広重「江戸百景」隅田川周辺探訪の続きは駒形橋からです。
ブルーのアーチの向こうに吾妻橋橋詰めの見慣れた光景が見えます
隅田川に似合う屋形船が係留されていました その向こうの新景色スカイツリーが近くなりました
この橋は渡りませんでした
広重の時代から150年、様子はすっかり変わりました
駒形堂
東は隅田川、西は奥州街道に面して建ち、頭上に馬頭を頂き、忿怒の形相をした
馬頭観音菩薩が祀ってあった。
江戸時代には馬の保護神として、また旅の安全を守る神として広く崇敬を受けていた
菩薩さまであります。 またここには浅草寺の総門があり、浅草観音を舟で参詣しにきた
人々は、駒形堂の近くの河岸で舟を降り、総門を潜り、歩いて浅草寺に向かった。
広重の絵の中では吾妻橋の橋詰めに屋敷と森が見えます、佐竹右京太夫の中屋敷ですが
今その付近はビール会社のビールの泡をデザインしたビルと奇妙な黄金色のオブジェを
屋上に頂くビルの変わりました。
吾妻橋を渡り高速6号線の下を通り浅草のある台東区から墨田区に入ります
吾妻橋は江戸時代隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋です、それまでは渡し船があった場所です。
安永3年(1774)に完成した長さ84間(約150m)幅3間半(約6,5m)の橋です。
民間人により架橋されたので、武士以外のすべての通行者から2文づつ通行料を取ったと記録に残っています。
天明6年(1786)7月の大洪水の祭には永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中、
無傷で唯一残り、架橋した大工や奉行らが褒賞を賜ったといいます。
橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれました、これは近辺で隅田川を「大川」と呼称されていたことにちなみます。
現在の橋名「吾妻橋」と命名されたのは、明治9年(1931)架け替えが行われた時からです。
この最後の木橋は大洪水で流失、明治20年に隅田川最初の鉄橋として再架橋されました。
吾妻橋の次の橋は、東武線の橋です。少し隅田川を離れて、水門の所を通り墨田公園に入ります
墨田公園は水戸徳川家下屋敷があったところです、上屋敷は現在の小石川後楽園と
東京ドームを含む付近に、中屋敷は現在の駒込東大農学部付近にありました。
次の目的地はこの公園の一角にあります
本所の総鎮守 牛島神社です
墨田区内では最も古い神社です、貞観2年(860)慈覚大師の勧進と伝えられています。
いわれは慈覚大師が通りかかったとき、老翁が「師わが為に一宇の神社を建立せよ、
もし国土の悩乱あらば、首に牛頭(ごず)を戴き、悪魔降伏の形相を現して、
天下の安全の守護たらん」と託宣があったと伝えられています。
撫で牛
病んでいるところを撫でれば快癒すると今も人気があります
友人が入院しているので代わりに悪い部分を撫でて快癒を念じました
境内からもやっぱり見えました、ここから近いですが、もう一箇所寄ります
また隅田川の畔のテラスに戻りました、次の言問橋(ことといばし)が見えます、そして言問橋の少し手前の対岸に
広重「真乳山山谷堀夜景」の絵の真乳山(まつちやま)現在は「待乳山聖天」の屋根が少し見えました。
日を改めて行ってみましょう。
隅田川を離れ、最終見学地は三囲神社(みめぐり)です
文和年間に(1353~55)近江三井寺の僧源慶が東国を遍歴した時に、壊れかけていたこの社が弘法大師と
縁のあるものと聞き改修しようとしたところ、土の中から白虎にまたがった老翁の像を発見しました。
その時、白虎が現れその像の廻りを3回まわった事から、「三囲」を神社名としたと言われています。
本殿は震災・戦災を免れ、安政期の建築と言われます。
神社名「三囲」にあやかり、あの三井越後屋が守護神として崇めました。
三角石鳥居 三井邸より移す、原形は京都太秦 木島神社にある
歴史ある神社の趣ある境内
どこかで見たようなライオン像
神社境内に以前にはなかったライオン像がありました
かつては池袋三越店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、
三越と強い縁を持っている事から奉納されました。
歴史ある本殿前、大輪の芙蓉の花が印象的でした
この日のすべての見学を終えて路地に出るともうスカイツリーは目の前でした
この下で「えど友」の~広重「江戸百景」周辺探訪~は解散です。
真下から見るスカイツリーはやっぱり迫力があります、日曜日の午後、賑わっていました。
もし広重がこの光景を見たらどんな絵になるのでしょうか。
両国橋から言問橋まで、そして周辺の神社など、以前訪れたところばかりでしたが
道先案内人の解説付きでの見学は知らなかった歴史や史跡など、新しい発見も多く、
楽しい3時間半でした。
投稿するのにあたり、広重の絵が参考に出来たらと思いました、資料にはコピーした絵が
載せてありましたが、残念ながら今回は用意できませんでした。
最後に隅田川の呼び名について、場所により違っていて、浅草近くでは浅草川とか宮戸川となり、
それより下流では大川となった。
大川端というのは普通両国橋から下流の霊岸島あたりまでの右岸を指しました。 以上資料より。
ブルーのアーチの向こうに吾妻橋橋詰めの見慣れた光景が見えます
隅田川に似合う屋形船が係留されていました その向こうの新景色スカイツリーが近くなりました
この橋は渡りませんでした
広重の時代から150年、様子はすっかり変わりました
