故郷≪新潟≫の日々

満65歳で中国・黒龍江大学を定年退職した後、生まれ故郷の新潟に戻り、日々の生活を写真とともに日記風に綴っていくもの。

No.669 「コスモス畑」のお話。

2015年10月31日 | 日記

“コスモス”を辞書で調べると≪キク科の1年草。高さ1.5~2m。葉は細かく羽状に裂ける。秋に白・紅・桃色などの花を開く。≫と説明されている。その“コスモス”の花が2ヘクタールの広大な土地に約200万本も咲き乱れる場所がある。それは新潟県十日町市珠川の当間高原リゾートにある「コスモス畑」である。

 

私は10数年ぶりにこの場所を訪ねてみた。≪白・紅・桃色などの花を開く≫と辞書に説明されているが、ここの「コスモス畑」の花の色は白・紅・桃色のほか、紫・オレンジ・黄色などもある。それも白1色だけの花以外に外側に桃色があったり、紫の花びらの外側に桃色があったりと、色の変化に富んだ花が多い。

 

高さも辞書では≪1.5~2m≫と書かれているが、中には≪2m≫を超えるものもある。「コスモス畑」の中に“迷路入口”の看板が数箇所に設置されていた。高さが≪2m≫を超えると人の姿が見えなくなる。私達は色とりどりの“コスモス”が咲いている迷路の中をゆっくりと花を鑑賞しながら歩いた。

 

それにしても壮大な「コスモス畑」で、久しぶりに目の保養をさせていただいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


No.668 「生涯野球大会」のお話。

2015年10月30日 | 日記

先日、新潟市で「第6回北信越生涯野球古希交流大会」が開催された。この大会の参加資格は≪満69歳以上≫の古希チームの選手となっている。従って、私は今年は参加できないが、来年からこの大会に参加できることになる。私の所属する「新潟エージレス野球クラブ」の応援に新潟市小針球場へ駆けつけた。

 

この大会には石川県、長野県、富山県、新潟県の4県から選抜された≪12チーム≫が集まった。できるだけ多くの選手が参加できるようにと「特別ルール」が設けられている。例えば「選手は≪守備≫については9人で行うが、≪攻撃≫は13人が打者となる。投手は最長で≪3イニング≫までしか投げられない。」など。

 

この≪12チーム≫が3ブロックに分かれ、4チームずつでリーグ戦を行う。各ブロックでトップの成績を上げたチームが優勝となる。「新潟エージレス野球クラブ」の入ったブロックは、3チームが2勝1敗となった。しかし≪6対11≫で富山県代表チームに敗れたことが響き、得失点差で2位となった。

 

グランド上を俊敏に走る選手を見て「あの選手が75歳!!??」といった驚きの声も聞かれた。年齢を感じさせない元気溌溂としたプレイヤーは、どこのチームにもいるものである。

 

 

 

 

 

 

 


No.667 「龍ヶ窪の池」のお話。

2015年10月29日 | 日記

「清津峡」の素晴らしい渓谷美をトンネルから鑑賞した後、新潟県津南町にある“全国名水100選”に選ばれた「龍ヶ窪の池」を見学した。ここは標高450mの地点にあり、池の周囲にはブナ・ミズナラ・ホオノキ・ヤマモミジ、トチノキ、クリの木などが鬱蒼と茂っており、林の中はマイナスイオンの発生を感じさせる場所となっている。

 

池の入口には「龍」の置物が置いてあり、その口から水が勢いよく流れていた。私はヒシャクでこの名水をひと口頂戴し、渇いたノドを潤した。池の奥からコンコンと湧き出る水は透明で、流れも速かった。林の中を5分ほど歩いていくと、池の中心付近に到着する。ここは高い樹木に囲まれているため、薄暗く神秘的な雰囲気が漂っていた。

 

池の水は透明に近く、湖底まで透けて見え、湖面は対岸の美しい紅葉を映し出していた。どこかで見た光景で、私は記憶を辿ってみた。そしてようやく思い出した。中国の四川省にある世界遺産「九賽溝」の池の雰囲気によく似ていた。遊歩道には1枚が30cm以上もある“ホオノキ”の葉が茶色くなって絨毯のように落ちていた。

 

この日、私達は東京から観光バスでここを訪れた数十人の団体客に会っただけで、静かな「龍ヶ窪の池」の散策を楽しむことができた。

 

中国の四川省にある世界遺産「九賽溝」の池の雰囲気によく似ていた。

私はヒシャクでこの名水をひと口頂戴し、渇いたノドを潤した。

遊歩道には1枚が30cm以上もある“ホオノキ”の葉が茶色くなって絨毯のように落ちていた。

写真の中央付近から水が湧き出ている。

 

