徒歩旅行、世界一周、3万4千キロ

過去の世界徒歩旅行の記録を紹介

世界一周、徒歩旅行、追加:ヨット編-1032

2016-05-05 07:50:18 | 世界徒歩旅行

発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩+ヨット旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロを終え、追加編:ヨット
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
その後、ポルトガルからヨットに乗るストーリー

15、旅でのいろいろ総括 - 651

今日からある新聞に10回に分けて掲載した冒険記をそのまま書いてみます。

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パキスタンのバルチスタン砂漠。
遠くの村から水を汲みに来た女性達。 黒く見えるのは羊の皮で作った水筒。

1、ナラバー砂漠にて

48度を超える猛暑を行く

 「去年も同じ様に日本人がこの砂漠を歩きに来た。彼はリヤカーを引き、彼の水タンクは20ガロン(約75ℓ)だった。お前の持っている水筒はどのぐらいだ。」
「9ℓだ。」と答えて、私はこの暑さのことを考え背中に冷や汗を感じた。
これはオーストラリアのナラバー砂漠に向かう一本道にポツンとあった一軒家を通り過ぎる時に交わした会話であった。

 私は日本をはじめとしてアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、そしてアジアからヨーロッパまで全部で21カ国を縦横断した。
歩いたトータル時間が3年間で、合計の距離が34,000kmであった。
きっかけは学生時代、負けず嫌いな私は友人の自転車旅行に興味を持った。
その後、彼が自転車ならば、私は歩いてみようと思ったのであった。
始めの歩きの旅は300km、6日間の旅ではあったが、何も知らなかった私には毎日が苦痛と背中合わせで生命の充実感を感じたものであった。
それは靴が小さく靴を踏んで歩いたために前側の筋肉が攣ってしまい。最後には足が上がらなかった。
だから、車道と歩道の段差15センチほどの高さを持上げられず、手で足を持上げて歩いたものであった。
したがって、歩き終わってからは2~3日は歩くことも出来ず、家を出ることが出来なかった。

 その後、普通の若者の様に世界に興味を持った。
しかし、人のやらないことをやろうと思った私は逆立ちで歩くか、ローラースケートで大陸を横断しようと思ったが、歩くことに落ち着いた。
即ち、人間の出来る自然な形で世界の広さを自分の目ではかみたいそう思って日本の後、アメリカを歩き始めた。

 砂漠は極端な世界である。
暑いか寒いか、生か死か、生物もサソリ、毒ヘビ、タランチュラ、サボテンなど独特である。
人家も電信柱もない所に来た、、、、、、、。
「前に自分はアメリカの砂漠を車で通ったことがあった。」
「今、地図があり、少しの水と食糧がある。」この様に考え、自分の不安を抑えるのであった。
実際、この時は冬に歩くことにして良かった。だから砂漠を越えることが出来た。
この後いろいろな砂漠を経験した結果、温度が30度以下の場合は一日に食事を含めて水の量を2ℓまで切り詰められる。
また、温度が30度から40度まででは3ℓ、40度以上ではどれだけあっても飲んでしまうことが分かった。
このアメリカの砂漠では冬だったので、東に向かうほど寒くなり中央アメリカでは非常に寒かった。
この砂漠ではラジオを聴くことが出来たのが、何もない砂漠ではラジオの音がその風景に不似合いであった。

 ナラバーと言えば、泣く子も黙るオーストラリアの砂漠である。
アメリカ横断の後、不法で働いてつかまった私は一年後に何の計画もなくオーストラリアへ歩きに行った。
現地の友人からは口をそろえて反対された。それは日本が冬になるからオーストラリアでは夏になるからであった。
一番困難な所は191kmの間何もなく、その様な所が1250km連綿と続くのである。
その難所に至るまでに温度が40度を超える猛暑の中を歩いたことがあったのであった。
その時には目的のロードハウスが見えた時には酒に酔っ払ったようにふらふらと歩くのであった。
自分の気力の弱さを知った。昼を歩くとあまりにも暑いので、昼ではなく夜に歩くことを考え、決意をした。
しかし、実際歩いてみると、一日60km~65kmを穴や物に気を付けながら歩けるものではなかった。
それで次に考えたことは持っている荷物を出来るだけ軽くしようと要らない荷物をシドニーに送った。
その時は持っていた荷物を見て「何故、この砂漠で冬の服が必要なのか。」と思ったのであった。
しかし、私の旅はこの国だけでは終わるものではないことは確かだった。
そうして荷物を減らしても減らしたらなかった。最後には地図を破って必要な部分だけを残したりもした。
その様な減量では水をどれだけ多く担げるだろうか?

 この様な状態の中で文頭に書いた男に出会ったのであった。
その時の彼の言葉は私にとっては最後のとどめであった。こうなったらやれるところまでやって後は神にゆだねるだけであった。
そう思うと気が楽になった。そう思ったからか?
実際に天候が変わり、にわか雨が降り道端に溜まった水を飲んだし偶然に会った自転車旅行の人が水をくれ助けてくれた。
その様に成功には多くの人々の協力があったことも確かである。

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筆者は現在、韓国に在住して、以下の様な韓国ビジネスサポートをしています。韓国に関して聞きたいことがあれば、そのホームページをご覧になり、お聞きください。

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