鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

36. 「エデンの誘惑」は長期を見据えた罠だった

2019年01月23日 | 鬱を打破する聖書の論理


前回、聖霊が究極の真理に導く前の罪認識は、暫定的で不完全だと述べた。

だが日本の教会は、その罪理論に則って活動している。
日曜礼拝で、「過ぎたこの一週間にこれこれの罪を犯しました」と信徒が順番に悔い改めの祈りをしている風景は、それを示している。

今回は、その罪認識のもう一つの側面を示す。
それは暫定的で不完全なだけでなく、巧妙な罠に誘い込まれた結果であることを示す。

 
<十の戒め>

律法に示された罪は創造神からモーセを通して与えられた「戒め(命令)」に反することだ。
旧約聖書に記されたその戒めは超大量だが、モーセにはそれを代表的に示す十の戒め(「十戒」)も、与えられている。
それは次のようになっている~

・・・・・・・・・・・・
1.創造神以外の神を拝んではならない。
    (俺以外の存在を神として拝むな)
2.偶像を造ってはならない。
    (オレを像に刻むな)
3.創造神の名をみだりに唱えてはならない。
    (この段階では、創造神の名は「エホバ」となっている)
4.安息日を守れ。
    (週の中の一日はいかなる仕事もせずに、俺を思い拝する日とせよ)   
5.父母を敬え。
6.殺すな。
7.姦淫するな。
8.盗むな。
9.偽証をするな。
10.隣人のものを欲しがるな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
 
 
<対神的戒めと対人的戒め>
 
~このうち前半の四つは、創造神にどう対すべきかの戒め(命令)である。
対・創造神への戒めで、いわば対神的戒め。
後半の六つは、人間が人間に対するとき守るべき戒め(命令)である。
対・人間への戒めで、いわば対人的戒めだ。
 
+++

我々はここで、人間が自力でその違反を感触できるものを考えておくことが必要だ。
それは良心が働く対象だけである。
つまり後者の6つの「戒め」に反する罪、対人的な罪だ。


前者の4つの対神的罪は、人は自力では実感出来ない。
良心がうずいて実感させてくれることはないからだ。

 
 
 
<対人罪認識に集中し対神罪を放念>
 
もう一つ重要なこと~
 もし人間が罪認識を自力ですべき状態に置かれたらどうなるかも考えておこう。
 
この状態だと人の罪認識は、時と共に後者の六つの戒め、すなわち対人的戒めに集中していくだろう。
それらは実感(良心の)を手がかりに認識できるからだ。

+++

対して、前の四つの対神的罪は実感認識できない。
その結果、人はまもなく後者の戒めを、放念していく。
さらにすすんで関心を払わなくなり、実質的に無視するようになるだろう。


<最重要は対神的戒め>

だが、十の戒めの中で第一に大切なのは、この対神的戒めの方だ。
人間は被造物である。
創った側の創造神の方が、絶対的に上位の存在価値を持っている。

なのに、その創造神に対する罪を考慮に入れないような罪認識は、実質上ほとんど空虚である。
 
 
 
<「エデンの誘惑」の奥義>

そこには聖書の全体像のなかでの深い奥義が秘められているのだ。
人類はいつからそうした罪認識を持ち始めたか。
聖書の歴史物語の中に尋ねていくと、それは浮上してくる。
なんとそれは、今の人類の始祖アダム(とイブ)にもうすでに始まっているのだ。

+++
 
エデンの楽園において、イブが悪魔に誘惑されたのは、有名な話だ。
悪魔は蛇を通して語りかける。
「この木の実を食べると賢くなって、善悪判断を自分で出来るようになるよ」と。
     (『創世記』3章5節)


<善悪判断は罪認識の別名>
 
ここでもうひとつ考えておくべきことがある。
善悪判断とはなにか、についてだ。

それは罪の語を用いて言い換えれば「罪で有るか無いかの判断」なのだ。
「罪(戒め違反)でなければ善であり、違反であり罪であれば悪」だからだ。
つまり、善悪認識とは、後にモーセの律法にでてくる「罪認識」と実質的に同じものなのだ。


