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尾張・早尾東城、西城 織田信秀に攻められた木曽三川の自然堤防上の平城

2021-10-21 | 歴史

早尾東城、早尾西城は愛知県愛西市早尾町にあります。早尾東城は廃城後 常徳寺が造営され現在に至りその位置が明確ですが早尾西城は存在の伝承はありますがその位置などの詳細は不明となっているようです。
 今回の参考資料は (1)「史跡散策 愛知の城」山田柾之著1993  (2)現地案内板  (3)国土交通省Website などです。

 
早尾東城 常徳寺の駐車場に立つ案内板 
 早尾東城は集落の東側に、早尾西城は集落の西側にあったとされますが、西城はその位置・詳細は不明とされています。現地で可能性の有りそうな自然堤防上の場所を2ケ所想定してみました。なお勝幡城は織田信長の生誕地とされます。 ※案内板の東城のサイズが東西一町(約180m)となっていますが一町は約110mですね。


早尾東城、西城  改修前の早尾町周辺の河川 (3)国土交通省Websiteの明治改修計画図
 尾張西部の諸城はほとんどが木曽三川の流域の自然堤防上にありました。そのため見学時には旧流路を考慮する必要がありそうです。往時の流路からかなり変わっているとはいえ明治の改修前の木曽川・長良川・揖斐川はまだ分流工事が行われておらず佐屋川は木曽川の土砂でかなり埋まっていたとされます。佐屋川は木曽川・長良川の分流工事に伴って埋めたてられ、主に耕作地となり、今は海部幹線水路が設けられています。
 

早尾東城、西城 明治の旧地図上に城位置を加筆  早尾西城A、Bは想定位置
 早尾東城は廃城後に常徳寺が立てられ(1)によると城域は寺の東側に伸びていたようです。西城は位置が不明となっていますので現地を見てAまたはB辺りにあったのではないかと想定してみました。
 明治24年時点の地図では木曽川・長良川はまだ分流前で合流しているようですね。佐屋川はかつての川幅の跡は残っていますが水が流れている部分は細くなっています。


早尾東城、西城 現在の国土地図 佐屋川の痕跡は残っている
 木曽三川の分流工事は国家プロジェクトで長期間にわたり行われ、国家予算の12%が費やされたとされます。木曽三川沿いの旧流路付近に存在した城址はいくつも有りましたが、今は川底だったり往時の情景を想像するのが難しい状態に変わってしまっている場合などが多くなっています。早尾東城はその中でも往時の情景がある程度想定できそうでした。


早尾東城、西城 城址の位置     早尾西城A、Bは想定の位置
 早尾東城は廃城後に常徳寺が建てられたとされ資料(1)で寺の東側に城域があったと記されていますので110m×55mの城域を想定しました。早尾西城は集落の西側にあったとして、現地の地形からAまたはBを想定してみました。


早尾東城 常徳寺南側の駐車場に立つ城址碑と案内板 南から
 今は常徳寺となり城郭遺構は有りませんでした。寺の南側と東側は駐車場となっていました。この辺りは海抜0m地帯で、集落は木曽川、佐屋川の自然堤防上に有りましたので寺の裏には段差が有りました。


早尾東城 常徳寺の北側 城址は自然堤防上にあった  
 集落の居住地は自然堤防上にあり、田地とは今でも段差が残っていました。写真左手の緑は蓮の葉でこの地域はレンコンの一大産地です。


早尾東城 常徳寺西側の墓地から蓮(レンコン)畑を見る
 この地区は海抜0mまたはそれ以下の低湿地を利用してのレンコン栽培が盛んです。往時も集落の周囲は低湿地だったでしょうから城は案外守りやすかったのかもしれないと想像しました。城域の西辺はこの辺りで、西側の外側は低湿地だったと想像しました。


早尾東城 レンコンの花=蓮の花
 季節に訪れると城址見学だけでなくこの地域の一面に咲く見事な蓮の花を楽しめます。レンコンの花というと興ざめですね。

早尾西城A 南から 集落西端部 
 集落は自然堤防上にありますが、住宅地の端部に石垣が積まれていました。


早尾西城 河原石の石垣  
 自然堤防上に集落は有り、住宅地と田地の段差には河原石で石垣が積まれていました。今は石の隙間にモルタルが塗り込められていますが、古くからある石垣に最近モルタルを塗ったのかもしれませんね。大河が近いのでこの地方の石垣は河原石が豊富だったのでしょうか、大きさの揃った石で積まれた見事な石垣が多いので「見応えあり!」です。


早尾西城B 南から 左手奥にA
 早尾西城Bも河原石の石垣が積まれた自然堤防上の土地です。西城の候補地の一つとして想定してみました。西城付近には舟原の地名が残りますので古くは自然堤防上の集落の交通手段として舟が用いられていたことを想像しましたがどうでしょう。
 
尾張西部は木曽三川の乱流で出来た自然堤防や輪中に集落が有り、城館もそこに築かれていた場合がありますので後世の大規模な河川改修によって、消滅したり川底に沈んだり、大きく改変された場合が多くなっています。遺構は不明ながら往時の河川の流路から城址の位置や形状を想像しての見学も城址見学の一つの楽しみ方だと思います。


















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