鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

25<政治事例が満載されている>

2014年01月31日 | 聖書と政治経済学





「聖句主義者が離れ業を出来た理由」を聖書という素材に見る話の続きである。

今回は「政治の歴史事例が満載されている」ことをみる。
話は長くなる。一気にしないと主旨が伝わらないのでがやむを得ない。

政治見識を育成するに最良の手段は直接経験することだ。だが、この領域の事柄を一般国民は直接経験することが出来ない。

けれども代替手段がないわけではない。次善の策だがそれは過去の歴史事例を吟味することだ。

事例吟味の有効性は、ハーバードビジネススクール(HBS)が実証してくれている。
二年間の経営大学院大学だが、やることは単純。経営の事例吟味のみである。
ここには経営事例を記録した冊子(ケースと呼んでいる)が、いまやおそらく千冊を遙か超えて蓄積されているだろう。

(ケースライターたちが企業に出向いて、経営判断を必要とした事件の情報を得て、一冊の冊子に事例として書いたものが集積しているのだ)





<HBSの教育メソッド>

学校側は、この中から、MBA課程の二年間に用いるべきケースをプログラムする。学生は毎週一冊これを吟味していく。
吟味は三段階で、

① まず、個人研究。
② 次に、数人のスモールグループを形成してのグループ討議。
③ そして最後は、全員教室に集まってのクラス討議。教師はこれをリードし、随時必要に応じて専門理論を注入する。
(その様は、最近ではテレビの「白熱教室」シリーズにみられる)

二年間これを繰り返すだけ。これが天下のHBS教育の実態だ。
だが、その効果は大きく、卒業生から革新的経営者を多数排出している。
樂天の三木谷もその一人だ。





<政治見識育成にも事例素材が必要>

国民の政治見識の育成にもこの方式がベストだ。だが、問題はケース教材である。政治の事例を記した事例集はまだ、造られていないのだ。

ところが、旧約聖書の中にはこれが豊富に収録されているのである。
具体的にはこうなっている。

~創造神は、人間にメッセージを啓示していく。
その際、その適切な受け皿民族をつくり、これにメッセージを受信させ、保存させるという方法を採る。

このとき、受け皿としての人間集団の政治状況も克明に示されている。
受け皿の性格は受信メッセージの神髄理解に関連しているからだろう。それがないと適切な理解が難しくなるのだ。

その受け皿集団がイスラエル民族である。旧約聖書には、これがどう造られ、どう民族国家になり、どう運営されていくかを克明に記している。
その間どういう政治問題が起きるか、その都度、民族国家はどう対処していったか、そしてどう盛衰を繰り返したか等々が詳細に記されている。

だから、これがすなわち、豊富な政治事例集になっているのだ。思えば信じられないことだが、その概略は次のごとくだ。




<イスラエル民族は「作られた」民族>

前述のように、最初の預言者著者モーセは、われわれの住む地上世界が宇宙の中に創られ、そこに動物や人間が創られる様の幻をうけた。
そして彼はこれを記録した、と聖書ではなっている。

モーセはさらに、今日の人類の始祖であるアダムとイブが罪を犯し、エデンという楽園から追放される様や、
創造神がその子孫からイスラエル民族を造っていく様も記している。

創造神はまず、アブラハムとサラという夫婦を選ぶ。アブラハムは世界を造った創造神が存在することに確信を固く抱いている人物であった。

その彼から創造神は自分のメッセージの受け皿となる民族を造ろうとする。
そのためアブラハムに「父祖の地を離れ、自分が指し示す方向に旅をせよ」と命じる。
自分だけをまことの神とする民族の始祖にするためだ。

人間は、一定期間ひとつの土地に定住すると、その地の自然物の中に神をイメージする。
そして山や大木など自然物を配する。さらに像を造ってその中に神がいるとイメージして拝みもする。

