鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

人類が 聖句上位方式に無知なのは

2021年04月05日 | キリスト教の正しい学び方
 バイブリシズム方式の教会は、キリスト教の開祖的教会だ。
100年もの間、キリスト教活動を普及させてきた。
なのに人類のほとんどが、いまもこれを知らない。
聖句上位の活動方式は、人類の共通知識になっていない。
 
 理由は、この初代教会方式の教会情報が、完全隠蔽されてきたからである。
のちに発生する巨大な教会勢力によって歴史記録から抹殺された。
事情は次のごとくだ。
 
<大衆が参加を求め始める>
 
 聖句上位方式によって、キリスト教会は大発展し、社会的にも容認されるようになった。
教会は、愛の精神でもって、病は癒やすし、貧しきものには食べ物も衣類もほどこす。
そういう社会経済的利得もこの教会に参加すると得られることを、大衆は知った。
彼らは、こぞって、キリスト教会に参加することを希望した。
 
+++
 
 だが、大衆は聖句を読まない人たちであった。
のみならず、文字も読めないのが普通だった。
 
<パリサイ人、サドカイ人、大衆>
 
 当時の社会構成をユダヤ人社会の例で見ると、民族は三つの階層に別れていた。
サドカイ人、パリサイ人、そして一般大衆だ。
 
 サドカイ人は、最高所得層で、彼らは人間の復活はない、と信じていた。
金持ちというのは、概して、そういう見えない世界は信じない。
この世が楽しいので、そういう風になるのだ。
 
だが彼らは、聖書〔当時は旧約のみ)を読んでいた。
 
+++
 
パリサイ人は、中高層所得階級で、人間の死後の復活を信じていた。
彼らもまた、聖書を読んでいた。
 
+++
 
 その下に膨大な数の大衆がいた。
残りの大多数を占める彼らは、貧しく、文字を学ぶ機会ももたず、従って、聖書を読んでいなかった。
 サドカイ人、パリサイ人は、彼らを罪人(つみびと)と呼んでいた。
 
+++
 
 その彼らが、紀元後二世紀の後半になると、キリスト教会に加わることを求めて、どっとやってきはじめたのだ。
 教会は,愛の教えに従って「来る者拒まず」で応じる。
そうした大衆を皆受け入れた。
 
 だけど彼らは、聖句自由解読活動などできない。
読んだことないし。そもそも、文字をほとんど読めないのだから。
 
<教理上位方式の教会が開始>
 
 彼らの担当にまわった指導者たちは、簡素な教理を作り、これがキリスト教の正統な教えですよ、として指導するしかなかった。
 こうして教理上位方式で活動する部門が開始された。
 
 だが、この方式は、信徒を大量に管理していくには,効率的だった。
信徒の信じる内容が、みな、与えてあげた教理のままだから。
キリスト教意識の中身がみな、金太郎飴だから。
 
 指導者は、信徒を組織化しやすく、統率しやすい。
指導者自身も、ピラミッド型の階層組織を作り、管理機構を形成した。
こうして新興教団は、いまの会社や政府のような社会組織になった。
 
 ローマ帝国政庁としては、相手にしやすい。
社会的勢力を備えた教理上位教会は、キリスト教界の代表の様相を示すようになっていく。
 
<新興教団の規模、大成長>
 
 この方式の教会は、紀元後二世紀半ば頃から急成長し、社会勢力としてもキリスト教会を代表するようになった。
 ローマ帝国政庁も、この教団をキリスト教の代表集団とみなし、彼らを交渉相手にして、キリスト教対策を行うようになった。
 
 これが、のちにカトリック教会と名乗ることになる教団だ。
以後便宜上、カトリック教団と称していこう。
 
<ローマ帝国国教の地位を得て統率を開始>
 
 がともあれこの教団は、紀元後4世紀になると、ローマ帝国の単独国教の地位を確保する。
彼らは、国家権力を用いて、キリスト教会全体を統率しようとしはじめた。
そのためには、個々人が聖句を自由に解読し、小グループで自由に話し合う方式の教会は邪魔になる。
彼らは、聖句上位主義で活動する教会に、自分たちの教理上位主義方式に改めるように要求した。
 
 だが、聖句上位方式の教会は、頑として従わなかった。
初代教会以来の聖句自由吟味方式を改めなかった。
 
 すると、カトリック教団は、「何を生意気な!」となる。
軍隊を用いて彼らを捕らえ、処刑するようになった。
のみならず、彼らを教会と認めず、その活動の歴史も、現状も、一切記録に残さなくなった。
そういう彼らの世が、欧州では、1200年続いた。
 
