「木屋」の普請場を過ぎて小田(原)町の木戸を通ります
(左)蒲鉾屋 古くは竹に巻いて作る形から蒲鉾という名に、板に白身魚のすり身を盛るようになるのは江戸時代から。
自身番屋の前には国分煙草売りそしてその左手は食物の立ち売り
(右) 木戸を通るのは太神楽(だいかぐら)(丸一)傘や撥を使った曲芸や獅子舞、駕籠抜けなど寿ぎの芸をする
門付け芸人、「丸一」という社中が江戸では有名、現在でも13代目丸一仙翁が江戸太神楽の家元として活躍中
(左)菓子の立ち売り 注目すべきは「近江屋」というブランド名を出した菓子屋、目抜き通りに店舗を構えるために
顧客獲得に精を出す、「近江屋」という菓子屋は、小石川白山下や麹町にもある、表通りにて出張販売中
(右)琵琶法師
菜売り 菓子舗「常陸屋」日本橋通りで唯一店を構える菓子舗
江戸城最大の儀式の一つ「嘉定の儀」は将軍からの
菓子の賜り物がある、その献上品の菓子を作る
御用の菓子舗か、店に並ぶのは、いかにも武家の
贈答用に使われそうな高級菓子
結納品問屋「万屋」 味噌屋「太田屋」屋根の上に置いた味噌樽はひときは目立つ
広告塔、表の長板大看板に「上赤味噌」の文字。
流行し始めの黒塗り土蔵の店構えで、繁盛ぶりを誇示。
(左)喧嘩と火事は江戸の華 「まあまあ」と仲裁するのは町役、棒手振りの喧嘩を止めに入った鳶の衆、
自分まで喧嘩の仲間に入ってしまった様子、魚河岸、青物市場(やっちゃば)近くの喧嘩。
(右)酒問屋「亀田屋」の前には青物立ち売り、そして酒の立ち売り大繁盛(右下)、日本橋近くのこの界隈、
雑踏の中で酒を立ち飲みする連中もいる、並んだ徳利は「滋養の水」というところ、昼が過ぎれば
お武家も商人もほとんど仕事は終わり、酒でも飲むかと天下太平。
日本橋北詰の賑わい、御免よ、御免よ!威勢のいい魚河岸の若い衆、肩には魚河岸の板船で取引されたばかりの魚、
四方から人が溢れるすごい雑踏、酒の魚にも事欠かない。
魚河岸へ魚の荷揚げ
日本橋の擬宝珠(ぎぼし) 擬宝珠が許されるのは格式のあるいわゆる公儀橋のみ
江戸城御門に入る橋以外、町方の橋では日本橋、京橋、新橋だけ。
擬宝珠には神社仏閣同様神聖な意味合いがある。
天下一の絶景 見渡せるのは、江戸城、富士山といった江戸の絶景
日本橋はひときは高いお太鼓橋、日本橋川を見下ろせば、屋形船に六挺櫓(はっちょうろ)の高速艇
全国津津浦々から物資の荷揚げ、人と物が賑やかに行き交う水ぬるむ季節
日本橋南橋詰革足袋屋
高札場 幕府や藩よりの法令を多数の人に周知させるため、町辻や橋のたもとなどに設置された
ここでは三つのお触れ 正徳元年五月の切支丹禁止令他
実際にこの高札は法令が解読できて解説がされています、興味深いです。
この絵巻の巻頭の題字に二つの印が捺されています、それにより市井の書家で当時著名な書家佐野東州が
書いたものと分かります、この絵巻の成立年に近い文化元年の頃、戯作者山東京山が東洲の婿養子となる。
この絵巻を描いた絵師については、署名落款もなく不明ですが、この東洲の周辺で考えてみると、同じく戯作者
京山の兄である、山東京伝あたりがまず候補として挙げられるでしょう、浮世絵師の北尾重政の門人としても
活躍し、画号は北尾政演と名乗り自著のほか多くの黄表紙や戯作の挿絵に絵筆を執っています。
京伝は京橋銀座に住まいし、煙管屋を生業としていました。
京伝著の「四季の交加(ゆきかい)」などには、この絵巻と類似する構図が散見します
この絵巻の解説 (小澤弘著)を参考にしました。
最後に日本橋について、日本橋は五街道の里程の起点と賑わいました。
慶長8年(1603)徳川家康が江戸幕府を開いた際に交通の要衝として木橋を掛けたのがその始まりといいます。
その結果、商業、流通、経済、情報の要として賑わいを増した日本橋には、慶長11年に高札が立ち
元和4年(1618)には長さ37間4尺、幅4間2尺5寸の大きさの反りをもたせた橋が架けられた。
明暦の大火を始め焼失すること9回、半焼が2回の災禍にに見舞われたが、その都度ご公儀橋・日本橋は
幕府の威信にかけて速やかに改架・修復されました。
2百年前の日本橋通りに活気に溢れた江戸の人々が描かれ、その人々の表情も豊かで見飽きません
通りに面し商店も、詳しく描かれていますが紹介しきれません、ご覧いただき興味がお有りでしたら
日本橋三越地下コンコースにお出かけ下さい。
日本橋三越地下入り口です