<善悪判断を自分ですれば>
 
だからアダム(とイブ)がその善悪認識を自力でやれば、それすなわち罪認識を自力でやることになる。
さすればその罪認識はいま見た通り、時とともに対人罪に集中していく。
対神的罪は無視されていくのだ。

+++

このことは通常見逃されてきている。
だが、聖書は『創世記』の冒頭からすでに、罪に関して、一貫した体系の一端を構成している。
聖書は、驚くべき、論理体系の書でもあるのだ。
 

+++
 
ともあれ、「良心の咎め」ベースの罪認識は、被造界をあらしめ、それを統治しておられる創造神へのほとんど冒涜でもある。
いまはそれに立ち入らないことにしても、とにかく空虚だ。
だから、それをベースにした罪の告白、悔い改めの祈りも、また、空虚で創造神を喜ばせるものにならない。
 
なのに日本の教会の礼拝では「自分の罪を言い表すという」という信徒の「悔い改めの祈り」~牧師のリードによる~が盛んだ。だが、これでは創造神と親しく相まみえる礼拝にならないのだ。

この種の悔い改めの祈りは、ほとんど空振りなのだ。
 ニッポンキリスト教会では毎日曜日、(野球の)空振り練習のようなことやっているのだ。


 
 
<罪意識の奴隷に陥れられる>
 
それだけではなく、もう一つ重要なことがある。

・・・これによって人間は、「良心がもたらす罪責感によって永遠に自分を責めたてる生涯を送る」ことになってしまっているのだ。
良心がうずく事柄は、過去を思い出せばいくらでも出てくるよ。
またそれは生きていく間にも尽きない。

人は良心が生み出す罪責感につきまとわれて生きているのだ。
イエスはこれを「諸君(人間達)は罪の奴隷なのだ」といっている。
 
 
 
 
<イエスとの同一化をブロックするもの>

これまで見てきたように、それではイエスとの同一化は可能にならない。
罪責観がイエスへの恐れと、後ずさりを産む。
それはイエスと人間との間に割り込んで、同一化をブロッキングし続けるのだ。
 
+++
 
今見たようにその罪認識(善悪認識)の仕組みは、人類の始祖の心に、悪魔によって挿入されている。
そして聖書では、人間の霊的資質は男親(アダム)を通して遺伝していくという思想だから、この罪意識は今の全人類にも浸透していることになる。

驚くべきことだ。
悪魔は巧みな悪知恵によって、人類を長期にわたる罪意識の奴隷に陥れるのに成功しているのだ。
これを無垢なイブに向けて、軽いタッチでやっている。
 
 なんと深い読みか!
これは(悪)知恵の極致といっていい。
 

 
 
<イエスはこの世でも人間を救出する>

以後、イエスが出現するまでの4000年間、人間の罪意識の奴隷状態につけいって、悪魔は人類に不幸の仕掛けを仕掛け続ける。人類をいびりつづける。
 
そして、4000年後に御子イエスが「人の子」として地上に現れるのだ。
イエスは、地上を去るに際して、罪の究極の真理を導入する。
そのため、最後の晩餐で葡萄酒を杯に注ぎ、自分がこれから流す血こそが、真の罪消去特効薬でであると宣言する。

イエスは罪意識の大転回(回心)を仕掛けているのだ。
だが、この宣言をしている時点では、イエスはまだ血を注ぎだしていない。
 
 
そこでその認識に導き入れることを、聖霊に委ねる。
この罪認識が究極の真理であることを、聖霊を送って悟らせるようにしておく。
いま聖霊は、従来の罪認識は、究極の知識でないことを悟らせるべく働いているのだ。

 
 
 
<「救い主」とは?>

クリスチャンは「イエスは救い主」と言うが、それはおもに死後の救いを言っている。
その内容だってバクゼンとしている。
よく「救うのは十字架」だとイメージしたりする。
だが、十字架は極刑の道具だよ。
呪いの木だよ。
これがどうして救いなんだよ。

+++

イエスの十字架死、というのはもう少し具体的だが、それだって漠然を含んでいるよ。
その死が、どうやって人類の罪を許すんだよ。

+++

あのひげを生やしたハンサムな人の絵を連想する人もすくなくない。
だけど、聖書にはイエスの容貌描写は一言も記されていないよ。
あれは後世の絵描きが勝手に描いた想像図だよ。

