岩古谷城は愛知県北設楽郡設楽町荒尾にあります。東海古城研究会の会員向けメール情報で設楽町内の6城に新たに119本の案内標柱が立てられたとありましたので、以前一度訪れたことが有りましたがもう一度見学したいと思っていた岩古谷城に出掛けました。
岩古谷城は標高799mの切り立った岩山で、その山頂に岩古谷城があったとされてきました(諸説あり)。岩古谷城の東山下の円覚稲荷一帯に菅沼満直の居館(荒尾館)が有ったとされ岩古谷城はその詰城であったと伝承されています。今回の参考資料は(1)「北設楽郡史」1968 (2)「設楽町史」2005 (3)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997 と「現地案内板」です。新標柱にしたがって見学したところ、従来城址とされていた場所だけでなく広い範囲に広がった城域の精緻な縄張図が現地の案内板に掲載され、興味深い新たな城域を見学することが出来ましたので その1、その2 として記事にしました。
岩古谷城 従来は城域1が城郭遺構とされてきたが城域2にも城郭遺構が存在する
これまで岩古谷山の縄張図は資料(3)に掲載された城域1の部分しか見たことがなかったのですが、新標柱のルート案内にしたがって見学すると城域2に案内板が新設され城域2を含む精緻な縄張図が掲載されていました。見学路と岩古谷山の登山路は一部重複していましたが分岐地点の新標識によって城域2に辿り着けました。
見学ルートは図1のAまたはBです。ルートCは荒尾館から城域2の大手口に至る城道を僕が想定したもので現存していません。案内板によると往時の登城路はCのみだったそうです。
その1ではルートBから城域1への見学路を記事にしました。ルートBの殆どは東海自然歩道と重複していて健脚コースでした。
和市登山口から十三曲がりの道を登り切ると堤石峠に出ました。往時は田口方面からの黒倉方面への峠越えはこのルートしかなく重要な峠道だったようです。車の時代になり今は岩古谷山の下を2本のトンネルが通っています。
岩古谷城 現地に新設の案内板の縄張図(作図:加藤博俊さん)を抜粋 太陽光の反射で写真の一部が飛んでいます
この縄張図ではルートAの堤石トンネル登山口からの登山道&城域2の見学路が描かれています。岩古谷山は1500万年前に存在したと言われる3000m超級の巨大な設楽火山が風化して硬い岩盤が今に残った岩山とされ、全山 奇岩・巨岩の信仰と観光の場となっています。かつては修験道の修行の場ともなっていたようです。
岩古谷城 現地案内板の城域1の抜粋 縄張図は資料(3)の縄張図とほぼ同じ
資料(3)では本曲輪がⅠ、東曲輪がⅡと表記されていました。その他の表記は新設現地案内板独自の表記でした。案内板の縄張図は北方向が真上になっていませんでしたので図2では北が上になるように角度を調整してあります。
岩古谷山 ルートA、ルートBの分岐点 その1ではBへ進む
岩古谷城は三河山間部にありますが、駐車できる場所はごく限られていてA、Bどちらのルートでも図1の岩古谷山登山者用の駐車場Ⓟを利用します。
岩古谷城 ルートBは和市登山口から旧峠道と重複する東海自然歩道を登る
和市登山口からのルートBは堤石峠越えの旧峠道と重複する東海自然歩道を登ります。途中から十三曲りのつづら折りの難所が有り堤石峠に出ました。東海自然歩道は整備されていますので健脚者にはトレッキングとしても楽しめそうです。
岩古谷城 堤石峠 十三曲りを登り切ると峠に出る 西下から 峠の雰囲気 最高です!
峠を越えて東下の黒倉地区に降りる道が残っていましたが、今はハイカーか山仕事の人が利用するだけではないかと想像しました。岩古谷城は右(南)に折れて尾根道になっている東海自然歩道を進みました。
岩古谷城 かぎ掛(鈎掛)岩 が見えてきた 北から
岩尾根道を進むと城域1の北端部のかぎ掛岩が見えてきました。今は木製や鉄製の階段、橋などが整備され東海自然歩道として利用できますがそれ以前は巨大な岸壁に阻まれて行き来は難しかったようです。
岩古谷城 かぎ掛岩 南から 新標柱が立つ 城域1の北端部
新標柱にある説明によると、往時の戦いで岩古谷城に籠城し、ここから兵糧を鈎のついた長い綱で岸壁の下から釣り上げたとの伝承があるようで、そこから鈎掛(かぎかけ)岩と名付けられたとありました。
岩古谷城 東曲輪(Ⅱ郭) 南から 新標柱が立つ
資料(3)ではⅡ郭とされる場所で、削平されているとされていましたが、平場はほぼ自然地形に見えました。この辺りの地山はほぼ岩盤のようですから削平されたとしても部分的なものだったのではないかと想像しましたがどうでしょう。
岩古谷城 東物見 西から 東側の黒倉地区が見渡せる
三河山間部に位置する岩古谷城からの眺望の殆どは山ですが、谷間の僅かな平地には集落が張り付いています。堤石峠を越えて東側に下ると東下に見える黒倉地区に出ます。往時はこの方面の監視をしていた場所ということでしょうね。
岩古谷城 本曲輪(Ⅰ郭) 南西から 新標柱が立ちトレッキングの休憩所になっている
岩古谷山の頂上部分は平坦地が有り岩古谷城の本曲輪(Ⅰ郭)と名付けられていました。資料(1)によると「里俗これを城址という。・・中略・・岩古屋城址の碑があるが、ここは城址ではない。」としています。資料(2)では「ここを『城址』といっている」とし資料(1)の見解も載せていました。資料(3)では城址の存在には肯定的で城域(1)の縄張図が描かれていましたが城域2には触れられていませんでした。ここも地山は岩盤のようでハイカーの踏跡はありましたが城郭遺構として人の手が加えられたようには見えませんでした。
岩古谷城 本曲輪に立つ城址を示す新標柱
本曲輪の一角には岩古谷城址の新標柱が建っていました。整備をされた地元有志の方は重い標柱をここまで担ぎ上げられたとのことで 感謝!です。
岩古谷城 西物見から西の眺望 奥に田口の街が見える
岩古谷城の南端部の岩尾根の先端部が西物見とされます。ここが最高所で確かに西側の眺望は素晴らしく物見の名称がピッタリでした。
岩古谷城 Ⅰ郭から城域2へ下る 途中まで登山道と重複
堤石トンネル登山口からの登山道を登って来るとここに出ます。登山道の途中に城域2への見学路を示す新標柱が有りました。
記事が長くなりましたので今回はここまでとし後は その2としてアップします。