鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.271『聖霊は人々に罪の真理を悟らせるよ』(16章8~9節)

2009年12月13日 | ヨハネ伝解読
聖霊の働きについてのイエスのレッスンが始まります。

                    

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http://aiai.hukinotou.com/

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=聖句=
 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世が誤っていたことを認めさせるよ。
人々は罪について誤って考えているんだ。私を信じないからなんだよ」(16章8~9節)
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なにやらわかりにくい話ですね。言い回しが難しい。

まず「罪について、世が誤っていたことを認めさせる」とはどういうことか。



                    

ユダヤ人たちは旧約聖書が「罪とは律法を守らないことで、守れば罪はなくなる」といっていると解釈しています。
だが、その解釈は間違いなのだ、とイエスは教えてきた。
人間はアダム以来原罪をもっていて、律法を完全に守ることなど出来ない。
だから、律法をも守ろうとしていたのでは永遠に罪人のままである。
それが旧約聖書の真意なのだ。

惟一の方法は、その彼らの身代わりになって罪の代償を支払う私(イエス)を救い主と信じることだ。
つまり、罪を無くする方法は私を信じることのみであり、それを裏から言えば、私を信じないことがすなわち罪ということになる、と。
これが罪に関しての真理であるにもかかわらず、ユダヤ人たちはそう思えないできた。
~これが「罪について、世が誤っていた」の意味です。


                    


「ところが」とイエスは言います。

~「世が誤った考えしか出来なかった」のは人々に世の霊(悪魔)だけが全面的に影響を与えているからだ。
けれども、聖霊がくると事態は一変するよ。

以下、イエスの考えを補充するとこうなります。
霊は意識体で、意識体は意識波動を発している。
悪魔は「世的な」意識波動を発して人々の意識に影響を与える。

聖霊はイエスと同じ創造霊で「聖なる」天の意識波動を発している。

この霊がこの世に遍在して働くとどうなるか。
諸君が私が教えたことを宣教する。
人々は「何を言ってるか」と最初は思うかも知れない。

だが、聖霊が働いて意識波動を送ると、人々の心はこの波動に共鳴して感動する。
そして「ああ俺たちは間違っていたんだ」と悟ることになる。

~「罪について、世が誤っていたことを認めさせる」とはこういう意味でしょう。

(だから、私がいなくなって聖霊が来た方が諸君に益なんだよ)と

イエスは弟子たちに語るわけです。



                   


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Vol.270『私が去って聖霊がきた方が諸君の益になるんだよ』(16章4~7節)

2009年12月06日 | ヨハネ伝解読

前述の3回では、福音がL字型意識の思想であることを考えてみました。
では、その福音に戻りましょう。

                    


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=聖句=
 「わたしが初めからこれらのことを諸君に話さなかったのは、私が諸君と一緒にいたからだよ。
だが、私は今わたしを遣わした方のもとに行こうとしているんだ。
だけど、諸君の誰も『どこへ行くのですか』と尋ねないよね。
そうでなく、諸君の心は悲しみでいっぱいだ、わたしがこのことを話したがために。
だけど、真実を言うよ。わたしが去っていくことは、諸君にとって益なんだ。
もしわたしが去っていかなければ、助け主が諸君のところにこないからだ。
わたしは去って行ったら、助け主を諸君のもとに遣わすんだよ。」
(16章4~7章)
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弟子たちは、イエスが「父なる創造主のもとに帰って行く」というと仰天・動揺し、悲しみます。
対してイエスは「悲しむ必要はないんだよ」といいます。


 「自分が諸君とともにいることがなくなると、助け主なる聖霊を送る。
それは、私がともにいるよりも諸君にとって益になるのだ」(16章7節)と。

こうしてイエスはいよいよ聖霊に関する本格的な教えに移ります。

聖霊は、創造霊です。
創主から「出た」霊でイエスと同じ創造霊。
これは聖書の基本思想で、創造主によって「造られた霊、被造霊」ではない、となっています。

                    

聖霊は、無数に存在しますが、無数といっても、各々が持つ意識は、創主と同質の意識でみな同じ。
その意味では一つです。
「無数に存在」と鹿嶋が言ったとき、「そんなこというと異端と攻撃されるよ」と警告してくれた牧師さんがいました。
話は最後まで効いて欲しい。聖霊はいうなれば「多にして一、一にして多」という存在。
一見詭弁めいていますが、そういう風に言うほかない創造霊です。

