筆者はキリスト教に関するメチャクチャな誤解を、一つ一つ解いてきている。
これは新約聖書のなかで”バプテスマのヨハネ”(「ヨハネ伝」の著者ヨハネと別人)が自らの仕事について言っているのと同じ性格の作業だ。
彼は「主の道をまっすぐにせよ」といっている。
聖句ではこうなっている~。
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「ヨハネの証言はこうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして『あなたはどなたですか』と尋ねさせた。
・・・・(中略)・・・・
彼は言った『わたしは預言者イザヤが言ったように、”主の道をまっすぐにせよ”と荒野で叫んでいるものの声です”』
(『ヨハネによる福音書』1章21-23節)
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ここで「主」とは、これから現れようとしている、創造神の御子イエスのことである。 「主の道」とは、これからイエスが教えようとしている「天国」~この語は新約聖書で始めて出てくる~の理解に至るまでの道である。
理解がそこに至る途中には、従来の複雑で誤解に満ちた観念が満ちている。これを悔い改めて道をまっすぐに正せ、と自分は言っているのだ、とヨハネは答えている。
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筆者のしてるのも、これに似ている。これから本書で明かされていく「キリスト教の正しい学び方」に至る道には、メチャクチャな誤解が日本には特にたくさんある。先にそれを正し、ゴールへの道をまっすぐにする仕事をしているのだ。
<「信じる」の不明確さ>
今回はその障害の一つになっている「信じる」という言葉の意味の不明確さをとり除いておこう。
これは宗教活動全般におけるキーワードでもある。 そしてキリスト教の正しい理解のためには、特に重要な鍵用語である。
にもかかわらず、この言葉は多くの意味内容を含んでいて、現状ののままでは漠然とした状態にある。
それが、あたかも自明であるかのようにして、現在用いられている。それがキリスト教に関する、誤解をもたらしているのだ。
<肯定的に受信>
そもそも「信じる」とは定義するならば、その基本的な意味は「信号(サイン、情報、メッセージなど)を肯定的に受信する行為」となる。
詳しくは後述するが、人間は自由意志を持つように造られている。 それ故、あるメッセージが与えられたとき、人は二つの姿勢をとりうる。 ① 心を開いて受容する。 ② 受容しないで心から閉め出す、がそれだ。
①はメッセージを肯定する姿勢であり、広い意味での「信じる」だ。
②はメッセージを否定する姿勢であり、広い意味での「信じない」だ。
<対・在物神概念では>
だがその心理内容は、在物神に対する場合と、創造神に対する場合では、異なってくる。
ここで在物神概念に関して、若干の追記をしておく。
筆者は、そのイメージの中身は感慨でできていて、この神とは何かを説明する理論がない、と前述した。
だがそれは、この神は何であるかの言葉が「全くない」と言う意味ではない。
お稲荷さん(稲荷神社)で狐に内在していると思われている神にも、若干の意味説明はあるだろう。いなり寿司が好き、油揚げが好き、というのもそうだろう。
白い蛇の内にいると想像される神もそうだ。この家の主として家を守っている、等々の理屈は付随している。
インド古来のヒンズー教にはシバ神などが登場し、それらの神の性格が様々述べられている、と言う。
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だが、その理屈には精緻な論理体系が内在している、ということはない。教祖などの人間が、思いついたように述べた話の域を出ない。
もう少し事例を挙げておこう。
奈良の三輪神社はご神体は三輪山という山とされてきているが、いつしか蛇も境内に祀られるようになっている。理由を聞いてみたら、「ある人が三輪山を大きな蛇が巻いている幻を見たといったことからはじまる」と。
それで蛇も祀るようになった」とのことだった。
その程度の理由もまた、あえて存在理論というような論理を含んでいない。
これもそうだ。
最近、日本のとある神社で、「女性の願いを聞いて下さる神社」とうたったらどうかというアイデアが関係者にうかんだらしい。実施したら参拝者が三倍になった、という。マーケティングで言う“差別化”が上手くいったのだ。
だが、そこにも存在理論といえるほどのものはない。
その程度の理屈(説明)なら対・在物神感慨にもあるのだが、この理屈は、信じる、信じない、を左右するほどの機能は殆どはたしていない。
その意味で、在物神イメージには、その神の特性を述べる理論はないのだ。
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そこで、対・在物神では、その「信じる」はそれから得られる「感慨をそのまま受け容れる」、という意味になる。
それには通常、「拝そう」「仰ぎ奉ろう」という感慨が付随する。
そこで対・在物神の「信じる」は、「信拝」「信仰」といったものになる。
その心理をまとめて言えば「仰ぎ拝して信じる」となる。
短く言えば「仰拝信」だ。 さらに略せば「仰信」となろう。
<対・創造神の「信じる」>
創造神に対しての「信じる」は次のような心理過程で成立する。
① 言葉での紹介に耳を向ける。
創造神イメージはまず言葉で伝えられる。
「福音は聞くことから始まる」の言葉通り、耳を向けてみることで、プロセスは始まる。
② 受け容れてみる。
「リンゴは食べてみないと味がわからない」と言う。
試しにその言葉をうけいれてみることが必要。
これを「そんなものいないよ、笑わせるな」といってたら、ここでおしまい。
③ 聖句を探究して、その概念を知っていく。
理念がだんだんと明確になってくる。
④ 本当らしい、と確信する。
~この心理内容を対・在物神のように短く示すには②~④についていうのがいいだろう。
すなわち「受 ⇒ 知 ⇒ 信」、まとめていえば「受知信」、さらに略せば「知信」となろう。
<認識機能の相違>
「信じる」心理における認識能力の働き方の違いも見ておこう。
人間には、感性と理性という認識能力が与えられている。
そして理性と感性が協働して働く認識能力を知性という。英語ではインテリジェンスだ。
対・在物神での「信じる」は、信号受信が感性だけでなされるタイプだ。
前述したように、在物神イメージの心理的内容は”ジーンとくる”感慨である。感慨の受信は感性だけによってなされるのだ。
他方、対・創造神での「信じる」は、理性と感性が協働することによってなされる。言い換えれば、知性によってなされる。
創造神信号の心理的内容は理念である。理念は言葉と理論を含めている。その理論の筋道を理性が把握し、それに感性(霊感もその中の一つ)が実在感を感じていく。
<「信仰」は在物神に適した言葉>
このように、「信じる」という心理は、対・在物神と対・創造神で大きく違う。なのにその区分は現在も自覚されてない。
その状態で、信仰という語が多くの場合用いられている。現在日本ではこれが「信じる」をいうときの代表用語となっている。
だが、「信仰」は、どちらか言えば在物神信号の肯定的受信のほうに適した言葉である。これは「仰ぎ見る状態での」受信だ。仰いでいたんでは「理解する」というステップは含まれない。
初の邦訳聖書の作成者、ヘボン先生は英語のfaithやbeliefを信仰と訳された。
せめて「信心」にしておかれたらよかった、と思うのだが、キリスト教の神様に高貴なニュアンスを出すために、信仰にされたのかもしれない。
<創造神には「知信」で>
だが、信仰という訳語はキリスト教の正しい理解を少なからず妨げている。
創造神信号の肯定的受信では、知性が理解をした上で行うのだ。
筆者はそれを示すために、当面あえて「知信」としている。本稿ではこの語を、信仰に代えて主に使うことにする。
(「学び方」10・・・・完)