湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

ヒロ・ヤマガタとつるんで

2011年06月29日 | 詩歌・歳時記
小学校の卒業間際に、醒ヶ井小学校に転校してきた。関東から関西へ、少年にとってこれは大きい。
まず、言葉が違う。少年なりに育んできた文化がまるで違う。その頃の家の仕様というものは、
便所が玄関の横に外に独立して建っていた。向かいの家のおばはんが、やおらこっち向きで、
腰を折り、モンペを膝まで下げて用をたしたのだった。もうビックリ。
野蛮な処へ来てしまったとショックを受けたりもした。中学校の入学式全員、丸ボウズのなかで、
一人だけ坊っちゃん刈りだ。そんな恥ずかしい格好なんか出来るもんかと、一週間は抵抗したのだが。

当然の如く、陰湿ないじめに毎日のようにあった。結構な悪がウジャウジャといたのだ。
いつも飛んできて、助けてくれたのが、山形博道くんだった。
今は「ヒロ・ヤマガタ」として、世界に名高い版画家である。二人とも何より絵が好きだった。
それをきっかけにして、ただひとりの友になってくれた。

その頃の冬場の雪の多さは、とてつもないものであったが、それを楽しみに変える逞しさが、
雪国の子供達にはあった。雪深い山へ入り、竹を切ってくる。四つ割りにするのは鉈だ。
重いナタなんぞ、振り回すのは初めての経験だ。すべて、博道の後から付いて行き、
手取り足取り基本から教えてくれた。その竹を丁寧に薄く削り、先端10センチ辺りに、
ノコギリで浅く溝をつける。風呂の焚き口で火に当てて、慎重に曲げていく。

秋の間に母と山へ入っては、杉の落ち枝を拾い集めたものだ。
風呂やおくどさんの、良い焚き付けになったのだ。今も山間部を車で走る時、
誰も見向きもしない杉葉を横目にしながら、「もったいないナァ」とつい思ってしまう。
閑話休題。
二枚を横に並べて、前と後ろを針金で結ぶ。足の大きさの板を裏側の竹に四ヶ所、
ノコギリで十文字の彫りを入れ、釘で打ち付けるのだ。サンダルのベルトは、工場へ忍び込んで、
モーターの廃ベルトを失敬した。竹スキーの完成である。
滑る所は選ぶを待たない。お寺への坂道、山への登り道、雪ある処、即ちガキのスキー場である。
ストックはなし。尻から転んだ写真が、今も残っている。

美術部の先輩に逢うと、必ず冷やかされる。「おまえら二人は、金魚とフンだったなァ」と。
竹トンボ作り、川遊びの魚突くヤスもすべてが手作りであり、博道が先生である。
なにもかもが初めての経験だったのだ。博道の描く絵は、写実画の私と違って、当時から独特だった。
木の葉の一枚一枚、きっちり描きあげ、微妙に色彩を変えて、派手な絵であった。
そう、現在のシルク・スクリーンの版画、そのものである。

30年近く前に、週刊紙の伊勢丹の「展示会」の広告の絵を、一目見て、
博道、やったなぁとニヤリとしたものだ。彼は実にヒューマンな奴で、
小さなもの、弱いものに対するいたわりは、半端じゃなかった。
改築中の米原駅の通路の壁一面に、博道の絵が描かれるという。さても、楽しみな事だ。

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1 コメント

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Unknown (魔女)
2011-06-30 13:56:42
昭和の30年代に関東からぼっちゃん刈りをした色白の子が転校して来た・・それは・それは注目されたでしょう。
ヒロ・ヤマガタさんにとっても懐かしい故郷を思い出す友となっているんでしょうね。
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