「初代教会」〔最初のキリスト教会)への参集者たちは聖句の自由吟味を続けた。
小グループで自由な相互吟味を続けると、奥義と思えることが見えてくることもあった。
そこには、「これは人間が経験を積み重ねただけではとても得られないだろう」と思える知恵があった。

もちろん、それが「創造神から伝えられた真理であるかどうか」は究極的には人間には言えない。
だが、解読できたとき、「この聖句は創造神からのメッセージ受信記録にちがいない」という確信が彼等の心の内に生じた。

+++

「これは真理だ!」と確信する知識に出会ったとき、人は感動する。
そして、強烈な覚醒感を体験する。

この喜びは他では得がたい。
そこで彼等はまた、他の聖句の吟味に入っていった。

そういう活動が、現代でも聖句吟味者の間で続いている。

それはまた、旧約聖書には未解読な聖句が残存し続けていることをも意味する。




<二つの組を比較すると>

初代教会の聖句自由吟味者たちの姿勢に、前述した日本の二つの組を比べてみると、こんなことも見えてくる。

結論から言えば、両者とも、理性の示唆するものをストレートに口に出せない状態にあるように見える。

こうした問題に反応するときの、日本人の心理状態は、自由ではないのだ。
恐怖心がわき上がり、それに左右されるのだ。

<もう「見えない世界」の話は信じない!」>

「笑わせるな!」組は「見えない世界の理論」そのものに恐怖心を抱いている。
それは戦後日本人の意識に染み込んだものだ。

太平洋戦争後、日本人は「我々は国家神道に騙されて、戦地に駆り立てられた」という「一億総反省」をした。
それが「神などの見えない世界のことは、相手にしたら危ない」という恐怖心を心底に形成した。

その結果、「触らぬ神にたたりなし」で「そういう話は、はなから相手にしないのがいい」という姿勢ができた。

それが次の世代にも伝わり、戦後日本人の風習となった。
「アホちゃうか?」という反応はその結果なのだ。






<関係が壊れるのが怖い>

他方、我が国のキリスト教会の信徒にみられる「絶対信じます!」という反応には、「現在享受している人間関係、社会関係が壊れるのが怖い」という思いが潜んでいる。

彼等は「聖書の言葉は神からのメッセージです」といわないと牧師さんからも「信仰がない!」と叱られる。
仲間の教会員からも非難を受け、冷たい目で見られ、ことによったら集団から放逐される。

それが怖いから「100%信じてます」という非合理的な反応をするのだ。

+++

日本人の「見えない世界の事柄」への姿勢は、とても幼稚な状態にあると思う。









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