この状態がルターが宗教改革を始めるまで続いた。
 
 1200年もこの状態が続くと、それが世界の常識知識となる。
それが、人類の世界史知識に、キリスト教発生源である聖句上位主義方式の記録がない理由だ。
このブログを読んでいるあなたも、皆目それに無知な理由だ。
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聖句上位方式は人智を超えて発生した

2021年04月04日 | キリスト教の正しい学び方
 聖句上位方式は、有能な誰かが考案し、実施したのではない。
人知の産物でなく、初代教会に自然発生的にできあがったものだ。
初代教会とは、イエスの弟子〔使徒)たちが中心になって出来た信徒の集いで、人類史初のキリスト教会だ。
 
 
<残された信徒に聖霊が下る>
 
 この教会は、聖霊が引き起こした奇跡(不思議なしるし)を契機にできあがっている。
イエスが復活して昇天した後、エルサレム神殿近くの大部屋に、200人余の信徒が集まっていた。
その群れに轟音とともに聖霊が下り、信徒たちの口から異言(いげん)があふれ出した。
 
 異言とは語っている本人も、その意味を理性で解することも出来ない言葉だ。
英語ではストレンジ・タング(strange tangue)という。
 
 
<使徒ペテロ、独自聖句解読で事態を説明>
 
 轟音に驚いて駆けつけ押し寄せたエルサレム神殿参拝者は、信徒の語る異言を驚き怪しんだ。
使徒ペテロは事態を聖書〔旧約)解読して説明した。
人々は感銘を受け、その日だけでも三千人が使徒たちに加わった。
 
+++
 
 使徒たちは、彼らを数人の小グループに分け、リーダーを一人選ばせた。
そのうちの一人の家で聖書を自由吟味しあうようにした。
 
<統一教理など作れなかった>
 
 使徒たちは教会の統一解釈〔教理)を提示することはなかった。
そういうものは作れなかったのである。
 
 イエスは十字架死し、復活し、昇天する直前まで、使徒たちに独自な聖句説明をし続けた。
その都度、各々に「まだわからないのか」と指摘した。
そんな状態だから、使徒は「俺の解釈が正しい」と主張することなどできなかった。
 
 だから、教会の統一教理をつくり、新参加者に提示することなど望むべくもない。
各人、各グループに自由解釈、自由吟味させるしかなかった。
自由吟味を許すというのは、絶対正統な教理を認めないことでもある。
 
 その自然な帰結として、聖句上位方式は出現した。
不思議と言えば、不思議なことでもある。
 
+++
 
 伝道活動で新しく増えていった教会でも、この方式は実施された。
初代教会以降、一世紀間にわたって,キリスト教会と言えば、この方式の教会だった。
 
 紀元後100年頃には、初代教会方式で活動する信徒の群れが、ローマ帝国全土に点在するに至っていた。
 
 
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聖句に教理が併存する事例

2021年04月04日 | キリスト教の正しい学び方
 
 聖句にほぼ反射的に解釈〔教理)が出現し、伴侶・併存する事態は、聖書の冒頭部分から体験することが出来る。
『創世記』にこんな話がある~。
 
 アダムとイブ〔エバ)は、食べるのを禁じられていた木の実、エデンの園の中央に置かれていた木の実を食べてしまった。
 
 創造神は、イブに問う。
  「おまえは、なんということをしたのか」
 エバ、答えて曰く。
  「蛇が私をだましたのです」
 
 創造神は、同じ問いをアダムにも投げかける。
 アダム答えて曰く。
  「イブがわたしを誘惑したのです」
 
+++
 
 こうした要旨の聖句を読むと、たとえば、こんな思い(解釈)」が人の心には浮かぶ。
「人間には、物事の責任を他者になすりつけるという罪の資質があるのだ」と。
 
他にも解釈は出来,教理はつくりうる。
 が、とにかく、聖句の記述に教理が自然併存する様、かくのごとしだ。
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「上位」主義か「至上」主義か

2021年04月04日 | キリスト教の正しい学び方
 
 前回、教理よりも聖句に権威を置く方式を、「聖句上位主義ないしは聖句至上主義」と呼ぼう~と言った。
 今回は、今ひとつこだわって、さらに微妙な点に立ち入ろう。
 
 「上位主義」と「至上主義」との間のニュアンスの差を考える。
 
+++
 
 至上主義の語には、聖句をあがめ、教理の存在を否定する、ようなニュアンスがある。
上位主義の語には、そういう感情は少なく、両者の存在をともに認めているニュアンスがある。
 