アブラハムの父祖の地にも、様々な自然物の神、偶像の神ができていた。
創造神は彼をそれらから切り離すために、その地を離れよと命じたのである。

アブラハムは素直にその地を発った。といっても、彼は大豪族の息子で、多くの奴隷やらくだなど動物を所有していた。
だから実際には、それらと妻サラを引き連れての大集団の大旅行となった。

アブラハム夫妻には、移住の過程で子が生まれる。それが増殖して部族は大きくなっていく。
こうして出来ていくのが、イスラエル民族である。聖書によれば、彼らはこのように「造られた民族」なのだ。




<政治の基本課題は一体性の保持>

部族が存続するには、集団としての一体性を維持せねばならない。統治の基本課題はこれなのだ。
旧約聖書には、この部族がそれを守って成長していく過程と、その時々の統治の事例が具体的かつ詳細に延々と記されている。




<族長統治の時代>

最初はアブラハム、次に彼の長子イサクが族長として統治する。
三代目のヤコブ族長は12人の子をもうける。このうちヨセフとレビを除いた10人からユダヤ10部族が始まる。
そしてヨセフの子、つまり、ヤコブの孫二人が二部族の始祖となって、合計12部族となる。いわゆるイスラエル12部族がこうしてヤコブから始まる。

ところがこの三代目の時に、部族が住み着いていたカナンの地(いまのパレスチナ地域)に飢饉が起きる。
彼らは、食うためにエジプト王国に移住し、部族丸ごとそこの奴隷として働き400年暮らす。




<預言者統治の時代>

その中に預言者モーセが出現する。彼に率いられて約6千人となったイスラエル民族はエジプトを脱出し、カナンの地に向けて大移動をする。
荒野の旅は40年間続く。

その間、民族の統治はモーセが行う。彼は創造神からのメッセージを受信し、それに則って統治する。人民はそれに従う。

モーセはカナンの地に入るのを目前にして死ぬが、彼を助けてきたヨシュアが後を継ぐ。
彼もまた預言者(超霊感者)であって、創造神からのメッセージに従って統治をする。




<士師統治の時代>

イスラエル民族が長期間不在していたうちに、カナンの地には様々な部族が住み着いていた。
ユダヤ民族は創造神から示されたこの「約束の地」を取り戻すべく、住み着いた部族と戦をせねばならなくなる。
相次ぐ戦に勝つ必要から、戦に長けた軍人が統治者になっていった。かれらは士師(しし:さばきつかさ)と呼ばれる。

だが士師もまた預言者(超霊感者)である。以後もイスラエル国家をつくりあげていく統治者はみな超霊感者である。その上で戦が上手いのが士師なのだ。




<王制の時代>

イスラエル民族は戦いつつ領地を広げていく。人口も増して民族の規模が増す。
すると士師よりもっと強い命令権をもった統治者による方が、全員が一体性を保って戦をするのに効率的になる。
民族は預言者を通して、創造神に王様を持ちたいと伝える。

この時、創造神は、王というものが、いかなる権限を持つ存在かを教えている。
人民の収穫物から徴税する権限をもち、息子を兵士として徴兵する権限を持ち、
娘は王宮に侍らせる権限を持つ。

かくのごとく、王制というものを具体的に教えている。
これ自体が、立派な政治システム論になっている。


結局人民は、サウルという王を立てて、王による統治を始める。

その次の王がダビデである。彼は戦に連戦連勝し、「イスラエル国家」を建国する。
民族史の黄金時代である。この時代は彼の息子ソロモンの治世まで続く。




<南北国家の時代>

だが、ソロモンの息子たちは、大国家を統治するだけの器量に恵まれなかった。
彼らは国家を南北に分けて統治することになる。十部族が北イスラエル王国を構成し、残りの二部族は南のユダ王国を構成した。

両国は争いを続けながら存続したが、ついには滅亡する。まず、北イスラエル王国が滅亡し、後に南のユダ王国も第2回目の「バビロン捕囚」によって滅亡する。

バビロンから戻ったこの民族は、南のユダ地域に国家を再建し、北のイスラエル地域の再開発に入る。
その状態で新興のローマ帝国に征服され、その属国になる。ちなみにイエスはこの時期に、北のガリラヤ地域で成長している。