(左)蒲鉾屋 古くは竹に巻いて作る形から蒲鉾という名に、板に白身魚のすり身を盛るようになるのは江戸時代から。
自身番屋の前には国分煙草売りそしてその左手は食物の立ち売り
(右) 木戸を通るのは太神楽(だいかぐら)(丸一)傘や撥を使った曲芸や獅子舞、駕籠抜けなど寿ぎの芸をする
門付け芸人、「丸一」という社中が江戸では有名、現在でも13代目丸一仙翁が江戸太神楽の家元として活躍中
(左)菓子の立ち売り 注目すべきは「近江屋」というブランド名を出した菓子屋、目抜き通りに店舗を構えるために
顧客獲得に精を出す、「近江屋」という菓子屋は、小石川白山下や麹町にもある、表通りにて出張販売中
(右)琵琶法師
菜売り 菓子舗「常陸屋」日本橋通りで唯一店を構える菓子舗
江戸城最大の儀式の一つ「嘉定の儀」は将軍からの
菓子の賜り物がある、その献上品の菓子を作る
御用の菓子舗か、店に並ぶのは、いかにも武家の
贈答用に使われそうな高級菓子
結納品問屋「万屋」 味噌屋「太田屋」屋根の上に置いた味噌樽はひときは目立つ
広告塔、表の長板大看板に「上赤味噌」の文字。
流行し始めの黒塗り土蔵の店構えで、繁盛ぶりを誇示。
(左)喧嘩と火事は江戸の華 「まあまあ」と仲裁するのは町役、棒手振りの喧嘩を止めに入った鳶の衆、
自分まで喧嘩の仲間に入ってしまった様子、魚河岸、青物市場(やっちゃば)近くの喧嘩。
(右)酒問屋「亀田屋」の前には青物立ち売り、そして酒の立ち売り大繁盛(右下)、日本橋近くのこの界隈、
雑踏の中で酒を立ち飲みする連中もいる、並んだ徳利は「滋養の水」というところ、昼が過ぎれば
お武家も商人もほとんど仕事は終わり、酒でも飲むかと天下太平。
日本橋北詰の賑わい、御免よ、御免よ!威勢のいい魚河岸の若い衆、肩には魚河岸の板船で取引されたばかりの魚、
四方から人が溢れるすごい雑踏、酒の魚にも事欠かない。
魚河岸へ魚の荷揚げ
日本橋の擬宝珠(ぎぼし) 擬宝珠が許されるのは格式のあるいわゆる公儀橋のみ
江戸城御門に入る橋以外、町方の橋では日本橋、京橋、新橋だけ。
擬宝珠には神社仏閣同様神聖な意味合いがある。
天下一の絶景 見渡せるのは、江戸城、富士山といった江戸の絶景
日本橋はひときは高いお太鼓橋、日本橋川を見下ろせば、屋形船に六挺櫓(はっちょうろ)の高速艇
全国津津浦々から物資の荷揚げ、人と物が賑やかに行き交う水ぬるむ季節
日本橋南橋詰革足袋屋
高札場 幕府や藩よりの法令を多数の人に周知させるため、町辻や橋のたもとなどに設置された
ここでは三つのお触れ 正徳元年五月の切支丹禁止令他
実際にこの高札は法令が解読できて解説がされています、興味深いです。
この絵巻の巻頭の題字に二つの印が捺されています、それにより市井の書家で当時著名な書家佐野東州が
書いたものと分かります、この絵巻の成立年に近い文化元年の頃、戯作者山東京山が東洲の婿養子となる。
この絵巻を描いた絵師については、署名落款もなく不明ですが、この東洲の周辺で考えてみると、同じく戯作者
京山の兄である、山東京伝あたりがまず候補として挙げられるでしょう、浮世絵師の北尾重政の門人としても
活躍し、画号は北尾政演と名乗り自著のほか多くの黄表紙や戯作の挿絵に絵筆を執っています。
京伝は京橋銀座に住まいし、煙管屋を生業としていました。
京伝著の「四季の交加(ゆきかい)」などには、この絵巻と類似する構図が散見します
この絵巻の解説 (小澤弘著)を参考にしました。
最後に日本橋について、日本橋は五街道の里程の起点と賑わいました。
慶長8年(1603)徳川家康が江戸幕府を開いた際に交通の要衝として木橋を掛けたのがその始まりといいます。
その結果、商業、流通、経済、情報の要として賑わいを増した日本橋には、慶長11年に高札が立ち
元和4年(1618)には長さ37間4尺、幅4間2尺5寸の大きさの反りをもたせた橋が架けられた。
明暦の大火を始め焼失すること9回、半焼が2回の災禍にに見舞われたが、その都度ご公儀橋・日本橋は
幕府の威信にかけて速やかに改架・修復されました。
2百年前の日本橋通りに活気に溢れた江戸の人々が描かれ、その人々の表情も豊かで見飽きません
通りに面し商店も、詳しく描かれていますが紹介しきれません、ご覧いただき興味がお有りでしたら
日本橋三越地下コンコースにお出かけ下さい。
日本橋三越地下入り口です
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