 
 
 
<奴隷状態から運び出す>

救いとは、デリバランス(deliverance:運び出すこと)であって、それは死後にだけでなく、地上においてもなされる。
罪のもたらす「死からの運び出し、救い出し」だ。

+++

それは「いのちエネルギー」でもって、死のエネルギーを相殺、消滅さすことによってもたらされる。
そのエネルギーの凝集体が、イエスの血だ。
救いの中核は、この血であり、救い主とはそれを流しておかれる方だ。
イエスを信じるとは、この血を流しておかれた御子を信じることなのだ。

+++

死ぬのは、窒息でも死ねる。
 
だがイエスは血を流す。
そして血を流す際に、イエスはむち打たれて、肌も肉も裂ける。
地獄の責め苦を受けるのだ

これをしておいてくださったことを知ると、われわれのイエスへの感謝と愛はつきなくなる。
その愛がイエスとの同一化を可能にしていくのだ。

今回はここまでにしておこう。






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35.「罪の告白⇒悔改め」しても罪責感は残る

2019年01月16日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 
 
前回、罪に関する究極の知識(真理)を述べた。
イエスはそれが「自分が去った後に送られる聖霊」が悟らせてくれると遺言していった。

その知識が明かされるまでは、人々は罪を一つ一つ告白して悔い改めの祈りをしていた。

それが人々の罪の消去法(罪が許される方法)だった。


 
<全ての戒めが心に留まることはない>

だが、それは暫定的で不完全な方法だ。これでは罪は完全になくなりはしないのだ。

具体的に見てみると、まず、律法における「戒めの数」が多すぎる。
旧約聖書に記されている「戒め」(罪)ごとに条文を作ると、600にも900にもなるという。

そんなに多量な戒めを、すべて意識に留めて暮らすことは、人間にはできない。
だから、告白と言っても、実際には気がついた罪を言い表すだけだ。
それに続く悔い改めも同じだ。

だから、気がつかないで悔い改めの祈りをしていない罪は、多量に残る。

そして、そのことを人は直感的に認識できるから、「自分は罪人」という感覚が残る。
罪責感は消滅しない。
そのことは「自分たちはアブラハムの子孫であって自由人だ」と主張するユダヤ人たちに、イエスが「君たちは罪の奴隷だ」とカマした根拠の一つともなっている。


 
 
<主よ、離れてください!>

つまり「告白⇒悔い改め」をしても人は、イエスに「離れてください」と後ずさったペテロと同質の罪意識の種を持つことになるのだ
前述したその話をもう一度示すと~

~弟子たちが夜通し漁をしても魚が一匹も捕れなかった。
イエスが彼らに「船の右側に網を入れなさい」といった。
それに従うと、二艘の船が沈みそうになるほどに、魚が捕れた。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「これをみたシモン・ペテロはイエスの足もとにひれ伏していった。
『主よ、私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから』」
 (ルカによる福音書、5章 4~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
人間はこういう心情を、その魂(ソウル)に生来もっているのだ。
この時ペテロの内では「イエスは聖」という心情が急上昇している。
さすれば反射的に、自らの「汚れ」の自覚も急上昇する。

その結果、ペテロは強大な「恐れ」を抱いてイエスと距離を置こうとして、後ずさった。
罪責感の種を持つ人間には、これは自然の情なのだ。

だが、こうなったらもう、イエスとの同一化につとめるという意欲は萎えてしまう。
イエスを慕いかつ親密の情を抱くことなどできなくなってしまう。



余談である。

筆者も従来、罪とは逐一表明して悔い改めの祈りをして許してもらう(消される)もの、・・・そういうものだと思っていた。
その反面、正直なところ、「悔い改めたら許される」なんてホンマかいなという気持ちはゼロではなかった。
けれども、その自覚は明確ではなかった。

だが、聖霊によって罪の真理に導き入れられて、それが不完全なものだと明確に自覚できた。
 
真理を悟ってその不完全さが明確に認識できたのだ。

究極の知識(真理)とはありがたいものだ。
それは闇を貫いて事実を知らせてくれる、栄光の光といっていいだろう。

今回は、ここまでにしよう。
 
 
 
 
 
 
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34.聖霊が導き入れる「罪の真理」とは?