<詳細な政治史が政治事例集に>

「受け皿民族」はかくのごとき変遷をたどる。その状況に応じて、創造神は超霊感者(預言者)にメッセージを啓示するのだ。
そしてこの時々の政治状況の記述が、そのまま政治ケース集を形成しているのである。

聖書の直接吟味を続ける聖句主義者は、結果的にこのケース集を年中吟味したことになる。
この歴史事例の吟味が、実はかけがえのない見識習得手段なのだ。次回にその理由を考える。









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24<物質に内在する神、万物を創った神>

2014年01月15日 | 聖書と政治経済学





聖書の神概念が人の知力を育成する効果もみておこう。



<神覚的動物>

人間は「神覚的動物」といわれる。
物事の中に神を覚えて生きる生き物である。
この際の「神」とは「人に力を及ぼしている、見えない意識体」であり、別名、霊という。




<まず自然物の中に>

① ひとは自然のままではまず、山や大木、巨岩、川、動物などの自然物のなかに神を覚える。
人は自然の恵みによって肉体を維持して生きているので、まず、その恵みの源に神を覚えるのだ。

そして、それを恐れ、尊敬し、感謝し、周囲を浄め、礼拝する。
代表は山であろう。
イエスの時代にも、サマリアの女が「自分たちはあの山を礼拝している」といっている。
日本の大神神社(おおみわじんじゃ。通称三輪神社)もご神体を三輪山としている。



② 次に人は、その霊を像で現そうとする。そして結果的に、物質の像を造り、
その中に神が内在するとイメージしてその像を拝む。



③さらに人は、神の住まいを、自分の手で造ってそこで礼拝しようとする。
具体的には、それは、幕屋、神殿、神社となる。神殿、神社は幕屋を固定化したものである。
幕屋は、たたんで移動させることができる。

こうすると、人は拝む場所を固定化されずに済み、礼拝がしやすくなる。
自然物はその存在するところから動かない。

人間の神覚本能による神礼拝は、大体、そこらあたりに収束する。
これらはみな、物質に内在するとイメージされて拝まれている神である。

そしてこの段階では、神はスクリーンの向こう側にあって、その影が投影された存在である。
だから、その実態はよくわからない。
がとにかく、人はそれを漠然と神だと思って、感性に直接感知している。




<言葉で示される神>

人間は自然なままではそんな状態で生きる動物である。

だがそんな中で、紀元前2000年頃、この地上の中東地域で、まったく別の神が紹介される、という事件が起きた。

それは、自らを「まことの神」と称する存在(以後当分「自称まことのまこと神」と呼ぶ)である。
この神が、アブラハムという霊感豊かな一人の人間を選び自ら語りかけて自分を明かしていくということが起きた。

(信仰者の読者には、これこそが疑う事なきまことの神だから、「自称」とつけるのはのどに引っかかるだろうが、一般読者もいることを考え、敢えて「自称まことの神」と当面していく)


彼はアブラハムと妻サラから始まる子孫を増殖させ、一つの民族とし、
その集団にメッセージを与え、その記録を蓄積させて自らがどんな存在であるかを明かしていく。
そしてその記録集がユダヤ教でいう聖書である。キリスト教ではこれを旧約聖書と呼んで、新約聖書と合わせて聖書としている。

だから、こちらは、言葉でもって示されていく神である。
けれども「神は霊」であって、霊は見えない意識体である。
そういう存在の認識は最終的には霊感による。その点では、「自然物に内在するとイメージされる神」と同じである。
だが他の点で違いがある。こちらの神は「言葉と霊感との両方が動員されて」認識される神である。





<ありてあるもの>

アブラハムの500年ほど後の子孫に、モーセという超霊感者が出る。
自称まことの神は、彼に、自分のプロファイルを示し始める。

まず、「あなたは誰?」というモーセの問に
わたしは「ありてあるもの」(英語ではI am who I am)と応える。

この意味するところはこうだ。
この世の存在が自分の何者かを示すとき、ほとんどが「なにか他によく知られた存在を持ってきて、それとの関係で」もって示す。
私は「あなたがご存じの山本なにがしの子供です」、とかである。
これを「アイデンティティを示す」とか、自己存在証明をする、とかいう。