 

 


No.666 「清津峡」のお話。

2015年10月28日 | 日記

「日本三大渓谷」のひとつが、今回訪れた上信越高原国立公園の中にある新潟県十日町市小出の「清津峡」である。前日宿泊した越後湯沢から車で国道353号線の山道を日本海に向かって走ると、約30分で「清津峡」の入口に到着する。「清津峡」は谷の深さと清津川の両岸にそそり立つ岩壁が観光客を引き寄せる。

 

「日本三大渓谷」とは富山県の“黒部渓谷”、三重県の“大杉谷渓谷”とこの“清津峡渓谷”を指す。清津峡渓谷トンネルの入口にはこの三大渓谷のポスターが1枚ずつ貼られていた。私が20数年前にこの「清津峡」を訪れた時はこのトンネルはなく、清津川にそそり立つ岩場に沿って小道を歩いた記憶がある。

 

しかし頭上から落石などによる事故が頻発したため、トンネルを掘ってそこから見学することになった。トンネルの長さは片道750mで4箇所の見学場所がある。私達は入場料600円を払い、トンネル内をユックリと歩きながら、清津川の川底まで見える清流と雄大で壮厳な渓谷美を約1時間かけて堪能することができた。

 

「日本三大渓谷」のひとつ「清津峡」の景色。

 

 

 

 

 

 

 


No.665 「雲洞庵」のお話。

2015年10月27日 | 日記

続いて私達は新潟県南魚沼市にある「雲洞庵」を参観した。“越後一の寺”“日本一の庵寺”といわれている「雲洞庵」は鬱蒼とした歴史を感じさせる杉の大木の中にあった。昔から新潟県では“雲洞庵の土踏んだか”と言われるほど、多くの修行者や信者が集まってきた。

 

それは「雲洞庵」が戦国時代では越後の、江戸時代では魚沼三郡の僧侶の総括所(僧禄)であり、曹洞禅師の厳しい大修行道場として知られていたからである。私達は最初に“黒門”続いて“赤門”をくぐり、参道を通って“本堂”で参拝した。途中に「長生きの水」が湧き出ている場所があり、私はここで喉を潤した。

 

その後、静まり返った“座禅堂”“観音堂”“客殿”と見学し、駐車場へ戻ってきた。ここの売店の名物は≪ところ天≫。「日本で10番目においしい」と書かれていた。私は店のご主人に「なぜ10番目なの?」と聞いてみた。

 

「当店の≪ところ天≫は1番おいしいと思っているが、“日本で1番”と書くと問題があるので、問題の起こらない10番と書いた。」との説明をしてくれた。

 

 

 

 

 

 


No.664 「川柳」のお話。

2015年10月26日 | 日記

「川柳」とは≪江戸中期に発生した雜俳のひとつ。季語や切れ字などの制約はなく、口語を用い、人生の機微や世相・風俗を滑稽に、また風刺的に描写するのが特色。≫と辞書に書かれてある。この「川柳」が宿泊したホテルの売店の壁に10数枚、貼られていた。私はこれを何とはなしに読んでみた。

 

その中で数枚の「川柳」に私は共感した。振り込め詐欺で騙される人が後を絶たないが、何百万円とお金を持っている老人が多いのだろう。その「川柳」は⇒「振り込めと 言われたその額 持ってない」であった。また、私の孫にも同様の傾向が見られるが⇒「わが娘 寄りそう時は レジの前」。

 

次もお金にまつわる話である。⇒「一戸建て 手が出る土地は熊も出る」。中にはクスッと笑って読んだ「川柳」もあった。⇒「逆らわず いつも笑顔で 従わず」。「やせてやる! これ食べてから やせてやる」。「減っていく ボーナス、年金、髪、愛情」など、なかなか面白い作品が目に付いた。

 

川柳の掲示されてあるホテルのロビー周辺。

 


No.663 「久しぶりの越後湯沢」のお話。

2015年10月25日 | 日記

この日の宿泊は「久しぶりの越後湯沢」。私が若い頃、毎年スキーなどでこの越後湯沢に何回も来ていたが、最近、この地区で宿泊した記憶はない。今回、私達が宿泊した「エンゼル・グランディア越後中里」は、元々、マンションとして建設された。現在は家族連れ旅行客をターゲットにホテルとして運営している。

 

ここでの人気は肉・カニ・寿司などが食べ放題のバイキング。部屋にも風呂は付いているが、私達は早速「温泉大浴場」で旅の疲れをとってから夕食を楽しむことにした。大きな浴槽に肩までつかり、続いて露天風呂で更に汗を流した。サウナ室に入り、汗のほか日頃のストレスも一緒に流すことができた。