2019年01月15日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 
 
前回、罪の知識には[暫定的なもの」と「究極の真理」とがあることをみた。
そして真理は、聖霊が来て導き入れてくれる、とイエスは遺言していった。

今回は、その真理の中身を検討する回だ。

+++

結論から言うと、②「聖霊の導き入れる究極の罪知識」は、罪の完全な消去法を含んでいる。
 
消去は、イエスが身体から流し注いでおかれた血による。
 
これが罪が発生した瞬間に、それを溶かしてしまうのだ。
 
+++
 
イエスは最後の晩餐で葡萄酒の入った杯を掲げてこういっている。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「みなこの杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。
罪を許すため、.多くの人々のために流されるものです。」
 (マタイによる福音書。26章27-28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「多くの人々のために罪を許すため」というのだからこの罪は、人間の犯す全ての罪をさしている。
 
自分が(これから)自分の身体から注ぎ出す血は、これを相殺して消去するというのだ。
どうしてそうなるのか?

 

<人間の血とイエスの血>
 
そもそも血とは何か?
 
人間の身体に循環運動をさせるのは「いのちエネルギー」である。
血はそのエネルギーを携えて身体の各部に供給する。
 
だからその供給活動が途絶えたとき、つまり血液循環が衰えたとき、人の身体は死ぬ。
病院で血圧計が急低下すると、医師が「ご臨終です」というのは、それを示している。
 
+++
 
他方、創造神イエスの身体における血は、いのちのエネルギーの運搬液ではない。
いのち(エネルギー)そのものの凝集してなった液体である。
 
この「いのち」は罪を相殺してしまう。
罪は「死のエネルギー」を放射している。
イエスの血(「いのち」凝集体)は、罪のその(死の)エネルギーを相殺する無限の力を持っている。
これが罪という存在を瞬時に消滅させてしまう。
 
 
      
 
<ロゴスが人となった方~愛弟子ヨハネの洞察~>
 
ヨハネ伝の著者ヨハネは、イエスを最も深く理解した弟子だ。
その伝記で、「イエスが最も愛した弟子」と書いているのは、自分のことなのだ。
 
その彼は、「”人の子”イエスはロゴスが身体になった方」との洞察を記している。(ヨハネによる福音書、1章1節)



 
<ロゴスは血をまとっている>
 
「人の子」イエスのからだになるべきロゴスは、いのちの血をまとっている。
御子の身体になったロゴスは、骨肉とともに血も持っている。
 
その血は、注ぎ出されると凝集し、この地上に貯蔵され、いのちエネルギーを無限に放射する。
 
その血は、注ぎ出された後には、人間が律法違反をする前から、すでに待ち受けているのだ。
そして違反によって発生した罪を瞬時に溶解し、消滅さすのだ。
 
イエスが「罪を許すため、.多くの人々のために流されるもの」といったのは、その血なのだ。

 
 
 
<効能を持つのは「血」>
 
 
イエスの血は全ての罪を、発生後瞬時に溶解・消去する。
そういう波動を持っている。
 
それを約束した最後の晩餐での言葉もまた波動である。
 
そのことを明かした量子物理学は、まことに恐るべき物理理論だ。
 
その波動は、受け入れた人には、約束を実現する波動に変化する。
 
かくして、血を信じる人は、罪なき存在とされるのだ。
 
+++
 
一般には、罪を許すのは「イエスの死」とか「十字架死」とか言われてきている。
 
それは間違いではないけれども、Sサイズの身体にXLサイズの下着をあてがうようなところがある。
漠然としている。焦点が絞られていなくて図星ではない。
 
図星は「注ぎ出されたイエスの血」だ。
イエスの血が罪を溶かしてしまうのだ。
 
そしてその血を信ずるものが、即座に「罪なき人」となる。

これが罪の究極の奥義である。
 
 
 
 
<奥義を悟らせるのは聖霊の助け>
 
イエスは、この奥義(真理)は聖霊が悟らせてくれる、と遺言した。
 
前回に掲示した聖句~
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導き入れます」
    (ヨハネによる福音書、16章12節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~は、それを言っている。
 
