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箕輪城 信濃 天竜川の河岸段丘上に築かれた箕輪氏の城塞群の中心城郭で遺構の残りが良い

2024-03-10 | 歴史

箕輪城は長野県上伊那郡箕輪町にあります。城主は箕輪左衛門重時と伝わり、天竜川対岸の福与城などと連携して当地区を支配していたされます。その後武田氏の南下によって伊那谷が支配されましたが、後に徳川氏によって付近に木下陣屋が置かれ箕輪城は廃城になったようです。天竜川の第二河岸段丘上に築かれた城塞群の中心が、今見る箕輪城だったとされます。今回の参考資料は「信濃の山城と館 5」宮坂武男著2013  などです。  ※宮武武男先生による箕輪城の鳥観図は長野県立歴史館HPの「宮坂武男城郭鳥観図」からご覧いただけます→こちら


箕輪城 河岸段丘上の南北に城砦群が築かれていた
 資料によると、箕輪城の城塞群は今見る箕輪城の北側に北城、中心部を南城(しろ山)、その南側にカネチョウ山があり、さに段丘南端部には砦が設けられていたとされ、天竜川対岸の福与城と併せて、一帯を支配していたものと思われます。※福与城は→こちら

箕輪城 Ⅰ郭内部と周辺は墓地として開発されている
 Ⅰ郭の曲輪面は墓地となり、周囲も墓地となっていましたが、Ⅰ郭の土塁③はほゞ完存でした。Ⅰ郭を取り巻く堀イは南側は完存ですが西側は墓地の道路等によって一部が失われていました。北側の堀⑤は北城との境界を画する堀ですが、今は道路として利用されていました。

箕輪城 北東からの全景 右の道路⑤は堀跡 北東から 左下に養泰寺
 城址の北東隅に入口があり往時の虎口も在ったのではないかと想像しました。ここには城址の表示板、案内板、駐車スペースがありました。今は道路となっている堀跡⑤は城址北側に残っていました。

箕輪城 Ⅰ郭内部 南東から 左に南辺土塁 今は墓地
 Ⅰ郭の内部は墓地として利用されていますので、曲輪面の城郭遺構は見当たりませんでした。

箕輪城 Ⅰ郭 南辺土塁 西から 左下に曲輪面の墓地 見どころです
 箕輪城のⅠ郭周囲を囲む土塁は幅広でほゞ完存状態で見どころでした。

箕輪城 Ⅰ郭 西辺土塁 北から 奥に南辺土塁が見える 左下に曲輪面の墓地
 Ⅰ郭の南、西、北 三辺の土塁は良い状態で残っていました。東辺の養泰寺側は、高い段丘崖を切岸としていて、土塁は不要だったのではないかと思いました。

箕輪城 Ⅰ郭北辺土塁の開口部 南から
 Ⅰ郭を取り巻く土塁➂は北辺に1ヶ所だけ開口部がありました。往時からの通路か後世の改変かは不明でしたが、どちらも考えられそうでした。

箕輪城 Ⅰ郭北側の平場② 南から 左にⅠ郭土塁の北辺
 平場②は堀⑤とⅠ郭土塁の間にあり、今は墓地となっていますが建物が建っていた可能性が有りそうな幅がありました。Ⅰ郭土塁の開口部④の通路で行き来が出来る状態でした。

箕輪城 Ⅰ郭の周囲を囲む堀イの南側部分 東下から 右手上にⅠ郭
 Ⅰ郭の周囲は堀イが設けられ、土塁③とセットでⅠ郭の守りの備えとなっていたようです。このあたりの残存状態は良好で見ごたえアリでした。

箕輪城 Ⅰ郭西辺下の堀イ 南辺から続いている 右上に土塁③
 往時はⅠ郭の三辺を取り巻いていたと思われる堀イですが墓地の道路などの改変で一部が失われていました。

蓑輪城 Ⅰ郭土塁南辺上から堀イ越しに土壇①を見る 今は墓地
 土壇①も往時は南方に向けての戦略的な役割があったと思われますが、今は墓地として利用されていました。

箕輪城 堀ア 東下から 墓地開発で失われた部分が多い?
 堀アは幅広で浅いものでした。資料によると、堀イの外側を取り巻くように堀が設けられていた可能性があるとされ、後世の改変で多くが失われた可能性が記されていました。

箕輪城 養泰寺の池⑥ 湧水は水の手か
 Ⅰ郭東辺の段丘崖下には湧水の池がありました。資料によれば、城の水の手であった可能性が示されていました。

箕輪城 Ⅰ郭北東隅に祀られる加集氏の墓⑦ 案内板が立つ
 加集氏は江戸期の蓑輪領に置かれた木下陣屋の代官を務め、新田開発に力を尽くし、善政を行ったことにより領民から慕われたとされます。

蓑輪城 城塞群の空中写真 昭和23年撮影
 資料によれば箕輪城は北城、南城(しろ山)、カネチョウ山、砦などが天竜川第二段丘上に城砦群として展開していたとありました。戦後間もなくの空中写真で見ると北城の宅地開発や南城の墓地造成などもまだなく、資料に記されたように規模の大きな城塞群だったと想像できました。

蓑輪城は墓地化されているものの、段丘崖上に築かれた土塁、堀などの遺構が明確に残る城郭で興味深く見学が出来て良かったです。
 


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