 そして、バイブリシズムに対する、より適切な訳語は、聖句上位主義の方だと思われる。
 
+++
 
 聖句に教理はつきものだ。
聖句があれば、人は、それを解釈しようという欲求を自然に抱く。
 
ほぼ反射的に教理は現れ、心の中で、まるで伴侶のように聖句と併存する。
一方が輝いて、他方が、その輝きの陰におかれて、存在が薄れたり、見えなくなったりするものではない。
 
両者の併存を銘記するために、聖句上位主義の語を選択しておいた方がいいように思う。
 
 
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バイブリシズムは聖句上位主義

2021年04月03日 | キリスト教の正しい学び方
 聖句を解釈して出来る教理ではなく、もとの聖句そのものに最終権威をおく姿勢、バイブリック(Biblic) はサザンバプテスト地域独特の用語で,一般の辞書にはない・・・・これは前述した.
 
 今回はもう一つ、その親類のような言葉をも紹介する。
バイブリシズム(Biblicism)がそれで、これもまたサザン特有の用語、一般辞書にはない用語だ。
 
<聖句上位主義>
 
 ismというのは、「~の方がベターだ、上位だ」という意味を持った接尾語で、日本語では「~主義」と訳されている。
 
 「ベター」というのは、「何かと比較して」とのニュアンスをもっている。
この際、比較されているのは教理だ。
 
 つまり、教理よりも聖句を上位に置く、という姿勢がバイブリックであり、その方式がベターだという思想を表すのがバイブリシズムだ。
日本語ではどう言うべきか、聖句上位主義といったところか。
 
 短く聖句主義といきたいところだが、筆者のこれまでの経験では、当面それだとほとんどその真意が伝わらない。
面倒だが聖句上位主義、ないしは聖句至上主義と言っておいた方が当面は無難である。
 
<教理上位主義>
 
 対して、教理を上位にすべきという思想もある。
聖句上位主義のバイブリシズムにをこれに対比させるには、やはり教理上位主義ないしは教理至上主義と言っておくのが良さそうだ。
 英語ではcreedalismとか    doctrinism とか    dogmatism  とかの語がそれにあたる。
 
+++
 
 教理上位主義の方式をとる教派・教団もある。代表はカトリック教団だが、それから派生しているプロテスタント教団もまた、教理上位主義だ
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教理は真理になりうるか?

2021年04月03日 | キリスト教の正しい学び方
 最終権威は聖句にあって、その解釈は複数通りできる。そこからできあがる教理の正しさは、相対的なものだ・・・・前回それを示した。
 そういうと、では教理には真理はないのか、だったら聖句解読〔解釈)なんてする意義あるのか? そういう疑問が心に湧くだろう。
 
<真理という日本語>
 
 これについては、真理という日本語の意味を、改めて考えねばならない。
 
 この英語はトルース(truth)で、その原義は「変わらざるもの」であり、多くの場合それは「変わらざる理論」をいっている。
 「変わらざるもの〔理論)」という概念は、幕末までの日本にはなかった。
それは聖書の中だけにある言葉だった。
 
+++
 
 初の聖書邦訳者ヘボン先生は、これには頭を悩まされた。
どう訳したら、日本人はわかるだろうか。
 
 思案のあげく、真実の「真」という語と「理(筋道、理論)」ということばを組み合わせて「真理」の語をつくった。
そしてこれに「まこと」というふりがなをつけた。ヘボン先生苦心の造語であった。
 
+++
 
 だから、真理の真意は「変わらない理論」だ。
それは「究極的に正しい」理論を意味する。
そういう理論があるならば、それはもう、修正して変えられることなく存在し続けられるだろう。
けれども、そんな理論知識に解読者はたどり着けるだろうか?
 