 
聖霊は創造神と同じく創造霊だ。
 
この霊は創造神の意識波動、真理の意識波動を発している。
 
その波動と共鳴共振することによって、人間は奥義(真理)を悟る。
 
驚くべきは聖霊の波動力だ。

イエス昇天後の地上に住む人間は、聖霊の助けを受けて、真理を悟れるのだ。

正しいと悟れば、人はそれを心に受容し、血の効能を受ける。
 
さすれば罪責感の奴隷となった状態から解放され自由になる。
 
+++
 
重要なところなので繰り返す。

まず聖霊の助けで罪の真理を悟り、罪責感から解放される。
それから、イエスとの同一化に、全身全霊を尽くす。

これによって、イエスの「夢の約束」ステージ(III)への道は開かれるのだ。
 
今回は、ここまでにしよう。




 
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33.旧約律法の「戒めと罪」は暫定的な知識

2019年01月14日 | 鬱を打破する聖書の論理

 


前回、イエスとの同一化をするには、意志の力で全身全霊をあげての愛で愛することが必要と述べた。
今回は、その同一化という精神作業をする際に横たわる、もう一つの大きな障害について考える。
 
障害とは「罪の意識・自責の意識」だ。

これがあったのでは、人は安息の中で手放しでイエスに同化していくことができず、取り除くためには、知識が必要なのだ。

 

<暫定的な教えと究極の真理>
 
 イエスは罪についても多くを教えていった。
だが、それは二重構造になっているのだ。
暫定的な教えと究極の教えとがそれを構成している。

+++

知識には究極でないものと、暫定的なものとがある。
人間の見つけ出す知識は後者であって、科学においてはそれは仮説という語で示されている。
           
科学は人間の行う認識行為だ。
人間は全ての事象を認識できないので、そこで得る知識は暫定的なものであって、それを仮説(仮に設定した学説)という。
人は新しい事象見えてきたとき、その理論(仮説)を修正する。
だが、修正した理論も、また仮説であって、科学ではそれを繰り返す。
 
+++
 
科学でも真理という言葉を使うが、そこでの「真理」は、人間には到達できないが、遠く望んで進む夢の目標、という意味だ。

 
 
<創造神は「究極の知識」を知っている>
 
だが、その視野に創造神が加わってくると、話は変わってくる。
創造神は「究極の知識である真理」をも知っているのだ。

万物を創造した創造神は、全ての事象を知っている。
自分が創ったのだから、全事象が認識範囲なのだ。



<だがイエスは暫定知識も教えた>
 
もちろんイエスもそれを知っている。
だが、知っていながら彼は、暫定的な教えもしているよ。

下記の聖句でイエスはそれをずばり直接言っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしには、諸君に話すことがまだ沢山ありますが、いま諸君(弟子たち)にはそれを耐える力がありません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導き入れます。
    (ヨハネによる福音書、16章12節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


最後の晩餐での言葉だ。
イエスはここで、自分が今話してきたのは、真理ではなく、暫定的な知識だ、といっているのだ。
真理とはもう修正の必要がない「究極の知識」を意味する。
 
+++

彼は人々(弟子たちも含む)に、罪についても語ってきた。
だがそれは暫定的な知識だという。
究極の知識(真理)は、聖霊が来て教えてくれるからね、とここで
いっているのだ。

 
<旧約の「戒め」は不完全で暫定的>

この究極の真理を知るには、まず、従来の罪の知識はどのように暫定的であるかを知る必要がある。
暫定的というのは、不完全な、という意味も含めている。

従来教えられてきた罪とは~
 
① 「律法を守らないこと」だった。

イエスは病人を癒やしたとき「もう罪を犯さないように・・・」といっている。
その罪は実はこれだった。

+++
 
姦淫の現場でとらえられて、イエスの前につき出された女を救った後に語った罪もこれだ。

有名な話だけれど概略を示しておくと~

「石打ちにすべき(して殺す)ではないか」と迫るユダヤ教の僧侶たちにイエスは
「罪なき者から先に石を投げよ!」という。
すると彼らは一人また一人と去って行って、女とイエスだけが残される。
その女にイエスは、
「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯さないように」という。

~この罪も「律法に反する行為」だ。

+++

だがイエスは、他の場面で「律法の戒めは不完全だ」と教えている。
それを示すために彼は「姦淫の罪」をとりあげる。

そしてこれも有名な
 ~「女を見て姦淫の情を抱くのは、行為と同様に罪だ」
~という教えをユダヤ教僧侶たちにカマす。

 この戒めは旧約聖書に記されているが、そこで記されているのは行為に関する戒めだけだ。
だがそれはいわば「表の意味」であって、実はそれは「思い」に関する戒めも含んでいるというのだ。

そしてイエスは「わたしは律法を完全化しにきたのだ」といっている。
つまり、従来の旧約の律法の戒めは不完全なものなのだ。
 
不完全だが、わかりやすいので、暫定的に与えた知識だったのだ。

 
<真理には聖霊が導き入れる>
 
 
では、究極で完全なものとはなにかというと~

② 「イエスを信じないことによるもの」だという。
 
     ~イエスはその真理に弟子たちを「聖霊が来て導き入れる」という。
 
 
ではどうしてこれが完全なのか?

次回にそれに入ろう。




 
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32.愛は意志で創成・強化もできる~自然愛と創成愛~

2019年01月11日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

前回、イエスの「夢の(約束の)言葉」
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~の、(I)から(II)に移行するには、イエスとの同一化が必要であり、同一化を実現する鍵は「イエスを愛すること」だと述べた。

これは一見容易にみえるが、現実はそう簡単ではない。

             

<自然愛と創成愛>

愛には二種類ある。

一つは「心に自然に発生する愛」で、①「自然愛」とでもいうべきものだ。
もう一つは「意志の力で創り出す愛」で、これは②「創成愛」といっていいだろう。

+++

新約聖書でイエスが教えている愛は、ほとんどがこの創成愛である。
 
たとえば、「山上の垂訓」と通称される教えで、イエスは次のように述べている。

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』といわれたのをあなた方は聞いています。
しかし、わたしはあなた方に言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子供になれるのです」
   (マタイによる福音書、7章43-45節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
「自分の隣人を愛する愛」は自然の情として心に生じるもので、①の自然愛だ。
「だが敵を愛する」というのは、自然発生はしない。
これは意志の力で創生し、増強しようとしてはじめて出来る②創成愛なのだ。
 
ここでイエスが教えている愛も、並大抵の努力では出来るものではない。
それこそ「死ぬ思いでの」決心をせねばならないだろう。
そういう愛を持続する過程で、心を開いて相手に接近することによって、その開いた心を傷つけられることも多々起きる。
それにも耐え続けねばならないのだ。

+++
 
イエスと「同一化」するとは、ズバリ言えば「自分も(ほとんど)イエスになってしまう」ことだ。
そういう愛は、意志の力で創成し、強め、深化させる愛でしかありえない。
 
その実践にはもとより大努力が必要だが、今のわれわれ日本人には、そのタイプの愛に気づくこと自体からして困難になっている。

 


<戦後日本人の習慣的感性>

現代人は、愛とは①の自然愛のことだと、ほとんど思うに至っているのだ。

特にわれわれ戦後日本人は、創成愛などほとんど眼中にない心理状態で暮らしてきているのだ。

敗戦後の日本ではハリウッド映画の恋愛物語に触れる機会が激増した。
また、昭和30年代にはTVが出来て、米国の医師や米国兵士の欧州戦線での働きを描くドラマが日常的に茶の間で見られるようになった。

彼らの行為は人間愛に満ちていた。

そこでの登場人物の愛は自然愛だが、それは概して、戦前の日本人よりも大きく強い。
それには、福音の影響するところが大きいだろうが、ともあれ、登場人物達の行動は見ていて心地いいものだった。
好感が持て、学ぶところも多かった。

それらが創成愛をベールで覆った。日本人の自然愛重視の精神風潮を形成した。
その中で育った、戦後の日本人には、愛を人為的に意志の力で創成することは、カッコわるくて、偽善的でダサいといいう感覚が先立つようになった。