 

さすがに人気のホテルだけあって、夕食会場は多くの家族連れや観光客で賑わいを見せていた。私は最初に生ビール、次に新潟県の地酒の「苗場山」を冷たくして胃袋に流し込んだ。食べ放題バイキングで“カニ”“海老”“刺身”“牛肉”などのほか、デザートも十分過ぎるほど味わうことができた。

 

 

 

 


No.662 「雲蝶の郷 内田邸」のお話。

2015年10月24日 | 日記

「西福寺・開山堂」で“越後のミケランジェロ”と呼ばれた彫刻家・石川雲蝶のスケールの大きな芸術作品に感動した後、道路を挟んだ1軒の民家が目に入った。丁度、中年の男性が手馴れた手つきで柿の皮を剥き“干し柿づくり”をしていた。玄関の看板には黒い墨で「雲蝶の郷 内田邸」と書かれてあった。

 

石川雲蝶の魅力に魅せられた「地元有志の会」がこの民家を運営しているという。この周辺で採れた野菜・果物・魚沼産コシヒカリなどを販売していた。私達は有志の会事務局の佐藤さんから魚沼産コシヒカリの“おにぎり”“ナス漬け”“栗”“サツマイモのツルの漬物”などを無料で頂戴した。

 

佐藤さんは民家の中心にある囲炉裏に私達を招き入れ、美味しいコーヒーを出してくれた。この地方“魚沼”と“石川雲蝶”の出会いを紙芝居風に説明していただいた。佐藤さんはいつしか「語り部」としての口調に変化していった。私はこの地で苦労を重ねた石川雲蝶の生活の一端を垣間見ることができた。

 

当初の予定になかった「雲蝶の郷 内田邸」の訪問であったが、佐藤さんの心のこもった手づくりガイドで、楽しい充実した時間を過ごすことができた。ボランティアの佐藤さんに感謝申し上げたい。

 

男性が手馴れた手つきで柿の皮を剥き、「干し柿」づくりをしていた。

魚沼産コシヒカリの“おにぎり”“ナス漬け”“サツマイモのツルの漬物”などを無料で頂戴した。

“サツマイモのツルの漬物”などを無料で頂戴した。

佐藤さんは「語り部」としての口調に変わっていった。

 

 


No.661 「開山堂」のお話。

2015年10月23日 | 日記

先日、友人と久しぶりに新潟県内の旅行に出掛けた。最初の目的地は越後三山の麓、雪と稲穂の里、魚沼市にある禅寺「赤城山・福寺・開山堂」である。幕末の巨匠、石川雲蝶の世界が今ここに蘇る、と言われている観光スポットである。ここでスケールが大きな彫刻・絵画・漆喰細工を鑑賞することにした。

 

石川雲蝶の作品が日光東照宮にも劣らないものから、ここを「越後日光開山堂」と呼んでいる。この日も多くの観光客が見学していた。テープから流れる約15分ほどの説明を「開山堂」の天井にある“道元禅師猛虎調伏の図”を見ながら聞いていると、首が痛くなった。

 

天井には“透かし彫り”が施された迫力満点の大彫刻に感動を覚えた観光客は多いようだ。その証拠にテープを聴きながら感嘆の声があちこちから聞こえてきた。続いて私は寺の中庭を散策した。手入れの行き届いた庭には緑色の苔が生え、リンドウなどの秋の花も鑑賞できた。

 

赤トンボの飛び交う中、私達は穏やかな秋の陽を浴びながらユックリと静かな庭園を散策を楽しんだ。

 

庭園で見つけた赤トンボ。

開山堂の中は写真撮影禁止のため、開山堂のホームページから写真を転用。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


No.660 「最後の収穫」のお話。

2015年10月22日 | 日記

観光バスの中で往復2泊、ホテルで3泊、計5泊6日の旅を終え《故郷》の新潟市に戻ってきた。私は久しぶりに友人の畑に行ってみた。これが今年の「最後の収穫」になると思って畑を見渡した。そこにある「ミニトマト」には驚いた。例年この時期になると日当たりも弱くなり、実はなるが赤くならないことが多い。

 

しかし今年の「ミニトマト」は違っていた。粒は小さいが予想以上に赤く色づいていた。小さなボールに入りきれないほど収穫できた。そして「ピーマン」は50個以上、「ナス」も大小合わせて40個以上収穫できた。さらに「ニラ」も1束ほど採れた。「食用菊」は蕾がようやくピンク色になり始めたばかり。

 