 創主は、自らの王国空間(天国)を創った後に、そこを聖霊で満たしています。
イエスもそこに入ります。

聖霊もイエスも創造主から「出た」創造霊である点では同じです。
なら両者はどう違うか。
違いは、イエスが天の王国を相続する権利を父なる創主から与えられている、唯一の「創主の子」だという点にあります。

                    

 聖霊は、以前にもこの地上に来ているようです
「詩編」51章11節に、「あなたの聖霊を、私から取り去らないでください」というダビデの言葉があります。
 
だがそれは宣教の「助け主」としての聖霊ではない。
イエスがこの世から去った後に送るのは、弟子たちの宣教活動を助ける存在(helper)、だとイエスはいいます。

 聖霊は無数に存在する霊ですから、同時に複数の場所で働きをすることが出来ます。
他方イエスはこの世では人間の形をした身体をとって来ていますから、
偏在(同時に多くの場所に存在して働くこと)は、出来ません。
聖霊は、どこででも助けてくれるのです。

                    


 イエスはこの世では、自分で「しるし(癒しなどの奇蹟)」を行いました。
弟子にその権威を与えて街に入らせたことはありましたが、それは例外的状況でして、
通常はしるしの力は与えなかった。
弟子たちはそうしたイエスに付き従うだけでした。

 だが、聖霊は、弟子と一緒に働いて、弟子に「しるし」の力を与えます。
(実態は、力ある天使にそうさせるのですが)
すると、弟子たちがみずから奇蹟を行う様に、一般人には見えます。
人々は、弟子に大きな信頼を抱きます。
その状態がなったところで、弟子は、福音を説きます。
多くの人が信じます。
なんとエキサイティングで、ドラマチックなことでしょうか。

                    

だから、自分が去るのは、むしろ諸君にはいいことなのだよ、とイエスは弟子に諭すのです。
そういう霊を、自分がいなくなった後に送ると約束する。
 具体的に、どう助けるか? 次回からそれを追ってみましょう。



                    



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<臨時版>カンヌ国際広告祭から3 

2009年12月01日 | ヨハネ伝解読
 福音は、L字型の枠組みをもった思想です。
日本では、ハイフン型の文化・思想が主流です。
このなかで福音伝道をしていくのは、基本的に困難です。
けれども、その困難の仕組みをしると、対処法も見えてきます。

日本の文化意識そのものをL字型にすることは困難と見るべきです。
ましてや、自然なままでそうなっていくのは期待できないでしょう。


                    

だが、そのなかでも福音がそのままの形で受容されることはあります。
福音を伝えられた時、聖霊が働く場合がそれです。
聖霊は感動を与えます。伝えられた人の心を感動させます。
そのとき、当人の意識は例外的にL字型になっています。


                    

ただし、聖霊は時がたつと風のように去っていきます。
(聖霊のバプテスマを受けた人は例外です。この場合は聖霊は当人の内に入って留まります)
すると、その人の感動は消えます。
「あんな話にどうしてあんなに感動したのだろうか」と自ら思うような精神状態になる。
そうなったら、L字型意識も消滅してもとの木阿弥です。


                    

けれども、方法はあります。
感動のある間に、福音思想はL字型であることを、言葉でもって明示してあげるのです。
福音は「いと高き方向に意識を向けている思想」である、と教える。
この状態が維持されているのが福音思想のあり方なのだと伝えます。

するとそのことは知識としてその人の知性に残ります。
福音思想は知識の枠組みとして当人の意識に残ります。
この状態が定着すると、聖霊が再びやってきて働く事態が生じやすくなります。
働いた時には、また、信頼(信仰)の感動がやってきます。
これを繰り返しているのが、福音への信頼をもった状態です。


<福音指導者の仕事>


こうした知的自覚を与えるべき立場にいるのが牧師さんです。
これをするのが信仰指導者の大切な仕事なのです。
知識をも教えると神髄を外さない伝道が可能になります。

L字型思想の自覚が明確にないと、福音は受容されてもハイフン型になっていきます。
そして人間同士の「愛」とか人間社会の「道徳」とかをもっぱら述べる思想になってしまいます。

またそうなると、「愛」も人間的なものに変質します。
全てを許す愛ではなく、人間の間でなすべき愛の規範、愛のルールの色彩が出てきます。
「あのときこれこれの愛を示すべきだった・・」と自分を責めるような規範の愛です。
これは道徳に通じますから、「愛」と「道徳」はつながって「愛と道徳」宗教になります。

教会に来た人々が感動を受けた時、福音の思想がL字型であることをきちんと教える。
そういう教会が日本に増大することを祈ります。


                    





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