そういう習慣的感性をもってしまっている我々が、強大な愛を意志の力で創成する状況をイメージすること自体が容易ではないのである。

+++

だがイエスとの同一化を志すには、すくなくとも、その言葉の大半を暗記してしまうことが前提となるだろう。
 
そしてそれに乗り出せるのは「イエスの夢の言葉を実現して人を助けたい」という意志、強く激しい実践意志を抱くことによってのみ可能になるだろう。


 
 
<イエスと同一化できる愛>

その愛を示唆するイエスの言葉がある。

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『心(heart)を尽くし、思い(soul)を尽くし、知力(mind)を尽くしてあなたの神である主を愛せよ』。
これが第一に大切な戒め(命令)です。
第二は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』です。
これも同様に大切です。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっています。
  (マタイによる福音書、22章37-40節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
これは、律法の専門家がイエスを試そうとして発した質問へのイエスの答えだ。
この学者は「先生、律法の中で大切な戒めはどれですか?」と問うている。

イエスはここで結果的に、イエスと同一化出来る愛はどういう愛かの示唆をもしているのだ。

「心(heart)を尽くし、思い(soul)を尽くし、知力(mind)を尽くす愛」がそれだ。
なぜならここでの「あなたの神」とは創造神であり、イエスもその創造神であるからだ。
 
そしてくりかえすが、そういう愛をイメージでき、かつ、実践できるのは、イエスの夢の言葉を実現して人を助けたい、という強く激しい実践意志を抱くことによってのみだろう。

(筆者もそれに気づいて「エラいテーマに取り組んでしまったなぁ」と改めて思にいたっている。筆者の福音へ取り組み方は、大きく変えられてきている。今までのオレの聖書解読は一体なんだったのだ・・・)
 
+++

余談を一つ。

律法の法文の中には、イエスが上記に述べたような「戒め」はない。
イエスは条文をあげないで、それらが完全に成就するための奥義を示しているのだ。
 
聖句の中の「かかっている」は、「それで全ての成否が左右される」という意味である。
「今日の(野球の)試合の勝敗は、君のピッチングにかかっている」というがごとしだ。
 
これが何故奥義かは次回以降に追求する。

今回はここまでにしておこう。






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31.「恐れ」「愛」「安息」および「同一化」

2019年01月01日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 
 
大晦日ですね。
2018年最後の記事を書きましょう。
 
+++
 
鬱を打破する聖書の論理、を追って平安・安息まで来てしまった。
なんか、主題と離れてきてしまったような観もある。
 
+++

そこでまた、全体像を鳥瞰しよう。

筆者はヨハネ15:7の「夢の(約束の)聖句」を探究した。
聖句はこれだった~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だが、世間を見回してみれば、これを実現しているクリスチャンは希なことがわかる。何故だろう?



<「① ⇒ ②」の移行が成ってない>

ここには(I)、(II) が出来れば(III)はオートマチックに実現する、という論理がある。
 
すると(I)から ⇒(II)への移行に問題がありそうなことがわかる。このあたりを吟味しなければならない。

筆者はそう思って黙想してみた。すると、どうも平安・安息の状態が関与している予感がしてきた。
理由はわからないが、そう感じた。
それでともかく安息・平安を考察してみたのだった。
 
+++

だがこういう考察は、原点から展開していく思考の手がかりになるべきものである。
そこで、改めて原点から考えてみよう。

 
<イエスと同一化した状態>
 

(I)イエスの言葉の中に留まり、住まっていると、どのようにして(II)イエスの言葉が中に住まう状態になるか。

言葉に留まり住まっていると、そのイエスの言葉が一つ一つ、当人の心の内に移行していくのか? それが蓄積して(II)の状態ができていくのか?
 
どうもそういう形の移行にはリアリティーが感じられない。
そもそも(II)の状態とは何か?