<科学の経験>
 
 それには科学の知識が参考になる。
 科学というのは、「認識対象を五感で経験認知できる範囲に限定」して行う、認識のやりかただ。
そこには、誰もが納得できる五感経験によって、確実な認識を得よう、という志がある。
 
 その科学において、発見される事象のつながり、筋、は理論で表される。
だが、科学者はそれを決して真理とは呼ばない。素晴らしい発見も皆「仮説」という。
 
 仮説とは「仮に設定した説〔理論、理屈)という意味だ。
仮だから、常に、新しい事実がわかったら修正される余地を持っている。
 
<聖句の論述範囲>
 
 一方、聖書で記述されている世界はどうか。
それは五感認識界に加えて、五感では経験できない領域も含めた広大な世界だ。
これを認識対象にして言葉で記述されているのが聖句だ。
 
 その聖句の間に発見される理論が、修正余地のない真理になりうるはずはないだろう。
みな仮説以上のものになり得ない。
 
<真理は遠望して探求され続けるべきもの>
 
 聖句を解釈して得られる理論、すなわち、教理というのは、みな仮説なのだ。
もちろん解釈努力している人は、真理を希求して行っている。
その気持ちは痛いほどわかる。
 
 だが、現実には究極普遍の教理には、人間はたどり着けない。
究極の真理は、科学と同様に、永遠に憧れ遠望して追求し続けるべき存在なのだ。
 
 これに気づくと、バイブリックという思想は、人間の現実に沿った、着実な思想であることがわかってくる。
 
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教理は複数作りうる

2021年04月02日 | キリスト教の正しい学び方
 教理を作ることを聖句を「解釈する」ともいう。そして聖句解釈は一つしか出来ないのではなく、基本的にいろいろにできるものだ。
一人の人間の人格を他者がいろいろに解釈できるように、聖句解釈もいろいろ出来るのだ。
 
 +++
 
 だが解釈している当人は、正しい解釈をしたいと思って出発している。
言い換えれば「真理を求めて」スタートしている。
 
 だから一つの正しい教理を得ようと思って、解釈を試みる。
そして出来た解釈を最も正しいと思う傾向を持つ。
 
 「最も正しい」という思いは「正統」とも表現できる。
この言葉を使うと、「正統な解釈」、あるいは「正統な教理」ということになる。
 
 Aさんは、自分の解釈を正統と思いがちなわけだ。
これは自然の情であろう。
 それはBさんも同じで、自分が到達した解釈を正統と思いがちだ。
 
<正統論争>
 
 そこでどちらが正しいかをめぐって、論争が起きる。
でも決着は基本的につかない。
やってみるとわかるが、そもそも解釈はいろいろに出来るものだからだ。
 
 ときには口争いに留まらず、つかみ合いのけんかになることもある。
それが人情だ。
 
+++
 
 前々回に述べたBiblicという思想は、このどうしょうもない状況を避ける一つの知恵でもある。
「そもそも教理というのは、最高の権威を持つものではありませんよ。聖句こそが教理に勝る権威を持っているのですよ。それを認めましょう」とこの思想は言う。
 
 「認めると、あなたの作った教理も、その妥当性を常に聖句に照らして吟味されるべき存在と考えられるようになりますよ」とバイブリック思想はいうことができる。
こうやって、一つの教理〔解釈)を絶対視しないで相対視するのを可能にしてくれるのだ。
 
 
 
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聖句と教理

2021年04月02日 | キリスト教の正しい学び方
 前回、Biblicというのは、「聖句を最終権威として聖書に対する姿勢」を意味していると言った。
ここで聖句という言葉の特徴をみておこう。
 
 聖句というのは、聖書という書物に記されている言葉そのものをいう。
英語では スクリプチャー(scripture)といわれる。
 
<聖句の文章は記述的>
 
 現実は多様なものだ。聖句はその多様な現実を多様なままで、写真を撮るようにして文字に書いた文章でできている。
これを日本語では、記述的(descriptive) とか描写的とかいう。
 
<説明本能>
 
 記述的」と対をなす言葉は、説明的(]explanatory)だ。
「説明的」は、記述的で多様な聖句の間にある論理的なつながり、すなわち、筋道を見つけ出して書く文章だ。
 
 聖句はそのままでは「何を言ってるか」が理解しにくい。
だが人間は、そういうものを見ると、それが「何を言ってるのか」を簡明に知りたいと欲していく。
これは自然な本能だ。
 
 簡明に知る、というのは、簡単な文章に要約して知る、ということだ。
要約文に「置き換えて」知るといってもいい。
 
 そのために人間は聖句の間に論理的な筋道を見出そうとする。
そうして、聖句が「言いたそうなこと」を「理解」しようと欲していく。
 
 
 
<教理>
 
 こうして出来た文章(言葉)を、教理(doctrineまたはdogma)という。
人間は「言ってること」を理解しようとして、教理を自然に、本能的に作り出す。
 
 だから聖句と教理は一人の人間の心の中に併存するようになっていくのだ。
 
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