駒形堂
東は隅田川、西は奥州街道に面して建ち、頭上に馬頭を頂き、忿怒の形相をした
馬頭観音菩薩が祀ってあった。
江戸時代には馬の保護神として、また旅の安全を守る神として広く崇敬を受けていた
菩薩さまであります。 またここには浅草寺の総門があり、浅草観音を舟で参詣しにきた
人々は、駒形堂の近くの河岸で舟を降り、総門を潜り、歩いて浅草寺に向かった。
広重の絵の中では吾妻橋の橋詰めに屋敷と森が見えます、佐竹右京太夫の中屋敷ですが
今その付近はビール会社のビールの泡をデザインしたビルと奇妙な黄金色のオブジェを
屋上に頂くビルの変わりました。
吾妻橋を渡り高速6号線の下を通り浅草のある台東区から墨田区に入ります
吾妻橋は江戸時代隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋です、それまでは渡し船があった場所です。
安永3年(1774)に完成した長さ84間(約150m)幅3間半(約6,5m)の橋です。
民間人により架橋されたので、武士以外のすべての通行者から2文づつ通行料を取ったと記録に残っています。
天明6年(1786)7月の大洪水の祭には永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中、
無傷で唯一残り、架橋した大工や奉行らが褒賞を賜ったといいます。
橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれました、これは近辺で隅田川を「大川」と呼称されていたことにちなみます。
現在の橋名「吾妻橋」と命名されたのは、明治9年(1931)架け替えが行われた時からです。
この最後の木橋は大洪水で流失、明治20年に隅田川最初の鉄橋として再架橋されました。
吾妻橋の次の橋は、東武線の橋です。少し隅田川を離れて、水門の所を通り墨田公園に入ります
墨田公園は水戸徳川家下屋敷があったところです、上屋敷は現在の小石川後楽園と
東京ドームを含む付近に、中屋敷は現在の駒込東大農学部付近にありました。
次の目的地はこの公園の一角にあります
本所の総鎮守 牛島神社です
墨田区内では最も古い神社です、貞観2年(860)慈覚大師の勧進と伝えられています。
いわれは慈覚大師が通りかかったとき、老翁が「師わが為に一宇の神社を建立せよ、
もし国土の悩乱あらば、首に牛頭(ごず)を戴き、悪魔降伏の形相を現して、
天下の安全の守護たらん」と託宣があったと伝えられています。
撫で牛
病んでいるところを撫でれば快癒すると今も人気があります
友人が入院しているので代わりに悪い部分を撫でて快癒を念じました
境内からもやっぱり見えました、ここから近いですが、もう一箇所寄ります
また隅田川の畔のテラスに戻りました、次の言問橋(ことといばし)が見えます、そして言問橋の少し手前の対岸に
広重「真乳山山谷堀夜景」の絵の真乳山(まつちやま)現在は「待乳山聖天」の屋根が少し見えました。
日を改めて行ってみましょう。
隅田川を離れ、最終見学地は三囲神社(みめぐり)です
文和年間に(1353~55)近江三井寺の僧源慶が東国を遍歴した時に、壊れかけていたこの社が弘法大師と
縁のあるものと聞き改修しようとしたところ、土の中から白虎にまたがった老翁の像を発見しました。
その時、白虎が現れその像の廻りを3回まわった事から、「三囲」を神社名としたと言われています。
本殿は震災・戦災を免れ、安政期の建築と言われます。
神社名「三囲」にあやかり、あの三井越後屋が守護神として崇めました。
三角石鳥居 三井邸より移す、原形は京都太秦 木島神社にある
歴史ある神社の趣ある境内
どこかで見たようなライオン像
神社境内に以前にはなかったライオン像がありました
かつては池袋三越店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、
三越と強い縁を持っている事から奉納されました。
歴史ある本殿前、大輪の芙蓉の花が印象的でした
この日のすべての見学を終えて路地に出るともうスカイツリーは目の前でした
この下で「えど友」の~広重「江戸百景」周辺探訪~は解散です。
真下から見るスカイツリーはやっぱり迫力があります、日曜日の午後、賑わっていました。
もし広重がこの光景を見たらどんな絵になるのでしょうか。
両国橋から言問橋まで、そして周辺の神社など、以前訪れたところばかりでしたが
道先案内人の解説付きでの見学は知らなかった歴史や史跡など、新しい発見も多く、
楽しい3時間半でした。
投稿するのにあたり、広重の絵が参考に出来たらと思いました、資料にはコピーした絵が
載せてありましたが、残念ながら今回は用意できませんでした。
最後に隅田川の呼び名について、場所により違っていて、浅草近くでは浅草川とか宮戸川となり、
それより下流では大川となった。
大川端というのは普通両国橋から下流の霊岸島あたりまでの右岸を指しました。 以上資料より。
こうして歩いて回ると、
車でささっと通るのとは違い、
印象に残りますね。
浅草も面白いですが、対岸の墨田も
歴史のあるところで、興味深いです。
面白い記事をありがとうございました^^
ありがとうございます。
隅田川に架かる橋には、いろいろな歴史が刻まれています、
その歴史が橋詰めの碑にみられ、知らないことが多かったです。
橋の歴史を知りますと、渡るときに感慨深かったです。
両国橋に何カ所か半円の欄干があり、そこに輪が描かれています、
それは土俵をイメージしているそうです、
通ることがありましたら見てください。