それは(I)の段階における「イエスの状態」ではないか?
このときイエスはイエス自身の言葉を内に抱いている。

このイエスの状態に、(I)の段階にある(イエスの言葉の中に住まっている)人間が飛躍・変身すればいいのだ。

そんなことが出来るか? 出来る。
どうやって? 同一化によってだ。
人間にはその能力が与えられていることを、哲学者ベルグソンは発見している。
これは前述した。

(I)の段階にいる人間が、(I)の段階にあるイエスに同一化すればいいのだ。

どうやって? 愛することによってだ。

愛するとは精神的同一化をすることだからだ。

これを全身全霊をもってすればいい。
それによって人は(II)の状態に至ることが出来る。

イエスを全身全霊かけて愛すればいいのだ。

 
 
<父と御子の一体性>
 
実はイエスはこれを父なる創造神との間で実行している。
イエスの~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が聞いていることばは、私のものではなく、私を遣わした父のことばなのです」
 (ヨハネによる福音書、14章24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~はそれをいっている。

父なる創造神は、当然、自らの言葉を自らの内に持っている。
そしてイエスは、その父と同一化、一体化することによって、そういう父の分身になっている。
だから、自分が語る言葉は、父のことばとなるのだ。
 
その際、イエスは父を全身全霊込めて愛している。

祈るときにもこう祈った~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
「『私の願いではなく、みこころのとおりにしてください』・・・(中略)・・・いよいよ切に祈られた。
汗が血のしずくのように、地に落ちた」
     (ルカによる福音書、22章42ー4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・

 これは凄い祈りだよ。
全身で愛してなかったら出来ない祈りだ。
愛とは、相手に精神的に同一化しようとする精神活動だからだ。

「創造神を全身全霊あげて愛すること」によって、御子は父に同一化・一体化しているのだ。

その結果、父の言葉がそのまま御子の内に内住した状態になる。父自身の内にその言葉が内住しているように、だ。

だから、「御子が語るときには、その父の言葉を語ることになっている」のだ。
 
  
 
<御子と人間の間でも同じ>

 
御子と人間のあいだにも、その原理があてはまる。
 
人間が(I)から(II)の状態に移行するのも、イエスに同一化し、イエスの分身となることで、可能となる。
その結果として、イエスの言葉が内に住まっていることになる。
 
人間の(II)の状態とは、「イエスと同じになった自分」の状態、イエスの分身となった自分なのだ。
 
さすれば創造神は自分の御子イエスと同じように、その人間を自分の子(神の子)と認識する。
だから(II)の状態(御子の分身の状態)となった人間の願いはかなえる・・・そういう論理だったのだ。

 
 
<同一化には安息が必須>
 
そしてここで平安・安息が浮上する。

(I)の状態にある人間が、イエスとの同一化をはかるという精神作業において、平安・安息が必要になる。
 
なぜなら、人間は「聖なるもの」には、本能的に「恐れ」をいだくからだ。
その一つは、自らに「汚れ」を意識することによる恐れである。

人は聖なるものを認識すると、自らに「汚れ」を意識して、あとずさりするのだ。
 
(余談だが、在物神宗教はこの心理をベースに成立している)


<主よ私から離れてください!>
 
新約聖書にもこんな記録がある。
 
~弟子たちが夜通し漁をしても魚が一匹も捕れなかった。
イエスが彼らに「船の右側に網を入れなさい」といった。
それに従うと、二艘の船が沈みそうになるほどに、魚が捕れた。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「これをみたシモン・ペテロはイエスの足もとにひれ伏していった。
『主よ、私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから』」
 (ルカによる福音書、5章 4~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
人間はこういう心情を、その魂(ソウル)に生来もっているのだ。
この時ペテロの内では「イエスは聖」という心情が急上昇している。

だったら復活して突然目の前に現れたイエスに対してはどうか。

弟子たちはなかなか信じられなかったが、ついにイエスだと認識した時にはどうなるか。
その「聖」なること、生前のイエスより何十倍も強烈だろう。
その聖なる度合いは、魚が捕れた時のペテロの心情なんてものじゃない。
 
弟子たちは、自らの「汚れ」を自覚して、強大な「恐れ」を抱いて距離を置こうとする。

自然の情として後ずさる。
 
 
<まずとにかく安息を>

だが、イエスとしては、これから彼らには、本格的に(II)の状態になってもらわねばならない。
そのためには、恐れを消し去って、復活の自分に距離を置かないで、同一化してもらわねばならない。
分身となって、福音伝道に働いてもらわねばならない。
 
だから、イエスは、復活して現れたとき、なによりもまず「安息(平安)あれ」といったのだ。
「自分に対して恐れのない気持ちにまずなるように」させようとしたのだ。

もう零時をまわって2019年だ。
今回はこれくらいにしておこう。





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