イエスは、人間社会を悪魔のわざを滅ぼす舞台装置として創った~~その論理は、人間の肉体ついても、あたらしい理解を与えてくれます。
人間の肉体って、霊に比べたら粗雑なものです。
百年もたったら、衰えていって、循環運動を止めて死んでしまいます。
そして、自己分解してしまう。
百年たたないうちにでも、物理的な力を加えたら壊れて、やはり循環運動を止めてしまいます。
細菌がちょっと働いたら、異常が起きます。
温度も、36.5度あたりに保たないと、やはり循環運動が止まってしまいます。
2.5度高くなったら、もうあえぎ出す。
2.5度低くなったら、循環運動はとまります。
鹿嶋は飛行機に乗っているとき、考えることがあります。
この飛行機が空中分解したら、自分は海に落ちるまでの間、何を考えどういう気持ちでいるだろうか、と。結構長い時間ですからね、海面に落ちるまでは。鳥のように、楽しんでやろうかな・・・。
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でも、すぐにそういう疑問は無意味だと気づきます。
だって、外の空気で体温はすぐに34度に下がってしまいますから。
そうしたら、もう、肉体は死んでますから。
そうしたら聖書の思想では、霊が抜け出すことになっています。
だったら、それを肉体の中に入れるなんてこと、創り主はしなかったらよかったのに・・。天使のように、霊だけにしておいてくれたら、飛行機に乗っていても心配することなくなるのに・・・。
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・・・そんなことまで考えられます。
しかし、イエスが悪魔の本性の証拠を挙げるには、そういう肉体を人間の霊に着せることが必要だった、ということになるんですね。
イエスは、そういう人間の身体をきて、自らも地上に現れるわけです。
すると、その身体は、やはり、十字架上で物理的な力を加えられたら、循環運動が停止してしまうんですね。
そういう肉体を着た人間の姿をとってきたからこそ、悪魔は、これを壊そうと思えるわけですね。壊して殺そうと考える道が開けるわけです。
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そのために、イエスは、霊としての自分と同じ形にまず人間の身体を創った。
そして、その身体の中に、創り主と交信できる霊を入れた。
その身体は、粗雑につくった。
そうしたらちょっとしたことで病にもなります。
目も見えなくなるし、痛風にもライ病にもなります。
それで人間は苦しみます。
イエスはそれをあわれんで、癒しまくります。
自分がそういう風に、創ったんですから。
(必要上、そういう風にするしかなかったんだったら、がんばってもらわなきゃ・・・)
触れうる限りに、哀れみ癒してあげます。
そこまでしか、出来なかった・・・。
病にならない、壊れないという、霊のように緻密に出来た身体を創ってあげることは出来なかった。・・・そういう理解が出てきてしまいます。
聖書は 創世記冒頭の数章の聖句に関するだけで、このようにいろんな解釈が出来ます。
面白い本ですね。
~~~人間道具説から考える。
これくらいにしておきましょうか。