湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

鉄砲の里・国友

2011年06月23日 | 詩歌・歳時記

梅雨の晴れ間、長浜市の北部、姉川とに挟まれた、小さな集落、国友の邑を散歩する。
和歌山の雑賀、大阪の堺と並んで、火縄銃の製造で名高い邑である。
1543年、種子島へポルトガル人を乗せた中国の船が漂着した。
そして、二挺の火縄銃が薩摩藩、島津公に献上された訳だが、
たまたま居合わせた国友の鍛冶に、製造を命じたのだった。
          湖北地方は古代より戦が絶えず、また、製鉄が盛んで、太刀や矛を造り続けた実績があったのだ。
湖北の名峰、伊吹山の名の由来は「息噴く」であり、つまりは、ふいごによるのだ。
また、伊吹山の北には「金糞山」があり、おそらくは製鉄の折りの残滓を棄てた山の意であろう。

それはともかく、当時のわが国には「ネジ」の概念がなかった。
銃身の底を塞ぐこの螺の克服に、欠けた小刀にて大根を切り抜き回し、ネジの作用を得心した。
種子島到着以来、二年も経たぬうちに、鉄砲製造はネジの開発とともに大量生産に及び、
70軒の鍛冶屋と500人をこす職人がいたそうな。

この鉄砲を最初に実戦に使ったのが、長久手、長篠の戦において、
最強を謳われた武田騎馬隊を打ち破った織田信長であるのは言うを待たぬところである。
それまでの「やぁやぁ、我こそは」と名乗りあい、優雅ささえあった合戦を、
殺伐とした殺し合いに変貌させしめた、時代の大転換であった。
    
江戸時代、東洋のエジソンと謳われる国友一貫斎がいた。
自製の天体望遠鏡で、太陽の黒点を一年間に及び観察した記録が残っている。字のごとく万年筆、上方に置かれた鼠の置物の口から、灯油が滴り落ちる仕掛けの、自動灯明。
それらの品々が陳列されているのが、「国友鉄砲資料館」である。
やがて、平安な時代の到来とともに、国友の職人たちはその技術を多方面に伸ばしてゆく。
彫金の技は浜仏壇の飾り金具とし、また夏の夜を彩る花火師として、今の世に綿々と続いている。

会社の同僚に、やたら声のでかい男がいた。
湖北周辺のイベントの折り、火縄銃の一斉射撃が披露されることがまれにある。
彼はこの鉄砲隊の一員なのだ。耳元で弾ける轟音に鼓膜がやられ、自分の声を聞き分けるために、大声になるのだった。何処を歩いても、ふと歴史に触れる近江、湖北ではある。