だが、そういう他者を持たない存在もある。それはすべての存在に先立って存在している存在である。
「アイ・アム・フー・アイ・アム」はそれをいっている。

ついで、そのすべてに先立って存在している自分は、「他のすべてを創造した」という。
このこともまた超霊感者モーセに示される。
かくして、自称まことの神は万物の創造神であったことになる。

また、これに対比すると、自然物の中に内在するとイメージされている神は、在物神といっていいかもしれない。
チョットわかりにくくなるが、語呂がいいので「創造神」「在物神」と呼ぶことにしよう。

ともあれ、ならば他のすべての存在は、この創造神によって創造された被造物だということになる。(となれば、在物神はこの被造物の中に内在するとイメージされている神ということにもなる)

被造物はみな「私はあの創造神によって造られた存在です」と自己存在証明をすることが出来る。
他方、創造神は、自分を造ってくれた存在がないのであるからして、他者による自己存在証明は出来ない。
だから「わたしはありてあるもの」ということになるのである。




<空間的無限者>

万物の創造神であることから、他の属性も演繹される。
(前回要点を述べたが、大切なことなので、いま少し詳論しておく)

万物は無限の空間に存在しうる。そのすべてを自分が創造した、と言えるには、自分は無限の空間的広がりを持っていなければ具合が悪い。
自分に空間的限界があって、他との境界線の外側のものも、「チョット手を伸ばして造ったよ」といえば、
まあ言葉としては言えないことはないが、不自然で無理がある。

やはり万物の創造者は、自らのふところの内に万物を創造する、空間的無限者であるべきである。




<時間的無限者>


空間と同じことが時間についても言える。創造神は無限の過去から存在していてこそ「万物をオレが創造した」といる。
存在に出発点があるならば、それ以前のものについてはオレが創ったといえない。だから無限の過去から存在している。

同じことが、未来についても言える。これから新しく存在し始めるものについても「オレが創った」といえるのは、無限の未来にまで存続していてこそである。
ある時点に存在の終わりがあったらそれ以後のものには「オレが創った」と言えない。

以上、空間と時間との二つの属性をまとめて言えば、万物の創造神は時間空間的無限者ということになる。




<多神教と一神教>

よく言われる多神教と一神教との違いも、この神認識の方法に由来する。
個々の自然物に内在する神を感じるというのなら、その神が多数になるのは当然の帰結である。
対して、自分以外の万物を創造した神となれば、それは、単独になるのが筋である。
複数いたら、互いに「オレがお前を創った」とけんかになる。

「西洋は一神教だから独善的で赦しがなく、日本は多神教だから寛大」というのは日本の「識者」がよく語る評言である。
だが、これは一神、多神を外的形態だけで認識しての浅薄な理論だ。
こんなものを知識人扱いすることが、日本のマスコミの浅薄さを示している。




<神を特定する>

話を戻す。

言葉でもって神を考えることは、神を特定することである。
まことの神とは何かを論じることは、神を特定することなのだ。

自然物に内在するとイメージして拝まれている神にはそれがない。
とにかく「神と覚えられるもの」の総体を、漠然と拝んでいるのである。

(戦争の神、商売の神、縁結びの神、等々の機能分化はなされるが
これらは像のイメージに助けられて漠然と分けられているのみである)

その神認識には感性のみが動員されていて理性がない。
対して、言葉で特定していくという神認識の方法には、感性に加えて理性が動員されている。

これが人の知力に及ぼす影響の差は大きい。
神覚的動物である人間にとって、神は自分の運命に影響する怖くて重要な存在である。
これに対する意識が四六時中感性のみであるのと、感性に理性が加わっているのとでは大きな違いを知力に産んでいくのだ。







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