鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.89『予定説か?』(6章:最終)

2005年10月25日 | ヨハネ伝解読

                        




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=聖句=
「預言者の書に『かれらはみな創主に教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者は、みなわたし(イエス)に来るのです」(45節)。
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 前回の続きです。
 福音を受け入れる人を、創造主はあらかじめ決定しておられることになっているのでしょうか? 

 違うんじゃないかなぁ。
 まず、ここは、イエスの話がユダヤ人だけに向けてなされていることに留意しましょう。ユダヤ人は、聖書(旧約)の預言書を与えられた民なのですね。

 その上で、上記聖句のイエスの言葉をながめてみます。そして「創主に教えられる」に注目しましょう。

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 ユダヤ人たちはどうやって「教えられる」のでしょうか。イエス以前のユダヤ人が創主に教えられるのは、聖書(旧約)の預言書を通してしかありませんよね。創主は、霊感の豊かな預言者に啓示を与える。預言者はそれを記録する。他の一般ユダヤ人はそれを読んで教えられるわけです。

  次に「父から聞いて学んだ」に注目しましょう。
 
 ここで「父から聞く」というのは、「預言書(旧約聖書)を読む」ことですよね。では「学んだ」はどうか? 将来現れる「何かまことのもの」を預言書が暗示している、それを学んだ、ということではないでしょうか。

 イエスは、そういう読み方が(旧約)聖書の正しい読み方であることをすでに宣言しています。そのまことのものとはイエスその人であるということを。

 「この聖書は私についてあかしをするもの」(5章39節)という解き明かしがそれを示していそうです。

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 当時のユダヤ人の大半は、「聖書(旧訳聖書)とはつまるところは、律法を守って生きていくことを教える書物である」と考えていました。だが、そのなかでも、違う学び方をした人はいたようです。

 まことのもの、まだ現れていないけれどもまことのもの~~その出現を示唆するを主旨とする書物である、という読み方をしていた人もいた。

 その本物とは自分たちの救い主らしいと予感してはいましたが、まだ漠然としていました。

 けれども、漠然ながらも、その出現を期待するような、そういう学び方をした人はいたわけです。まことの救い主の出現を期待して生きるという、そういう生き方をもたらすような学び方ですね。それがイエスのいう「父から聞いて学んだもの」の意味ではないか、と思えます。

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 創主は全知ですから、そういう学び方をしてまことのものへの期待を抱いている人がわかるでしょう。この救い主が早く出現してくれることを祈っている人がわかります。

 その人の意識に創主(聖霊)は働きかけるのではないか。祈りに答えた場合もあるでしょう。とにかく、意識に影響を与えるのではないか。

 すると、その人は、イエスの言うことが真理に聞こえるようになるんですね。そういう論理ならば、そこで(そういうふうに)学んだ者は「みな私に来る」(45節)となるわけですね。

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 ここで、大切なことは、そういう風な学び方をするというのは、本人の自由意志による、ということですね。そこまで創主が“全面的に”方向付けているのではない。

 もちろん、様々な条件付けはなされもするでしょうが、その中でロボットのように人間は動くのではない。当人の自由な意識活動による領域は残っているわけです。それがある限り、運命でもなく、予定されたところでもないことになるでしょう。

 そうすると予定説ではなくなります。
 自由意志活動の中で、まことのもの、永遠に変わらないもの、を期待し、祈り求める。そういう人に対してのみ、創主は、それにいたる手助けをする、というわけです。

 父なる創主が「与えよう」という決断は、最初の段階になされているのではない、ということですね。

  創主の超越的な力ですべてが方向付けられていく、という論理ではない。当人の自由な意識活動の余地があって、それも関与してどちらのグループに属するかが決まる、ということでしたら、予定説にならないわけです。

 「創主は求める人には与える」というのは聖書の基本理念ですしね。
          (6章これで終わりです)

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