「直木賞作家・小池真理子の半自叙伝的」恋愛小説と、映画の公式サイトで紹介されている小説。1969年のことを20年後に回想する形で1990年に発表された作品ですが、映画化を機に読んでみました。
学園紛争の時代を物語の設定に用い、語り手の野間響子については、女子高で制服廃止闘争委員会の委員長となりデモや集会に参加していく、親や学校への反発心は強いが政治的な思想信条が確立されているわけではなく流されて参加しているという設定にしています。前半は野間響子の闘争・活動が描写されますが、ノンポリの陰のあるイケメン青年堂本渉と知り合い恋した後は活動から速やかに身を引き、渉の気を引き恋仲になることへの思いと画策ばかりが描かれます。小説のテーマ・筋としても学園紛争や全共闘運動は単なる背景として使われているだけで、基本は未熟な17歳が、ジコチュウな金持ちの息子(祐之介)とつるむ見てくれのいい無内容な青年(渉)に入れあげて、見る目がない故に渉を理解することができずに自ら傷つくとともに悲劇を招いたというものです。祐之介や渉と知り合った経緯でさえ、彼らは学園紛争の時代にも闘争に関わることのないノンポリ(特定の党派に入らないという意味での政治意識のあるノンポリではなく、政治的な行動や闘争に関心がない無関心層)だったわけですから、恋愛小説として、学園紛争の時代を選ぶ必然性もなく、野間響子を(当初は)活動家とする必然性もありません。この作品で野間響子が活動家ないしは周囲からは活動家と見える人物と設定されているのは、全共闘の時代に自らは闘争に参加しなかった/できなかったノンポリ層の(あるいは保守・右翼の)読者が、全共闘の活動家もその内実はこの程度、きちんとした思想・信条によるものではなくただの親や学校への一時的な反抗心で闘争をしていただけで、恋人ができれば活動から手を引き、人を見る目もないやつらだと溜飲を下げるため、そういった読者層に媚びるためという気がします。
学園紛争の時代の「活動家」をして、友人のレイコが専業主婦になって楽して暮らしたいというのを「何が正しくて何が間違っているのか、皆目、見当もつかなかった時代に、周囲の雑音にとらわれず、自分だけの"悪くない話"を見つけることができたレイコは、多分、私やジュリーなどよりもずっと早く大人になっていたのかも知れない」(104ページ)などと語らせているのも、同じ匂いがします。
文庫本の解説では「謎」「ミステリ」と紹介していますが、その謎も、こう言っては何ですが、読んでいけば大方予測できますし、私には政治意識に目覚めた17歳の野間響子がなぜ見てくれだけの中身がない男にこうまで引き寄せられ活動を捨てていけるのかに、そういう展開を好む作者と読者に、不快感が募るだけで、ミステリーとしてはもちろん、恋愛小説としても何だかなぁという思いでした。映画で、「海を感じるとき」「紙の月」に続いて、無内容なちゃらんぽらん男に主人公が入れあげてボロボロになっていくというその相手の青年が池松壮亮となっているのに、またか、なんか見る気なくす、という思いを私が持っていることが影響しているかも知れませんが。
小池真理子 集英社文庫 1994年9月25日発行(単行本は1990年7月)
学園紛争の時代を物語の設定に用い、語り手の野間響子については、女子高で制服廃止闘争委員会の委員長となりデモや集会に参加していく、親や学校への反発心は強いが政治的な思想信条が確立されているわけではなく流されて参加しているという設定にしています。前半は野間響子の闘争・活動が描写されますが、ノンポリの陰のあるイケメン青年堂本渉と知り合い恋した後は活動から速やかに身を引き、渉の気を引き恋仲になることへの思いと画策ばかりが描かれます。小説のテーマ・筋としても学園紛争や全共闘運動は単なる背景として使われているだけで、基本は未熟な17歳が、ジコチュウな金持ちの息子(祐之介)とつるむ見てくれのいい無内容な青年(渉)に入れあげて、見る目がない故に渉を理解することができずに自ら傷つくとともに悲劇を招いたというものです。祐之介や渉と知り合った経緯でさえ、彼らは学園紛争の時代にも闘争に関わることのないノンポリ(特定の党派に入らないという意味での政治意識のあるノンポリではなく、政治的な行動や闘争に関心がない無関心層)だったわけですから、恋愛小説として、学園紛争の時代を選ぶ必然性もなく、野間響子を(当初は)活動家とする必然性もありません。この作品で野間響子が活動家ないしは周囲からは活動家と見える人物と設定されているのは、全共闘の時代に自らは闘争に参加しなかった/できなかったノンポリ層の(あるいは保守・右翼の)読者が、全共闘の活動家もその内実はこの程度、きちんとした思想・信条によるものではなくただの親や学校への一時的な反抗心で闘争をしていただけで、恋人ができれば活動から手を引き、人を見る目もないやつらだと溜飲を下げるため、そういった読者層に媚びるためという気がします。
学園紛争の時代の「活動家」をして、友人のレイコが専業主婦になって楽して暮らしたいというのを「何が正しくて何が間違っているのか、皆目、見当もつかなかった時代に、周囲の雑音にとらわれず、自分だけの"悪くない話"を見つけることができたレイコは、多分、私やジュリーなどよりもずっと早く大人になっていたのかも知れない」(104ページ)などと語らせているのも、同じ匂いがします。
文庫本の解説では「謎」「ミステリ」と紹介していますが、その謎も、こう言っては何ですが、読んでいけば大方予測できますし、私には政治意識に目覚めた17歳の野間響子がなぜ見てくれだけの中身がない男にこうまで引き寄せられ活動を捨てていけるのかに、そういう展開を好む作者と読者に、不快感が募るだけで、ミステリーとしてはもちろん、恋愛小説としても何だかなぁという思いでした。映画で、「海を感じるとき」「紙の月」に続いて、無内容なちゃらんぽらん男に主人公が入れあげてボロボロになっていくというその相手の青年が池松壮亮となっているのに、またか、なんか見る気なくす、という思いを私が持っていることが影響しているかも知れませんが。
小池真理子 集英社文庫 1994年9月25日発行(単行本は1990年7月)
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