収穫にはもう少し時間がかかりそうである。先日、初めての試みとして畑の隅に植えた5個の「白葉」の苗が根付いて元気に育っていた。これもあと数週間すると我が家の食卓に上がりそうだ。「最後の収穫」と思って畑に来てみたが、あと1回程度、収穫の楽しみが期待できそうな状況であった。

 

私にとって趣味と実益を兼ねた「家庭菜園」。これからも楽しんでいきたい。

 

小さなボールに入りきれないほど収穫できた「ミニトマト」。

「食用菊」は蕾がようやくピンク色になり始めたばかり。

「ニラ」も1束ほど採れた。

「白葉」の苗が根付いて元気に育っていた。

 


No.659 「紅葉」のお話。

2015年10月21日 | 日記

爽やかな秋晴れの日、私は「紅葉」を楽しみに近くの緑豊かな白山公園へ自転車で駆けつけた。赤い鳥居の入口には「七五三宮参り」の旗が立てられていた。入口左手にある「ひょうたん池」には噴水が上がり、滝の水が勢いよく池に落ちていた。池の周囲に植えてある「モミジ」は緑色の葉が多く、期待していた「紅葉」は見られなかった。

 

しかし「イチョウ」は黄色く色付いてきた。隣りにある「蓮池」の大きな「蓮」の葉は緑色のままであるが、根元には茶色になって枯れた葉が落ちていた。春、花見の時期に多くの人々で賑わいを見せる県民会館前の「桜」の葉は一部ではあるが「紅葉」が始まっていた。

 

多くの人がブルーシートを敷き、飲食を楽しんでいた場所には茶色い「落ち葉」が絨毯のように重なっていた。新潟市陸上競技場前の「イチョウ」の葉は、秋の穏やかな陽を浴びて「紅葉」ではなく「黄葉」に輝いており、なかなか見応えがあった。

 

私は偶然、この白山神社に「七五三宮参り」に来ていた母親に連れられた着物を着た2人の子供に出会った。これから多くの子供達が「七五三宮参り」でここを訪れることになる。

 

「ひょうたん池」には噴水が上がり、滝の水が勢いよく池に落ちていた。

「モミジ」は緑色の葉が多く、期待していた「紅葉」は見られなかった。

「蓮」の葉は緑色のままであるが、根元には茶色になって枯れた葉が落ちていた。

県民会館前の「桜」の葉は一部ではあるが「紅葉」が始まっていた。

春、飲食を楽しんでいた場所には茶色い「落ち葉」が絨毯のように重なっていた。

「イチョウ」の葉は、黄色に輝いており、なかなか見応えがあった。

「七五三宮参り」に来ていた着物を着た2人の子供に出会った。


No.658 「快勝」のお話。

2015年10月20日 | 日記

ホームゲームで久しぶりに勝利の歓声が響き渡った。それは私が熱い応援を続けているサッカーJ1リーグ「アルビレックス新潟」の試合であった。この日の対戦相手はリーグ15位の新潟と≪勝点3≫の差で降格圏を争っている16位の「松本山雅」。このため長野県から多くのサポーターがスタジアムに駆けつけた。

 

S席の1階スタンドは「松本山雅」のサポーターでほぼ占領された形になった。私がいつも応援しているS席の2階スタンドにも多くの「松本山雅」のユニホーム姿が見られた。このサポーターに押されるような形で、私は大型スクリーンの真下に座ることになった。スタジアムは今季最多の31.324人のサポーターで熱気を帯びた。

 

「松本山雅」にとっても、この試合に勝って新潟と≪勝点≫で並ぶ負けられない試合であった。試合前から「松本山雅」の応援は気持ちが入っていた。新潟も「アイシテル ニイガタ」の人文字をつくり声援を送った。試合は後半16分に「アルビレックス新潟」の端山選手が待望の先制点をゴール右隅に蹴り込んだ。スタジアムは総立ちになり、拍手と歓声が湧き上った。

 

19分にも大井選手が追加点を奪い、結局「2対0」で「快勝」することができた。しかしまだJ1リーグの残留が決まったわけではない。残りの3試合、更に熱烈な応援を続けなければならない。

 

 新潟のサポーターも「アイシテル ニイガタ」の人文字をつくり声援を送った。

結局「2対0」で「快勝」することができた。

この日も神社への「必勝祈願」から始まった。

S席の1階スタンドは「松本山雅」のサポーターでほぼ占領された形になった。

ゴールが決まり、拍手と歓声が湧き上った。

スタジアムは今季最多の31.324人のサポーターで熱気を帯びた。

 

 

 


