鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「我々」に似せて人をつくるって?(3)

2005年10月02日 | 「考える宗教」へ





 (前回からの続きです)

 創世記で、人間を創っていくところ。
 この創る側の「われわれ」がイエスとイエスに付き従う天使だったとしたら、さらにどうなるか、というのが今回の話題です。

+++

 なんといっても興味をそそるのは、第一に「人間が創られる以前に、人間の形をした存在がいた」ということですね。

 第二は、さらに「その存在が、自分たちのかたちに人間を創った」ということです。

 従来、そういうようなはっきりしたイメージはありませんでした。だから、クリスチャンのひとも、イエスがこの地上にやってくる前の形もはっきりイメージに描けなかった。描くとしても、なにかぼんやりした霧のような、あるいは大きな火の玉ようなものかなぁ~といった程度でした。

 それが一変します。

 まず、「イエスが人の子としてこの世にやってきた」ということへの理解が異なってくる。なにか人間と別の形をしていたが、わざわざ人間の形になって、この世にやってきたのではないのだ、と。そういうことになります。

 1.イエスはもともと、人の形をしていた。

    2.そして、その自分の形に人間を創った。

    3.さらにそうしておいて、自分の形の肉体をとってこの世に現れた


           ~~~ということになります。

+++

 それがどうした?
 そんなこと、わざわざ「考える」必要のあることか?

 それがありそうなんだよね。

だけど、そのことは次に考えるとしましょう。
まずは、「われわれのかたちに人を創った」の「われわれ」は、「父、子、聖霊」よりも、「イエスと天使」の方が、筋の通りがよろしい、ということで、「われわれとは?」に関する「考える宗教」はここでとどめることにしましょう。

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「我々」に似せて人をつくるって?(2)

2005年10月02日 | 「考える宗教」へ
              



(前回の続きです)
 もしも、創世記でこの世を創っているのがイエスならば、「われわれのかたちに・・・」
の、他の存在は誰になるでしょうか?

 有力な候補は天使ではないか、と鹿嶋は思います。
天使はそもそも、イエスに付き従って働くという属性があります。
天使にも、位の高いものがいて、イエスが創造のわざをするときに、付き従っていたということは十分筋が通るのです。

 +++

 そうすると、新しい解読局面が現れます。
 それは「人間が創られる以前に、人間の形をした存在がすでにいた」ということです。そして、それはイエスと天使である、と。

 天使は霊です。
 イエスも、人間の世界に人の姿で現れる以前には、霊としてのイエスです。

 霊は、様々に姿を変えることが出来る存在です。
 天使は「火とも風ともなる」と、聖書にはあります。

 けれども、基本形というのはあるでしょう。
天使の基本形は、人間と同じく、頭が一つ、目が二つ、二本足で立って、手が二本ある、という形ではないでしょうか。

 聖書では、天使が人間の前に現れる場面があります。それをみた人間が、その姿に仰天したり、恐れたりしたという記述はありません。それは自分たち人間と似たような形をしていた、という推測を可能にします。

+++

 残るはイエスです。
 霊としてのイエスも、人間と似た形をしていたのではないでしょうか。

 「黙示録」には、霊としてのイエスがヨハネに現れた様が記録されています。
そこでヨハネは

       「人の子のような方がみえた」(黙示録、1章13節)

          ~~~といっています。

「口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(1章16節)とも記していますので、人間と違ったところもあります。けれども、それらは頭が一つ、目が二つ・・・という人間の形をしていることを前提とした上での記述なのですね。

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 さて、この解釈で行くと、さらに衝撃的な聖書解読が開けます。
“考えない宗教”のクリスチャンにとっては、の話ですけどね。
 それについては、次回に考えましょう。


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「我々」に似せて人をつくるって?(1)

2005年10月01日 | 「考える宗教」へ



 「考える宗教」の素材は、聖書のはじめの部分からすでにありますよ。

 「若者よ、聖書を知れ!」で取り上げました、創世記の最初のところにも、実は、無視しがたい大きな課題があります。

 「創り主は『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう・・・』と仰せられた」 (創世記、1章26節)
~~がそれです。

ここで、創り主は「われわれ」といっています。
 われわれ、は複数です。 そして、「われわれ」というかぎり当の「創り主」をも含んでいるはずでしょう。
 このわれわれとは、一体誰なんだ?
   この疑問は当然起きますよね。

+++

 福音先進国・アメリカの教職者にとっても、これは難問なようです。困ってきた様子が手に取るようにみえます。ほとんどすべての神学者、牧師さんなどの教職者がこのわれわれを「父なる創り主、子なるイエス、聖霊」の三者だということにしています。「これは三位一体の神だ」ということにしている。

 だが、そうすると問題が出るのです。
父なる創造主は無限の空間的広がりを持った、無限者です。
こういう存在の「かたちに似せて造った」のが人間ならば、人間も無限の大きさを持った存在に造られたはずではないか~~こういうことになります。

 で、困ってしまってワンワン、ワワン。
 仕方ないので、この「われわれのかたちに似るように」は、「われわれのイメージで」という意味だ、とせつめいしています。かのベニーヒンでさえも、これです。

+++

 しかし、こういう風に、無理が出てくるのは、そもそも何かおかしい証拠です。
 「若者よ、聖書を知れ!」で取り上げた、アダムを造るところにも、実は鹿嶋とは別の解釈をする人が多数派です。つまり、最初に創られた人間の中の一人がアダムだ、と解釈している。

 ところがこうすると、最初に創られた人間とアダムとは同じ存在になっていきます。そうすると、そのあとの創世記6章1~4節の聖句が、何を言っているか、さっぱり意味が通じなくなるのです。

 その結果、この部分は、原典(ヘブライ語で書かれている)とかけ離れた英訳になってしまっています。邦訳聖書はそれにならっていますから、日本でも同じです。

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 この「われわれ」も解釈がおかしいのではないでしょうか。だから、「われわれのイメージで」人間を創った、といったような、原典とかけ離れた解釈が出てきてしまうのではないでしょうか。

+++

 では、もっと筋が通りやすい解読は何か?

 前回の<どうしてイエスだけが「子」なんだ?>で引用しました、聖句をもう一度みてみましょう。

「創り主は、御子を万物の相続者とし、
     また、御子によって(through Him)世界を造られました」
(ヘブル人への手紙、1章2節)

この「世界(the world)」は、われわれの住むこの世、創世記で創られる様が描かれている宇宙も含めた世界です。

 すると「えっ?」となりませんか?
 創世記でこの世を創っているのはイエスだ、とこの手紙の著者(パウロ)はいっているんだから。

「父なる創り主」ではなかったの?!

+++

 ヨハネによる福音書の著者、ヨハネも同じことを言っています。

 「・・・世はこの方(イエス)によって創られたのに、世はこの方を認知しなかった」(ヨハネによる福音書、1章10節)

 ~~~パウロもヨハネも、創世記を字面だけで理解してはいないのですね。彼らは聖句を「考えた」。そして創世記で世を創っていく存在は、実はイエスなのだ、という解読をしているのですね。

 こういうふうに、字面の裏に隠されたより深い意味を「奥義(辞書には「おうぎ」と書いてありますが、「おくぎ」でいいでしょう)」といいます。

 パウロもヨハネも、「考える宗教」をしていたのですね。

 で、このわれわれの、イエス以外の存在は誰か?
長くなりましたので、次回に「考え」ましょう。

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