No.657 「広島城」のお話。

2015年10月19日 | 日記

「第31回全日本還暦軟式野球選手権大会」へ出場し、優勝目指して戦うことが今回の旅の目的であった。しかし早朝や試合のない時間を利用し「厳島神社」と「原爆ドーム」の2つの世界遺産の見学を始め「広島城」へも立ち寄ることができた。

 

当然、ここに来ている観光客から見ると私たちは目立つ格好をしていた。それは選手がユニホーム姿での参観となったからだ。時間が十分なかったため「広島城」の天守閣の中に入ることはできなかったが、城の外観と城内の庭や掘、被爆したユーカリの木などを早足で見学し、試合会場へと向かった。

 

この全国大会も2勝1敗で終了し≪べスト16≫に入ったが、優勝の夢は来年度以降に持ち越すことになった。帰りのバスの中で監督が3試合の総括を行った。「走者を次の塁に進めるバッティング」「チャンスでは思い切ってバットを振り切ること」「スライディングの必要性」「打たなければ負けること」「日頃の練習の重要性」など選手も一言ずつ、反省を含め感想を述べ合った。

 

約15時間の帰りの長いバスの旅も無事終わり、早朝到着した新潟市内の鳥屋野球場の駐車場で慰労と来年度の活躍を祈念し、選手全員で「一本締め」をして解散した。

 

試合終了後、新潟へ向けて約15時間の帰りの長いバスの旅が始まった。

新潟に到着後、来年度の活躍を祈念し、選手全員で「一本締め」をして解散した。

 

 

 

 


No.656 「広島平和記念資料館」のお話。

2015年10月18日 | 日記

私達が宿泊した法華ホテルから徒歩約10分でこの「広島平和記念資料館」に到着する。朝の散歩時と試合までの時間調整で計2回、ここを訪れた。入館料は50円と格安。入館料を無料にすれば人件費も削減できると思うのは私だけだろうか。私は300円で説明テープを借り、館内に入った。

 

会場の入口には原爆投下のあの「きのこ雲」の写真が展示されていた。続いて被爆当日、背中に大やけどを負って佇んでいる一般市民の大きな写真が目を引いた。死者は推定で約14万人という。「焼けた瓦」「溶けて曲がった鉄骨」など投下された原爆の威力は想像を絶する。

 

秒速440mの爆風、4.000度にも及ぶ熱風の凄まじさを現物やパネルで展示していた。一瞬にして死亡した広島市民の写真のほか、今でもガンや白血病など後遺症に悩まされている人々の姿も展示されていた。

 

昨年、私が訪れた中国・南京大虐殺記念館(正式名称⇒「侵華日軍南京大遇難同胞紀念館」)と比べると、この資料館の展示スペースは10分の1にも満たないが、戦争の悲惨さはどの国でも同じ。私はここでも平和の大切さを改めて勉強させられた。

 

 被爆当日、背中に大やけどを負って佇んでいる一般市民の大きな写真。

会場の入口には原爆投下のあの「きのこ雲」の写真が展示されていた。

今でもガンや白血病など後遺症に悩まされている人々の姿も展示されていた。

 

 

 

 


No.655 「厳島神社と商店街」のお話。

2015年10月17日 | 日記

日本三景のひとつ「安芸の宮島」の中にある世界文化遺産で、かつ国宝でもある「厳島神社」周辺の景観は素晴らしい。私はここで何枚も写真を撮った。昨日の私のブログで掲載できなかった神社内の写真と商店街の様子を今回、皆さんにお見せしたい。やはり「厳島神社」の中心は赤い「大鳥居」である。

 

この鳥居を背景に写真を撮る絶好の場所には、観光客が絶えることなくカメラのシャッターを押していた。神社を参拝した後、私は土産物を買うため、商店街に入った。そこには多くの「もみじ饅頭」を販売している店が並んでいた。

 

通常、饅頭の中には「あんこ」が中に入っている。しかし最近は「チョコ」「クリーム」「チーズ」などを包むようになったという。商店街を歩いて行くと、お店の前に並んだ傘をかぶった可愛い“石の地蔵さん”が目に止まった。

 

その“石の地蔵さん”は「弱いから強くなれる 持っていないから何でも持てる」「幸せだと思った時から幸せが始まる」など共感できるユニークな言葉が書かれた白い板を両手で持って微笑んでいた。

 

お店の前に並んだ傘をかぶった地蔵さんが目に止まった。

「もみじ饅頭」を販売している店が並んでいた。 

鳥居を背景に写真を撮る絶好の場所には、観光客が絶えることなくカメラのシャッターを押していた。

外国人観光客の姿も見られる神社の拝殿前。

おみやげとして購入した「もみじ饅頭」。